第3章 School Wars
ブックマン式特別訓練

 ちゅん。はぁ。ちゅん。はぁ。
 朝陽が大地を照らし始める頃合いのことである。小鳥のさえずりの合間に、荒い息づかいが聞こえていた。
 腹筋10回と腕立て伏せ10回を終え、ラディアムは地に倒れ伏していた。
「ラディ。大丈夫か?」
「……はぁはぁ。んっ。だ、だめ、かも」
 息も絶え絶えになっている友を、ラドクリフは腕立て伏せを継続しながら、息も切らさずに気遣った。腕立て伏せの回数は、ゆうに400回を超していた。
「……ら、ラドは、凄い……ね……」
「まあ、毎朝やっているからな。っと、これで500回。ラス兄、終わったぜ?」
「よし。次は素振り1000回。ラディは50回な」
 ラドクリフの兄である、ラスター=ブックマンの言葉を受けて、少年たちがそれぞれ木剣を構える。片や鋭い音を響かせて振るい、片やへっぴり腰でひょろひょろと振るう。
 彼らから数十歩の距離を隔てて、アルマリータの姉、シエスタ=ブックマンが日向のように微笑んでいた。
「青春ねぇ。素敵ね、アルマリータ」
「あのね。姉様。なら、あたしもその『青春』に加わりたいのだけれど……」
 妹の言葉に、シエスタがにこりと微笑む。
「あらあら、駄目よぉ。お父様にもきつく言われていてね。これ以上アルマリータをお転婆にしないようにって」
「むぅ…… なら、早く魔法の特訓を始めましょうよ。暇」
「そうねぇ」
 ゆったりとした言葉と共に瞳を瞑り、シエスタはゆっくりと考え込む。
「ねぇ、ラスター。そろそろそちらの特訓を切り上げてくださいません? もう時間がございませんわ」
 あと1時間ほどでラディアムたちは学校へ行かねばならず、シエスタとラスターもまた王城へ出向かねばならない。準備などを考えると、残された時間は30分といったところだろう。
「ん。そうか。了解だ、シィ。しっかし、武術訓練と魔術訓練で朝練の時間を折半するとなると、あんま時間ねえな。明日からはメニューをもう少し考えんと……」
 ラスターが呟く。
 ラディアムとアルマリータ、ラドクリフがラトワイズ王国祭の学園対抗戦に出場することが確定したため、彼らの戦力を増強する目的で、特別訓練を当日まで続けることになったのであった。指導者は、王国騎士団で小隊長を勤めているラスター=ブックマンと、魔法学会の若き天才シエスタ=ブックマンである。
「おっと、ラディはそこまで。シィの魔術訓練に移ってくれ」
「は、はい。あ、ありがとう……ござい……ました……」
 フラフラになりながらもきっちりと礼をしたラディアムは、木剣を地面に置いて、そのまま崩れ落ちた。
「はぁ…… はぁ……」
「ほら、ラディ。バテてる暇なんてないわよ。次はあたしと一緒に頑張ろ!」
 軽やかに駆け寄ってきたアルマリータは、ニッコリと微笑んで、ラディアムの手を引いた。
「ちょ、ちょっと休憩させてよ」
「だーめ! ラドとばっかり青春するなんて許さないからね!」
「せ、青春?」
 ラディアムは戸惑った表情を浮かべ、手を引かれるままにシエスタの元へと導かれていった。
 シエスタはその様子を見つめて微笑み、すっと背筋を伸ばす。
「さて。初日ということで、基礎的な知識から始めましょうか」
 そう宣言してシエスタは、コホンと咳払いをした。そして、すうと息を吸い込み、早口にくどくどと魔術の講義を始めた。
