第6章 憑き従う糸
古の絆

 ――また……逢えるよ……
 かつて耳にしたかもしれない言葉。その言葉は誰のものだったか。久万月薫には判ぜない。目の前に居るはずのモノには霞がかかり、全く見えない。
 そうして夢想の中で漂ううち、薫の目の前には祖母の姿があった。
「薫や……」
「え? あれ? お祖母ちゃん? えっと、私、死んだの?」
 問いに、久万月より子は小さく首を振る。
「いやいや。死ぬなど未だ未だ早いよ。それより、訊きたいことがあってね」
 祖母の言葉に、薫は取り敢えず安心する。夢の中とはいえ、死を宣告されるよりは否定された方がよい。
「訊きたいこと?」
「ああ。薫は、鬼をどう思う?」
 突然の問いだった。どう思うと尋ねられたところで、関わった鬼といえば双子くらいのものだ。
「えーと、別にどうとも。阿鬼都くんも鬼沙羅ちゃんもいい子だし、人と変わらないかなって」
「じゃあ、妖をどう思う?」
 妖――文車妖妃や塵塚怪王、久万月家を取り囲んだ異形のモノたちである。絶えず恐怖を振りまく彼らに好感など抱くはずもない。
「ちょっと……怖い」
 正直に応えた。
 より子は嘆息し、悲しみの伴う微笑を携えて孫を見る。何か口にしようとした、その時――
「ただ、ちょっと気になるかなぁ」
「……気になる、かい?」
 先を促されて、薫は1度頷き言の葉を繰る。
「窓の外のあの人たちが、どこか辛そうに見えたんだ。蜘蛛好きをからかわれたあとの、鏡の中の私と同じ顔に見えたの。相手は妖怪なんだから、私たちと同じように考えることがそもそも間違ってるのかもしれないけど、でも、思ったんだ。ただ、寂しいのかな、哀しいのかな、辛いのかな、って」
 祖母が孫の言葉に苦笑した。
「もし、その通りだったらどうする?」
「え?」
「人も妖怪も鬼も何も変わらず、傷つきやすく、それゆえに、道を外れやすい。そうだったとしたら……」
 数秒間だけ黙して、より子は小さく笑んだ。
「改めて訊くよ、薫。妖をどう思う?」
 尋ねられ、薫は考え込んだ。友を襲っていた、薫自身を襲っていた、その存在を思い出す。
 怖かった。恐ろしかった。それでも、可哀想だった。
「もっとよく知りたいと思う。ただ嫌うんじゃなくて、嫌うにしても、ちゃんと知ってから嫌いたい。そして、出来ることなら好きになりたい」
 クスクス。
 迷いのない答えを耳にして、より子は思わず笑いを零した。
「そうだね。そう在りたいね。……人はいつまでも子供じゃない。何より、お前は特に蜘蛛憑きの力を強く継いでいる」
「お祖母ちゃん?」
 多いに戸惑っている孫娘を瞳に映して、より子は表情を引き締める。
「では、最後の問いだよ。お前はあの子とまた――逢いたいかい?」
 今度の問いは、今まで以上に意味がわからなかった。『あの子』などと言われたところで、いったい誰のことなのかさっぱり分からない。薫はしきりに首を傾げる。
 しかし、心のどこかで分かっていた。たぶん、彼女は『あの子』を知っていた。だから――

