第2章 Book Collector
いざ、書への旅路へ

 ざーざーざーざー。
 降りしきる雨の音がトゥーダ村の朝を彩る。窓の外は薄暗く、ただでさえ夜遅くまで活動していた者には早く起き出すことが苦痛で仕方のない朝であった。
 そのような状況にありながら、ラディアムはむくりと身を起こしてベッドから下りる。しかし彼の場合、起きられたわけではない。眠られなかったのだ。
 新緑の書庫に居座っている、クレバー氏の孫を名乗るクレイム。彼に加え、魔書を狙う他2人組の存在。そして、真実の主であるクレバー氏自身の安否。いくつもの事実が彼の心に渦巻き、眠りという安寧から遠ざけた。
「……ミラさん?」
 隣のベッドに横たわっている女性の名を呼ぶ。
「おはよう、ラディくん。眠れ――てはいなそうね」
 同様に起き出し、ミランダは苦笑した。
「情けないかな、ボクも眠れなかったわ。魔書を狙う敵対者が現れたんだから、しっかり体力を回復しないといけないのに、駄目ね」
 ミランダもラディアム同様、ブックマン本家へ入って間もない。実のところ、任務に就いたことも数回しかなく、今回のような緊急事態に出くわしたことなど1度もない。それゆえ、彼女もまたこれからのことを考えてしまい、心安く眠りを享受することが出来なかった。
 パシッ。
 両手で自分の頬を叩き、ミランダは気合いを入れる。そうしてから、にこりと微笑んだ。
「とにかく、朝ご飯をいただきましょうか? 元気出さなきゃ」
「……………うん」
 一方で、ラディアムは不安を隠す様子もなく、小さな、本当に小さな声で応じた。

 1階へ下りると、リリカが窓際の1席に座って分厚い本を読んでいた。ゴルバランタス国史だろう。
 ラディアムは、リリカと共に新緑の書庫にて数多ある書籍に心躍らせていたのが遠い昔のように感じた。
「あ。おっはよー、ランドル! ミラージュさんもおはようございます!」
 曇天で薄暗い朝にもかかわらず、リリカは満面の笑みを浮かべて挨拶を口にした。どのような天候であっても、彼女の元気印は揺るがないらしい。
「おはよう、リリカちゃん。今日も元気ね。その様子じゃ、よく眠れたらしいね。昨日は夜遅くまで読書していたのかと思ってたわ」
「昼間学校に行かなくていいのなら、夜は寝た方が読書効率はいいんです。学校があれば夜更かしデフォですけど」
 歯切れ良く、全く悪びれる様子もなく言い放つリリカ。
 ミランダは苦笑した。
「ランドルとミラージュさんは眠たそう、というより何だか元気ないですね。何かあった?」
 ラディアムとミランダを交互に見て、最終的にラディアムへ疑問をぶつける。しかし直ぐに原因に思い至ったようで、リリカはにやりと笑った。
「わかった。昨日借りた本、遅くまで読んでたんでしょー。ミラージュさんはうちのお父さんと同じ理由かな」
 至って平和な答えが導き出された。
 勿論、ラディアムたちの元気がない一因が寝不足だというのは正しい。しかし、実際のところ1番の理由は、新緑の書庫に居座る謎の者たちが心に重くのしかかってくるからであった。
「ふふ。実はそうなのよ。ボクは普段、休みの日はゆっくり眠ってるから」
 とはいえ、リリカにそのようなことを話してしまうわけにもいかず、ミランダは特に否定せずに話を合わせることにした。ラディアムにもそうあることを望んだのだが――
「………………………………」
 必要以上に沈黙し、いまだ挨拶さえ口にしない。疑惑を抱いて下さいと言わんばかりの態度であった。
 当然の如く、リリカは眉を潜める。
「……ホントに何かあった? 顔色悪いよ?」
 心配そうにまなじりを下げ、リリカはラディアムの顔をのぞき込む。
 ラディアムは何か言葉を発しようとするのだが、思わず不安を吐露してしまいそうになり口を噤む。無難な話題を口にしようと頭を働かせるが、思い浮かぶのは昨夜見知った事実に関わることばかりであった。
「あ、う、その……」
「ランドルは寝不足だと失語症気味になるのよ。しばらくすれば落ち着くと思うから、ボクとお喋りしながらご飯にしましょ?」
 唐突に間に割って入り、ミラージュが言った。
 リリカは訝しげにしながらもその言葉に従い、朝食のAセットを頼んだ。ミラージュはBセット、ラディアムは例によって言葉が出ず、リリカの判断で残りのCセットとなった。

 朝食後、3人は部屋へ戻って出かける準備をした。ラディアム、リリカは元からの予定通り、新緑の書庫へ向かう。そしてミランダもまた、彼らと同様に書庫へ向かうことになった。
「ミラージュさんも来るなんて、突然どうしたんですか?」
 厚手のマントを羽織って宿の前で集合すると、早速リリカが尋ねた。
