マグナカルタ女学院は、生徒の大多数を良家の令嬢が占めている。入学者の9割が推薦枠となっており、各国の王侯貴族がそこへ含まれる。残りの1割が入試枠となっているが、こちらも勤勉な中流貴族の令嬢が名を連ねるのが通例だ。いずれの者も高い授業料を払うことになるため、一般階級からの入学者は極端に少ない。入試成績が1番であれば授業料を免除される都合上、数年に1名、一般階級の才女が入学することもあるが、現在のところ、片手で数えられる程度である。
そのような女学園へと続く道を、くだんの少数派たるリリカ=カルデシアが、重い足取りで歩んでいた。前日、夜遅くまで本を読んでいた彼女は、寝不足で少々具合が悪かったのだ。
(……家に自分の本があるって思うと嬉しくて、ついつい読んじゃうなぁ。気をつけよ)
リリカは先日、トゥーダ村に住まう老人から『花咲く竜の国』という表題の絵本を譲り受けた。彼女の家は決して裕福とは言えず、これまで書物を所有する経済的余裕などなかった。それゆえ、『花咲く竜の国』は、彼女の蔵書第1号なのだ。
その事実に感動して、彼女はここ数日、暇さえあれば『花咲く竜の国』を読み込んで、ニマニマと表情筋を緩めていた。昨夜もついついそうして過ごしてしまったのだった。
(今日から毎日学校なんだから、ちょっとは自粛しないと……)
ぐっと拳を握りしめ、リリカはそう決意した。
彼女は健康的な生活の手始めとして、前を真っ直ぐ向いて先を見据える。眩き朝陽のなか、健脚を踏み出す。眠気など吹き飛ばし、確固たる意思の元、若者らしく元気に腕を振って歩みを進める。
そうして数歩を踏み出し、曲がり角にさしかかる十数メートル手前で、彼女は目をみはる。
(あれは……!)
見覚えのある男の子が、そこには居た。
「ねえ、ラディ? ラディはラドなんかよりもあたしのことが好きよね? ね?」
「いやいや、ラディはアルマよりも俺のことを好きに決まっている。自明の理というやつさ」
彼を取り合うように争っている者が2名。これが2名とも女の子であれば、意外とモテるんだなぁ、という感想を抱くのみだっただろうが、事実は小説のように奇なり。
(あ、ああいうのって、本の中だけのことかと思ってた……!)
ふわぁあ、と頬を桜色に染め、リリカは視線を友人に向ける。友は、少女と少年の2人から迫られていた。一風変わった修羅場であった。
その友人――ラディアム=ブックマンは、ふと視線を遷移させ、リリカの姿をその瞳に入れると、固まった。
「リ、リリカ……」
「ランドルって、そーゆー趣味だったんだね…… あ、だいじょぶだよ。男の子同士が恋人の本ってたまにあるし、私はそんなことで友達やめたりしないからね、うん」
とんでもない発言に、ランドルことラディアムが慌てた。
「ち、違うよぉ!」
ラディアムがリリカの誤解を解くのに数刻を要したが、それはまた別のお話だ。
「つまり、ランドルは実はラディアムで、あの有名なブックマン家の一員、と…… ふーん。ふうぅぅん!」
頬を膨らませて、通学路をドシドシと少女が歩く。
「リ、リリカ?」
「友達だと思ってたのって私だけだったんだ。偽名だったなんてね。ふうぅぅぅぅぅん!」
ラディアムは先日、南方の村トゥーダに投宿していた。その際、有力貴族ブックマンの名を伏せ、ランドル=アンダーソンと名乗っていた。それ故、リリカはラディアムをランドルと呼ぶのであり、かつ、本名を伏せたままで数日を共に過ごした友に腹を立てているのだった。
「ち、違うよ! 偽名を名乗ったのは、ブックマンの名前を出すと要らない騒動を招くかなっていうだけで……」
ラディアムがオロオロと青い顔で、身振り手振り一所懸命に説明をする。
その隣を歩みつつ、アルマリータとラドクリフが苦笑していた。
「あたしたちがからかっている時も、はたから見るとこんな感じなのかしら」
「そうだな」
「え? え? からかってる……の?」
従姉妹の言葉を受けて、ラディアムはオドオドした瞳を友へと向けた。
憮然とした表情を造っていたリリカは、フッと目つきを柔らかくする。
「まあね。実際、旅行先でブックマンの名前を出したら色々とあぶないのは間違いないし、話には納得できるもん。ちょっとはむかつくけど、別に本気で怒ってなんてないよ。そちらは、ランドルの学校のお友達? あ。私はリリカ=カルデシア。よろしくね」
尋ねられると、アルマリータとラドクリフがニコリと微笑んだ。
「あたしはアルマリータ=ブックマン。ラディの従姉妹で1番の親友よ。よろしく」
「俺はラドクリフ=ブックマンだ。ちなみに、ラディの1番の親友はアルマではなく俺だ。よろしくな」
しばしの沈黙。その後――
キッ!
