第6章 憑き従う糸
彼らはただ願う

 闇夜を照らす光が収まり、幽かな月明かりの下には変わらぬ光景が映し出される。鬼流たちと霊や妖、鬼沙羅と文車妖妃、そして、阿鬼都と――
『九字か。実力者が放ったならば俺とて滅せずにはいられないのだが…… 精進が足りぬようだな、鬼よ』
 ぎりッ!
 未だ健在な付喪神、塵塚怪王の姿を瞳に映して、阿鬼都は悔しそうに歯ぎしりした。実際、彼の実力は塵塚怪王を滅するには遠く及ばない。それゆえに、滅魔の力を増幅してくれる九字を切ったのだったが……
 ――くそ。僕だけの力じゃダメか
 拳を握りしめて、阿鬼都は空を翔る。同じく中空に浮かぶ塵塚怪王に殴りかかった。
『術が駄目なら肉弾戦かね? 子供の貴様には分が悪いと思うぞ』
 鬼子の拳を受け流して、付喪神は彼の右腕を掴む。そして、殴りかかってきた勢いを利用して、地面に向けて突き飛ばした。
 阿鬼都は意識を集中して重力を制御し、地面にぶつかるギリギリで止まる。
 しかし、塵塚怪王が追撃を加えて、鬼子の体を足蹴にした。そのまま地面に衝突させる。
「阿鬼都殿!」
 鬼流の1人である白夜知稔が、妖の1匹に対して真言の生み出す光をぶつけつつ叫んだ。彼は霊や妖の相手を他の鬼流に任せて、阿鬼都と塵塚怪王の元へ向かう。
『身の程知らずな鬼流だな。俺との力量差が分からぬか?』
「存じておりますが、子供を見捨てることなど出来ませぬな」
 知稔の返答に、塵塚怪王は肩をすくめる。
『鬼流だろうと天原だろうと、人はかつて鬼や妖を蔑視したものだがな。時代の流れということか』
 かつて、鬼や妖――朝敵と定められた者たちを、天津神や天原の民、鬼流総出で世の中から排斥しようとした時代があった。その時代に消え去ったモノたちは数知れず、塵塚怪王や文車妖妃もまた危うく犠牲になるところだったのだ。
 文車妖妃が力を求めるのも、そのような時代を生き抜いたからだろう。
 彼女は手紙や書物を運ぶための文車が転じた付喪神である。大事に大事に使われ続けた彼女は、ある時に和魂として世に生じた。その後も彼女は大事にされ、善き力を蓄え続けたのだが、ある時、世は飢饉にみまわれた。
 その頃、飢饉のような天災は決まって鬼や妖のせいにされ、彼らは体のいいはけ口とされていた。ゆえに、天津神と天原の民は京の都に住まう妖を寄り集め、世の災いは皆このモノたちの力に因るものである、と宣言したのだった。
 結果、文車妖妃は居場所を追われて、生じる元となった文車もまた捨てられた。襲い来る天原の民や鬼流の攻勢から身を守りつつ放浪し、蓄えた力はどんどんと弱まっていった。
 そして今、彼女の力は風前の灯火となっている。天原の民や鬼流のような実力のある人間に襲われたなら、術なく消えるしかない運命だ。
 勿論、今の時代、文車妖妃が何も悪さをしないのであれば、誰も無意味に調伏しようとはしない。しかし、辛い時代を生きた道具は、そのような夢物語を信じられるわけがない。生きるために力を欲せずにはいられない。彼女はただ生きたいのだ。
『鬼は元々人。心の問題を取り除けば比較的わかり合えような』
「? 何を申しておられる?」
 知稔の問いには応えず、塵塚怪王が鬼沙羅と相対している文車妖妃を見やる。そして、自身の姿を見やる。
 ――しかし、俺たちは……
『妖の多くは異形の本性を持っておる。俺も文車妖妃もこの風体だ』
 人に近い外見を持っている2人だが、やはり人とは違う。鬼面や巨躯、強い力は脅威なのだ。
『この時代でも排斥されるのが、我らだ。なれば、自衛の力を求める文車妖妃をなぜ責められる。無駄に力を遊ばせている蜘蛛憑きから力を奪って何が悪い』
 付喪神の言葉は、ある程度の正しさを含んでいるだろう。今の時代でも人は人同士でさえ蔑むのだ。その矛先が鬼や妖に向く可能性がないとはいえない。いや、彼らの存在が大々的に明るみに出れば、間違いなく蔑みの対象となる。
 その時に自衛の力がなければ、今度こそこの世から消え去る運命を辿ることになる。その前に策を講じることは生きる者として当然の本能だ。
「……で? 薫はどうなるんだよ?」
 その時、足蹴にされたままで阿鬼都が言った。
 塵塚怪王は感心したように息をつき、しかし、鬼子を踏みつける足に力を込める。
『場合によっては死ぬな。しかし、俺たちの知ったことではない。憑き物筋ども――鬼流もかつて我らを排斥しようとした。鬼流は鬼や妖に次いで蔑視される傾向にある。自衛の意味で、天津どもと協力関係を結ぶのは仕方がないが…… 俺たちにも憎む権利は当然あろう。あの蜘蛛憑きの女もその末だ。死んだら死んだで気が晴れる』
 がし。
 淡々と紡がれる付喪神の言葉を耳にして、阿鬼都は歯を食いしばって腕を伸ばした。塵塚怪王の足を掴み、強く強く握る。自身の体から無理矢理どかそうと力を込める。
「気にくわない」
『何?』
 ぴくりと眉を上げて、塵塚怪王が聞き返す。
 すると、付喪神をキッと睨み付けて阿鬼都が叫んだ。
「気にくわないって言ったんだ! 鬼とか鬼流とか妖怪とか、そんな言葉に縛られてるお前が気にくわない! 鬼沙羅や僕を『鬼』として見て、薫を『蜘蛛憑き』として見ているところが気にくわない!!」
『……事実だ。お前は鬼で、あの女は蜘蛛憑きで、俺は妖怪だ!』
 阿鬼都を踏みつける足により一層力を込めて、塵塚怪王が言った。
 強い圧力を受けた阿鬼都は呻き、しかし、瞳に強い光を込めて付喪神を睨み付ける。
「違う! 僕は僕だし、薫は薫だし、お前はお前だ! お前は鬼流を――蜘蛛憑きを憎んだとしても、薫を憎むべきなんかじゃ絶対ない!」
 叫びつつ、鬼子は表情を歪める。
 その顔を見つめ、塵塚怪王は薄く嗤った。
『理想だな。信じているのか?』
「信じたいんだ」
 どんッ!
 阿鬼都が迷いのある瞳を携えて言った、その時、塵塚怪王を衝撃が襲った。知稔が印を組み、真言を操ったのだ。
 それにより、塵塚怪王の意識が一瞬阿鬼都から外れる。
 がしっ!
 緩んだ背中への圧力を見逃さず、阿鬼都は塵塚怪王の足の下から抜け出した。
『……逃れたとて無駄なこと。貴様にも、そちらの鬼流にも、俺は倒せん』
 無情な宣言をして、腕に力を込める付喪神。彼自身が持つ力と、大気中を漂う力が集い、夜の闇を照らす。その強大な力がいよいよ放たれようとしていた。