 光が満ちている中、文車妖妃は動けずにいた。光は、彼女が破壊の力を使おうとするのを妨げる。
『なにゆえ動けぬ! 妾は……力を手に入れたというに!』
 叫ぶ付喪神へと、ゆっくりとした足取りで近づく影が在った。
「何故かなんて知らないわ。敢えて言うなら『私が怒ってるから』かもね……!」
『……天原ぁ……!』
 文車妖妃が、怒りとも恐れとも、哀しみとも判ぜない表情を浮かべる。
「薫に力を返して…… 文車妖妃」
『断る……と言ったらどうするのじゃ?』
 尋ねられると、柚紀は右手の指輪を外して、拳を握る。
「とりあえず、ぶん殴る!」
 方々にて嘆息が漏れた。天原も鬼も鬼流も妖も、呆れに呆れた。
「柚紀らしいというか……」
「そーだねー、あはっ」
 阿鬼都、柑奈の言葉など気にせずに、文車妖妃が嗤った。
『殴る、か。妾も嘗められたものよのぅ。その程度で滅するほど……弱っておらん!』
 強い言葉と共に、付喪神が駆け出した。向かう先は薫である。
「いい加減に――!」
 より一層強い光を放ち、柚紀が叫ぶ。力が集って、文車妖妃へ向かう。
 しかし、光は文車妖妃を包むも、彼女は倒れずに駆け続ける。そして――
 ずぅんッッ!!
 重量のある物体――いや、生物が出現して、薫を背にしてそびえ立った。
「つ、土蜘蛛!」
「柑奈、やったね!」
 阿鬼都と鬼沙羅がそれぞれ叫ぶなか、柑奈は戸惑いと共に首を振るう。
「か、柑奈じゃないよ。たぶん……」
 彼女の視線は、姉へと向かう。柚紀の怒りが再び鬼の世のモノを喚び出したらしい。
「…………………………………………………………」
 ひゅるるるるるるるっっ!!
 土蜘蛛が丈夫な太い糸を吐き出して、文車妖妃を絡め取ろうとする。
 文車妖妃は跳び退り、地面に突き刺さる剛糸を避けきった。
「…………………………………………………………」
『くぅ!』
 しかし、蜘蛛の吐き出す糸が尽きることはない。糸が次々と文車妖妃を襲い、彼女は追い詰められていく。
 そして、いよいよ凶糸が彼女を突き刺そうという、その時――
「やめて!!」
 弱々しいながらも、強く響く声が発せられた。薫の声だった。
 彼女の叫びに伴って、土蜘蛛の糸がぴたりと止まる。
「…………………………………………………………」
「もういいの。ね、蜘蛛さん。私は――大丈夫だから」
 ふらつきながらも立ち上がると、薫は蜘蛛の躯に抱きついた。ぎゅっと強く強く、抱きついた。
 遙かな昔、本当の最初の出逢いでは、彼はほんの小さな普通の蜘蛛だった。
「…………………………また…………………………」
 その小さな蜘蛛との、小さくて大きな約束。それは、誰もが、何もが、抱く願い。
「うん。……うん! また、逢えたね」

