紫鏡の世界

 紫鏡という都市伝説がある。二十歳まで紫鏡のことを覚えていると死ぬという胡散臭い話だ。
 俺は二十歳をひと月後に控えた十九歳の初春にその話を知った。しょうもない噂話としか認識していなかったし、こちらを怖がらせようと得意げに話している相手の様子が滑稽だったため、これっぽっちも恐怖を感じなかった。それはそうだろう。二十歳を目前に控えた男がそんな眉唾話を怖がるなど、それこそ怖気を感じる。
 とはいえ、せっかく知ったのだから誰かに話してみたいと思うのは人の世の常。俺は全く信じていないながらも、面白半分で怖がりの女友達――阿藤美世子に話して聞かせた。阿藤の誕生日は五日後だ。それまでには絶対に忘れることなどできないだろう。
「……私が死んだらあんたのせいだからね」
 恨めしそうに言った相手を、俺は鼻で笑い飛ばした。

 五日後、阿藤が死んだ。
 俺はその時に直ぐ側にいた。あいつが、誕生日になる瞬間に独りでいるのが怖い、とか言い出したから、零時前というクソ眠い時間に近所の公園でおしゃべりに付き合っていたのだ。
 三十分前くらいには、あと少しで恐怖の時間がやってくることなど覚えていない風に言葉を紡いでいた。そして、俺が相手に気付かれないように腕時計を目にした時――ちょうど長針と短針が重なった。
「ひっ」
 その時、阿藤が息を呑む音が聞こえた。彼女は俺の背後を見開いた瞳で見つめ、震えていた。
 俺は急いで振り返った。そこにいる何かを目にするために。
 そして、見た。そこにいたのは全身紫色の阿藤だった。笑うでもなく、怒声を上げるでもなく、ただ無表情にこちらへ近づいてきていた。
「おい!」
 どう贔屓目に見てもまともではない相手に、俺は掴みかかった。恐怖心はあったが、いや、あったからこそ、虚勢を張るための思い切った行動だった。
 しかし、俺は直ぐに凄まじい力で吹き飛ばされる。相手の腕の一振りによって数メートルほど飛ばされた。
「わ、若狭ぁ!」
 阿藤が俺を呼んだ。いや、ただ叫んだだけかもしれない。何を口にすればいいか分からず、ただ、目の前にいた知り合いの名を。
 そして――

 阿藤の通夜、葬式が済んだのは次の週の水曜日だった。あいつが死んだ日は――あいつの誕生日は金曜日だったし、司法解剖とやらにも時間をとられたので、土日をまたいでしまったのだろう。
 俺は当然ながら警察に疑われた。夜中に一緒にいたのだから当然だ。しかし、阿藤の死体が大型トラックにでもひかれたようにひしゃげていたことから、俺が単独で道具も使わずに為すには荒行過ぎると判断され、無罪放免と相成った。
 ただそれでも、俺はまだ疑われていると思う。なぜなら、警察の質問に上手く答えられていないからだ。
 一緒にいたのだから、あいつらは当然俺が犯人を見ていると考える。しかし、紫色をした阿藤にそっくりの奴が、などと答えられるわけがないではないか。そんな答えを返したところで、ふざけるな、と一喝されるだけである。よしんばそうでなかったとしても、精神鑑定に回される可能性は高い。もしかしたら薬中だと疑われるかもしれない。
 そのような訳で、警察機構から解放され、いまだ事件の余韻が残るわが大学に通うようになってからも、俺の回りは冷たい視線が飛び交っていた。友人は笑顔で接してくれるながらも、やはりどこかよそよそしい。何とも鬱陶しいことである。