「短縮詠唱学というのは、本来であれば、非常に長い詠唱によって形成すべき魔力場を、短縮した詠唱のみで作り上げるようにする学問ですわ。まず大前提として、短縮することなく詠唱して、魔法を1度でも成功させていないといけません。その成功をもって、魔法を形成する魔力分布に対してどの詠唱がクリティカルであるかを判断し、不要な詠唱を削っていきますの。結果、数語のみの詠唱によって、魔法を行使することが可能となりますわ。まず、短縮なしで詠唱をしてみましょう。その時の魔力分布を肌で感じていただいて、どのようにクリティカルな詠唱を選び出すのかも学び、その上で、短縮詠唱学の実地訓練とするのが、理解への早道ではないかと――」
「おーい、シィ。そのくらいにしといたらどうだー? ラディがぽかんとしているぞー」
 少し離れた場所からかけられたラスターの言葉の通り、ラディアムが顔中に疑問符を貼り付けていた。
 事実、年若い従兄弟が理解できていないことを認めつつも、シエスタは不満げに唇を尖らせた。
「けれど、どのような分野においても基礎は大事でしょう? ラスターも基礎の体力作りから始めたではございませんか」
 不満げなシエスタを瞳に入れて、ラスターは肩を竦めつつ、ラディアム達の元へと歩みを進めた。彼の背後では、ラドクリフが数字を呟きながら木刀を振り続けていた。素振りの回数も、そろそろ400回に達しようとしていた。
 弟の素振り1000回が未だ終わりそうにないことを確認してから、ラスターは言葉を紡ぐ。
「それはごもっともだけどよ。短縮詠唱って確か、1度誰かが短縮パターンを見つけたもんについては、ただそれを唱えりゃいいんだろ? 別にそのパターンを教えればいいじゃんか」
「それでは応用が利きませんわ。基礎から始めることで短縮詠唱のみならず、圧縮魔法や暗号化魔法をも修めることができるのです。欲を言うならば、基礎魔法学と短縮詠唱学の間に応用魔法学を挟みたいところですわ」
 長広舌をふるう従姉妹であり幼なじみでもある女性を瞳に入れて、ラスターが嘆息する。
「……ったく、お嬢の皮を被った魔法オタクめ」
「何か仰いまして?」
「別に。とにかく、ラディは別に魔法学の道に進もうってわけじゃねぇんだ。王国祭まで時間もねぇことだし、すぐ役に立つもんを教えてやれよ」
「……体力作りから始めていた貴方に言われたくはございませんが、まあよろしいですわ。では、雷魔法の短縮パターンを重点的に学びましょうか。痺れさせて相手を無力化するのに秀でていますからね」
「あたし、それ知ってるよ。シエスタ姉様」
 アルマリータが不満げに頬を膨らませた。
 シエスタは少々考え込んで、ぽんっと軽く手を叩いた。
「アルマリータは魔法剣の練習をしていなさいな。この間から試していたでしょう?」
「えー! それじゃあ、ラディと一緒に青春できないじゃない!」
「そうは言うけれど、貴女はほとんどの短縮詠唱を修めているでしょう? ラディアムくんと一緒に学ぶというのは無理があるわ。我慢なさいな」
「仕方ないなぁ」
 姉の言葉に、アルマリータは不満げにしながらも納得した。ラディアムたちから少し離れて、腰に差していたレイピアを抜く。そうしてから、口の中で小さく言葉を紡ぐ。
「カ・リ・ザフラ・ル・ソルドゥ!」
 アルマリータの周囲を熱気が包み、一瞬、青と赤と橙のチロチロした触手がレイピアに纏わりついた。しかし直ぐに、それらの光輝は消え去り、肌を灼く熱気もまた霧散した。
「うーん、炎の気配がレイピアに集まるまでは行くんだけど、何が駄目なのかな? 動きが影響する魔法もあるし、それと同じだとしたらレイピアを振るタイミングが悪いとかかなぁ……」
 そのように口にしつつ、アルマリータは何度も試行を重ねる。すっかり自分の世界に入り込んでしまっている。目標を達成するために異様なまでの集中力を発揮する点は、魔法のこととなると人が変わる姉の性質とよく似ている。
