第6章 憑き従う糸

 ぱあぁあんッッ!!
 鋭い一撃が鬼沙羅を襲った。
『信じ……られぬ…… そのような世迷い言、信じられぬわ!』
 更なる強き力が空間を駆け抜けて、鬼沙羅を襲う。積もった憎しみの記憶が、弱り切った付喪神に今一度、黒く淀んだ力を与えたのだ。
 破壊の波が鬼子に襲いかかる。
 がらッ!
 開け放たれた窓。
「鬼沙羅ちゃんッッ!!」
「駄目!! 薫!!」
 鬼沙羅が窓から身を乗り出す友に注意を向けて叫んだ。
 ひゅん!
 空を幾筋もの細い光が駆け抜けた。結果、鬼沙羅を守るように輝く壁が出来上がる。壁は、細い細い糸の集合だった。
 破壊の光は、その壁に遮られて四散する。
 ――蜘蛛の、糸? こんな光景、前にも……
『……蜘蛛憑き……お前は……馬鹿よのぅ……』
 呟いて、付喪神は宙を舞う。窓辺の蜘蛛憑きを目指して、翔る。
 そして、彼女は力を得た。

 風が吹き抜けた。妖が放つ禍々しき力により生まれる凶風が……
 ひゅっ。
 窓辺からずるりと崩れ落ちて、久万月薫は地面を目指した。
「薫!」
 鬼沙羅が叫び、速度を上げて空を駆る。
 がしっ!
 何とか、地面まで数センチというところで薫の体を受け止めた。
「っ! あ、危なぁ…… だいじょぶ、薫?」
「…………………………」
 返事がない。
「薫? ……薫!」
「どうしたの! 鬼沙羅!」
「柚紀! 薫が!」
 駆け寄ってきた柚紀に向けて、鬼沙羅は悲痛な声を返す。
 その時、柚紀に続いて、阿鬼都、柑奈がやって来た。
「……薫さんに宿ってた力がほとんど無くなってる」
 薫を見つめたあと、柑奈が言った。
「どうなるんだよ!」
『死ぬ。蜘蛛憑きは死ぬぞ』
 いつの間にやら近づいてきた塵塚怪王が言った。彼に表情はなく、けれど、少し悲しんでいるように見えた。
「わたしの……せいだ……」
 呟いた鬼沙羅の背を、柚紀が優しく撫でる。
「鬼沙羅のせいじゃない。それより、助けなきゃ」
 人が微かな希望を信じるなか、勘九郎が、鬼流たちがやって来た。全員が薫へ向けて力を注ぐ。
 しかし、この世の中はいつだって都合の悪いことばかりだ。
「蜘蛛憑きの薫さんは蜘蛛の力を享受する。逆に言うと、他からの力は受け入れづらくなってる……」
 柑奈の言葉通り、薫の顔色は優れず、快方に向かう気配が一切ない。
「な、なら、蜘蛛を集めれば――」
「蜘蛛と言っても、ただの蜘蛛じゃ駄目なんだ、お姉ちゃん。蜘蛛から転じた妖怪さんじゃないと……」
 柑奈の言葉を耳にして、阿鬼都は塵塚怪王へ詰め寄る。
「いないのか? お前らが集めた奴らの中にさ!」
 集っていた妖たちは、既に争いを止めている。目的を達した時点で、彼らが争う理由はない。
『蜘蛛の妖は珍しい。俺もこの世のどこかに潜んでおる海蜘蛛と、鬼の世におる土蜘蛛くらいしか知らんな』
「そうか! 土蜘蛛!」
 付喪神の言葉を耳にして、阿鬼都は喜色を携えて叫ぶ。そして、鬼沙羅に瞳を向けた。
 鬼沙羅も嬉しそうに笑うが、直ぐに表情を曇らせた。
「で、でも、お兄ちゃん。どうやって……」
「それは…… そうだ! 柑奈!」
 しばしば、天津神や天原の民は、鬼の世から鬼や妖を喚び出す。
「……柑奈じゃ、無理だよ。鬼の世に干渉するほどの力、ないもん」
 泣きそうな顔で人が言う。
「なら、私が!」
「お姉ちゃんでも無理だよ…… 鬼の世は人の世を拒絶してる。天津神相当の実力でもないと――」
「でも、私は阿鬼都と鬼沙羅を喚べたじゃない!」
 妹の言葉に、姉が悲痛な叫びを上げる。
『それは前鬼、後鬼が望んだ結果だろう。貴様は事実、力不足だ』
 付喪神の通告を受けて、柚紀が表情を歪めた。
『ほほほ。気分がいいのぅ。力が溢れよる』
 夜天を背にして、力を得た付喪神が機嫌良さそうに言った。そして、ゆっくりと地に降り立つ。彼女の総身には強き力が、蜘蛛の力が宿っていた。
「お前……!」
『そうじゃ。憎むがよい。妾は憎まれるべき妖なのじゃからな!』
 先ほどとは比べものにならない力の波が押し寄せる。力は風となり、柚紀たちへと向かった。
「ちぃ! 知稔! 英俊! 安孝!」
 木之下実明の言葉を受けて、鬼流たちは皆と文車妖妃の間に立つ。彼らが持つ最大限の力を込めて防壁を作った。しかし――
「ぐっ」
「やはり我らでは……」
 力は守りを打ち壊す。暴風が鬼流たちを吹き飛ばした。
『他愛ないのぅ』
 ざっ。
『文車妖妃』
 鬼面の女の前に立ったのは、巨躯の男だった。
『おぉ、塵塚怪王よ。世話をかけたのぅ。主らのおかげでこうして力を得られた。礼を言うぞえ』
『……せめて、命を取り留めるだけの力を返してやらぬか?』
 突然の言葉に、その場に居た誰もが驚いた。
『……何を言う。蜘蛛憑きが――鬼流がどうなろうと我ら妖の知るところではない。そうではないかえ?』
 問いかけに、塵塚怪王は顔を歪める。
『その通りだ。妖の仲間は妖だけ。天津も天原も、鬼も鬼流も、結局は裏切る。それは歴史が証明してきた。だがな。蜘蛛憑き――いや、その女は、鬼を助けた。あの状況で、鬼を助けたのだ』
『…………………………』
『恐らくは、蜘蛛の糸を操れたことさえも偶然であったろうよ。あの女は蜘蛛の力を自在に操れてなどいなかった。それでも、何が出来るかも判然とせぬなか、危険であることだけは間違いなかったあの状況で、あの女は動いた』
 塵芥より転じた付喪神の言葉を、文車の付喪神は黙って聞く。
『俺も蜘蛛憑きは信じん。天津も天原も鬼も鬼流も、誰も信じん。だが、俺の目は、俺の心は、信じねばならぬ。俺の目が見たあの女を、俺の心が感じたあの女を信じねばならぬ。そうでなければ、俺はなぜ妖となったか。なぜ心を持ったか』
 なおも文車妖妃は黙っている。
『俺の心は貴様に生きて欲しい。そして、同様にあの女にも――』
 どおおォおん!!
 何かを言いかけた塵塚怪王。その横っ面に一撃が入る。
『そうか…… 妖さえも妾を裏切るか……』
 呟きは闇に消えた。
『では妾は、何も信じぬ。天津も天原も、鬼も鬼流も、妖も……消してくれようぞ!』
 宣言が寂しく響いた。