 顕れた際の大きな躯は縮み、土蜘蛛は手の平大の大きさへと変化していた。そして、蜘蛛憑きたる久万月薫の右手にちょこんと乗っている。
「えへへ。可愛いっ」
 にまにまとだらしなく笑む友人を瞳に映して、柚紀は嘆息した。
「正直、その感性には同意しかねるわ」
「ひっどーい、柚紀。蜘蛛さん、ちょーかわいいじゃん!」
 不満げに自己主張する薫であったが、彼女の意見に同意してくれる人も鬼も妖も居なかった。
「ともかく、土蜘蛛はこちらに留まるということでよいか?」
 薫をギロリと睨み付けるのは、鬼の世の鬼である紅葉であった。土蜘蛛の顕現に続いて、彼女もまた人の世に姿を顕したのだった。
 強い視線を受けた薫は、びくりと身をすくめてコクコク頷く。
「ふん。まあ、いいだろう。土蜘蛛の主たる蜘蛛憑きが言うなら、そして、土蜘蛛自身が望むなら、何も言うことなどないわ」
 そのように言いながらも、紅葉は薫を睨み続ける。
 ビクビクと怯えて、土蜘蛛を両の手で抱く薫。何故に敵視されているのか、さっぱり分からなかった。
 一方、紅葉は彼女からようやく視線を逸らして――
「して、貴様らは鬼の世を望むか?」
 付喪神たちに尋ねた。
 妖の多くは住処に戻ったが、文車妖妃と塵塚怪王だけはこの場に留まった。彼らの強大な力は、人の世にそぐわない。
『俺はどっちでもいい』
「ふん。主体性のない付喪神よな」
 呆れた瞳の紅葉は、塵塚怪王から文車妖妃へと視線を移す。
『……鬼など信用できぬ』
 文車妖妃は言い切った。
「ほぅ。そうか」
『勿論、天津も天原も、鬼流もじゃ』
 暗い顔で、文車妖妃は言葉を連ねる。
「それで、どうする?」
『……………さあの』
 妖が小さく呟いた。その鬼面には、自嘲が広がる。
 彼女のそのような様子を目にして、堪らず1歩を踏み出す者が居た。
 たっ。
「私ね、よく虐められてたんだ」
『何?』
 蜘蛛憑きの言葉に、付喪神が眉をしかめる。
「貴女の事情、よく分かってるわけじゃないけどさ。貴女の顔が、虐められた時の私の顔に似てるなって、ずっと思ってたの」
『……………』
 沈黙する付喪神をしばし見つめてから、薫は続けた。
「貴女は力が欲しくて、生きたくて、私に宿る蜘蛛さんの力を狙ったんだよね?」
『そうじゃ…… さぞ、憎かろう』
 死にかけたのだ。憎む資格は充分だ。文車妖妃はそう考える。
 けれど、薫は違った。
「あはは。困ったけど、別に憎くなんてない。だって、こうして生きてるし、何より、生きたいと願う気持ちも分かるもん」
 笑みを浮かべる少女を瞳に入れ、妖は歯ぎしりをした。
『分かる……ものかえ…… 平静なる今生を享受せし貴様に、妾たちの何が……』
「そうかも。たぶん、100パーセント分かってるなんて、そんなことはないんだと思う」
 苦笑して頭をかく。それでいて、確固たる意思の見える瞳で、彼女は続ける。
「でもさ、頑張るよ。分からないことは、教えて欲しい。理解し合えないなら、話を聞かせて欲しい。ずっとずっと昔に、蜘蛛さんと仲良くなれたように、私は――」
 左手で土蜘蛛を抱き、蜘蛛憑きは――いや、久万月薫は、右の手を文車妖妃へと差し出した。
「貴女と友だちになれたら嬉しいっ」
 にこにこ。
 笑顔が向けられるなか、文車妖妃は大きなため息をついた。
『……付き合ってられぬ。ともかく、身を守るに足る力は得たのじゃ。もはや貴様に用なぞあらぬ』
 すぅ。
 文車妖妃は立ち上がり、薫に背を向けた。
『さらばじゃ、久万月』
 呟いた付喪神は、闇に解けて消えた。
 その後を追うように、
『では、俺も行く。じゃあな』
 塵塚怪王もまた去って行った。姿が霞のように消え去り、影も形も無くなる。
「……ふん。では、わらわも鬼の世に戻るとしよう」
 しゅっ。
 呟いた紅葉もまた、一瞬のうちに姿を消した。
 辺りを静けさが満たし、ようよう天原や鬼、鬼流たちの口からため息が漏れ出でる。
「とんだ騒ぎだったわね。疲れた……」
 緊張の糸が解けた柚紀が、肩を落として苦笑した。
「ごめんね、柚紀。他の皆さんも……」
 まなじりを下げて謝罪する薫であったが、誰も彼もそのような言葉は望んでいない。
 ぽんッ。
 頭を軽く叩かれて、薫は目をぱちくりさせる。
「馬鹿なこと言ってるんじゃないの。まあ、思ったよりも大事になったのはびっくりしたけど、薫が悪いわけじゃないでしょ?」
「そーそー。僕的には柚紀の怒鳴り声の方が迷惑だったし」
「うんうん。周りに音が漏れないようにしてたとはいえ、あれは近所迷惑どころの話じゃなかったよね。環境汚染だよ」
 がんッ!
 拳骨が落ちた。
「柑奈はお姉ちゃんのそういうとこ好きだよ。ねー、あちきさん?」
「あちきはちょいと怖かったねぇ」
 満面の笑みを浮かべる柑奈と、苦笑する勘九郎。
 気龍寺の面々は身に受けた痛みに耐えながら、やはり苦笑していた。
「………………………か……おる………………………」
 呆けていた薫は、手の平の上の蜘蛛に瞳を向ける。長い年月を経て巡り逢った2人は、見つめ合う。そして、薫が微笑んだ。
「……うん。そうだよね」
 そして、彼女は愛しそうに友を抱いて、皆を見回した。天原を、鬼を、鬼流を、妖を見回した。
「ありがとうっ」
 にこりと笑った顔は、喜びに、幸せに満ち満ちていた。

 龍ヶ崎の町。冬の夜のこと。騒々しき宴はいよいよ終焉を迎えた。古の約束が果たされ、人には不似合いな力がもたらされた。
 しかしながら、憎しみも哀しみも、力に付随すべき負の感情は悉く生まれず、ただ、喜びだけが人を満たした。
 いつか、嘆きが彼女を襲い、苦しみが彼女を満たすことが有るのやもしれない。けれど今は、今この時は、大切な友との再会という優しい時間だけが在ればよいと願い続けよう。

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