ここは王都ガイアシス。
もっとも、二十年前の戦の混乱によって王制は廃れてしまっている。そして、この国のトップは民主主義に則って選挙で決められる。そのため、正確を期すのであれば、王都という名称は正しくない。長年使われていた名称を変えるのも都合が悪い、という理由で未だ王都と呼んではいるが、最近では、いつまでもこのままではいけないだろう、と考える者も少なくなく、ただ単にガイアシス・タウンと呼ぶこともある。
そのようなわけであるから、ここを街と呼ぶのも間違いではないことを述べた上で話を進めることとしよう。
さて、この街には騎士団と呼ばれる自衛を目的とする集団と、統制院と呼ばれる法の秩序を司る集団がある。
共に王制が廃れた後に生まれた組織なのだが、騎士団は元々王族に仕えていた騎士たちの内、戦を生き残った者たちが、今度は民衆のために働こう、と思い立って組織した団体である。
一方、統制院は王族による統治が無くなったために生まれた組織であり、名前の通り王族の代わりに統制を行うのだが、そのための法は以前とはかなり違う。
先にも述べた通り、民主的に選ばれた者がトップとなり、また、民衆の中から構成人員を募っているため、やはり以前よりも一般人の視点に立った、より有益な法が生まれている。
ここで語弊があるかもしれないので述べておくが、選挙で選ばれたトップというのは絶対的な存在ではない。何かを決める際に便宜的にでもトップがいないと不都合なことも生まれるだろう、ということで選出されるだけで、重要事項を決定する場合は騎士団、統制院の上層部全てが集まって意見を出し合い、その上で決めるのだ。決して、トップの独断で何かが為されることはない。
そういう意味ではトップと雖も有名無実であるわけだが、やはり誰でも国のトップという立場にはあこがれるものなのか……選挙時期にはお祭りのような騒ぎになり、選挙演説がうるさいことこの上ない。
さて、この統制院は今でも門戸を叩く者が後をたたない。一つに給金がいいという理由があるが、これはつまり仕事が多いということだ。どんな時代でも犯罪や小さな諍いは途絶えないもので、これを解決に導く統制院は安定した職として非常に人気があるのである。まぁ、その一員になるのに大変な苦労がいるという問題もあるのだが……
それに対し、騎士団は――完全に人員不足となっている。
そもそも、その力を発揮する相手である魔物は先の戦、封魔大戦でそのほとんどが絶えており、魔物の主であった魔神もまたその時に倒されている。魔物の力の源はその魔神が所有していた封魔石であったが、それもやはりその時に壊されている。そのような事情ゆえに、魔物が力を衰退させていっている昨今、騎士団は仕事をする機会がほとんどといっていいほどないのである。
そうなれば当然給金も安くなり、それにともなって騎士団を志願する者も減っていった。
最近では、無くした指輪探しや子守といった何でも屋のような仕事もやっているので仕事の量は増え、給金もそれなりに多くなってきている。しかし、そんな体たらくでは以前のように憧れて入る者も余りいなく、人手不足は相変わらず続いている。
では、この騎士団が居を構える建物の様子を述べよう。
その建物は街の中心部にあり、この街が未だ王制であった時の名残を窺える立派な門構えをしている。というより、はっきり言ってしまえば、騎士団の建物はそのまま王城だったところなのである。
門のところに『何でも引き受けます! ご依頼はお気軽に騎士団まで!』という旗が立っているため、そんな事実はまったく類推することができなくなっているが、今でもそれなりの装飾を行えば、ここがまだ王城であるかのような錯覚をしかねない、立派な建物なのだ。
その建物に、柔らかな黒い髪の青年が入っていく。
黒いハイネックシャツの上に騎士団員の証たるジャケットを着ている。そのジャケットには竜を剣で突き刺しているように見えるシンボルが縫い付けられていて、一時期はそのジャケットに憧れて騎士団に入る者もいたのだが……
それはともかく、その青年について少し述べよう。