無益な争いが始まった。
ブックマン家の2名がバチバチと視線をぶつけ合っているなか、リリカが何事もなかったかのようにラディアムに視線を向けた。
「ところでさ、ランドルってゴー学じゃないでしょ? ゴー学にブックマンの子がいるなんて聞いたことないし」
ゴー学とは、ゴードン学園という学校の略称である。トゥーダ村でラディアムは、ゴードン学園に通っていると偽っていた。
「う、うん。本当はハイドロウ学院なんだ。……ご、ごめんね」
「いいってば。偽名と同じ理由でしょ? ハイ学に通ってるのなんて、いいとこのお坊ちゃんしかあり得ないもん。ブックマンの名前を隠したなら、学校だって隠さなきゃいけないよ、そりゃ」
肩をすくめて、リリカが苦笑する。そうしてから、人差し指で唇の上をなぞりながら、少々考え込んだ。
「っていうかさ、ハイ学のブックマンでしょ? もしかして、中等部1年生ながら、ラトワイズ王国祭の学園対抗戦に出てくるとかいう噂のブックマン家3人組って――ランドルたち?」
「え?」
リリカの言葉に、ラディアムは顔中に疑問符を浮かべた。
ラトワイズ王国祭は知っている。10日後に控えている、ラトワイズ王国屈指のお祭りだ。世界中から商人が集い、普段目にしない珍しい物品や食材が市に揃うのである。世界各国の美味な料理もまた、屋台で安価に振舞われるため、近在の町や村からこぞって観光客が訪れる、賑々しい数日間になることだろう。
そして、学園対抗戦はその祭りのイベントのひとつである。ラトワイズ王国の首都マグナカルタに在る学校の代表同士が、剣や魔法を駆使して競い戦う、トーナメント形式の対抗戦だ。
「あのイベントって各校、最高学年の高等部3年生が出てくるのが普通でしょ? でも、ハイドロウ学院は今年、ブックマン家の3人が参加最低学年の中等部1年生になったからって、ブックマン一族で固めてくるって噂になってたんだよね。それとも、他の人? ハイドロウ学院って良家がそろい踏みだし、ランドルたち以外にもブックマン家の人がいるの?」
現状、中等部以上の学年に属しているブックマン家の者は、ラディアムたち3名だけである。そうなると、リリカの話にあるハイドロウ学院の代表というのは、彼らしかいない。
「いや。それは俺たちだろう。確かに校長と高等部の生徒会長に頼まれていた」
「ええ!?」
ラディアムが不満げな声を上げた。ラドクリフが断言した内容を、彼は知らない。
「あたしは『ラディが出るなら出る』って言ってあるわ。ラドもでしょ?」
「ああ、そうだ。だが、ラディは聞いていないのか? ふむ……」
腕を組んで、ラドクリフが考え込んだ。そして、苦笑した。
「ラディに話をすれば、断られるのが火を見るよりも明らかだしな。校長も会長も、ラディに承諾を取らないでエントリーしたようだな」
学園対抗戦のメンバーエントリー締切はひと月前である。その時期にはメンバーが決定していなければおかしい。それでいて、他校のリリカの耳にハイドロウ学院のメンバーの噂が届いているのならば、ラドクリフの言うとおりなのだろう。
曲がったことが嫌いなアルマリータが、地団駄を踏んで憤慨する。
「ラディに話を通さずに勝手にエントリーするなんて信じられない! 出場するのはいいとしても、断固抗議しないと!」
(出場するのもよくないよぉ……)
朝早くから暗い顔で、ラディアム=ブックマンが項垂れる。
話題を振った少女、リリカが苦笑した。そうしながら、曲がり角で立ち止まった。
「っと。私、こっちだから。またね、ランドル! アルマリータちゃんとラドクリフくんも!」
ブンブンと手を振って、少女が去って行く。マグナカルタ女学院に在籍する令嬢たちがしずしずと歩みを進めるなか、同じ制服に身を包んだ彼女の元気いっぱいな様子は異色であった。
明朗に去って行く友人へと小さく手を振りながら、ラディアムは陰気に肩を落としたのだった。
月明かりがブックマン家の敷地を照らすなか、アデウス棟の廊下をメイド服姿の少女が歩んでいた。
「……ふぅ。エリシットスキルの修行をするつもりが、ついついお料理の練習に精を出してしまったわ。意志が弱くてダメね、ぼくは」
少女――ミランダ=ブックマンが肩を落として頭を振る。しかし、直ぐに顔を上げて微笑む。
「けれどまあ、アルヴェルト様に美味しい手料理を振る舞うための修行だと思えば、お料理の練習も大事よね。えへへ」
「……ミラさん」
紅く染まった頬を両手で包んで照れているミランダを、小さな声で呼び止める者がいた。その者は、少女の想い人の弟君であった。
「ら、ラディくん! えと、あの、どどどどうかしたの?」
「……ラトワイズ王国祭の学園対抗戦に、出ることになりました」
その言葉だけを耳にしたならば、名誉なことだと喜ぶべき場面である。しかし、そのまま倒れ伏しそうな、真っ青な顔のラディアムを目にしたならば、名誉などというものはどうでもいいと言わざるを得まい。
