夜を照らす月の光は頼りなく、深い闇がトゥーダ村を覆っていた。草木すら眠りにつく時刻に、ミランダ=ブックマンは足音を殺して先を急いでいる。その後ろを遅れてラディアム=ブックマンが続く。
彼らはトゥーダ村の外れ、新緑の書庫を目指している。その目的は、書庫に在るという魔書を探し出すことである。共に黒い衣服に身を包み、ミランダが背負う包みも闇色をしている。中に納められているものは――
数刻前、ラディアムたちは宿の1室で眠い目を擦ってベッドから起き上がり、泥棒の真似事をする準備をしていた。
その際、ミランダは武具辞典、日用品カタログに加え、自前のノートを闇色の布で包んだ。
ラディアムは改めて疑問を覚える。
「ミラさん。それ、どうするの?」
「え? あ、そっかぁ。ラディくんはボクの詠み人スキルを見るの、初めてになるんだもんね。驚かないように、予め見せておこっか」
そう言ったミランダは武具辞典を取り出す。
ラディアムはごくりと喉を鳴らす。詠み人スキルが彼の行使するインサイドスキルのみでないことは聞いていた。しかし、具体的にどのようなスキルがあるのかは聞かされていない。
瞳を閉じるミランダ。それに伴い、武具辞典のページがめくれる。
ぱらぱらぱらぱら。
3分の1ほどのページがめくれた頃――
すぅっとミランダの右手が動いた。そして、武具辞典の中へと吸い込まれていく。
「え?!」
ラディアムは突然のことに思わず声を上げる。しかし、直ぐに両の手で口を塞いだ。夜中の静けさの中では、ちょっとした音でも響く。
口を塞いだままでラディアムが武具辞典を凝視していると、ようようミランダの腕が引き出されていく。別段、異常はないように見える。
ほっと息をつきつつ、更に見つめていると、引き抜かれたミランダの腕に何かが握られていた。それは一振りの剣であった。無骨な装飾には見覚えがある。歴史の教科書にも載っている名剣だ。かつて、東国の名工が打った剣で、確か名をモースの剣と言った。
ミランダが得意とするこの能力は、エリシットスキルと呼ばれるものだ。本の中に記載されている物体を取り出すことが出来るのである。実物をこの世のどこかから持ってくるわけではなく、模造品を生み出すようなイメージだ。取り出す詠み人の力量によっては、本物と同等の品質を期待できる。
ちなみに、ミランダの力量では、実物の5割程度の品質を保つのがやっとだ。
「っと、これは重すぎるわね。実際に戦闘になったらナイフとか弓矢とかにしなきゃ」
宿の床を傷つけないように、ミランダはモースの剣を慎重に下へ置く。そうしながら、幾分間抜けなコメントを口にした。
一方で、ラディアムは驚きで言葉を失っていた。
その様子を瞳に映し、ミランダはにっこりと微笑む。
「もしもの時にそうやって固まられてたら危なかったね。ここでお披露目してよかった」
暗がりを選んで慎重に歩みを進め、ラディアムたちはようやく村外れの森までやって来た。この森の奥に、昼間も訪れた新緑の書庫が在る。
ラディアムとミランダは顔を見合わせて頷き、ミランダを先頭として森へと足を踏み入れる。特に工夫もなく、整備された道を行く。当初からそのように予定していた。このような夜中に道ならぬ道を進んでも迷うのがオチだ。ならば、見つかる危険は承知の上で正面から侵入することにしたのだ。
ざっざっ。
土を踏む音と、木々の葉を風が擦る音が響く。その1つ1つに、ラディアムはビクビクと身を震わせた。気弱な彼が、ミランダが共にいるとはいえ、真っ暗な森の中で怯えない道理はない。物音が響くたびに忙しくキョロキョロしていた。
その様子に、ミランダは苦笑する。そうしながら、優しくラディアムの髪を撫でた。にっこりと微笑み、道の先を指さす。いい加減闇に慣れ始めた瞳には、大きな屋敷が映る。
いよいよ目的地に着いたらしい。取り敢えずはひと息つける、とラディアムはほんの少しだけ安心する。ただし、それでも辺りが暗闇に包まれている状況に変わりないため、オドオドと視線は泳いでいた。
ようよう屋敷の前へと至り、2人はぴたりと立ち止まる。暗闇の中、新緑の書庫はしんと静まりかえり、招かれざる客を威圧していた。クレバー氏もサムソンも既に眠りについているのだろうか、月明かり以外に光源となるものは1つもない。
ぽん。
ミランダがラディアムの肩を叩く。ラディアムが彼女へ視線を向けると、ミランダは屋敷の西方を指で示した。そこへ向かおうということらしい。
カサッ。カサッ。ポキ。ポキ。
足音をさせないように心がけるものの、森の中ともなれば落ち葉や小枝が地を覆っている。踏めば当然物音が立った。闇夜を満たす静けさの中、その音は存外響く。
ラディアムは自分の一歩一歩の生み出す音に、身を固くした。そうして、永遠にも思える緊張の時が過ぎて、ようやく彼らは屋敷西方の鉄柵の外に立った。
