番外編 天原の軌跡
連なる想いの欠片

 天原(あまはら)の民――かつて人々から敬意を向けられた力強き存在。現在では単なるいち霊能者として扱われるが、その力は天照大神(あまてらすおおみかみ)を代表とする天津神(あまつかみ)たちに負けずとも劣らない。
 天笠(あまがさ)家は、そんな天原の民のひとつである。現在、天笠阿聖(あせい)を当主に置き、阿聖の長男樹徒(きと)、長女阿澄(あすみ)が天笠分家の統率を執っている。彼らが住まう地域の不可思議な事件は、その9割を彼らが解決していた。
 そして、その地から離れた龍ヶ崎町には、阿聖の次男である櫂(かい)が家族で移り住んでいた。彼には娘が2人と息子が1人おり、娘は柚紀(ゆずき)と柑奈(かんな)、息子は慎檎(しんご)という名だった。
 櫂自身には天原の民としての力は皆無であるが、慎檎と柑奈はそれぞれ、強い除霊能力と感知能力があった。龍ヶ崎町の対霊障機関は気龍寺、龍ヶ崎署捜査一課0係などがあるが、当該機関から彼らに依頼が来ることも珍しいことではない。
 その龍ヶ崎町のとある平日。闇夜が地を支配する時間帯において、雨粒が地面を穿ち続ける。そんな中、天笠柑奈は窓の外を眺めながら言葉を繰っていた。耳に押しつけているのは携帯電話。決して独り言を口にしているわけではない。
「雨ってやだよねー。雪歌ちゃんも? だよねー。柑奈も柑奈も。週末は晴れるって言ってもさー。1学期ラスト1週間が雨続きって嫌がらせ以外の何物でもなくない? そーそー」
 ケタケタと笑い、甲高い声で騒ぐ龍ヶ崎中学の2年生、柑奈。彼女の瞳は変わらず窓の外へ向けられている。落ちる雨粒を見つめているようであり、遠くを眺めているようでもある。
 キイィイイィイィイイン!
 その時、突然の耳鳴りに柑奈は眉をしかめた。思わず耳を押さえ、それからしばし沈黙する。
「……今の何だろ? え? あ、いや何でもないない。あ、そだ。心霊ツアーだよね。雪歌ちゃんは去年参加できなかったもんねー。やっぱ学校違うとねー。あ、だいじょぶだいじょぶ。龍中(りゅうちゅう)のは違う日にやるけど、別に2回やったっていーもん。あれ、柑奈も楽しいんだ。みんなが怖がるの見るのも一興ってゆーか。え? 趣味悪い? あはっ」
 電話口で笑み、柑奈は夜天を見上げた。相変わらず優れぬ天候。しかし、曇天が続くのも長くて水曜日までだとか。日曜日には――柑奈による心霊ツアーが開催される予定の日には、心地良き晴れ間が姿を現すことだろう。