 事件から約ひと月。俺の誕生日が翌日に控えている。
 当然ながら、凄まじい出来事を体験した俺は紫鏡を忘れていない。しかし悲観などしやしない。
 仇を討ってやる。
 その想いとともに、俺は金属バッドを握り締め、あいつが死んだのとは別の公園に佇んでいる。
 弔い戦という意味で、あの公園で紫野郎を待ちたかったのだが、あの公園はまだ立ち入り禁止になっている。そんな場所に金属バッドを持って事件の容疑者が立っているのはまずい。
 腕時計に瞳を落とす。短針、長針ともに文字盤の頂点に届こうとしている。次に秒針がそこに向えば、めでたく深夜零時だ。
 バッドを握る手に力が入る。
「あと十秒…… 九、八、七」
 さあ、返り討ちにしてやる。

「やあどうも。幸せ運びにやって参りましたぜ。こちらの世界の俺」
 時間がくると同時に現れた紫の俺は、にこやかにそんなことを口にした。
 しばし静寂があたりを支配したが、それも数秒のこと。我に返った俺がバッドを相手目がけて勢いよく振るう。
「うひゃあ! ちょ、何すんだよ! 紫じゃない俺!」
「やかましい! 油断させといて殺ろうったってそうはいかねぇ! 覚悟しろ!」
 涙目を向ける紫の俺に、俺は容赦せずにバッドを振り下ろす。しかし、彼にそれがあたることはない。見事に全て避けて、そこら中を走り回る。
「待ちやがれ!」
「そんなこと言われても、無茶な注文ってやつだろ!」
「てめぇ! こっちを殺る気できたくせに、その根性のなさはなんだ!」
 紫の俺が立ち止まった。
 俺はこれ幸いとばかりに駆け寄り、バッドを振り下ろす――が、奴はバッドを右手で受け止め、こちらに訝しげな視線を向ける。
「放せ!」
 奴はとてつもない力でバッドを抑えており、俺が力を入れても全く動かなかった。このままでは、俺も阿藤のように……
「なあ、どういうことだ?」
「な、何が!」
「いや、俺が殺る気できたって言ったじゃん? 何でそんなことになるわけ?」
 能天気な口調で話す紫の俺。非常に腹が立った。
「ふざけんな! 阿藤を殺したのはてめぇじゃねぇか! ついひと月前のことだ! 忘れたとは言わせねぇ!」
「あとう? 友達か何かか? でも、俺が殺したっていうのはどういう――」
「全身紫色をした阿藤が阿藤を殺した! あれもてめぇなんだろ!」
 苛立ちと恐怖を吐き出すように、俺は力いっぱい叫んだ。それに伴い、紫の俺はバッドを放す。
 俺は好機と思い、バッドを振り上げ、勢いよく――
 かんっ!
 振り下ろすことはできなかった。紫の俺が右手を一振りしてバッドを弾き飛ばしたのだ。そして、こちらに真剣な瞳を向ける。
 そして――
「それは本当のことなのか?」
 訊いた。