すぅ。
黒い包みを背から下ろし、ミランダは1冊のノートを取り出す。ブックマン家から持ってきたそれには、とある秘密があった。
すぅ。
ラディアムの目には、ミランダの腕がノートの中へ吸い込まれていく光景が再び映る。彼女のエリシットスキルを宿にて目にした時には、高名なモースの剣が姿を見せた。そして此度は――
ばさぁ。
ノートから飛び出したのは小さめの絨毯だった。大人が3、4人乗ってしまえばぎゅうぎゅうと狭苦しくなってしまう程度の大きさだ。
ラディアムはこの布に見覚えがあった。これは、かつて彼のいとこのシエスタ=ブックマンが開発した魔法アイテムである。その名を『空飛ぶ絨毯』といった。風の魔法の複雑な術式が絨毯の裏側に描かれているらしいが、詳細についてはラディアムも理解していない。この絨毯に乗った者は念じるだけで空を飛べる、という優れものだが、術式が複雑すぎて量産が難しく、金持ちの好事家しか所有していない。このアイテムはブックマン家にも1枚置いてあったはずだ。
エリシットスキルには書籍から模造品を取り出す他に、このような使い道もある。すなわち、自身の所有物をノートに収め、自由に出し入れできるのである。ミランダのノートには、ブックマン本家に貯蔵されている魔法アイテムが何点か格納されている。
そのうちの1点が、ミランダが今まさに足を乗せた魔法の絨毯であった。
きちんと許可を取っているのだろうか、とラディアムは苦笑して、絨毯に恐る恐る足を乗せる。
ふわっ。
重力に逆らい、絨毯が浮かび上がる。座り心地は存外良く、ラディアムたちは一瞬で空高く舞い上がった。森の木々よりも高い位置へ至り、ラディアムは恐怖で絨毯に身を伏せた。夜空に広がる星々と月を見上げる余裕もない。
「ううぅ」
「あ、ごめんね。慣れてないから調整が……」
光満ちる夜の空を見上げていた瞳を閉じ、ミランダは高度を下げるよう念じた。絨毯は聞き分けよく命令をきき、屋敷の西方2階の窓辺までゆっくりと下がっていった。
ラディアムがサムソンから聞いた情報が正しければ、幻想奇譚の書物がある区画はその辺りのはずだ。
ドキドキ。
ラディアムは止まらない動悸に耐えるよう、胸を押さえる。ミランダは彼のその様子を目にし、ラディアムの緊張がほぐれるまでしばらく中空に留まることにした。絨毯がぷかぷかと、新緑の書庫の外壁に沿うように漂う。
そうしてようようラディアムの動悸がおさまりはじめた、その時――
がたんっ。
びくうぅう!
突然の物音に、ラディアムの胸が再び早鐘のように打ち始める。
一方で、ミランダは目つきを険しくして警戒を怠らない。物音は建物の内部からしたようであったが、だからといって外側が安全なわけではない。ひゅっ、と絨毯を操り、屋根の上へと移動した。
かたり。
同時に、先程まで絨毯が漂っていた辺りの窓が開く。窓からひょっこり顔を出し、某かが外を見回す。幸い、上を気に掛けることはなかったため、ミランダは何の遠慮もなくその者の行動を観察出来た。
某かはしばらく注意深げに辺りを見回していたが、特に何も見つけられずに中へ顔を戻した。窓は開けたままのようで、その後に発した彼の言葉が聞こえてきた。
「何もいないようだぞ。見間違いではないのか?」
「心外ですわ。確かに影が漂っておりました」
男の声に、女の不機嫌そうな声が応えた。
新緑の書庫に居るのはクレバー氏とサムソンだけのはずである。となれば、彼らは何者なのか。
「……鳥の影でしょう。それよりも、首尾はどうですか?」
びくぅ!
未だおさまっていなかった動悸に追い打ちをかけるように、ラディアムの胸に衝撃が走った。聞こえてきた声は――
「クレイム、いや、ここではサムソンと呼ぶべきか?」
「戯れはあとにしてください、シーズ」
馬鹿丁寧な口調。ラディアムとリリカを迎え入れた時と変わらぬ声音。やはり、サムソンのものであった。
「魔書の気配は未だせず、ですか? レスティア」
「残念ながら、ね。魔書は魔法の書というより、生を持った書。魔力を感じ取って、というのは無理なのかも。この大量の書物の森から地道に探すしかないと思うわ」
ぞわっ!
屋敷の上を漂う詠み人2名は、屋敷内部から漏れ聞こえる会話に戦慄した。サムソン改めクレイム一派がクレバー邸こと新緑の書庫に潜入しているのは、結局のところ高価な書籍を盗み出すのが目的だろう、と考えていた。しかし、彼らの会話を窺う限りでは、彼らの目的は――
「幻想奇譚とはいえインサイド系の魔書です。今度こそ、必ず他の方々よりも早く手にしますよ」
がたがた。
物音がした。窓がゆっくりと閉められていく。そして――
「さあ、シーズ。レスティア。世界を、変えましょう」
クレイムの宣誓を最後に残し、ばたん、と閉じた。