 たったったっ。
 雨粒が地を叩くことはないが、それでも晴天とはいかなかった日曜日。タンクトップにデニム生地の短パンという出で立ちの柑奈は、勢いよく夜道を駆けていた。目指す先は天ヶ原女子中学近くの三叉路である。
「あ、柑奈ちゃーん」
 3つの道が出会う場所で元気よく腕を振るのは、柑奈と同じ小学校に通っていた友人である。名を黒輝雪歌(くろきせつか)という。彼女の周りには、雪歌の中学の友人なのだろう、女子が2名と男子が1名いた。
 柑奈はにぱっと元気に笑い、雪歌に抱きつく。そうしてから――
 ばばっ!
 大げさな挙動で皆を見回し、破顔一笑。
「寝苦しい夜の恒例行事! 柑奈の心霊ツアー2011っ! どんどんぱふぱふー!!」
 叫んだ。ご近所の迷惑など一切気にせず、叫んだ。
 ぱちぱちぱちぱちぱち!
 更には、1人で盛大に拍手した。間違いなく迷惑な騒音レベルである。
「もお、みんな! もっと元気よく! ほら、幽霊に会いたいかー? おー!」
『お、おー』
 各名、戸惑ったように腕を弱々しく上げた。
 その様子を瞳に映し、柑奈はぷくうっと頬を膨らませる。
「むー、ノリ悪い……」
 軽くテンションを下げる柑奈。そのくらいで丁度いい、と皆が胸をなで下ろした、刹那。
「ま、いっか」
 そう言って、彼女はカラカラと元気に笑う。再び騒音レベルが引き上がった。
 雪歌を除く3名が小さく息をつく。なかなかに疲れる少女だ、と。
 そのような彼らの様子を気にすることもなく、柑奈は興味深げに少女2名、男性1名を見回す。少女2名は雪歌の友人と考えてよいだろうが、もう1名は近くで見ると思ったよりもお年を召されていそうな雰囲気だった。少なくとも中学生には見えない。
「ところで雪歌ちゃん。この子たちのお名前は?」
 そう尋ねてから柑奈は、まずは名乗るべきかと思い直し、口を開く。
「あ、柑奈は天笠柑奈。柑奈って呼んでね」
 にぱっ。
 元気に笑う柑奈を瞳に入れ、皆が曖昧に笑む。そうしながら、順番に自己紹介した。それぞれ、長篠夏茄(ながしのかな)、深咲桜莉(みさきおうり)、長篠冬流(とうる)と名乗った。
 やはり、唯一の男性である冬流は中学生ではなかった。その名からもわかる通り、夏茄の親類――叔父であり、夏茄を心配してついてきたという。彼の様子を窺う限り、彼自身が肝試しを楽しみにしてきたようにしか見えないが……
 それはともかくとして、それぞれ自己紹介を終えた彼らは柑奈の先導で歩みを進める。向かう先は天ヶ原女子中学校――雪歌、夏茄、桜莉の通う中学校だ。
 と、その時、
 キイィイイィイィイイン!
 耳鳴りが柑奈を襲った。
 ――また……? この間からしょっちゅうあるなぁ、耳鳴り。『何か』が生まれてる気配はするんだけど、何だろ? 今日はお昼くらいから数えて数百回単位で鳴ってるし。むぅー
 首を傾げながらも、柑奈は極力気にしないようにし、歩き続けることにした。

「で、何で我らが天ヶ原女子中学なの? 別に心霊スポットじゃない――よね?」
 天ヶ原女子中学の正門を乗り越え、正面玄関前に至ると、当然の疑問が桜莉から上がった。その声に、雪歌、夏茄、冬流が応えているのを横目に、柑奈はこっそり校舎に注意を向ける。
 ここへ至るまでにも疑問は覚えていた。しかし、いざ眼前に迫ると明白だった。この場所は期待とは違う状態にある。
 柑奈の兄である天笠慎檎は、つい2週間ほど前に、天ヶ原女子中学で起きている怪奇現象の調査依頼を引き受けた。6月頃から妙な事故や、不可思議な存在の目撃談が相次いでいる。それらの件に霊的な何かしらが関わっているかどうかの実態調査だった。調査結果としては、5月時期のナーバスな感情が陰気を呼び込んだことで、人に害為すレベルの霊気が溜まり込み、平素であれば力を持たないはずの霊たちが狂暴化したのが原因であった。
 慎檎はそのまま除霊作業に移り、祖父阿聖(あせい)より賜った三日月宗近(みかづきむねちか)という名刀を用いて、人に害為す存在をばったばったと切り伏せた。その際に、危険な存在や、将来危険になりそうな霊などは彼岸へ向かわせている。
 それゆえに、ここ天ヶ原女子中学は既に危険な霊や妖怪は存在しない現状ながらも、背筋を凍えさせるには充分な実話ネタがそろっている。肝試しを行うという意味で最適な場所である――はずだった。
 しかし、現在の校舎の状態を鑑みるに、その認識は甘いことが分かる。
 ――お兄ちゃんは、危険性のない2、3体を残して全部除霊したって言ってたのに……
 話している雪歌たちに適当に応えつつ、柑奈は小首を傾げる。
「……あっれぇ。おっかしーなー」
 そして、ため息をつきつつ、腕を組み、瞑目した。
 柑奈の感知能力では、何かしらの人ならざるモノが現状で少なくとも30体はいることが識別できている。そのうち10体程は危険性を伴う存在のようだ。
 確かに、慎檎は柑奈ほど感知能力に長けていない。とはいっても、数体ならばともかく、数十体単位で感知できないというのはおかしい。何らかの要因をもって、慎檎の仕事より後に霊が発生したと考えるのが妥当だろう。
 ――とりあえず、柑奈でどうにか出来そうならがんばろ。それで、ダメそうならライフライン『テレフォン』! かな?