 紫の俺と俺はベンチに座り、それぞれの事情を話した。
 俺は当然、阿藤の一件について。
 紫の俺は、紫鏡の実態について。
「へぇ、こっちじゃ俺らの世界の話はそんな物騒なものとして伝わっているんだ」
「実際は物騒じゃないとでも言いたげな物言いだな」
「ああ、別に物騒じゃないよ。俺らの世界はただ紫だらけなだけ。こちらみたいに色彩に富んでない、紫一色の世界ってだけだ。そして、不幸とか幸せとか死とか、そういうものがない」
 何やら凄いことを言いだした。
「紫一色というのはまあいいだろう。それよりも、後半の話は何だ?」
「言ったとおりだよ。俺らはどんなに頑張っても幸せになれないし、不幸にもなれない。そして、死にたいと思っても死ねない。ただ漫然と生を享受する以外にすることがないんだ」
 つまらなそうな世界である。
「だからこちらの世界に来るんだ」
「そこで、だからという接続詞が使われる意味が分からん」
「こちらの世界の俺――つまり君だ。君に俺が干渉して何かが変われば、俺もその何かを享受できるんだ。だから、俺が君を幸せにできれば俺は幸せになれる。逆に不幸にしてしまえば、俺は不幸になる。そういうことさ」
 また妙なことを言い出した。まあ、こいつの存在自体が妙なのだから、そんなのは今更ではあるけれど。
 しかし、そうなると阿藤の一件は……
「なら、紫の阿藤は死にたかったということか?」
 尋ねると、紫の俺は顎に手を当てて悩み始めた。ちなみに、その癖は俺も有している……らしい。高校生の頃に友人に指摘されたことがある。
「それなんだけど、可能性は低いと思うんだよなぁ。こちらじゃどうか知らないけど、あっちだと死にたがる奴なんて早々いない。ただただ漫然と生きてるのが普通の世界だし、まだこちらに来れてない――二十歳前の奴なら不幸になれてるはずもない。死にたがる要素が殆どと言っていいほどないんだ。そりゃあまあ、そういう奴がごく偶にいないこともないそうだけど、それこそ伝説として語り継がれるくらい珍しいことだ」
 そのごく偶にいた伝説の奴がこちらでの都市伝説の元になったのかもな、などというどうでもいい考察をしながら、俺は反論する。
「紫の阿藤がその伝説級の野郎だったかもしれないだろ」
 紫の俺は、ごもっとも、と頷いて笑う。
 ……今更だが、全身紫の自分が目の前にいるというのは若干気持ち悪いものがあるな。
 その気持ち悪い奴が再び思案顔になって口を開く。
「まあそうかもしれないけどさ。もっと可能性の高いケースもあるんだ」
「……何だよ、それは」
「あちらの世界の阿藤さんに誰かが殺意を抱いていた場合さ」

 俺は今、紫に支配された世界にいる。
 どういう原理か知らないが、紫色に塗りたくった鏡に飛び込むと、この世界に来られた。
「お待たせ」
 紫の俺が近づいてきて、片手を上げて笑った。
 当たり前だが、のぞいた歯も紫色をしている。やはり気色が悪い。
「警察で調べてもらったけど、阿藤美世子という女性がひと月程前に死んでいるのが発見されたそうだよ」
 それは当然だろう。向こうの阿藤が死んだのだから。今大事なのは紫の阿藤が死んだ事実ではない。
「それで?」
「うん。やはり阿藤さん自身が死を望んだ結果ではないようだ。阿藤さんは縄で縛られた形で死んでいた。そして、俺らは君らの世界へ向う際に姿を自在に変えることができる」
 俺らの世界の自分に気付かれないように事を為し、幸せを享受したいと考える場合、その特性を利用して目立たないものに姿を変える奴がいるそうだ。そんな話を右から左に流しつつ、俺は瞳に力を入れて紫色の空を睨みつける。
 ……つまり先の事実はこういうことだろう。こちらの阿藤を動けなくし、それから阿藤の姿を借りて向こうに行った奴がいた。そして、そいつが本当の仇というわけだ。
 俺は向こうから持ってきた金属バッドを握り締める。紫色をしていないそれは、全てが紫色であるこの世界では違和感を覚えさせた。