彼の名はヴェイル。来月二十一歳になるが、十八歳から騎士団の入団試験を受け始め、二年間落ち続けた。今年やっと入団できたため、未だ見習い一年目という立場だ。
基本的に人員不足な騎士団は比較的入り易いのだが、彼は馬鹿だった。
体力試験は全く問題ないが、筆記試験が極端に悪い。一年目はそれが落ちた理由だったのだが、二年目は少し毛色の違う理由で落ちた。
彼は一年目に受けた体力試験で、本来であれば致命的とは言えないが、彼自身の意識の上では大きいと思える、そんな失敗をした。勘違いをした。それ故、彼は体力試験が失敗の原因だと思い込んでしまった。次の年は体力試験対策ばかりをして過し、筆記試験用の勉強をすることなく二年目を受けた。そして、再び落ちたのだ。これもやはり馬鹿ゆえといえばそうなのだが……
しかし、そんな過程があったためか彼の体力は相当なものになっていた。剣の技術などは発展途上で危なっかしいのだが、基礎体力は団の大抵の者を凌ぐほどだ。
そんな諸々の事情があるからか、彼はある意味有名なのだ。不名誉な知名度ではあるため、彼自身は嫌がっているが……
「あ、ヴェイルさん。おはようございます」
ヴェイルが廊下を歩き、騎士見習いにあてがわれた部屋へ向っている時、その後ろから声がかかった。
ヴェイルは振り向き、声をかけた人物に相対して口を開く。
「おはよう、シャロン」
ヴェイルの視線の先には青い髪を長く伸ばした少女がいた。切れ長の目が印象的な美人だが表情は柔らかく、それに伴って、少し睨んでいるように見える目もとっつきやすい印象を人に与える。
シャロンは十八歳で、ヴェイルが三回目の入団試験を受けた時に共に受けていたのだが、見事に一発で合格している(もっともそれが普通なのだが……)。ヴェイルと同じ現在1年目の見習いだ。
ヴェイルが剣を扱うのに対し彼女は槍を扱うが、その技術は中々に卓越している。彼女の家が、元騎士団員が経営する槍術指南所であるからなのだが、それにしても歳の割に素晴らしい使い手であることは間違いがない。
「ん? 何か息切れしてないか?」
ヴェイルが訊いた。
確かによく見ると、シャロンは少し呼吸が荒く頬も紅潮している。
「ええ、家から走ってきたんです。それで少し疲れて……」
「別に遅刻するような時間でもないじゃないか。ていうかお前の家、直ぐ近くだろう? ちょっと走ったくらいでその疲れよう……相変わらず体力ないなぁ」
「アハハハ」
呆れたような、それでいて慈しむような目つきでシャロンを見詰め声をかけるヴェイルに、照れたように笑って返すシャロン。
そう。シャロンは槍の技術は問題ないが、体力的に心許ないところがあった。
他の見習い達(二人の他には三人いるのだが)は、そんな彼らを足して二で割ったら理想的な戦力になるじゃないか、と皮肉をよく口にするが、ヴェイル達は彼ら自身もそう思うから、強く言い返せなかったりする。
彼らはその後もしばらく取り留めのない話を続けつつ、歩を進めた。
「ジャックもレイシスもなんで来ねぇんだぁ?」
「それにサラも……もう直ぐ始業時間なのに」
見習い用の居室では、ヴェイルとシャロンが時計を見詰めながら苛立った様子で座っていた。
というのも、彼らの同僚――他の見習い三名がいつまで経ってもやって来ないからだった。
ジャックというのは、見習い三年目になる彼らの中では一番の先輩。ヴェイルと同い年であるため、入団試験には一発で受かったことになる(くどいようだがそれが普通)。
レイシス、サラは二年目の見習いで、ヴェイルは一年前の受験の時からの知り合いだ。やはり彼らも一発で合格している。
彼らが始業時間までに来ないことが今までなかったわけではないが、全員が来ないということは初めてだった。そもそも、休む時は事前に何かしら連絡があるものである。始業と共に正規隊員の居室や廊下の掃除を行わなければならない見習いは、最低でも始業の十分前には来ていないといけない。ゆえに、連絡すらない今の状況はある種異様だった。
「たくっ! シャロン、俺達だけでも行こうぜ」
「そうですね。取り敢えず、このことを団長に連絡して、ついでにそのまま団長の部屋から始めましょうか」