「だ、大丈夫?」
「……うっうっ、だ、ダメですぅ」
涙を浮かべる少年には、彼の兄の面影が全くなかった。
(似ていないご兄弟よね…… アルヴェルト様は凄くかっこいいけど、ラディくんは凄くかわいい)
吹けば倒れそうな様子の未来の義弟に、ミランダは優しい笑みを向けた。
「でも、リタちゃんとラドくんも一緒なんでしょう? 大丈夫よ。それに、絶対勝たなきゃいけないわけではないでしょう?」
「そ、そうですけどぉ」
「絶対に勝つようになさい」
突然聞こえた声に、ラディアムとミランダが肩を跳ね上げた。
視線を巡らすと、少し離れた場所にラケシスが佇んでいた。
「ら、ラケシス様! いつからそちらに?」
「そのようなことよりも、学園対抗戦は勝ちなさい、ラディアム」
『え?』
間の抜けた声を上げた2者に、ラケシスは涼やかな瞳を向ける。
「ハイドロウ学院はかつて、初代ラトワイズ国王陛下が創設なされた学舎です。それゆえ、学園対抗戦でも上位で在ることを現国王様はご所望です。年若いながらもブックマンの血が参戦するのは、もちろん勝利を得るがため。負けることは許されません」
どうやら、ラディアムたちにお鉢が回ってきたのは、ハイドロウ学院の校長や生徒会長が図ったが故ではないようだ。王国やブックマン家上層部の思惑が動いていたためらしい。
(アルマやラドはともかく、僕みたいな落ちこぼれには荷が勝ち過ぎだよぉ……)
恐慌状態を来している小さな従姉妹を瞳に映して、ラケシスが嘆息する。
「まあ、貴方に期待はしていません。学園対抗戦は勝ち抜き戦ですから、アルマリータとラドクリフが勝ち続ければよいでしょう。下手に貴方が出張って、詠み人スキルを発現してしまっても問題ですからね」
その言葉を聞くと、ラディアムはほっとひと息ついた。ただ出場するというだけで胃が痛むのではあったが、それでも、彼自身が勝つ必要がないというのは大いに救いとなった。
しかし、そのまま心の平穏を得ることは能わなかった。
「ただし、ひとつだけ貴方が負うべき責があります」
ラディアムが一気に身を硬くする。
「未確定ですが、学園対抗戦の優勝賞品が魔書である可能性があります」
『……え?』
突然の話に、ラディアムもミランダもぽかんと呆けた。
魔書とは、不可思議な力――詠み人スキルのような力が宿っている書物のことである。例えば、先日ラディアムたちが訪れたトゥーダ村には、インサイドスキルに近い力を有する魔書が存在していた。それは過去を変えてしまうことに繋がりかねない危機を生む魔書であった。最終的にその魔書は焼失したが、心ない愚者に利用されていたなら、歴史の一部が改変されてしまっていたかもしれない。魔書はそんな恐ろしい代物なのである。
「ら、ラケシス様…… その魔書の能力は?」
「分かりません。情報があまりにも少ないのです。王家の蔵書らしいのですが、本当に魔書なのかどうかすら妖しい。しかし、少しでも可能性があるのであれば看過できません」
学園対抗戦での勝利には、国王陛下からのブックマン家への信頼に応えるためだけでなく、ブックマン本家としての重要な責務を果たすためでもあるのだった。
「勿論、本家の人間を調査に当たらせますし、可能ならば賞品を事前に奪います。しかし、相手は王国。下手には動けない。なれば、ラディアム。貴方がたが勝ち残り、その賞品を下賜することこそ、1番の近道となりましょう」
その理屈はもっともである。しかし、勝利を得るという意味では、先ほどの話と何ら変わらず、ラディアムが負うべきものは何もない。やはり、アルマリータとラドクリフの剣や魔法に頼るしかないように思えた。
「ぼ、僕が負うべき責というのは……?」
「先ほども申しましたが、対抗戦は従姉妹たちに任せなさい。貴方がすべきは、賞品が魔書か否かの見極めです。出場選手ならば賞品に近づく機会もあるはず。貴方はトゥーダ村で魔書を目にした実績もありますし、魔書が発する気配を察せられることを期待しています。頼みますよ」
言うことだけ言うと、ラケシスはスタスタとその場を去る。忙しい身ゆえ、とどまる暇を持たぬのだろう。
残された2者は、呆然と立ち尽くした。
「……えっと、ラディくん。大丈夫?」
顔色が極めて悪い未来の義弟を瞳に映し、ミランダが尋ねた。
ラディアムは口をぱくぱくと動かすだけで、まともに喋ることもできない。
彼がすべきことは魔書か否かを見極めることのみ。実質、さほどの苦労は伴わず、重責という程のことでもない。しかし、彼の性質上、その任務は十分過ぎる重荷として、薄弱な精神に圧し掛かってしまった。
「…………………………はう」
「きゃああ! ら、ラディくん! しっかりしてえぇえ!」
卒倒した少年を抱きかかえて、ミランダ=ブックマンが叫んだ。
月夜の静けさが引き裂かれた。