 犯人探しは難航した。
 それも当然だ。犯行が行われたのは俺の世界であり、この紫色の世界ではない。紫の阿藤がさらわれる様子を目撃していた奴でもいれば話は別だけれど、今のところそんな目撃情報はない。
 というか、一番難儀な点は警察が警察として機能していないところだ。
 紫の俺が警察と口にしたから、当然俺は向こうの世界での警察を連想した。けれど、こちらでの警察は向こうの警察と完全に異なる組織だった。彼らが為していることといえば、紫人間どもの生死のデータベース管理だけらしい。どいつがどんな風に死んだかの記録を保存するだけで、その死について追求することは決してないのだとか。
 阿藤の件のような殺しなど百年に一度あるかないかだそうだから、通常であれば警察が頑張る必要などないのだろう。
 とはいえ、実際に殺しが起きた時くらいは働いて欲しいものである。まあ、普段からそういう荒事に関わる機会がないのなら一般人とそう変わらんわけだし、それを求めるのも酷といえば酷ではあるが……
 ふぅ。さて、ぼやいていても仕方のないことであるし、取り敢えず聞き込みに精を出すとするか。
 今いる場所は、こちらの阿藤が住んでいた家の近くにある公園だ。
 俺はベンチに下ろしていた腰を上げ、歩道を歩いている紫色の女に足を向ける。顔を見る限り美人ではあるが、紫色をしている時点で何の感情もわきゃあしない。
「すまない。少し訊きたいことがあるんだけど、いいか?」
「構いません」
 ぶっきらぼうな物言いだが、こちらではこれが標準のようだ。声をかける相手、全員が全員この調子だった。
「ここ最近、あそこの家に住んでる女が誰かに無理やり連れて行かれるところを目にしなかったか?」
 そう訪ねながら、阿藤の家だった建物を指差す。当然ながら、玄関も窓も屋根も紫色をしている。
「いいえ、見ていません。なぜそんなことを訊くのですか?」
「その女が殺された。で、連れ去った奴が犯人ってわけだ」
 簡潔に応えると、女は目を二、三度瞬いてから口を開いた。
「殺されたなんて嘘でしょう? 誰かを殺す人なんているわけがない」
「……ならよかったんだがな」
 むかっ腹の立つ反応に、しかし俺は特に感情を抱くでもなく軽く返す。
 聞き込みを繰り返す上で何度も目にした対応だったからだ。もはや全く腹が立たない――と言えば嘘になるが、さすがに慣れた。
 簡単に礼を言うと、彼女は表情を変えずにこちらを一度見てから去っていった。