 元々ミランダは村を見て回る予定だった。ブックマン本家の任務である魔書の入手は、夜中のうちに為すつもりであったがゆえの予定であった。しかし、夜中はクレイム一派が目的の区画で何の遠慮もなく探索しているのだ。ミランダたちの入り込む余地はない。となれば、彼女らが採る道は1つだろう。すなわち、昼間に堂々と探す、である。リリカの目を気にする必要はあろうが、クレイム一派については逆に昼間は大人しくしているはずである。
「大きな声じゃ言えないけど、村を見て回っても何にもなくて手持ちぶさたなの。なら、せっかくだから名高い新緑の書庫をひと目見ておこうかな、ってね」
 ミランダが用意していた回答を口にすると、リリカは可笑しそうに口元を押さえた。
「あはは。お父さんも、ご飯とお酒くらいしか楽しみがない、って退屈してました。それでも、ミラージュさんみたいに新緑の書庫へ行ってみようとは思わないんだから、どれだけ興味がないのやら」
 肩をすくめて嘆息するリリカ。
 ミランダは苦笑する。
 しかし、ラディアムは相も変わらず表情を暗くして、俯いている。
 彼のそのような様子に、リリカはムッと表情を顰めたが、特に言及せずに雨のしたたる大地を踏みしめ、歩みを進める。ミランダとの会話をお供に、新緑の書庫へ向かった。

 昨日と同じように、ラディアムたちは新緑の書庫の前へとやってきた。曇天ゆえの薄暗さから若干不気味に映るが、門扉は特に変わりなく彼らを迎える。
 しかし、クレイム一派の件で気持ちの落ち込んでいるラディアムにとってみれば、その門はさながら魔界へ通ずるかの如くであった。昨日の朝に見たよりも、夜中に見たよりも、何倍も不気味に映る。
「おはようございまーす! サムソンさん、いらっしゃいますかー?」
 ドンドンと門扉を叩き、リリカが叫んだ。
 しばらくして、内側からゆっくりと扉が開かれる。そこから顔を見せるのは、昨日と変わらず優しい笑みを浮かべるサムソン――いや、クレイムである。まず彼は、書庫の内部へ3名を招き入れた。
「おはようございます。リリカさんでしたね。ランドルくんと……そちらは初めていらした方ですね。お初にお目にかかります。サムソン=クレバーと申します。新緑の書庫へようこそいらっしゃいました」
 ミランダを瞳に映して丁寧に頭を下げるクレイム。
 ふてぶてしい不法侵入者だな、と考えていることなどおくびにも出さず、ミランダはにこやかに言葉を紡ぐ。
「初めまして。ランドルの姉で、ミラージュ=アンダーソンと申します。本日はよろしくお願いいたしますね」
「こちらこそよろしくお願いいたします。それでは、早速案内いたしましょう。本日も歴史書区画でよろしいですか、リリカさん?」
 尋ねられると、リリカは小さく首を振った。
「いえ。幻想奇譚の区画へ案内してください。今日こそは――」
「あ、あの!」
 ラディアムが大声を出した。
 突然のことに、リリカとクレイムは驚いた瞳を彼へ向ける。
 先の発言は、リリカが魔書についてクレイムに話そうとするのを防ぎたかったためであったが、特に話題を考えていなかったラディアムは大いに慌てた。懸命に頭を働かせ、そして、ようようひらめいた。
「昨日お借りした本、宿に置いてきてしまったんです。す、すみません」
 視線は泳ぎ、手足は絶えずばたばたと動かしている。明らかに挙動不審な態度で先のように言ったラディアム。
 しかし、彼は常にそのような様子であったため、クレイムは特に気にしなかったようだ。にこりと微笑み、首を振った。
「いいえ。お気になさらず。このような悪天候の中、重い本を持参なさるのは大変でしょう。マグナカルタへお帰りになる前にお返し頂ければ、いつでも構いませんよ」
「そ、そうですか。すみません……」
 緊張した様子で、心の底から恐縮した風に頭を下げるラディアム。彼はそのようにしながらも、話題を変えることに成功してほっとひと息ついた。
 リリカも、今さら先の話題を蒸し返す気はないようだ。宿に置いてきた本を思い出し、そういえば忘れてきたわ、などと呟いている。
「それでは案内いたします。ついていらして下さい」
 クレイムが3名を招き、先へ進む。彼らは書棚で埋め尽くされた本の海へ乗り出した。

 昨日足を止めた歴史書区画を越え、4名は階段にさしかかる。階段もまた、一段ごとに書棚が置かれており、大きな地震でもあれば間違いなく大惨事を招くだろう。
 ギシギシ。
 1段1段がきしむ音をお供に2階を目指し、ようよう階上へと至る。当然の如く、2階も書棚で埋め尽くされている。廊下の両脇を飾る、本、本、本。
「ここら辺は絵本の区画なんですねー」
 キョロキョロと書棚を見回し、リリカが言った。
 クレイムは小さく微笑み、そうですね、と適当な相づちを打つ。そして、スタスタと廊下の奥へと向かっていく。
