かつかつかつかつ。
午前中で宮廷学者助手としての作業を手早くこなしたアルヴェルトは、彼が仕える学者に便宜を図って貰って早退し、ブックマン家のアデウス棟を訪れた。建前としては今月の予算繰りについて当主のティアーガンに相談するためであったが、実際には、心安くしている本家筋の人間に、森奥の地下について探りを入れるための来訪であった。
ティアーガンへの謁見は既に済ませ、建前としての用事は終わらせてある。その際、ティアーガンにアデウス棟内を見学する旨は伝えているため、自由に歩き回っていても特に問題は起きないだろう。
あとは、本家筋相手に探りを入れていることを誰にも悟られなければ完璧だ。
「あー! アルヴェルトさまぁ!」
その時、横手から声がかかった。その声の主は、まさに彼が探していた人物である。
ぱたぱた!
「お久しぶりです。ぼくに会いに来て下さったのですか?」
「ああそうだよ。久しぶりだね、ミラ」
駆け寄ってきた女性に、笑顔で応えるアルヴェルト。
女性は頬を紅く染め、もじもじと両腕をくねらせた。
この女性はミランダ=ブックマン。今年17歳になる。彼女の癖のついた明るい茶髪は活発さを印象付け、そして、アクアマリンを思わせる大きな碧眼は、好奇心の強さを想起させる。
「嬉しいです。先日ぼくが本家に迎えられてから、全くお会いできませんでしたもの」
ミランダはつい2ヶ月前に本家入りし、アデウス棟に移った。それまではアルヴェルト同様、ウィダミア棟に住んでいたのだ。
「元気にしているかい? とつぜん環境が変わって戸惑っただろう?」
「はい。けれど、ラケシス様がよくして下さいましたので、もう慣れてまいりました」
「そうか。では、私からもラケシス様にお礼を言っておくとしよう。大事な婚約者が世話になったのだからね」
アルヴェルトが言うと、ミランダは染まっていた頬を更に染め、俯いた。
彼らは来年春に結婚する。ただし、正確を期すならば『する予定』としておくのがよいかもしれない。というのも、ミランダが本家入りしたことで、別の縁組がないとも限らないからだ。本家筋は本家筋と婚姻関係を結ぶことも多い。
だが、それも本人が望めばの話ではある。ミランダがアルヴェルトに惚れ込んでいるのは周知の事実であるため、この縁組が崩れることはまずないと言っていいだろう。
「ところでミラ。なぜメイドの服を着ているのだね?」
そこで、アルヴェルトは先ほどから気になっていたことを尋ねた。彼の婚約者は、そこここを行き交う使用人たちと同じ格好をしていた。
「仲の良いメイドに1着借りたんです。本家って暇なんですよ。ウィダミア棟のように居室で書類整理にあけくれることもなければ、アトルナ棟のように倒れるまで剣術の修練に明け暮れることもないんです。あまりに暇で暇で、それで、料理をしようと思い立ちまして。ドレスを汚さないように――」
ひらり。
そこで、ミランダは1回転してメイド服姿をアルヴェルトに見せびらかした。
「こうしてメイド服を着ているんです」
「ふぅん。本家が特殊なのは知っていたけど、そこまで暇だというのは驚きだね」
「ええ、ぼくも驚きました。その分、本家ゆえの大変さも勿論あるようではありますけど」
含みのある結びで、ミランダは話を終えた。その顔には苦笑が浮かんでいる。
アルヴェルトはミランダが望むとおり、その話題を終えることにした。本家入りした人間は、本家の仕事がらみの話をブックマン家の人間相手でもしてはいけないという決まりがある。ならば、このまま話を続けたらミランダの立場が悪くなりかねないだろう。
「そうか。まあ、何事も人それぞれさ。隣の芝生は青いとはよく言ったものだ。ところで、ミラ」
「はい。何ですか? アルヴェルト様」
問いかけられると、ミランダは元気よく応えた。
アルヴェルトは、そんなミランダに微笑み――
「もし知っていたらでいいのだが、教えてほしいことがあるのだ」
「教えてほしいこと、ですか? 内容によりますけど、出来る限りお応えさせていただきますわ」
慎重に応えるミランダを瞳に映し、アルヴェルトは苦笑する。
さすがに何もかも教えてもらうことはできないらしい。
「ではよい回答が得られることを祈ろう。私が知りたいのは、敷地内の森にある地下室のことだ。そういうものがあることは知っているか?」
「あ、はい。ぼくも地下室のことは父や母から聞いていましたから。それに、本家に来てからも2、3そこに関することを教わっています。ただ――」
「……応えられない内容になってしまうのかい?」
「そうですね。場合によっては。何をお知りになりたいのですか?」
尋ねられると、アルヴェルトは少し考え込んだ。
「そうだな…… とりあえずはこれを聞こう。あそこの牢には、何かいるのかい?」
こくり。
ミランダは頷いた。
「はい。それは間違いなく。ただし、彼が何者であるか、それはお応えできません」
アルヴェルトは笑いそうになる顔を引き締めた。ミランダが漏らした『彼』という言葉で、ミランダがまだまだ本家筋としてあまいことを認識したためだった。地下牢にいるのは、少なくとも人間で男、加えてその男には、本家にとって重要な何かがあるらしい。
得られた情報に満足し、アルヴェルトは小さく頷いた。
その一方で、疑問を覚えずにはいられない。少なくともアルヴェルト自身が訪れた際、かの地下牢には何者もいなかった。では、『彼』とは一体何者なのだろうか?
