ラディアムは学校が終わると、独りで急いで帰路についた。
普段であれば、アルマリータやラドクリフと待ち合わせて一緒に帰宅するのであるが、本日は敢えて独りで帰った。
そして、ウィダミア棟へは帰らず、先日アルマリータたちと向かった地下へと足を向けた。
「……怖くない怖くない怖くない……」
小声でひたすらに呟いている様からもわかるとおり、極限まで恐怖に支配されていた。
しかし、逃げ帰ろうとは考えない。
歴史学の授業中に生じた現象。その答えを、ラディアムは知りたかった。
地下にいる人物、マグダリア=ブックマンは、それを知っているに違いない。
かつん…… かつん……
暗闇に音が吸い込まれていく。独りの足音が、心細げに軌跡を残した。
ラディアムは自分の生み出す物音にびくびくしながら、階下へ向かう。
「……怖くない怖くない怖くない……」
呪文のように唱えながら、彼は1段1段ゆっくりと降りていく。
そして――
かつん…………
とうとう階段を降り切った。
…………………………………………………
そこで、長い沈黙が訪れる。
マグダリアの元へ向かおうと思いながらも、ラディアムは恐怖で足がすくんでいた。なかなか1歩を踏み出せない。
「来たか。子供」
びくっ。
聞き覚えのある声を耳にし、肩を跳ね上げるラディアム。やはり恐怖で、言葉を返せない。
沈黙が地下を満たし、数刻経った。
「おい!」
苛立った様子で、マグダリアが叫んだ。
ラディアムは思わず逃げようとし、階段の1段目に躓いた。
どたっ。
「っいたたた……」
「何だ。やっぱいるんじゃねぇか。俺の勘違いかと思ったぜ」
ふんっと鼻を鳴らす音が聞こえた。
ラディアムは顔が熱くなるのを感じた。呆れられていると感じたためだ。恥ずかしかった。
その恥ずかしさが、彼を奮起させた。強がり、勢いよく立ち上がる。
「ま、マグダリアさん! お聞きしたいことがある……んですけど……」
「詠み人とは何か、か?」
再び萎縮したラディアムには構わず、マグダリアが端的に言った。
ラディアムははっと顔を上げ、牢があるはずの方向に視線を向ける。
「……そうです。ぼ、僕は今日、奇妙な体験をしました。あなたが言ったとおり、本に集中してみたら」
「何が起きた?」
「歴史の教科書に書かれているとおりの場面に、僕は居ました」
あれはまるで本に入り込んだようだった、とラディアムは回想する。
「インサイドか。はは。ちょうどいい」
「……インサイド?」
困惑してラディアムが問い返した。
マグダリアはにやりと笑い、応える。
「本の中に入り込む力がある詠み人のことだ。そいつの力の強さによって本への影響度が変わってくる。本当に力の強い奴は、本に書かれた事実を――歴史を変えることさえ出来る」
「歴史を……変える……」
授業中に見た光景を、ラディアムは思い出した。数百年前にあった事実。歴史に残された悲劇。
彼は自分が『力の強い詠み人』だとは思っていない。しかし仮にそうであれば、教室で彼が目にした悲劇を無かったことにできるのだ。それはとても素晴らしいことだと、そう思えた。
「それが、詠み人……」
「正確を期すならば、インサイドだけでは説明として不足しているがな。詠み人には他にもいくつかの種類がある。ただまあ、それらを全て説明することもあるまい。ふむ、そうさな。総じて言うなれば詠み人とは――本を通じて世界に影響を与える、神に愛された読書家、か」
マグダリアの説明に、ラディアムは興奮した。自分が、神に愛された読書家――詠み人の一員かもしれない。魔法も剣技も得意ではなく、学問に関しても抜きん出ているとは言い難い。そんな自分に、ようやく誇れるものができるかもしれないのだ。
にやり。
ラディアムの興奮した気配を感じとったマグダリアは、口の端をゆがめて笑った。決して品がいいとは言えない、野蛮な笑みであった。
しかし、暗闇ゆえにラディアムは気付かない。
「若い詠み人。名前は?」
「ら、ラディアム=ブックマンです」
「ラディアム、か。なあ、ラディアム。人は、歴史は救われるべきだ。そうは――思わないか?」
尋ねたマグダリアの瞳は、狂気の光に満ちていた。
しかしラディアムは、暗闇ゆえにその狂光を希望と取り違えてしまった。