 薫の背を支えつつ、柑奈が皆を見渡す。
「あちきさんは文車妖妃の攻撃を防いで。阿鬼都くんと鬼沙羅ちゃんはそのサポート。お姉ちゃんは気龍寺の人たちの介抱を」
「任せておきなよぅ!」
 勘九郎の力強い言葉に、阿鬼都と鬼沙羅が頷く。鬼沙羅などは目に涙をためていたが、そのような場合ではないと奮起して立ち上がる。
「柑奈はどうするの?」
「柑奈はダメもとで土蜘蛛を喚んでみるよ」
 鬼の世が人を拒絶しているとはいえ、場合によっては応えてくれるはずだ。その結果が、阿鬼都と鬼沙羅という結果が目の前に居る。
「な、なら、私も――」
「柑奈はもとから攻撃に向かないから、だから、遠慮なく喚びだすことに全力をつぎ込める。お姉ちゃんはもしもの時のために力を残しといてもらわないとね!」
 力なく笑って、柑奈はゆっくりと瞳を閉じる。恐らくは、鬼の世とやらにアクセスしているのだろう。
 柚紀は、声をかけては集中が乱れてもまずいと考え、鬼沙羅から指輪を受け取ってから大人しく実明や知稔の元へ向かった。
 一方で、勘九郎と鬼子たちは出せる限りの力を振り絞る。
「付喪神の先輩にこう言うのもなんだけどねぇ。ちょいとおいたが過ぎるんじゃないかねぇ!」
 気合いと共に、アナログテレビの付喪神が力を放つと、それに続いて、阿鬼都、鬼沙羅が強い口調で古来より伝わる音を発する。
「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン 不動明王火界咒!」
 炎が逆巻き、文車の妖を襲った。続いて、
「高天原に坐し坐して天と地に御働きを現し給ふ龍王は大宇宙根源の御祖の神にして一切を産み一切を育て龍王神なるを尊み敬ひて真の六根一筋に御仕え申すことの由を受引き給ひて愚かなる心の数々を戒め給ひて祈願奉ることの由をきこしめして六根の内に念じ申す大願を成就なさしめ給へと恐み恐み白す!」
 鬼沙羅の祝詞に伴って、高密度の水の刃が闇を駆け抜ける。
 しかし……
 ぱああぁアんっっ!!
 激しい音と共に、炎も水も霧散した。
『ほほほ。鬼と言っても大したことはないのぅ』
 ギリぃ。
 付喪神に対する3名はそれぞれ歯ぎしりして、次なる攻撃のために力を溜めた。
「くぅ…… 嬢がおられれば……」
 知稔が悔しそうに呻く。嬢とは、木之下幽華のことである。気龍寺の僧である知稔は、住職の娘である幽華をそのように呼ぶ。
「そんなことを言っても仕方ないわ。それより……」
 鬼流たちを介抱しながら、柚紀は文車妖妃に瞳を向ける。
 付喪神が哄笑しながら力を放ち続ける様は柚紀の目に、恐ろしく、というよりも寧ろ、哀しく映った。
『ほほほほほほ! この力さえあれば、妾は独りでもよいわ! 誰も、何も、妾には必要ない!』
 ギリぃ!!
 強く、強く歯がみする柚紀。先刻より溜まっていた感情がいよいよ溢れだした。
 そして、ゆらりと立ち上がる。顔はこれ以上なく険しい。すぅと深く息を吸い込んで――
「ふざけないでッッッッッ!!!!!」
 びりびりびりびり!
 怒鳴り声が木霊して、空気が震えた。
『……天原かえ? うるさいのぅ』
「柚紀! 危ないから――」
「あんたは黙ってなさいッッッッッ!!!!!」
 注意を促そうとした阿鬼都が怒鳴られる。いつにない剣幕に、鬼子は大人しく口を噤んだ。
 鬼沙羅もまた、尻込みして口出ししない。
 ギロっっ!!
 強いまなざしは怒りに満ちていた。しかし、憎しみはなく、どちらかといえば、悲しみが含まれていた。