そう言って、ヴェイルとシャロンは立ち上がった。
開けたままにしてあった扉から出て右に曲がり、行き着いた廊下の十字路を左に曲がる。そして、その先にある階段を三階まで上がった直ぐそこに、少しだけ立派な扉がある。
コンッコンッ。
ヴェイルがその扉を丁寧にノックする。
「どうぞ」
中から、入室を促す男性の声が聞こえてきた。
『失礼します』
ヴェイルが扉を開けて部屋の中へと入り、シャロンもそれに続いた。
『おはようございます! アース団長!』
二人は声を揃えて挨拶し、それから丁寧に礼をする。
「おはよう、ヴェイル、シャロン。今日も頑張ってくれ」
応えた男性――アースは、黒い直毛の頭髪を肩の辺りまで伸ばしている。そして、騎士団のマークが入ったベストの上に鉄の胸当てを付け、腰には身の丈ほどもありそうな長剣を差している。普段は胸当ても剣も外していることを考えると、これから何か任務があるのかもしれない。
彼は今年で二十八歳になるが、見た目はヴェイルと同じくらいか、もしくは更に若い。その外見こそが彼の一番の特徴なのだが、彼自身はそのような自分の容姿をかなり気にしている。
「私はこれから久しぶりに魔物討伐の任に付くから、二、三日はライル副団長に留守を任せる。何かあれば彼に言ってくれ」
このような彼の少しもったいぶった口ぶりは、彼の見た目に対するコンプレックスが元になっている。口調だけでも歳相応にしようと思ってのことなのだろう。
しかし、表情が柔らかいので嫌な印象を与えることはない。
「はい、わかりました。それで団長……」
「なんだい?」
「俺達以外の見習い騎士全員が来ないんです。遅刻か欠勤かわかりませんが……報告までに」
ヴェイルがそう言うと、アースは決まりが悪そうに笑って、応えた。
「すまない。伝えるのを忘れていたよ。ジャック、レイシス、サラの三名は昨日付けで退団した」
「えっ! なぜですか?」
突然知らされた事実に思わず声を上げるシャロン。
「ソレイユ教団は知っているね。皆、そこに入るといって退団願いを出してきたよ」
「ソレイユ教団ってあの……神の癒し手ですか?」
「傷付いたものを癒すっていう、胡散臭い?」
アースの言葉にシャロン、ヴェイルがそれぞれ反応を示す。
ソレイユ教団というのは、封魔大戦があった少し後に発足したという宗教団体だ。全ての力の源たる太陽の神ソレイユを崇拝している。
発足当時は知名度も実績もなかったため、ほとんど誰にも相手にされなかった。しかし、ここ二、三年でいっきに信者が増えてきている。その契機となったのは、三年前にあった大火事だった。その時多くの人間が死に、生き残った者も大火傷を負った。その生き残った者達の、一生残るだろうと思われる火傷を癒したのが、ソレイユ教団の教主ミーティアだったそうだ。その話は噂の域を出ないのだが、実際に火傷を負ったはずの人間が教団に入信し、その体にはどこにも傷が見当たらない。それならばと、人々はその噂を信じ込み、結果、ソレイユ教団は大戦以前から在った古い宗教団体に負けないくらい――いや、それ以上の規模の団体となったのだ。
「胡散臭いなんて言っちゃいけないよ、ヴェイル。ソレイユ教団はゴミ拾いや植林などの地域に根付いたことも行っている立派な団体だ。彼らが入信したがるのも自然なことだよ」
「しかし、三人全員がいっきに辞めるというのは、さすがに不自然なのでは?」
「先日あった西地区の建物倒壊事件。彼らは皆、あの辺りに住んでいる。あの時もソレイユ教団のミーティアさんが傷ついた者を癒したというから、その光景を直接見たのかもしれないね。いや、もしかしたら彼ら自身癒されたのかもしれない。それ故に、といったところか」
ヴェイルは、アースの言葉に納得できない、といった様子で顔を歪めた。
彼は基本的にそういう団体は全てペテンだと考えている。そもそも傷を癒すなどという現象はあるはずがないと思っているわけだ。当然といえば当然の考えではあるが……
「あの……それでは見習いは私達二人だけということに?」
黙ってしまったヴェイルに代わり、シャロンがアースに訊く。