 天ヶ原女子中学の校舎に這入り込み、柑奈たち一行は正面玄関から左に進む。そちらは特別棟であり、1階には職員室や保健室、校長室などが、そして2階や3階には、音楽室、理科室、和室、図書室などがある。怪談になりがちな特別教室たちが顔を揃えていた。
 それゆえ自然と思い出したのだろう。桜莉の口から、天ヶ原中学校にまつわる七不思議の話題が飛び出た。それはまさに、柑奈が本日のツアーの題材にしようと思っていた話題だった。七不思議などは大概眉唾であるのだが、ここ天ヶ原中学の七不思議は、そのいくつかが真実を含んでいたようなのだ。
 まずは第1の不思議、血塗られた階段。概要としては、かつて階段を転げ落ちた少女が血塗れで階段下に転がっており、あたかも最後の1段が血塗れであるかのように見えるというものだ。
「何ともベタな怪談だよねー。うちの中学にも似たような話あるよー」
 階段を目の前に、柑奈はそのように評した。そうしながらも、彼女の意識は階段にも話し相手である雪歌たちにも向いていない。
 ――力が弱いのばっかりだけど、ここらへん気配だらけ…… これ、あの耳鳴りがした時に感じた気配と一緒だ。この雰囲気、何度か感じたことが…… むー、幽霊とか鬼じゃないなぁ。妖怪――あ、付喪神? でも何でこんなにたくさん……
 首を傾げながら、彼女は懸命に辺りの気配を探る。ここ天ヶ原女子中学で付喪神が大量発生しているのは間違いがないようだ。しかも、よくよく調べてみると、危険性の強いモノもいるよう。柑奈の力は攻撃には向いていなく、ごく弱い存在しか祓うことが出来ない。今回はびこっているモノたちは大多数が弱々しいようではあったが、中には彼女の手に負えなさそうなモノもいた。
 ――……うん! ライフラインの出番だね!
 そう決意すると柑奈はポケットに手を入れ、携帯電話に触れる。そして、
「あ、ちょっと電話してくる。しばらくここでお話でもしててー!」
 他の者たちに声をかけてから、駆けだした。
 たったったったっ!
 2階へと向かい、雪歌たちに聞かれないだろう場所まで行くと、彼女は携帯電話の液晶画面に瞳を落とした。
 がたっ。
 その時、物音が響いた。その音源はすぐ近くにある音楽室であった。そして――
 キイィイイィイィイイイイィイィイイン!
 これまでよりも酷い耳鳴りが柑奈を襲った。
 ――うわ、これまず――
 柑奈の思考を遮り、力の塊が押し寄せた。衝撃の波が彼女を襲い、窓から落とそうとする。
 しかし、柑奈はとっさに腕で体をかばい、その波に耐えた。
「危なっ! もぉ、戦うのは苦手なのにっ! ――オン・アロリキャ・ソワカ!」
 不可視の波が空間を翔け抜ける。力は突然現れたモノに襲いかかり、しかし、霧散した。
「むー、やっぱ柑奈じゃダメかぁ。なら……」
 なおも襲い来る某かから逃れ、柑奈は大きく跳ぶ。距離をとり、瞑目した。
「オン・キリキリ・オン・キリキリ・オン・キリウン・キャクウン!」
 ばちっ。
 電流の走ったような音が響き、某かの動きが止まった。不動金縛りの法という、真言密教に伝わる術である。その名の通り、対象を縛り付ける呪法である。
「ふぅ。あれ? ――あ。そっか。君たち……」
 一息ついてから、何かに気づいたように呟く柑奈。少し哀しそうに瞳を落とし、しかし、直ぐに携帯電話を繰った。ボタンを数回押し――
 ぷるるるるる。ぷるるるるる。
 呼び出し音がしばし響く。そうして数秒の後、かちゃっと音が鳴った。
『おう。どうした、柑奈』
「お兄ちゃん、直ぐ天ヶ原女子中に来て。うち捨てられたアナログテレビの付喪神大量発生なう」

