の邂逅す

 ヴェイルとカシスは並んで帰路についている。
 騒ぎの原因――女性を殺そうとした者の正体は結局分からなかった。そのような状態であったゆえ、事件を聞きつけてやって来た統制職員は当初、その場にいた者、つまり、ヴェイルやカシスを疑った。しかし、カシスが統制院職員であったこととミーティアの証言とにより、ヴェイルらへの嫌疑は無事晴れた。
 しかし女性の腕が失われたという事実を考えると、二人とも単純に喜ぶ気にはなれないようである。歩を進めるその表情は暗い。
「人の仕業じゃないって話だったけど…… 魔物かな」
 カシスが重い口を開いた。
 統制院職員は女性の怪我の具合を目にし、とても人の所業とは思えない、とこぼしていた。そして、人でないとするならば、カシスが言うとおり魔物しかいないだろう。しかし、ヴェイルは眉を顰めて首を傾げる。
「どうだろうな…… 魔物なんて、魔境近くの集落とかならまだ騎士団が討伐に向うこともあるけど…… 王都近くじゃ五年くらい目撃されてもいないぞ。そもそも誰にも見られずにあそこまで来られるかどうか……」
「そっか…… それじゃ、一体」
 そこで再び沈黙して歩みを進める二名。
 しかし、ひたすら沈黙していても仕方がない、と考え、ヴェイルが話題を変える。
「それはともかく、すごかったよな。ミーティアって人の力!」
 彼の明るい声に、カシスもまた笑みを取り戻す。
「ああ、確かにね。あんな瀕死状態の人を簡単に治しちゃうなんて……」
「信者も増えるはずだな、あれなら」
 感心したように頷くヴェイル。
 それを目にしたカシスは呆れ、声をかける。
「詐欺臭いとか胡散臭いとか言ってなかったっけ?」
「実際に見ちまったんだ。信じるしかないだろ」
 満面の笑みを浮かべ、ヴェイルが言い切った。
 噂だけなら全く信じないが、見さえすれば即信じる。馬鹿みたいな単純さである。ある意味、最も詐欺の被害にあいやすそうなタイプだろう。
「まさか、ヴェイルも入信しようなんて考えてないだろうね?」
 カシスがからかい口調で声をかける。
 声をかけられたヴェイルは、苦笑を浮かべて返す。
「へっ、そこまで単純じゃねぇよ。騎士団に入るのにどんだけ苦労したと思ってんだ」
「あはは、そうだね。三年目の正直でようやく入れたんだったね」
「ははは、喧嘩売ってんのか?」
 ようやく、の部分に力を込めて話すカシスに、引きつった笑みを浮かべて詰め寄るヴェイル。
「まさか。そんなもの売らないよ。被害妄想ってやつだよ、ヴェイル」
 カシスはにっこり笑って答えた。丁寧な口調や真面目そうな外見とは裏腹に、中々いい性格の持ち主のようである。
 それなりに付き合いの長いヴェイルは、最早その辺りは気にしないようにしているのかそれ以上は特に言及しない。再びソレイユ教団に関しての見解を述べる。
「そういうことにしとくか…… 話を戻すけどな、あの力はすごいとは思うけど仕事辞めて入信するってはいき過ぎだろ、実際」
「まあ、普通はそう考えるだろうね。普通じゃない人も多いみたいだけど」
 統制院の調査では、ソレイユ教団の信者は二百を超えるという。普通ではない人間が思いのほか多いことが分かる。
 もっとも、その中にはミーティアの若々しさにあやかりたい、という入信理由のご婦人などもいるため、全てが仕事を辞めてまでの入信ではないのだが……
「っと。やっとアパートに到着〜」
 そこでヴェイルがおどけた声を上げた。
 二人の目の前には築十五年ほどの少し古い集合住宅が在る。
 その一○一号室がカシスの居室、一○二号室がヴェイルの居室だ。
 他にも一○三、二○二、ニ○四号室に入居者がいる。
「やっと寝れるぜ。今日は掃除とか訓練とか色々きつかった上に、統制院に少しとはいえ聞き込まれたからな。疲れたー。布団が恋しいぜ」
「ははは、お疲れ様。明日に疲れを残さないようにゆっくり休みなよ」
 カシスは出した鍵を錠に差し込み、扉を開く。そして、部屋に体の半分ほどを入れ、
「じゃあ、おやすみ」
挨拶を口にした。
「おう、おやすみ。また明日な」
 ヴェイルも少しもたつきつつドアを開け、挨拶を返してから部屋に入った。
 こうして、ようやく一日が終わりを向かえ――てくれればよかったのだが……

「ん? う〜ん……」
 路地裏で影が動く。
 ゆっくりと這い出してきたその影は、赤い髪が目立つ少女――リーンだ。