「そうなってしまうね。掃除も大変だろうから、今日からは二日に分けて行うようにしてくれ。終わったらいつも通り、稽古を受けながら緊急任務に備えて待機。おっと、そろそろ出立しないといけない。これで失礼するよ」
アースが手を軽く上げて部屋の外に向うと、少し不機嫌そうだったヴェイルも、呆気にとられていたシャロンも、すっと背筋を伸ばして礼をする。そして、
『いってらっしゃいませ! 団長』
声を揃えて言った。
アースはそんな彼らに二言、三言声をかけ、それから去る。
彼の靴音が聞こえなくなると、ヴェイル、シャロンの二名は顔を見合わせ、それから軽く息をついた。
ただでさえ少ない見習い仲間が皆一斉に辞めてしまったのだから、それも当然の反応か。
「また明日……ヴェイルさん」
「ああ……掃除のことを考えるとすっげぇ嫌だけどな」
「はは……」
二名は騎士団本部の前で挨拶を交わした。
その顔は共に疲れの色が濃い。
結局、普段の掃除量の半分とはいえ、二人だけで掃除をするのには、かなりの時間と労力を要した。その上で、日課の筋力トレーニングと剣術、槍術の鍛錬を行ったのだから、疲労感は当然の如くいつも以上であった。
「そのうち慣れますよ、きっと……」
「だといいけどな……じゃあ」
「ええ」
言って正反対の方向に足を向ける二人。シャロンは街の中央地区の北側に住んでおり、ヴェイルは南地区の郊外に住んでいる。そのため、このような帰路になるのだ。
「くそ〜、掃除するために入ったわけじゃねぇっつうの! たくっ! 一年目っつうことで任務に就いたこともないし、こう励みつうか、そういうもんがないよなぁ……」
ひとり言を呟きながら帰路を辿るヴェイル。平素なら通行人に変な目で見られることになるのだが、幸いというか何というか、夜遅いため誰も見当たらなかった。この時間で人通りが激しいのは、東地区の酒場通りくらいのものだろう。
「つ〜か! ジャックもレイシスもサラも一気に辞めてんじゃねぇよなぁ! せめて段階的に辞めるとかさぁ、いやそれ以前にあんな理由で辞めんな!」
思わずヒートアップしたヴェイルはついつい声を荒げる。さすがに近所の人間が窓を開け、彼の方を訝しげに見ている。それに気付いた彼は決まり悪そうに足を速め、その場を離れた。
「思わず声大きくしちまったぜ…… 気をつけないと統制院に通報されちまうな。――ん? あそこにいるのって……」
そう呟いたヴェイルの視線の先には、男性がいた。ヴェイルと同じくらいの年頃の青年である。
ヴェイルは駆け寄り、声をかける。
「おい、カシス! お前も今帰りか?」
「ああ、ヴェイル。今日はちょっと書類整理の仕事があったから遅くなったんだ。君は?」
「俺はこの時間帯がいつも通りだよ……」
「うん、知ってる」
そう言ってカシスは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
カシスは統制院で働く二十歳の若者だ。統制院に入るためには平均的に五年の時を要することを考えると、十八歳の時に一発で合格を果たし、現在三年目の職員であるカシスはかなり優秀な法の使徒といえる。しかしそれでも、統制院の慣習で三年間は下積みとして書類整理のような事務処理を行うことになっているため、彼もまたヴェイルと同じで仕事らしい仕事を与えられることもなく、日々を過ごしている。
彼はヴェイルが住んでいる部屋の隣に住んでいるため、しばしばそれぞれの仕事に対する愚痴のようなものを言い合っていた。
ちなみに外見の特徴としては、一本だけ上に向かってくるりと伸びている毛髪や、最近普及しだした視力矯正のためのもの――眼鏡をかけている点が挙げられる。
「今日は特に疲れてるから、細かい突っ込みはしねぇぞ……」
「? 何かあったの?」
ヴェイルは疲労感の漂う顔をカシスに向けて、今日あった出来事を要約して伝えた。
それに納得顔で言葉を返すカシス。
「あぁ、ソレイユ教団に入る人は最近本当に多いよね。うちの新人何人かもやっぱり同じ理由でこの前辞めてね。お偉いさんが荒れた、荒れた」