 柑奈が雪歌たちを引き連れて、第5の不思議へと向かっている頃、ようやく慎檎の気配が天ヶ原女子中学の敷地内に現れた。
 ――むー、やっと来たし。遅い!
 兄の行動の遅さに軽く不機嫌になり、柑奈は頬を膨らませる。
「? どうかした? 柑奈ちゃん」
 雪歌が尋ねた。他の面々も不思議そうに柑奈を見ている。
 柑奈は慌て、気を取り直してにこっと笑った。
「なんでもないない! さー、5つ目の不思議は――みんな大好きトイレの花子さん!」
『大好きではない』
 柑奈以外の全員が首を左右に振り、否定した。

 天ヶ原女子中学に辿り着いた慎檎は、校舎裏の倉庫へ向かった。柑奈に、まずはそこの奴らをどうにかして欲しいと請われていたためだった。柑奈曰く、7不思議ツアーの最後にそこへ行くから早めに危険を取り除いといて、とのことだった。正直なところ、慎檎には意味が分からなかったが、面倒なので聞き流して言われた通りにしている。
「さて、この中にいるって話だが――」
 がらっ。
 扉を開けた。すると――
 がっ!
 勢いよく、恨みのこもった瞳を携えたモノが飛び出した。その数は10体ほど。
 しかし、慎檎は慌てるでもなく、腰に下げていた竹刀袋に手をかける。そこから素早く、真剣を抜いた。
 ひゅっ!
 三日月宗近に慎檎の力が計上され、集ったモノたちの多くは名刀の錆となった。
「悪いな。君らにも言い分はあるんだろうが、こちらに害なすモノに対しては容赦するな、というのがうちの当主の方針でね」
「……ミ……ス……テ……ナ……イ……デ…… ミステナイデエエェエェエ!」
 残ったモノたちは哀しみを瞳に浮かべ、請う。それは慎檎に対する命乞いというよりは、この世界に対する最後の願いのようであった。
「……………せめて安らかに眠ってくれ」
 ひゅっ!
 再度、慎檎が名刀で空間を薙いだ。人に害を為しかねない程に世を恨んだ道具たち。彼らは黒く染まった魂のまま此岸を去った。
 慎檎は哀しげな瞳で、散った魂の逝く先を見つめる。それから、小さく息を吐いた。
「ここにいるあとの奴らは、危険性はないようだな。このまま朽ちていくのは無念だろうが、せめて恨まず逝ってくれ」
 そう呟くと、彼は踵を返して校舎へと向かった。

 ぶんっ。
 遠くで魂の消え去る音が響いた。
 柑奈は窓の外に瞳を向け、倉庫にいた付喪神の気配が著しく減っていることに気づく。
 ――何体か残ってるみたいだけど、危険そうなのは消えてる…… さすがお兄ちゃん!
 満足そうに1度頷く柑奈。そうしてから、
「さて、あとは倉庫だね」
 共にいる者たちへ向け、笑顔で声をかけた。