『兄上の加勢をせずともよいのかえ?』
 塵塚怪王が他を圧倒している様子を俯瞰しつつ、文車妖妃は鬼沙羅に言葉を投げかけた。
 鬼沙羅としても加勢に向かいたいのは山々なのだが、ここで文車妖妃を放逐してしまっては薫に害が及びかねない。鬼流の面々が雑多な妖などを調伏してくれてはいるが、文車妖妃の実力は弱冠ながら彼らに勝る。
 ましてや、久万月家に張られた結界はもはや綻びだらけである。その他大勢のモノたちならばともかく、文車妖妃であれば、その間隙を縫って薫を奪取できるはずだ。
「お兄ちゃんは、あんな人に負けない」
 強がりを口にして、鬼沙羅が手を合わせる。すぅと息を大きく吸い込み、キッと文車妖妃を睨み付けた。
「高天原(たかあまはら)に坐(ま)し坐(ま)して天(てん)と地(ち)に御働(みはたら)きを現(あらは)し給(たま)ふ龍王(りゅうじん)は――」
 鬼子の詠唱が始まると、妖は顔を顰めた。鬼面を歪めて、慌てて力を集める。光が彼女の手の平に集い、放たれた。
 しかし、鬼沙羅はその力を腕のひと払いで防ぐ。
「大宇宙(だいうちゅう)根源(こんげん)の御祖(みおや)の神(かみ)にして一切(いっさい)を産(う)み一切(いっさい)を育(そだ)て――」
 ――やっぱり、この人ぐらいの力なら私だけでも何とかなる
 文車妖妃の力の具合を確認した鬼沙羅は、一層深く息を吸い込む。
「龍王神(りゅうおうじん)なるを尊(とうと)み敬(うやま)ひて真(まこと)の六根(むね)一筋(ひとすじ)に御仕(みつか)え申(まを)すことの由(よし)を受引(うけひ)き給(たま)ひて愚(おろ)かなる心(こころ)の数々(かずかず)を戒(いまし)め給(たま)ひて――」
 ――くぅ。このままでは……
 文車妖妃は、鬼沙羅を包む龍神の力を目の当たりにして、おののく。
「祈願(こひねがい)奉(たてまつ)ることの由(よし)をきこしめして 六根(むね)の内(うち)に念(ねんじ)じ申(まを)す大願(だいがん)を成就(じょうじゅ)なさしめ給(たま)へと――」
 鬼の祈願によって、強い強い力が一帯を満たす。涼やかな水の気が文車妖妃の頬を撫でた。そして、そのような強い気に中てられた付喪神は、絶望に染まって色を無くす。
 文車妖妃の様子を瞳に映して、鬼沙羅は――
「恐(かしこ)み恐(かしこ)み……白(まを)すっ!」