「そっか…… 私倒れたんだっけ。コリン?」
 リーンは友の名を呼びながら辺りを見回す。しかし、そのどこにも彼女の姿は見当たらなかった。
「お……置いてかれた?」
 そう呟いて、しばし放心するリーン。そして、
「こんな場所に女の子ひとり置き去りにするなーっ!」
 怒気を込めた叫びを発する。当然といえば当然か。
「ととっ」
 そこで再びよろめくリーン。まだ疲れが残っているらしい。
「うぅ、まだ無理しない方がいいみたい…… さっさと帰ろ」
 言って家路につく。
 彼女の住居は現在いる南地区。幸い現在地からも近い。数分ほど歩くと、彼女の視線の先に見慣れた集合住宅が見えてきた。
 築十五年にはなる少し古いもので、リーンはその一○ニ号室に住んでいる。
「さぁて、鍵はどこかなーっと」
 でかい独り言を口にしながら、少女はスカートのポケットを探る。しばらくして、
「あったー!」
 見つけたようである。
 よほど疲れているのか、彼女はおかしなテンションで天に鍵をかざす。
 ばんっ!
 そのままの勢いでドアを開け放ち、
「ただいまぁ! って言っても返事はないけどねー。だって私は一人暮らしっ!」
 明らかにおかしな独り言を続ける。
 しかし次の瞬間、彼女はその言葉も動きも止めることとなる。
 その原因は部屋の中にあった。
「な、なんだ?」
 戸惑った様子で部屋の奥から出てきたのは、黒髪の青年。
 すっかりくつろいでいたようで、彼の格好は上がハイネックのシャツ、下が下着一枚だった。
 青年、リーン共に、相手の姿を瞳に入れ、固まる。
 まず硬直から解けたのはリーンだった。
 大きく息を吸い込んで――

「きゃああああアァァァ!」
 ぶふうぅぅ!
 突然の大きな悲鳴に驚いて、カシスは飲んでいた紅茶を吹き出した。
「な、何?」
 そして、急いで立ち上がり、外へ飛び出す。
 しかし外へ出ると、騒ぎの元は外ではなく、先ほど別れた隣人の部屋であることが知れた。その中から争うような声が聞こえるのだ。彼はその扉を開けようと試みる。鍵はかかっていなかったようで、すんなりと開いた。
「どうかしたの? ヴェイル!」
 扉を開けたカシスの瞳にまず飛び込んできたのは、赤が目立つ後姿。
 直ぐにそれが少女の背だと分かる。
 振り返ってカシスを見る少女の瞳には涙が溜まっており、そこから想起されるのは、彼の友人――ヴェイルの狼藉。
 そのように認識し、統制院の職員殿は一言物申す。
「見損なったよ、ヴェイル……」
「待てぇ! 取り敢えず、お前が想像しているような事実はないからなっ!」
 今の流れでカシスが発した言葉を考えれば、彼がどのようなことを思い起こしたのかは想像に難くないようで、ヴェイルは大慌てで否定する。
「そんなの、この状況で信じろというのは無理が――」
「カシスさん!」
 さすがに無条件で信じることはできないのか、カシスは疑わしい瞳をヴェイルに向け、更に何か言おうとした。しかしその時、もう一方の当事者である少女がカシスに飛びつきながら彼の名前を叫んだ。
「え?」
 見覚えのない少女に突然名前を呼ばれ、カシスは戸惑い、声をあげた。
 しかし、そんな彼の様子には構わず、少女が早口で訴える。
「大変なんです! 帰ってきたら部屋の中にこの変態が……」
 言ってヴェイルを指差す少女。
 それに黙っていないのは当然、変態と呼ばれたヴェイルだ。目つき鋭く抗議する。
「誰が変態だ! そもそも人の部屋に勝手に入ってきたのはお前だろうが!」
「あ〜! 居直った! 居直り変態!」
「だから変態じゃねぇ!」
 カシスがいることで心強いのか、今度はヴェイルと睨み合いながら言い合う少女。
 先のような調子で数分間、言葉の応酬が為される。そして――
「えーと、つかぬ事を訊くけど…… 君、誰だったかな?」
「え?」
 その合間に、カシスは思い切って声をかけた。
 少女は戸惑った表情を浮かべ、カシスを見やる。しかし、直ぐに彼の発言を冗談と判断したようで、笑顔を浮かべて口を開く。
「何言ってるんですか、もう。どっからどう見ても私、リーンじゃないですか。ところでコリンは帰ってますよね? ちょっと話したいことがあるんですけど」
 リーンはそのように発言し、なぜか顔を顰め、拳を固める。
 その様子を目にしたヴェイルは、
「なんだよ、お前の知り合いか? カシス。だったら、とっととそいつ連れてってくれよ。俺、疲れてっからもう寝てぇんだけど」