 きゃっきゃっきゃっ。
 妹とその連れが騒ぎながら廊下を歩くのを物陰から見つめつつ、慎檎はため息をついた。
 ――物好きな奴ら。肝試しなんて何が楽しいのやら。ま、いいけどさ
 苦笑し、慎檎は一行が去って行くのを眺める。そうして、彼らの背中が見えなくなってから、物陰から這い出す。
「さてと。次は柑奈が音楽室に縛り付けてた奴の退治、か」
 かっかっかっ。
 靴音を響かせ、彼は廊下を歩む。
 かっかっかっ。
 そして、先日血塗れの女学生を目にした『血塗られた階段』へとさしかかり、思わずため息を吐く。危険性はないが、場に縛り付けられている憐れな霊魂。最も相対したくないモノである。まだ、問答無用で攻撃を仕掛けられた方が、こちらがすべき行動としては単純でやりやすい。
 ――救ってやれたのかな、あれで……
 そのように寸の間呆け、しかし、直ぐに気を取り直して慎檎は階段の1段目に足をかける。
 再び足音を響かせて、今度は階段を歩む。踊り場を過ぎ、更に階段を経由して、ようよう2階へと至った。そこまで来て、彼はやっと彼、或いは彼女に気づいた。音楽室と銘打たれたネームプレートの下にある扉。その扉から廊下に飛び出す形で、モノがいるのが見える。
 先ほど倉庫で対したモノたちよりも少し力がある程度だろう。攻撃に向かない柑奈には荷が勝っていようが、幽霊や妖怪、鬼と戦う力がメインの慎檎にとっては赤子の手をひねるが如き易しき相手である。
 びりっ。
 その時ちょうど、電撃が走るかのような物音が響き、そのモノの体が解放された。柑奈のかけた不動金縛りの法が解けたのである。
「へぇ…… 柑奈は感知以外はあまり得意じゃないとはいえ、不動金縛りを自力で解くか。ぽっとでの付喪神にしてはやるじゃないか」
「わあぁあぁぁ……! あ……あああぁあぁぁ……!」
 不要のレッテルを貼られた物の怪は、悲痛な叫びを上げつつ慎檎に襲い来る。
 慎檎は口を真一文字に結び、素早く三日月宗近を抜いて正眼の構えをとる。そして、勢い込んで突っ込んでくる付喪神の眉間に、そのまま突きを打ち出した。
「あああぁあああぁああぁあぁあああぁあああぁあっっ!!」
 絶叫。
 その後、彼、或いは彼女は、痛みに瞳を見開き、塵と帰した。
 びっ。
 あたかも血を飛ばすかのように三日月宗近を振るい、慎檎は何度目になるか分からないため息をついた。

 先頃聞こえた絶叫を契機として、倉庫から飛び出し駆けゆく面々。そんな彼らをにまにまと笑みつつ見送ってから、柑奈は校舎を見上げた。音楽室の辺りに、彼女の兄の気配が確かにある。
「とりあえず、これで電話で伝えた分は終わったかー。にしても、いいタイミングで倒したなー、お兄ちゃん。さっきの断末魔のおかげで、みんなたっぷり怖がってくれて…… 今夜の柑奈の心霊ツアーは大成功!だね」
 にぱっ。
 独りで明るく笑み、柑奈は機嫌良さそうに歩みを進めた。向かう先はグラウンド。心霊ツアーの参加者たちが逃げた先である。