「収入の安定している統制院でもそうなのかよ? そうすっとうちの人間が辞めるのも妙に納得だぜ……」
統制院は入るのが難しい上に収入も多く、安定性があるため、辞める人間が全くと言っていいほどいないのだ。そうであるにもかかわらず…… どうやら、ソレイユ教団の世間の評価は思いのほか高いらしい。
「聞いた話によると、西地区のビル倒壊に巻き込まれた時に癒しの力で助けられたのが一人、他にも四人くらいが辞めたけど、その人達は助けられた人の話を聞いてってことらしいね」
「それだけで、苦労して入った統制院を辞めるかねぇ、普通。俺には理解できねぇよ」
「僕も同感だけど…… でも、実際に助けられたらそういう風に妄信的に信じてしまうのかもしれないね」
上司の風当たりが激しいのだろうか、かばうようなことを言いながらも、彼の瞳には疲れの色が見える。
「そうそう、彼らはそういう理由だったけど、信者の中にはミーティアさんの若々しさにあやかろうってことで入信する人もいるみたいだよ」
「は?」
突然おかしな入信理由を挙げたカシスに、ヴェイルは疑問たっぷりの顔で聞き返す。
「ミーティアっていうとソレイユ教団の創始者で、現在も教主をやっている女の人だろう? その人の……何だって?」
「彼女、教団設立当時は十八歳だったそうだけど、今では三十八歳で、まあ結構な歳なんだよ。だけど、その見た目は設立当時から全く変わりがなくてね。それもソレイユ神の恩恵だと勝手に解釈した女性達が入信する、ということもあるそうだよ」
ヴェイルはそのとんでもない理由に思わずため息をついた。
「おいおい。どういう理由だよ。ていうかさぁ、ソレイユ教団って詐欺臭くねぇか?」
「いや、統制院で調査をしたんだけど、ソレイユ教団におかしなところは全く無かったよ。それどころか、老人福祉、環境保護運動、保安維持のためのパトロール、下手な企業よりも社会貢献しているね。ボランティアだし」
「それはそれで胡散臭い……」
感心したように話すカシスに、穿った意見を返すヴェイル。
「そうやって変に疑うの悪い癖だよ、ヴェイル。……あぁ、そういえば教団の本部はこの辺りだね」
軽くヴェイルに注意を入れてから、カシスは辺りを見回して気付いた事実を口にする。
ソレイユ教団の本部は南地区の廃屋を改造したものだ。とても宗教団体の建物とは見えないため、知らない人間が見ればそうとは気が付かない。ヴェイルもまたそのことを知らない人間の一人だった。
「そうなのか。初めて聞いたな…… ま、どうでも――」
「きゃあああぁぁぁあぁあッ!!」
いいことだけど、と続けようとしたヴェイルの言葉は、突然の悲鳴によって遮られた。
「! 悲鳴? こっちか!」
「ヴェイル!」
即座に走り出したヴェイルに続く形で、カシスも走り出す。
しかし、体力馬鹿であるヴェイルに、普段デスクワークが主のカシスが追いつけるはずもなく、現場と思われる場所に到着した時、ヴェイルの後ろにカシスの姿は見当たらなかった。
「さっきの悲鳴の感じだと――ここら辺のはずだよな、カシス? ってあれ?」
そんなこととは露知らず、ヴェイルは振り返ってカシスに同意を求める。しかし、いるはずの人間が見当たらなくて辺りを見回す。
しかし、そんな場合ではないことを直ぐに思い出したようで、ヴェイルは目つきを厳しくして先ほどの悲鳴の主を探す。
ぱっと見た感じではそれらしき人物は見当たらないのだが、視界の隅で街灯に照らされる不自然な物体を見つける。嫌な予感を抱きながらも、ヴェイルはそこへ駆け寄っていく。
「……これは! くそっ! おい、大丈夫か!」
そこにいたのは人というか、元人と言った方がよさそうな女性だった。辛うじて息はしているようだったが、手足はおかしな方向に曲がり、右腕に至っては肘の辺りから食いちぎられたように無くなっていた。
「まだ、生きてるな…… 病院に連れて――って動かしていいもんかな?」
ヴェイルは直ぐに彼女を起き上がらせて病院に連れて行こうと考えたが、傷の深さを考えると不用意に動かすのもまずいかもしれないという考えに至る。そしてあろうことか、こんな場合にも関わらず考え込んでしまった。