 リーンを示し、言った。
 しかし、カシスは――
「いや、それが…… その、リーンちゃんだったっけ? 初めて聞く名前なんだけど……」
「え…… やだなぁ、カシスさん。冗談はそのくらいに……」
 カシスを見詰め、再び戸惑った声を出すリーン。
 しかし、本当に彼女を見たことがないカシスは、やはり戸惑いの言葉と瞳を返すしかない。
「いや、そう言われても…… 以前どこかで会ったかな?」
「以前も何も、今日の夕方に会ったじゃないですか。それどころか、私が魔法学園に入ってコリンと友達になってから――」
「ん? あの、コリンというのは?」
 リーンが戸惑いの色を濃くして必死に話していると、カシスは彼女の言葉の中に気になる単語を認めて遮る。
「それこそ何言ってるんですか。 カシスさんの妹でしょ? コリンがカシスさんとここに住むことにしたから、私も紹介してもらって住んでるんじゃないですか」
「妹…… コリン……」
 戸惑いを通り越し苛立ちの混じり始めたリーンの言葉を受け、カシスは瞳に動揺を携えて考え込む。
「何考え込んでんだよ? お前、兄弟姉妹はいないだろ。こいつの頭がおかしいんだよ」
 と、ヴェイル。
 その暴言に、彼の示す指の先にいる者は、当然反発する。
「誰の頭がおかしいってのよ!」
「てめぇに決まってんだろ! そもそも何だよ、魔法学園って! ガキの間で流行ってる遊びか?」
 再び言い合いが始まる。
 そんな中、ヴェイルが返した言葉を受けると、リーンは嘲りともとれるような笑みを浮かべて口を開く。
「魔法学園のことも知らないなんて…… とんだ田舎ものね、あんた」
「俺は確かに田舎出身だが、都に来て三年目だっつうの!」
「だったら、あんたこそ頭がおかしいんじゃないの!」
 またまた睨みあう二名。
 ちなみに、ヴェイルは騎士団の入団試験を最初に受けた年からガイアシスタウンに住み始めている。家族には最初の試験で受かったと話していて、それならば、ということで一人暮らしを許可されたのだ。それゆえ、家族にはすでに三年目だと思われていたりもする。その嘘がずっとばれていないことを考えると、彼の家族はのん気な者が多いのかもしれない。
 それはともかく、白熱し出した二名の言い合いを放って置くのもさすがにまずいと考えたのか、思考を巡らしていたカシスは軽く頭を振って気を取り直し、二名に声をかける。
「まあ、まあ。少し落ち着こうよ、二人とも」
「……はい」
 先ほどから彼女の情報との齟齬が目立つカシスの様子にさすがにおかしいと感じたのか、リーンは疑いの色を瞳に浮かべる。しかし、それでも言い合いを止めて黙る。
 ヴェイルもまた、返事こそしないものの、それ以上何かを言おうとはしなかった。
 カシスがゆっくりと口を開く。
「実は僕に妹はいたんだ。確かに名前もコリンだった」
「ですよね! もぉ、さっきから変なことばっかり言って。嫌ですよ、カシ――あれ? 『いた』って? それに『だった』?」
 顔を輝かせるリーン。しかし、その言葉の中にあるおかしな点――過去形で表現されている点に対し疑問を覚え、眉を顰める。
 カシスは瞳を伏せ、語る。
「……僕の田舎は魔境の近くでね。7年前に当時としてはもう珍しくなっていた魔物が村に侵入してきたんだ。それで、コリンは――」
「そんな! そんな馬鹿なことって! 私はさっきまで一緒に仕事してたんです! それどころか入学からずっと一緒だったんですよ! あんなふざけたことばかり言って周りに迷惑かける娘が幽霊とか幻なんて!」
 カシスの言葉の先を聞くことなく、リーンは悲鳴のような声を出した。
 確かにカシスの話は、先を聞かなくてもリーンが考えているような内容が窺えた。
 沈黙が落ちる。
 そんな中、ヴェイルが小さく咳払いをし、口を開いた。
「というか、たちの悪い悪戯だな。どこでこいつの妹のこと知ったか知らないが……」
「変態は黙ってて!」
 話の流れから考えて到達する一番常識的な結論を口にしたヴェイルは、リーンの鋭い返しで黙らされる。いや、黙りはしなかいのだが……
「変態じゃねぇ! 変なのはお前の方だろうが! 死んだこいつの妹と友達だって言ったり、魔法学園なんて意味不明のこと言ったり」
「魔法学園のどこが意味不明なのよ!」
「そもそも聞いたことねぇ! それに魔法って何だよ?」
 気になっていたことをまくしたてるヴェイル。