「阿藤さんの家の前で張り込んでたら、何人か訪ねてきた人がいたから話を聞いておいたよ」
 紫の俺が言った。今更ながら、紫色の俺が目の前にいる状況というのは妙である。
「……それで?」
「結果から言うと、あんまり有益な情報ってのはなかったかな?」
 それは非常に残念なお知らせだ。しかし、こいつが有益と思わなかったとしても、俺は違う感想を持つかも知れない。
「それでもいい。聞いたことを全て話せ」
「はいはい。えーと、五人来たんだけど、まず一人目は、幼い頃に居住区が一緒だった男の人だね。昔借りてたハンカチが押入れの中から出てきたから届けに来たらしい。十年ぶりらしいよ」
 それはまた、随分とつまらない用でやって来たものだ。俺なら見なかったことにするな。
「次に来たのは学校の友達だった女の人。これから二十歳を迎えるらしくて、先んじて二十歳になったはずの阿藤さんに向こうの世界の様子をあらかじめ聞いておこうと思ったらしいね。この人は二年ぶりだって。学校は六歳から十八歳まで行くことになってるから、学校に行かなくなってからは会ってないようだね」
 こっちにも学校はあるようだ。もっとも、俺らの世界のそれとは違う性質のものかも知れないな。警察と同様に。
「お次はその学校の先生だったよ。その先生はずばり、阿藤さんが亡くなったことを知ってやって来たそうだよ。家の前でしばらく祈っていたね。他人の死を悼むなんて珍しい人だけど、きっと二十歳の時、向こうの世界でそういう習慣を身に着けたんだろうね」
 死を悼むことすら奇抜なこととして認識されるとは、中々に腐った世界である。
「先生の次は、えーと…… ああ、犬だったね。昔、阿藤さんに飼われてたらしいよ。五年前に自分から進んで野良になったそうだけど、このところ餌をくれる人も残飯もあんまりないらしくて、何かくれないか交渉しに来たってさ。やっぱり元飼い犬だと野良根性が乏し――」
「ちょっと待って」
 流石に常識はずれにも程があるため、ストップをかける。
「犬が訪ねて来て……あんたに事情を話して聞かせたのか?」
「そうだよ」
 何でもないことのように答える紫の俺。
 ……そうか。それが常識なのか。
 俺が頭を振り、向こうの世界での常識というものを努めて忘れようとしていると、紫の俺は可笑しそうに笑ってから先を続ける。
「で、最後に来た人は女性だったね。友人だっていってたけど、阿藤さんが確かに亡くなっているのかどうか尋ねてきたよ。警察のデータベースを閲覧したのかもね。そういえば、この人は妙に悲しそうにしていたなぁ。少し変な人だったよ」
 ? 聞く限り、それほど変だとも思わんが……
「友人が死んだら、そりゃあ悲しいだろう?」
「そっちじゃそうかも知れないけどね。こっちではそんなことはないよ。二十歳を超えて幸せになってたり、不幸になってたりしても、他人に対しては無感動に接するのが普通だし。他人に降りかかった何かを因として、喜んだり悲しんだりすることは、決してない。まあ、悲しむことが習慣になっているとか、そんな事情があるなら別だけど…… うーん。そんなのが習慣になっちゃうのは嫌だねぇ」
 ……今更だが、本当に妙な世界だ。
 と、ちょいと待てよ。
「だが、阿藤の死に対して祈っていた先生がいただろう?」
「その祈りは、祈りという意味以外は一切なにも内在していない祈りだろうね。ただ習慣として行っているだけだよ」
 ただ習慣としてあるだけの祈りとは……全く意味がない行為だな。
 まあそれはともかく、まだ気になることはある。
「ならお前は? 俺も聞き込みをしていたからわかったが、こちらの奴らは感情というやつとはあまりお付き合いがないように見える。けれどお前の喋りを聞いていると、上手くは言えんが、口にすることにいちいち表情というものがあるように感じる。感情があるように見える」
 尋ねると、紫の俺は微笑んだ。どう見ても、感情が働いている。
「それはね、紫じゃない俺。君が俺と共にいるからさ。前に、向こうの世界の自分に干渉すればこちらの自分にも変化が生じる、という話をしたと思う。俺は今、君に絶えず干渉している。だから、俺は絶えず変化し続けることができる。感情というものを持ち、心が変化し続ける。そうでなければ、俺も他の奴ら同様につっけんどんな物言いしかできないはずなんだ。少なくとも、他人の生死には確実に関心を持たない。尋ねてきた先生のように、二十歳の時に何か特別な習慣でも身に着けない限りね」
 なるほど。……いや、それほど納得はできていないが、まあ真面目に考えるのも面倒だからな。ここはなるほどと言っておこう。

「なあ。紫じゃない俺。その人の所に行ってどうするんだ?」
 紫の俺が尋ねた。
 ……この状況で何しに行くか分からないというのは頭が悪すぎやしないか? まあ、こちらの世界はある意味で平和すぎるわけだし、物騒な予想なんてできないのかも知れないが。
「ちょっとした可能性の模索ってやつだ。……俺は推理小説ってやつが好きでな」
「推理小説?」
 やはりこちらでは聞きなれない単語らしい。
「簡単に説明すれば、人殺しした人間が誰か当てるゲームみたいなもんだ」
「ああ、今やってるみたいな?」
「まあ、あながち外れてはいない。それでな。その推理小説では動機ってのが大事な場合もあるんだ」
「動機――なぜ人を殺すかってことか?」
「そうだ。で、その動機ってのは順当なものである場合もあれば、突拍子もないものである場合もある。順当なものの代表としては復讐ってとこか」
 こちらの世界ではこれも順当ではないだろうが。
「そして、突拍子もない動機の一例としては、ただ単純に人を殺したかったから、なんてのもある」
 その場合、動機から犯人を割り出すことが困難だから、トリック重視になっていることが多い。
 そして、そのような作品を読んだ際、俺はトリックなんぞさっぱり分からないながらも、勘で突拍子もない動機を察知し、犯人を指摘できたことがあったのだ。
 そして、今回もそれが可能かもしれないのである。
「たぶんこの辺りに……」
 紫の俺が視線を巡らす。そして、ある建物を瞳に入れ、あった、と口にした。
 俺たちはその建物に向かう。そして、誰にとがめられるでもなく、内部へと進入した。玄関で靴を脱ぎ、来客用のスリッパに履き替える。そして、廊下を真っ直ぐと進み、突き当りの部屋へ向かう。
 その部屋へ続く扉の上部にはプレートがあり、職員室と書かれていた。