そのように頭を悩ませながら、アルヴェルトは続けて問いかける。
「ふむ。なるほど。では、もう1つ。あそこには本を持って行ってはいけないと聞いた。何故だい?」
尋ねられると、ミランダは体を強張らせた。まさに、聞かれると困る質問だったのだろう。
「……申しわけございません、アルヴェルト様。それは、お応えできません」
そう口にし、ミランダは完全に口を閉ざしてしまった。
こちらの情報に関しては、本当にきつく口止めされているのだろう。
アルヴェルトは微笑んだ。
「気にしないでくれ。本家に隠し事が多いのは承知の上だ。特に出納長などやっていると、本家の金遣いには舌を巻くよ。ミラも私と共に仕事をしていた時は、本家の不可思議な出費には悩まされただろう?」
「ふふ。そうでしたね。何度怒鳴り込もうかと思ったものです」
かつて感じた不満を吐露し、2人は笑いあった。
それによりミランダは緊張をほぐし、それからなぜか、あたりをキョロキョロと見回した。そして、誰もいないことを知ると――
そっ。
アルヴェルトに寄り添い、その胸に顔をうずめた。
「ミラ。やはり寂しいか?」
「ええ。アルヴェルト様は勿論、父母とも離れてしまいましたもの。ウィダミア棟は直ぐ近くとはいえ、ちょくちょく行き来していたら本家の方々によい顔はされませんし……」
大きな瞳を縁取る長いまつげを震わせ、ミランダは俯いた。
ぎゅっ。
アルヴェルトはミランダをきつく抱きしめる。
彼らは数秒、そのようにして時を過ごし、そして、別れた。
かつん。
「本家と関わるなとは申しません。けれど、昼間から逢引とは大胆ですね、出納長」
アデウス棟の玄関口へ向かっていたアルヴェルトは、静かに正面に現れた女性を瞳に映し、顔を顰めた。
彼の目の前に現れたのは、ラケシス=ブックマンだった。明るい金の髪を長く伸ばし、腰の辺りでゆるく結わえている。透き通るような翠色の瞳は、全てを見据える真摯さを携えていた。
「逢引だなんて表現が古いですよ、ラケシス様」
「貴方とは5歳も年が離れていることですし、ジェネレーションギャップというやつでしょうか」
冗談のような発言をしながらも、ラケシスの瞳は笑っていなかった。ただ、睨みつけるようにアルヴェルトを見ている。
「本家がいくつかの秘密を持つことには意味があります。それをゆめゆめ忘れることなくお願いしたいものです」
「地下にいる者も、その秘密の1つですか?」
「いえ。直接には違います。けれど、貴方がたが暮らしていく上で必要ない物事であるのも確かなこと」
淡々とそう口にしたラケシスは、書類の束を懐から取り出す。
「それよりも出納長。貴方はこちらを気にして下さい。追加分の出費――先日本家の出張で出た費用です」
うえ、と思わず呻いてしまいそうになるのを、アルヴェルトは何とかこらえた。
そして、書類を恭しく受け取る。
ぱらぱら。
目の飛び出るような数字が並び、その横には『諸事情にて』という、理由なのだか何なのだか分からない1文が添えてあった。
「……ふぅ。相変わらずですね。本家の秘密主義が絶対に悪いとは言いませんが、経費まわりでの秘密はなるべく少なくしていただきたいものです。本家の経費が本家自身の収入でまかなえるうちはよいですが、そう出来ない時には他の者たちの収入を借用し、補完しなければなりません。本家をよく思っていない者が多いことは知っているでしょう? 借用の説得に用いる情報を秘匿されては、そういった者たちがへそをまげてしまってやりくりが追いつかない。どうにか改善できないものでしょうか?」
「出納長。先ほども申しましたが、本家の秘密にはしかるべき理由があります。貴方の本家を臆さぬ姿勢は好ましく思っていますが、本家の人間としてわたくしは首を縦に振るわけには参りません」
アルヴェルトの言葉に、ラケシスは小さく首を振るって嘆息した。
このような議論は幾度かなされているが、いつも平行線を辿ることとなる。今回も例外ではないようだ。
ふぅ。
アルヴェルトもまた嘆息した。
「まあいいでしょう。本家のご苦労もお察しいたしますよ。では、これで失礼します」
そう口にし、慇懃に礼をしてから再び廊下を歩み始めるアルヴェルト。
しかし、彼はふと思い出し、立ち止まる。
「ああそうそう。ミランダが貴女に世話になったようで、ありがとうございました」
「いいえ。気になさらずに。大したことではありません。それでは」
すたすたすた。
ラケシスは特に感情を動かすでもなく簡単に応え、さっさと去った。
その背中を見送り、アルヴェルトは再度ため息をついた。