 魔法などといったら、お伽話の中に出てくる現実感のないおかしな力、といった程度の認識しか持てないのがヴェイル、カシスに共通するところだ。そんなこととは知らないリーンはヴェイルの頭が弱いとしか思えない。
「魔法が何かって、こういう力に決まってるじゃない!」
 言って右手に炎を生み出す。
『なっ!』
 術ともいえない、ただ力を発現するだけのものだが、他二人は目を瞠った。
 しばしの沈黙が落ちる。
 しかし、直ぐにヴェイルが引きつった笑みを浮かべ、発言する。
「……ただの手品だろ?」
「そんなちゃちなものじゃないわよ!」
 ヴェイルの尤もな意見に、直ぐに言葉を返したリーン。
 それに、更にヴェイルが返す。
「なら、もっと派手なことやってみろよ」
「うっ……」
 そのように言われると、リーンは呻くことしかできなかった。
 というのも彼女の術で派手なものといえばシャドウエッジくらいのもの。他は探査術やダークアレスト、闇の力を用いた目くらましの術、武器や体に闇属性を付加させる術など見た目的には至極地味なものばかり。他属性では使えないのと変わらないような術ばかり。
 更に言うとシャドウエッジはかける対象がいなければ使うことはできない。
 まさかヴェイルやカシスに使うわけにもいかないのだから、呻くくらいしかできないのも仕方がないというものである。
 リーンはすっかり困ってしまい、都合よく魔物の1匹でもいれば、などと考えて、苦し紛れに探査術を使う。
 すると――
「っ!」
「おい! どうした?」
 突然踵を返して外へ向おうとするリーンを、ヴェイルが呼び止める。
「魔物がいるわ」
 リーンは緊張した面持ちで答える。
 それを受けてもとても信じられないという風に、軽い笑みすら浮かべるヴェイル。
 カシスもまた似たような反応。
「お前なぁ…… 魔物なんて今じゃ魔境近くでしか出ないんだぞ? こんな街中にいるかよ。やっぱお前、頭おかしいんじゃ――」
「信じられないならそれでいいわよ!」
 叫んで、リーンは勢い良く扉から飛び出していく。
 それを呆気に取られて見送る二名。
 顔を見合わせてしばらく沈黙していたが……
「だあぁ、くそっ!」
 大きな声を出して気合を入れてから、ヴェイルは部屋の隅に置いてあった短剣を手に取り、扉に足を向ける。
「ちょ、ちょっとヴェイル!」
「べ、別にあいつの言ってることを信じたわけじゃねぇぞ。こんな遅くに、ちょっと頭がおかしいとはいえ女の子を一人で行かせるわけには…… うぅ、つ、つまりそういうことだっ!」
 自分で言ったことに照れくささを感じたのか、最後は投げやりに言い放ち、ヴェイルは急いで出て行こうとする。
 カシスはある重要なことについて述べるため、更に引き止めようとするが……
「待ってって! 僕が言ってるのは――行っちゃったし…… まったくもう」
 そのように誰にでもなく呟いてから、彼はヴェイルが忘れたあるモノを手にとって後を追う。
 ある意味、カシスの追いつく時機が、ヴェイルの将来を左右すると言っても過言ではない。

 リーンは戸惑っていた。
 夕方の暗くなり始めの時でさえかなり精密な探査が可能であったのに、漆黒の闇を得た今には大まかな位置情報しか感知できなくなっていた。
 闇が濃くなるにつれて術の力は増すはずであるのに、これはどういうことなのか。
 しかし、今はその問題を追及している場合ではない。
 魔物が存在していることだけは確かなのだ。一刻も早く探し出して処理しなくてはいけない。
「この辺かな……?」
 魔物の気配を強く感じる地域まで来ることはできたが、そこで行き詰る。
 取り敢えずこの辺りを満遍なく調べてみるしかないようだ。
 目に入る曲がり角を全て曲がりつつ、魔物の姿を探す。
 幾度目かになる角を曲がった時――
「きゃっ!」
 曲がった先には、黒い肌をし、目にだけ危険な光を携えた魔物がいた。
 その魔物が会うなり直ぐに拳を打ち出してきたのを、リーンはギリギリで交わし地面に倒れこむ。
 昼間の討伐の時も幾度か見かけたパワー型の魔物だ。
 次の一撃が来る前にどうにかしなくてはいけない。リーンは急ぎ口の中で呪を紡ぎ……
「ダークアレスト!」
 本来ならば、パワー型はこの術で捕えても力で無理やり解かれることが常である。しかし、完全に日の落ちた今ならば長期の拘束も可能――なはずだった。
 ガアァァァァアア!
 大きく吼えた魔物は術の拘束を容易く振り解き……
 ガシッ!
 リーンの体をその大きな手で一掴み。
 魔物が人を襲う理由の大半は捕食である。そういった知識を保持しているリーンは、これから迎える自分の運命を思い描き、顔の色を無くす。体全体に力を込めて束縛からの脱却を試みるが、それは叶わない。
 漸うと近づいてくる魔物。その大きな口に並ぶ鋭い牙を瞳に映し、彼女は遂に諦めの心を持って目をきつく瞑る。
 次の瞬間、紅い液体が地を染めることとなった。

 どすん!
 重力に促されて地面に降り立ち、腰を打つ。
 痛みが生を証明してくれる。
 しばし放心してから顔を上げて前を見ると、大きな背中が見えた。
「あんた……」
 リーンの目に映ったのはヴェイル。
 彼が常備している短剣はリーンを救うために魔物の腕に突き立てたらしく、今は手ぶらでその魔物に相対している。
 魔物はそのヴェイルに掴みかかろうとするが、彼はその手を軽くかわして、突き立ててある短剣を手に取りそのまま力強く押す。結果、魔物の肘から肩辺りまでが大きく裂かれることとなった。
 どうみても重傷なのだが……
「うわっ!」
 魔物はその傷にも構わず、ヴェイルに拳を打ち出した。
 ヴェイルは寸でのところでそれを避け、悪態を吐く。
「おいおい、何であんな傷で動けんだよ!」
「もー! 魔法学園のことといい、何も知らない変態ね! あの魔物はパワー型! タフネスだけでいったら他のどの生き物よりもあるの! あの程度の傷じゃかすり傷とも言えないわよ!」
「あれでかすり傷にもなんねぇって、マジかよ!」
 リーンの言葉を受け、魔物の攻撃をかわしながら器用に文句を口にするヴェイル。
 魔物に刻まれた傷の具合を見る限り、とても信じられる話ではない。しかし、流れ出る血が直ぐに止まったのを見たらば、納得するしかなかった。
「……くそっ! じゃあ、どうしろってんだよ! この短剣一本でできることなんてたかが知れてるぞ!」
 せめてもっと大きな得物でもあれば、首を一発で刎ねることもできるかもしれないが……
「しばらくそいつを引き付けといて!」
「は? それでどうしようってんだよ!」
 突然のリーンの言葉を受け、ヴェイルは疑問の言葉を叫びながら根気よく魔物の攻撃をかわし続ける。
「いいから、まかせたわよ!」
 リーンは彼の疑問には答えず、目を閉じて集中し始める。闇を行使する準備を始める。
 探査術の精度やダークアレストの拘束力低下を鑑みるに、術の威力が全体的に落ちているようであった。それゆえ、集中する時間を増やして魔力を高めようとしているのである。
 しかし、ヴェイルはどういうことなのかさっぱりわからない。それでも何か策でもあるのかと思い、魔物の気を自分に向けようと動き出す。今の状態で充分だともいえるが念には念をというやつだ。
 魔物が打ち出した右の拳をギリギリでかわし、彼はその腕に沿って懐に踏み込んだ。そして、持っていた短剣を力一杯魔物の右目に突き刺す。
 ぐおぉぉぉぉおおお!
 今度ばかりはさすがに苦痛を覚えたのか、大気を震わせる叫びを上げる魔物。
「よし! 後は……」
 独り呟いて踵を返すヴェイル。
 魔物とは逆の方向に全力で走り出す。
「ひたすら逃げる!」
 がおあぁぁぁあああ!
 怒りの声を上げて、追いかけてくる魔物。
 引きつけることには成功したようだが、危険度と怖さが相当分増したことは間違いがない。

 リーンは難渋していた。
 魔法を行使するには大気中の魔力が不可欠である。しかし現在、リーンの予想以上に大気中の魔力が減ってしまっているようなのだ。
 何が原因なのかはわからない。しかし、パワー型の魔物を葬るための力を出そうと思えば、少ない魔力を掻き集めるために相当な時間をかけないといけない。
 シャドウエッジを使うつもりだったリーンは、このままでは三十分ほどかかるだろうことを認識し、術の構成の転換を図ることにした。
 ただ突き刺すだけではなく、術にアレンジを加える道を採る。
 といっても難しいことをするわけではない。イメージを強く持つだけのこと。こうしたいと願う気持ち。強い強い想い。
 そして、できたイメージを具現化するために、集めておいたなけなしの魔力を割り当てる。
 すると――
「シャドウエッジ!」
 ドスッ!!
 通常時なら直径一メートルほどの錐を生み出す術は、人の腕と同程度の太さをした黒い杭を生み出した。そして、魔物の胸に小さな穴を穿つ。
 当然、魔の物はそれだけで動きを止めない。
 ゆえに、最後の仕上げをするためにリーンは口を開く。

「何だ、こりゃ……」
 後方で聞こえた大きな音の原因を確かめるためにヴェイルが振り返った時、目に入ってきたのは魔物の胸を貫く漆黒の杭だった。
 ヴェイルはふと気付く。直感的に理解する。
 これが魔法か……と。
 常人の理解の及ばない不思議な力。まさに物語の中に出てくるそれのよう。その威力は推して知るべしといったところだが、それでもなお足をばたつかせて動き続ける魔物のタフさには舌を巻くしかない。
 騎士団に要請を出すべきかとヴェイルが考えた、その時――
「デリート」
 リーンが呟き、その短い言葉に呼応し、杭の先端部分が四方に分かれていく。闇は魔物の腕に絡みつき、脚に突き刺さり、頭部を覆い、体中にその触手を広げていく。
 そうして、しばらくすると魔物は完全に包まれてしまった。その後、ゆっくりとゆっくりと闇は縮まり――
「どうなるんだ?」
「このまま完全に消えるのよ。これならどんなにタフでも関係ないわ」
 リーンの言葉を耳にし、ヴェイルは眉を顰める。
「うっへぇ、おっかねぇな…… そんで? これが魔法ってわけか?」
 相手が魔物とはいえ、これから迎えるであろう悲惨な最期を考えて同情するヴェイル。続いてリーンに気になっていたことを訊く。
「そういうことよ。いくら田舎者でもさすがに理解したみたいね」
「一言余計だ! しかしすごいな。俺にもできたりするか?」
「適性があればね。そればっかりは学園長先生にチェックしてもらうしかないけど」
 そのように話し込んでいる最中、闇が完全に魔物を飲み込んだ。術により生み出された闇は夜の闇と同化し、最早その片鱗も悟ることはできない。
 そのような魔物の最期を横目で見、背中に冷たいものを感じつつ、ヴェイルは言葉を続ける。
「学園長…… その魔法学園ってやつの一番偉い奴か?」
「そうよ」
「けどよ、魔法学園なんて施設はマジで見たことがないぜ。秘密組織か?」
 ヴェイルが訊いた。
 すると、リーンは嘲りの笑みを浮かべ、口を開く。
「世間知らずな変態ね。箱入り息子?」
「いい加減、変態っつうの止めろ!」
 相変わらずの不愉快な呼び名に、ヴェイルは青筋を立てて抗議した。
 そんなことはお構い無しに、リーンは続ける。その表情には、多分に呆れの色が窺える。
「止めて欲しかったらその格好をどうにかすることね」
 そう言ってヴェイルの下半身を指差す。
 ヴェイルは眉を顰めて視線を下に移す。瞳に映るのは当然自身の脚。しかし、なぜか違和感を覚える。
 そして、その時、カシスが叫びながらある物を抱えてやって来た。
「ヴェイル! ズボンはき忘れてるよ!」

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