 試行錯誤する妹を横目に、シエスタがラディアムと対峙する。
「さあ、あと15分くらいですわね。今朝は短縮詠唱を1つ、暗記するところまでを目標にしましょうか」
 短縮詠唱を実際に口にしたところで、意図した事象が発現しないことはままある。それは魔力量の問題であったり、術者の想像力の問題であったりと様々だが、そこで成功しないからといって気落ちする必要は全くない。何度も試すうちにコツを掴むのが通例なのだ。
「初級雷撃魔法の短縮詠唱は『トネール・カルラ』です。トネールが雷を意味する古代語で、他の雷魔法にも必ず『トネール』の語が入ります。そういった知識こそが短縮パターンの解析に――」
「シィ。また理屈っぽくなってるぞ。とりあえず唱えてみろでよくね?」
「……あら。そうですわね。ついつい、知識をひけらかしてしまい、わたくしの悪い癖ですわ」
 少々不満げながらも、シエスタは素直に反省する。その上でラディアムに優しい瞳を向ける。
「では、ラディアムくん。唱えてみてくださいな。とにかく発音を覚えましょう」
「は、はい。トネール・カルラ」
 何も起きない。
「トネールは『ネ』にアクセントを置いてください。カルラは今のままでよいですわ。それと、詠唱時には雷のイメージを強く持ってくださいな。魔法を扱う上で大切なのは、どのような場合でもイメージですわよ」
「……トネール・カルラ」
 やはり何も起きない。
 ラディアムの細すぎる神経は一気に摩耗した。大きく円らな瞳には涙が浮かび、地平線を越えて差し込み始めた朝陽を反射した。
「うぅ、ごめんなさい……」
「大丈夫ですわよ。そう焦らずに。まずは発音を憶えて、繰り返し唱えるのです。ラディアムくんは魔力が充分にありますから、コツさえ掴めば初級魔法くらいは簡単に使えますわよ」
 そうであればよいと願いつつ、ラディアムは目元を頻りに拭いながら、何度も何度も短縮詠唱を口にする。しかし、雷撃はその姿を全く顕さない。ラドクリフが素振り1000回を終え、ラスターと実戦形式の試合を始めた折も、ラディアムの手元には相変わらず何も発現していなかった。
 そうして、ようよう時間が過ぎ、それぞれに学び舎や仕事場に向かわねばならなくなった。
「んじゃ、今朝はここまでだな。ラトワイズ王国祭までは家庭教師の授業を休みにしてこの訓練を優先すべし、とラケシス様のお達しだ。学校が終わったら真っ直ぐ帰ってこいよ、ラド、ラディ、リタ。俺らもとっとと仕事切り上げて帰ってくるからな」
「帰宅後であれば、もっとじっくり指導することもできますわね。アルマリータにもいくつかの応用学を教えますからね」
「やった! ラスター兄様も剣術教えてくださいね!」
「おう。まあ、ラディに教えんのメインになるだろうが、暇を見て教えてやんよ。ラドも気合い入れろよ」
「はいはい」
 おざなりに返事をしつつ、ラドクリフは木剣を集めて小脇に抱える。他には荷物らしい荷物はないため、各自手ぶらで帰路へと着く。
 従姉妹たちが歓談しつつ歩みを進めるなか、ラディアムは大きく肩を落としてトボトボと歩む。
 ようよう、アデウス棟、ウィダミア棟、アトルナ棟の各棟へ向かうため、それぞれに別れた。
「じゃ、またあとでね、ラディ」
「……うん」
 アルマリータの言葉に弱々しく応えつつ、ラディアムはのろのろとアデウス棟へ向かう。その足取りには明朗さなど欠片もなく、ただただ憂鬱と共に在った。
(やだなぁ、対抗戦。はぁ……)
 少年の往生際は頗る悪く、極めて後ろ向きであった。