 正面玄関にて竹刀袋を抱えるように座り込み、慎檎は瞑目していた。暗闇の中、精神を落ち着かせて待つ。
 それから数分、ひょっとすれば数十分が経ち、ようやく彼の妹――柑奈がやって来た。
「やほやほ。おまたせ、お兄ちゃん」
「おっせえよ。退屈で寝るとこだったぞ」
「あはっ。ごっめーん」
 まったく悪びれた様子もなく、柑奈が言った。
 彼女のそのような様子はいつものことゆえ、慎檎はため息をつきつつも何も言わない。直ぐさま真剣な顔つきになり、竹刀袋をぎゅっと握りしめる。
「それで? まだいるんだろ?」
「うん。残ってる奴が1番手強いよ。てゆーかお兄ちゃん。あんなに強い力だってゆーのに、検知できないの? 調伏の仕事がメインとはいっても、それだと仕事のとき気龍寺の人に迷惑かけてない?」
 容赦なく言う妹に、兄はげんなりと項垂れる。
「言うなって。気にしてんだから。つーか、お前だってもうちょっと攻撃方面どうにかしろよ。不動金縛りも解かれてたぞ」
「柑奈はいーの。平和主義が売りの可愛い美少女探偵だからね!」
 ばばっ!
 無意味にポーズを取る自信満々な妹。その様子に、慎檎は再三のため息を吐く。そして、この話は適当に流すことにした。彼が柑奈と言い合いをしても、彼女の無駄なハイテンションに気圧されてしまうのが常だ。これ以上何か言ったとして、疲れるだけであろう。
「で? 残りはどこだ?」
 尋ねられると、柑奈はふいに表情を引き締め、瞑目する。意識を集中し、より正確な情報を感知しようと試みる。
「……音楽室があったのとは逆の棟。この間の仕事の資料と照らし合わせて考えると――2年生の教室棟の2階、空き教室」
 妹の言葉を受け、慎檎が小さく頷く。そして、竹刀袋を手に踵を返した。
「よし。行ってくる」
「うん! じゃー、足手まといは大人しくケータイいじってまっす!」
 しゅたっと右手を挙げ、明るく言い切った柑奈。
 手伝おうとする姿勢くらいは見せてもいいだろうに、と慎檎は呆れるが、ついてこられても足手まといなのは確たる事実だった。正しい判断だな、と考え直し、妹に声をかける。
「ああ。独りで帰るんじゃないぞ。夜道は危ないからな」
「おけおけ!」
 そう応えつつ、さっそく携帯電話をいじりはじめた柑奈。
 慎檎は1度大きく息をつき、それから、かっかっと軽快な足音を立てて教室棟を目指した。