 どおおおおおぉおんッ!
『ぐっ!』
 爆音に続いて呻いたのは、塵塚怪王だった。
 塵塚怪王を包む爆煙。その外側にて佇む少女と男性は、ほっとひと息つく。
「何とか間に合ったぁ。大丈夫? 阿鬼都くん」
「すまないねぇ。大先輩に出会い頭で攻撃なんてしちまってさぁ」
 声を発した者たちを瞳に映し、阿鬼都は顔中に喜色を広げる。
「柑奈! それと……あちきだっけ?」
「違うよぅ…… あちきは勘九郎。そちらの塵塚怪王殿と同じ、付喪神さぁ」
 呆れ顔で付喪神――勘九郎が呟いた。勘九郎はアナログテレビから転じた付喪神である。本体であるテレビは、天笠家の長男慎檎の部屋に置かれている。阿鬼都も正月に彼と会っているのではあるが、『あちき』という珍しい一人称がまず何よりも印象に残ったようで、彼の中で勘九郎はあちきという名だと認識されてしまったらしい。
 衝撃を身に受けた塵塚怪王は、微かな痛みの残る腕を軽く回しつつ、表情を険しくした。
『……妖が人に味方する、か。時代も変わったものだな』
「20世紀生まれなもんで、ねぇ!」
 着流しから伸びる細い腕を突き出す勘九郎。それに伴って、衝撃波が塵塚怪王へと向かう。
 ぶんっ。
 しかし、古来より生き続ける付喪神が腕をひと振りするだけで波は消え去った。
「……あちきの力じゃぁ無理みたいだねぇ」
『その通りだ。大人しく帰り給え。なに、貴様らにとって悪いようにはならない』
 塵塚怪王の言葉は嘘ではないだろう。確かに、柑奈や勘九郎自身にとって悪いことは何もない。しかし、人は自分自身が良ければよいと割り切れぬ、我が儘な存在だ。そして、それは妖も同じである。
「そう言うなら、貴方も帰りなよ。文車妖妃がどうなったって貴方自身には何の関係もないよね?」
『…………………………』
「出来ないよね? 過去も今も未来も関係ない。天津も天原も、鬼も鬼流も、そして妖怪も、大切なモノのために、願いのために力を使うの。それは柑奈たちも、貴方たちも同じ」
 ばちっ。
 柑奈へと向かった力の波を、勘九郎が弾く。弱々しい、子供の言い訳のような攻撃だった。
 塵塚怪王は視線を落として、苦笑する。
『――ああ。だからこそ、争うのだろう』
「後ろ向きね! 対立する必要なんてない! 大切なモノを増やせばいい!」
 叫んだのは、柑奈でも勘九郎でも阿鬼都でもなかった。
「柚紀!」
 笑顔を浮かべて叫び、阿鬼都は腰に下げていた巾着袋を手に取った。そして、大切な人間へと向けて放る。
 ぱしッ!
「阿鬼都! 止めるわよ!」
 柚紀が叫びつつ、巾着袋から指輪を取り出して素早く右手の指に嵌める。
 大きく頷いた阿鬼都は印を組む。
「臨! 兵! 闘!」
 柚紀の右手に嵌まった指輪が青白く輝く。
「者! 皆! 陣!」
「幸魂(さきみたま) 奇魂(くしみたま) 守(まも)り給(たま)へ 幸(さきは)へ給(たま)へ!」
 柚紀が素早く祝詞を詠唱した。右手の指輪が激しく発光して、結果、阿鬼都に力が集中する。
 ――!?
「列! 在! 前!!」
 どおおおぉオおんッッッッッ!!!!!

『……? 妾は?』
 龍神祝詞によって生じた力に包まれ、しかし、文車妖妃は未だ滅びずに居た。
「ただ、生きたい…… それはわたしたちも同じ。きっと、天原も鬼流も、みんなが抱く願い」
『な……に……?』
 鬼沙羅は微笑み、手を伸ばす。
「大丈夫。誰も貴女の敵じゃない」

『ぐっ…… 何故滅さん?』
 指輪による柚紀とのリンクを受けて増幅された九字の力は、塵塚怪王を滅ぼすだけの充分な力が込められていた。しかし、付喪神は多大な痛みを受けながらも、その姿も意識も保ったままだ。
「柚紀が『止める』って言ったし。それに、僕もお前を殺したいわけじゃない。ま、暴れられちゃ困るから痛めつけさせては貰ったけどさ」
 悪戯っぽく笑う阿鬼都の視線は、地に横たわる付喪神へと向かう。
「誰だって生きたい。人も鬼も妖も。僕らは敵じゃない。だから、きっと大丈夫」
 小さな手が伸びた、その時――

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