8月の半ば、煌びやかな陽の光が大地を照らしている。そして、大地を覆うアスファルトが陽光を照り返し、大気が熱を受けてゆらゆらと揺らいでいた。木々の生い茂る一帯からは蝉の声が響き渡り、まさしく夏真っ盛りという風情である。
龍ヶ崎町(りゅうがさきちょう)からも天笠(あまがさ)本家からも遠く離れた地に、天笠慎檎(しんご)と天笠柑奈(かんな)は居た。それぞれ、上下から攻め来る熱に辟易気味だった。
「ふぅ…… 本家に世話になってる身だから仕事をするのはいいんだが、もうちょっと近場のを斡旋して欲しいもんだ。修行の時間が無くなっちまう」
呟いたのは兄の慎檎だ。八分丈のコットンパンツに青のTシャツという格好をしている。比較的涼やかな様ではあるが、猛暑の熱気には焼け石に水のようで、玉のような汗が額に浮かんでいる。
「柑奈は修行という名の罰ゲームに巻き込まれなくてハッピーだけど…… あっつーいッッ!!」
叫んだのは妹の柑奈である。下はデニムのショートパンツに、上はハート柄がプリントされた白のタンクトップという、慎檎以上に涼やかな格好ではあるのだが、残念ながらこちらも焼け石の熱量が水に勝っているよう。
彼らは新幹線とローカル電車、バスを乗り継いで、はるばる本州の西端地へやってきていた。その地に在る夏芳洞(なつよしどう)という名の鍾乳洞が、今回の彼らの仕事場である。
「やあやあ、實彌村(みやむら)へようこそおいで下さいました! 申し訳ございませんなぁ。観光協会もただでさえ少ない社員の1人が欠勤しており人手不足でして、お迎えにも上がれませんで……」
依頼主の實彌村観光協会会長、上利直樹(あがりなおき)がはげ上がった頭をハンケチで拭きつつやって来た。柔和な表情は人に警戒心を解かせる。
「お構いなく。初めまして、天笠慎檎です。こちらは天笠柑奈」
「どーもー」
ピースサインをびッと上利へ向けて、柑奈はにぱっと笑った。
上利はぺこぺこと低頭して名刺を取り出す。
「ご丁寧にどうもどうも。わたくし、観光協会の会長などを任せていただいております、上利と申します。以後、お見知りおきをどうