第2章 Book Collector
森に潜む智慧

 チュンチュン。
 眩い朝日の中、トゥーダ村の住人はひと仕事終えて家路に着いた。クレバー氏のような変わり種が居はするが、トゥーダ村は基本的には農村である。住人の多くは日の出前から農作業に勤しんでいる。
 彼らが朝食の準備にさしかかる頃合いに、ラディアムは目を覚ました。窓から差し込む日差しがまぶたを刺激し、彼は顔を顰める。
「んん。……そっか。家じゃないんだっけ。ふわぁ」
 隣のベッドで気持ちよさそうに寝息を立てているミランダを瞳に映して納得し、ラディアムは小さくあくびをした。それから、起き上がって伸びをする。そして、頭をぺたぺたと触り、寝癖がないかチェックした。すると、左側頭部の髪がはねていたため、手櫛で整える。
 本日、ラディアムはリリカと新緑の書庫へ向かい、ミランダは情報収集をかねて村を見回る予定だ。
「ミラさん。朝だよ」
 軽く揺すって声をかけると、ミランダがゆっくりと瞳を開いた。
「むぅ…… あさ…… もうちょっと……」
 彼女は開く時と同様にゆっくりと瞳を閉じ、枕に顔をうずめる。
「だ、駄目だよ、ミラさん。起きなきゃ」
 ラディアムの弱々しい主張を意に介さず、ミランダは再び寝息を立て始める。
 すやすや。
 気持ちよさそうな寝顔を浮かべる将来の義姉。
 ラディアムは小さくため息をつき、独りで朝食の席へ向かうことを決めた。

 階段を下りると、食堂兼酒場の1席にリリカが座っていた。彼女の父の姿はない。
「あ、ランドル。おはっよー!」
 ブンブンと元気に手を振りつつ、リリカが叫んだ。
 ミランダとは両極端だ、と苦笑し、ラディアムは彼女の前の席へ向かう。
「お、おはよう。リリカのお父さんは?」
「たまの休みなんだからゆっくり寝かせてくれ、だって。起きるまで待つのも面倒だから先に下りて来ちゃった。お姉さんは?」
「似たような感じかな」
 椅子を引いて座りつつ、ラディアムが言った。実際はウィダミア棟の朝が普段から遅いためなのだが、『アンダーソン家』の生活習慣がだらしないと思われても困るので、適当に話を合わせることにした。
 リリカは疑う風もなく納得する。
「ふぅん。どこの大人もそういうものなのね。せっかく新緑の書庫は早朝から開いてるっていうのに」
 クレバー氏の新緑の書庫は、日が昇ると共に開いているという。クレバー氏が起床したら開くスタイルらしい。
 昨日決めた予定では、朝食を食べたら直ぐに書庫へ向かうことにしていた。
「私は待たずに食べちゃおうと思ってるんだけど、ランドルはどうする?」
 リリカとしては早く書庫へ行きたいのだろう。先のように尋ねてはいるが、彼女の目は、待たないで食べる、という選択を期待している。
 ラディアムとしても、ブックマン本家の仕事は別として、新緑の書庫を見て回ること自体は楽しみにしている。首を横に振る道理はない。
「僕も食べるよ。ミラ姉さんには悪いけど、早く書庫へ行きたいし」
 彼の応えを耳にし、リリカはにっこりと嬉しそうに笑った。

 彼らは朝食を取り終わると、一旦各部屋へ戻った。必要な荷物――ノートや筆記用具、それらを入れる鞄などを準備するため、そして、父と姉に出かける旨を伝えるためだ。
 ラディアムが部屋へ戻ると、ミランダはベッドに腰掛けつつも起き上がっていた。しかし、未だぼーっとしており、夢現といった状態である。
「おはよう、ミラさん」
「……おはよう。……あれ? なんでラディくんがボクの部屋に……?」
 間違いなく寝ぼけている。ラディアムは苦笑した。
「ここはトゥーダ村だよ、ミラさん。本家の仕事で来たの、覚えてない?」
「……本家……仕事……トゥーダ村……………あ! そうだった!」
 慌てふためき、ミランダはピョコンと立っている後ろ髪を手櫛で梳く。しかし、中々に頑固な寝癖のようで、何度も何度も梳くが、何度も何度も逆立った。
「ご、ごめんね、ラディくん! ちょっと直ぐには下りられそうにないから、朝食は先に食べてて!」
 ぱたぱた!
 洗面所へと走り込んでいき、瓶から水をすくうミランダ。はねている髪を濡らし、柘植で出来た櫛で懸命に梳いた。
 その様子を、再度苦笑を浮かべて見つめ、一転、ラディアムもまた申し訳なさそうに口を開く。
「その、ミラさん。僕の方こそごめんなさい。もう、リリカと一緒にご飯食べちゃったんだ」
「あ。そうだったんだ。別にいいよ、そんなの。なら早く新緑の書庫へ行きたいでしょう? ボクのことは気にせず、リリカちゃんと行ってきなさい?」
 漸くまとまりを見せてきた髪であったが、最後のあがきとばかりに数本がピョコピョコと重力に逆らう。
 その様を眺めつつ、ラディアムは小さく微笑んでコクリと頷いた。
「うん。ありがとう。行ってきます」

 部屋を出たところで合流し、ラディアムとリリカは外へ繰り出した。透き通るような青空。流れる白雲。青々とした木々から聞こえてくる小鳥のさえずりは、彼らの耳朶を心地良く刺激する。
「んー、いい天気! 読書日和だねー」
 晴耕雨読とはよく聞くけれども、リリカは晴読雨読という性質らしい。ラディアムも人のことは言えないところはあるが、彼は晴れの場合、アルマリータやラドクリフに誘われて外へ繰り出すことが多い。そのため、なかなか晴読とはいかない。
「あ、そうだ。リリカ。その、僕、新緑の書庫がどこに在るか知らないんだけど、知ってる?」
 ラディアムが尋ねた。
 すると、リリカは自信満々に頷く。
「うん! マグナカルタの観光協会に地図があったから、来る前に穴が開くほど見てきたもん。あっちだよ」
 そう言ってリリカが指さした先は村はずれの森だった。生い茂る木々の背は高く、書庫の屋根が顔を見せる余地もない。
「あの森を分け入った先の木々を伐採して、そこに5階建ての大きなお屋敷を建てたんだって。お台所とかお手洗いとか、最低限の設備以外はぜーんぶ書庫だって観光協会のお姉さんが言ってた」
「え? じゃあクレバーさんの部屋は?」
 問いを受け、リリカは苦笑した。
「ないって。書庫のどこかで適当に寝るらしいよ」
 ラディアムもまた苦笑する。
 そうして話ながら歩いているうちに、2人は森の手前へと至った。奥へと続く小道が目にとまる。その道の奥をのぞいてみると、遠くに無骨な見た目の建造物が見えた。その建造物こそ目的の場所だろうと、歩みを進めていく。しばらくすると、彼らは漸う目的の地へと辿り着いた。しかし、快哉を叫ぶ前に沈黙する。建造物に窓はほとんど存在せず、全て雨戸がおりていた。更には、周りが黒光りする鉄柵で囲まれており、他者を寄せ付けない雰囲気が漂っている。
「……しょ、書庫というより、監獄みたいだね」
「確かに、本当に訪ねていいのかな、っていう雰囲気だね……」
 2人は少々おののき、その場に立ち止まった。
 ぎぃ……
 その時、見計らったように、ラディアムたちの目の前で新緑の書庫の正面扉が開く。さび付いた扉が発する不気味な音は、恐怖を覚えていた少年少女を立ち竦ませるに充分であった。
 そして、ゆっくりと開けられた扉から姿を現すのは――
「おっと。お客様ですか? おはようございます」
 品良く微笑む男性だった。
 ラディアムとリリカは共に、早鐘のように心臓を鳴らして絶句している。
 それに対し、男性は不思議そうに小首をかしげ、それから納得したように笑んで、軽く頭を下げた。
「申し訳ございません。いきなりで驚かせてしまったようですね。私はサムソン=クレバー。祖父に代わり、新緑の書庫の案内係を勤めております」
 慇懃に頭を下げる男性――クレバー氏の孫だというサムソンを瞳に入れ、リリカは眉を潜めた。マグナカルタの観光協会では、書庫にはクレバー氏本人しか居ないと聞いていた。
 そのようなリリカの疑問を感じ取ったのだろう。サムソンはにこりと微笑み、彼女に言葉をかける。
「祖父は3日前に腰を痛めましたもので、治るまで私が代役を任されたのです。未だ慣れないもので、色々と不手際があるかと思いますが、何卒ご容赦を。お嬢さん」
 執事のように最敬礼をする男を瞳に映して、リリカは戸惑ったように自身の前髪を触る。年上の男性にこうもへりくだられたのは初めてだった。
 一方、ラディアムはすっかり萎縮していた。彼は初対面の人間が苦手な上、年上の人間は更に苦手だった。サムソンの相手をまともに出来るわけがない。
 つい昨日会ったというのに、ラディアムのそのような性質を察したリリカは、前面に立ってサムソンの相手をすることに決める。
「そうなんですか。では、案内をお願いします、サムソンさん。私はリリカ=カルデシア。こちらは友だちのランドル=アンダーソンです」
「……そ、その、よ、よろしく……お願い、します……」
 何とか挨拶だけは口にするランドルことラディアム。
 サムソンはそのようなラディアムを瞳に入れ、小さく笑む。相手に好印象を抱かせる柔和な笑みであった。
 しかし、ラディアムは何故か寒気を感じ、人見知りの緊張も相まって、軽く眩暈を覚える。それゆえか彼は――
「ようこそ。新緑の書庫へ。さあ、どうぞお入り下さい」
 書庫の扉を示すサムソンの腕を、暗い闇への誘いのように感じた。