「ああ。その人物を殺したのは私だ」
 ……やはりそうか。あまりにふざけた動機であるから、半信半疑だったのだが。
「あんたの祈りという習慣は、人が死ぬことで初めて可能となる。しかし、この世界では、死は珍しい事象だ。だからあんたは、祈りたいという欲求に抗えなくなった時、ちょうど二十歳を迎えるやつを探し出して、そいつの代わりに紫じゃないそいつを殺しに行く。そして、祈るんだな?」
「そうだ」
 無表情で答える教諭。
 このむかつく顔で、阿藤を殺した手で、こいつは何度、阿藤の家の前で祈ったのだろう。虫唾が走る……!
 手にしている金属バッドを強く握り締める。
 紫じゃない世界のやつを紫の世界のやつが殺せば、紫の世界でも人が死ぬ。ならば逆はどうなのだろうか。紫じゃない世界の住人である俺が、紫色をしたこの教諭を殺せば、俺らの世界にいるこいつに相当したやつが死ぬのだろうか。
 ……そうだとしても、知ったことじゃない。俺は仇を討ちに来たんだ。
 こいつを……殺すために……
 がっ。
「なあ、紫じゃない俺」
 強い力でバッドを押さえ、紫の俺が言った。
「何だよ! この期に及んで同郷のクソ野郎を庇う気か!」
「いや。ぶっちゃけその人が死のうがどうでもいいんだけどさ。つか、その人自身も死ぬとか生きるとかどうでもいいだろうし」
 なら放って置いてくれればいいものを、なぜ止めやがる!
 紫の俺は首をかしげてこちらを見つめた。そして、眉をしかめて疑問を口にする。
「お前、こいつを殺して本当に幸せか?」
 ……………
「どうも今のお前の顔見てるとさ。仇ってやつを討ってもお前、幸せになりそうにないなぁって思うんだけど……気のせい?」
「……いや、気のせいじゃない。幸せには……ならないさ」
 阿藤を殺された怒り。友人にもう会えない悲しみ。そして、その場にいながら護ることができなかった絶望。その感情のはけ口として目の前の野郎を殺しても、決して幸せになんてなれない。
 ある種の達成感はあるかも知れない。しかし、幸せでは、決してない。それは間違いない、と思う。
 けれど、そうだとしても、俺は――
「なら止めようぜ」
「……何……?」
「だってさ。俺、不幸より幸せがいいし。そりゃあ、平々凡々な日々を享受し続けるのに比べれば、例え不幸だって楽しく暮らせそうだと思うけど」
 紫の俺は瞳を閉じて考えつつ、言葉を紡ぐ。
「どっちかといえば、幸せが欲しいんだよ。でも、お前が俺と関わった状態で不幸になると、俺は不幸になっちまう。それは駄目だ」
 言い切ったあと紫の俺は数度頷き、何度も駄目だと口にする。そして、俺に真っ直ぐな瞳を向けた。
 ……俺らの世界では、人は人を殺す。そこには色々な理由があるだろうけど、俺みたいな理由の場合もあるに違いない。そうして達成したそれは、誰かを幸せにするのだろうか。
 もしかしたら、そうすることで齎される幸せもあるのかも知れない。
 けれど、少なくとも俺は、目の前のやつをぶち殺したとしても、幸せを享受することはできない。きっと、いや、絶対に、幸せになんてなれない。
「なあ。幸せになろうぜ?」
 ぽたり……
 紫色の床に落ちた水滴は、いつもよりも目立って見えた。

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