 そちらは、昨日の夜中にクレイム一派が居た西側の部屋であり、ラディアムたちが探し出すべき魔書が格納されているはずの区画だ。
「こちらが幻想奇譚の書籍が集められた区画となります。他にもお客様がおられますので、出来るだけお静かに願います」
 ドキ。
 クレイムの言葉を耳にし、ラディアムとミランダの胸が鳴った。そして、他の客だという2名を目にして、更に早鐘の如く鳴り響き始める。
 ドクンドクン。
 先客は男女の2人組。目つきの鋭い20代後半の男性と、対象的に柔和な顔つきをした10代後半の女性である。
 声だけしか聞こえなかった昨日の邂逅を思えば、確実とは言えない。しかし、彼らから受ける印象は、夜中にクレイムと窓辺で会話していた2名とダブる。
 リリカが小さく頭を下げると、男性はぷいとそっぽを向き、女性はにこやかに微笑んで軽く会釈した。対象的な2者である。
「それでは、私はこれで」
 クレイムは彼らに一瞥もくれることなく去って行った。
 普段礼儀正しい彼が、客の2名に会釈もしないというのは不自然に感じる。そのように礼を失したのは、彼らが知り合いであることをクレイムが無意識に隠したかったからではないだろうか。
 ミランダはそのように邪推し、思わず目つきを鋭くした。そして、ラディアムにこっそり耳打ちし、この後の方針について話し合う。
「ラディくん。魔書の探索は彼らの死角でね。戦闘にでもなったら、ボク自信ないし、ラディくんだって戦うのは苦手でしょ?」
 女性の方はともかくとして、男性の方は腰に剣を下げており、太い腕と巨躯は腕っ節の強さを感じさせる。
 コクコクコクコク!
 慌てて何度も頷くラディアム。彼は剣の腕も魔法の実力も、同級生の平均からは大きく劣る。早い話が劣等生なのだ。戦闘行為ともなれば、出来ることは逃げの一手だ。
 ミランダは苦笑し、頷き続けるラディアムの頭を軽く撫でる。
「あっちの部屋の角から調べましょ。あそこなら2人から見えないし、何となく変わった気配を感じるし」
 この部屋は広く、ラディアムが大股で歩いて50歩はかかる距離が1辺となる正方形となっている。入り口はその東側中央にあり、ミランダが指さす先は南東の角、丁度壁の向こうが、階段の終わりの位置となっている。
 男性は入り口から真っ直ぐの窓辺に、女性は同じく入り口から真っ直ぐの部屋の中央辺りに居た。それぞれ本を1冊手に取り、ぱらぱらとページをめくっている。
 ラディアムは2名をちらりと見てから南東角へ意識を向ける。言われてみると、そちらから気配を感じる。この間、カテリーナ=ルーンの日記にインサイドした際に感じた雰囲気に似ているようだ。そちらへ魔書がある証左と言えるだろう。
 本来ならば、目的の魔書を手に入れられるよう、改めて気合いを入れ直す場面やもしれない。しかし、ラディアムにそのような気丈な態度を求めるのは無理な注文というやつだった。
 魔書の入手という任務に対する重圧と、敵と思われる者たちが直ぐ近くに居るという過度の緊張。気弱なラディアム少年が唇を青くしてブルブルと震え出すのも道理と言えた。
「ねえねえ、ランドル。ランドルはどういうのが好き? 私、ざっとこの部屋見て回ってきたけど、竜退治ものとか異端技術ものとか、本棚ごとに系統が違うみたい。私はねえ、歴史を交えた幻想譚が好きなんだ。ランドルもじゃない? あっちの北側の奥から2列目の本棚にまとまってるみたいだから一緒に――」
 いつの間にやらこの区画を見回ってきたらしいリリカが帰ってきた。とても楽しそうにまくし立てる。
 しかし、色々とストレスのかかっているラディアムは返答できる状態ではない。言葉を失い、視線を泳がせている。
 あまり不審な態度をとって目立ってはまずいと考えたのか、ミランダが彼らの間に割って入った。
「ごめんごめん。ランドルったら寝不足で具合が悪いみたいで。しばらくゆっくりさせようかと思うから、リリカちゃんはリリカちゃんで見たいところ見てきたら?」
「え? あ、そうですか…… わかりました。それじゃ」
 タタタ。
 リリカは少々寂しそうな顔をしてから、一転笑顔を作り、北側の本棚へ走っていった。
 ラディアムもミランダも、申し訳ない気持ちを抱きながら、気配を感じた南方の本棚へ向かう。

 タイトルを見て興味を引かれた書を積み上げ、リリカは床にぺたんと座っていた。1冊目を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。続けて、2冊目を手に取り、同じくぱらぱらとページをめくる。内容はあまり頭に入っていかないようだ。
(……ランドルったら何なの! 朝から全然話してくれないし、そのくせ、ミラージュさんとはコソコソ内緒話して!)