 闇夜に染まる校舎は、当然の如く静けさに満ちていた。夜風が吹いて葉擦れの優しい音が響く以外は、慎檎の靴音だけが聞こえる。
 かっかっかっかっ。
 教室棟の階段を一定のリズムで上りきり――そこで、彼は緊張に身を固くした。ここまで来ると、彼にも対象の気配を感じられた。柑奈が危険視するのも頷ける、強き力を有していた。
 そのモノは……
 ――おかしいな。あっちは空き教室じゃない。移動している?
 疑問を覚えつつ、慎檎は慎重な足取りで気配のする方向へ進む。
 付喪神のような物から生じた妖怪は、通常であれば、その物から数メートル以内程度のある一定の範囲でしか行動できない。しかし、今回のモノの力は思った以上に強いようであるから、そういった制限に縛られないのやもしれない。
 がしゃんっっ!!
 その時、大きな音が響いた。ガラスが割れたような物音だった。
「な、何だ?」
 たったったったったっ!
 駆け出す慎檎。直ぐさま音の発生源へと至る。
「こいつがいるから…… こいつらがいるからあちきたちは……」
 2年3組の教室に人影があった。微かに差し込む月光を頼りに瞳を凝らすと、そこにいたのは女性に見間違わんばかりに美しい男であった。どこぞの役者かという風体だ。
 そして、彼の目の前には、ひび割れた薄型ディジタルテレビがあった。
「おいおい。実力行使かよ。相手が物だからまだいいが……」
 確かに、命が失われることがないという意味ではよいやもしれないが、金銭的な面ではあまり喜ばしくない結果である。
 慎檎の思考もまたそのように帰結し、小さくため息をつく。
 そうしてから、彼はすらりと三日月宗近を抜き放った。月光の光を反射する美しい刀身は、付喪神の心に憧憬と恐怖を与える。
「ひぃいぃぃ。あ、あちきを殺すのかい?」
「……殺す…か…… そうだな。そういうことになるな。世に害なすならば滅するのが、俺ら天笠の正義だ」
 すぅ。
 静かな動作で三日月宗近を正眼に構え、慎檎は言い切った。
 付喪神は恐怖し、力の限り抵抗を試みる。
「いやだああぁあぁ! 見捨てないでくれえぇえぇ! 共にいさせてくれええぇえぇ!」
 感情のままに、その身に宿る強き力を解き放つ付喪神。彼は腕を滅茶苦茶に振り回し、不可視の衝撃波を連続で打ち出す。
 慎檎は波が風を切る音を頼りに、襲い来る衝撃を受ける。刀自身の力と慎檎の力が、付喪神の力を四散した。そうしながら、彼は付喪神との間合いを詰めていく。じりじりと距離は詰まり、いよいよ、切り捨てるに十分な位置にまで達した。
 しかし、慎檎は迷っていた。付喪神が先ほどから表出させている心の叫び。人に捨てられる哀しみ。それでも人と共にありたいという想い。それを知った今、なぜ迷いすらなく刀を振るうことができよう。その上、この付喪神は力強きゆえかなまじ人らしい外見をしている。これまでのように、割り切る決心がつかなかった。
「――っ!」
 それでも、彼は当主の言を思い出し、感情を消して動く。
 付喪神が慎檎の頭めがけて衝撃波を打ち出したその時、彼は体を深く沈めて波を避ける。そうしながら体を回転させ、付喪神の片足を素早く払った。
 バランスを失った付喪神は、重力のままに倒れ、床に転がる。
 慎檎はその体を左手で押さえつけ、右手に構えた刀を彼の首元に突きつける。
「嫌だあぁああ! あちきは、あちきたちは、共に、ただ共にいたいだけなのにいいぃいぃ!」
 がっ。
 刀が空間を貫き、床を穿つ。
 しかし――
「その言葉が真実なら、共に来い」
 付喪神の首筋から数センチの位置に刀を突き立て、慎檎は言った。
「今の時代、天津神も天原も鬼流も、そして、妖怪でさえも区別はない。お前が望むなら、その身に宿る力を俺たちは迎え入れよう」
 かつて畏れの対象だった天津神と天原。恐れの対象だった鬼流と妖怪。近代において彼らは、皆一様にただの力在る者という扱いだ。害意を示さぬ限り、誰も彼も必要以上に畏れず、恐れない。
「あちきたちは……人と共に在れるのかい?」
「知らん。俺が責任を持てるのは力在るお前だけだ。他の同類はお前自身が何とかしろ」
 ひゅっ。
 刀を引き、慎檎は付喪神を押さえつけていた左手を放す。その後、踵を返して教室から出て行く。彼の後ろ姿は隙だらけだった。
 それゆえに、悪しきに染まった魂は足を踏み出す。再び人を信じて。

 付喪神が壊したディジタルテレビは、天笠家の負担で弁償した。加え、本件には諸経費がかかったという。その結果として、慎檎の部屋には、もはや映らないテレビが置かれることになったとか。

 とある夏の日のとある家。
「おい。勘九郎。コーラ買ってきてくれ」
「あ。あちきさん。柑奈は綺羅星堂のティラミスね」
「まったく……テレビ遣いの荒いお人らだよぅ……」
 そのように愚痴りながらも、人を愛する魂は嬉しそうにまなじりを下げていた。
 彼の想いは、絶たれることなく未来へ向かう。

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