そこに漸くカシスが追いついてくる。
「ヴェイル…… 何が…… ハァ、ハァ…… あったの? ……って、うわっ! その人!」
息も絶え絶えにヴェイルに近寄り質問をしたカシスだったが、彼の直ぐそばにいる死に掛けた女性を見て、大いに驚く。
「なぁ、カシス。こんな大怪我の人を動かしていいもんかな? 病院に連れて行く必要はあると思うんだけどさぁ、でも――」
「ヴェイル! のん気に考えてる場合じゃないって! 早く何とかしないと!」
悠長に考え込んでいるヴェイルに、声を荒げるカシス。
しかし……
「だけど、具体的にどうやってだよ?」
「……そうだね」
結局二人で考え込む。
いつもは二人とも、ここまで間が抜けてはいないのだが、突然訪れた非常事態に少なからず動揺しているようだ。
「……うっ、た、助けて……」
そこで、辛うじて絞り出された女性の声。それにより、二人は漸く我を取り戻すことに成功した。
即ち、彼女を連れて行く必要が必ずしもないことに気付いた。
「カシス! この人を見ていてくれ! 俺は医者を呼んでくる!」
「うん!」
そう言って、来た時同様にかなりのスピードで走り出したヴェイル。しかし……
「な、なんですか? あなたは!」
背中で聞こえたカシスの緊張した声に、ヴェイルは病院のある方向に向けていた足を止める。そして、振り返ると――
「お医者様を待っていたのでは間に合いません。ここはわたくしにお任せ下さい」
どこから現れたのか、そこには赤毛を腰の辺りまで伸ばした、ヴェイルと同じ年頃の女性がいた。
「おいっ! なんだよ、あんた! すっげぇ重傷なんだから動かすんじゃねぇ!」
赤毛の女性は、傷つき倒れている女性に歩み寄り、その背に手をかけて起き上がらせている。
ヴェイルの声など聞こえていないかのように、彼女は女性から離れない。
「聞いてんのか! おい!」
「本当に動かさない方がいいですよ!」
恫喝にも動じない女性に、ヴェイルが再び声を荒げつつ駆け寄り、カシスもまた語気の強い調子で声をかける。とはいえ、無理やり引き離したのでは傷ついている女性への影響が出てまずいと思っているのか、二人とも強気の行動にはでない。
「……この世界を司る石の力をこの者を救うために分け与えよ…… フロ・スト・トゥ・マン!」
そこで、赤毛の女性がごく簡単な言葉を呟く。すると、不思議な光が傷ついた女性を包み込んだ。
ヴェイルもカシスもその眩しさに顔を顰め、視線を逸らす。
そしてその光が消えると――
「ま、まじかよ」
「信じられない……」
視線を女性達に戻したヴェイル、カシスは、驚嘆の声を漏らす。
その視線の先には相変わらず女性が二名。
しかし明らかに違うことがひとつだけあった。
「もう大丈夫でしょう。無くなった腕を再生できないのが申し訳ないですが……」
そう。傷つき今にも事切れそうだった女性は、衣服に痛々しい様子が残ってはいるものの、傷は全て癒え、曲がっていた手足も正しい方向に向いている。赤毛の女性の言う通り、腕だけは無くなったままではあったが、そこに痛々しい様子はなく、血も止まっている。意識は朦朧としているようだったが、顔色や呼吸の深さから考えて、もう大事はないように思えた。
「もしかして――」
そこで、カシスは何かに気付いたように赤毛の女性を見る。
「貴女は、ソレイユ教団の方ではありませんか?」
彼とヴェイルは先ほどまでそのことを話題にしていた。それゆえ、彼がこの結論に辿り着くのも当然といえば当然だった。
一方のヴェイルも、カシスの問いに対する女性の答えを待つように、彼女の顔を見つめている。
腕を無くした者を悲しそうに見詰めていた赤毛の女性は、無理やりに笑顔を造り、カシスとヴェイルに向き直った。
「申し遅れました。わたくし、ソレイユ神を奉る教団で教主をいたしております、ミーティアと申します」
ヴェイルもカシスも驚いて女性――ミーティアを見詰める。
噂になっていたソレイユ教団教主。神の癒し手の最高責任者。
そんな彼女の瞳には、微笑を浮かべたその表情とは対照的に――深い哀しみが溢れていた。