 書の内容が右から左へするりと抜けて行くのは、ランドル改めラディアムのせいらしかった。昨日はそれぞれ黙り込みながら読書しつつも、時には楽しくお喋りをして過ごしていたというのに、今日になったら急に態度が極端に悪くなったのだ。リリカが気分を害さない方がおかしかった。
 憤懣やるかたなし、という風にむっつりとして、リリカは無意味にページをめくっている。
 はあぁあ。
 そうしてしばらく経ち、彼女はふいに大きくため息をついた。
(歴史とか、冒険小説とか、そういうのが好きで気の合う友だちって初めてだったから、嬉しかったのになぁ)
 彼女の級友たちは大抵、それほど読書に熱心ではない。読書を趣味としている者がいたとしても、恋愛小説を好んで読む者がばかりであった。しかし、リリカはそういった類の物語には興味が一切ない。当然ながら、学校で書籍に関する共通の話題で盛り上がることは全くない。
 そのためか、昨日ラディアムと過ごした時間は今までになく楽しいひとときだった。今日も同じくらい楽しい時間が過ごせると思っていた中の、ラディアムのあの態度。
 ぐす。
 リリカは怒りを通り越して哀しくなってきた。思わず涙ぐむ。
 しかし――
 ぐいっ。
 勢いよく右袖で目元をぬぐい、彼女はきっと顔を上げた。
(せっかく新緑の書庫に来てるのに落ち込んでぼーっとしてるなんて勿体ない!)
 ぐっと両の手を握り、力強く頷く。そうしてから徐に立ち上がった。
(気分転換に階段のとこの絵本見に行こ。さっき見かけたタイトル。あれってたぶん……)
 すたすた。
 入り口へ向かい、その道すがら南側に瞳を向ける。
 ラディアムが本棚の端から順番に本を取り出し、ぱらぱらとページをめくっていた。表情は相変わらず暗い。そんな彼がふいに視線を上げた。リリカと目が合う。
 しかし、リリカは思わず唇を尖らし、ぷいっとそっぽを向いてしまった。そのまま部屋の外へ出る。
(ランドルなんて知らないもんね! さぁて、さっきの絵本はっと)
 先程通った廊下をすたすたと逆に辿り、階段の側までやって来る。そして、本棚を端から順番になぞっていく。
 ぷかぷか竜の冒険。白いお化けとぼく。花の都のヴァンパイア。月と太陽のおはなし。星のふる夜に。おおかみさんの遠吠え。
 数あるタイトルのなか、リリカは目的のものを見つける。
(あった! 花咲く竜の国! 竜が作ったという伝説がある国はたくさんあるけど、中でも花と関わりが深いのは――)
 ぱらぱら。
 ページをめくると、リリカの瞳に『ゴルバランタス国』という文字の連なりが飛び込んでくる。
(やっぱり! 昨日ゴルバランタス国史に書いてるのを見たばっかりだったから直ぐ分かったよ。この偶然とは思えない出会いが嬉しいなぁ!)
 独りでニコニコと嬉しそうにしているリリカ。しかし、直ぐに表情を曇らせた。喜びをラディアムと分かち合えないのが哀しいのだろう。
 ふるふる!
 彼女は瞳をきつく瞑り、激しく首を振った。そうしてから、ぱんっと強く頬を叩く。
(落ち込むの止め! さあ、読むぞっ!)
 気合いを入れ直し、リリカは絵本の表紙をまず見つめた。デフォルメされた竜と、桃色の可愛らしい花が描かれていた。
 流石に子供っぽいなぁ、と苦笑して床に座り、彼女はその表紙をゆっくりとめくる。直ぐに絵本の内容に集中し、すっかり意識が入り込んだ。
 すると――
 ばさり。
 本がリリカの手を離れ、床に落ちた。
 そして、彼女はすぅと瞳を閉じ、ゆっくりと壁にもたれかかる。
 静寂が空間を支配した。