「………………………紅葉…………………………」
「悪いが、お主を人の世へ送るわけにはいかん。堪えろ」
 鬼の世にて、紅葉と土蜘蛛が対峙していた。
 土蜘蛛は古来より人に縛られてきた。遥か昔に心を通わせた人間の末が、土蜘蛛の心に安らぎと共に孤独を募らせる。妖怪たる土蜘蛛と、人間たる蜘蛛憑きの寿命は違う。土蜘蛛が幾百、幾千と生き続けるのに対して、人間はわずか数十年で命を失う。
「今は我慢するのだ。ここを乗り越えても、あの女はそのうち死ぬ。どうせ受ける痛みならば……」
「………………………………………………………」
 人に望まれ、土蜘蛛自身が望みさえすれば、鬼の世から出でることは可能だ。しかし、紅葉のような強力な鬼に阻まれてしまえばそれも叶わない。
 がんッッ!!
 紅葉の右腕が呻り、土蜘蛛の躯が倒れる。万が一にも人の世へ向かわせない心づもりのようだ。
「………………………………………………………」
「すまぬ。だが、お主のためだ」
 ピカアアアアアアァア!!
 紅葉が詫びたその時、輝きが鬼の世に注ぎ込んだ。光は世と世を隔絶する結界を溶かして侵入してくる。
「なっ! 誰がこのような力を――!」
 アアアアアァアァァ……
 光が納まったその時、土蜘蛛の姿は鬼の世から消えていた。

 輝きが闇夜を照らし、冬の空に浮かんでいた星々を隠す。地上の光が天上の光を圧倒した。
「勝手にいじけて!! 暴走して!!」
 柚紀の怒声に伴って、輝きは強くなる。
 ――な、何? 凄い力……
「誰があんたを裏切ったのよ!! 何であんたが独りなのよ!!」
 光が辺りを満たす。
 ――こんな力、天津神でも……
「いい加減に!!!! しなさいよおおおおぉおおおお!!!!」
 ピカアアアアアアァアアアアァアアァアアア!!

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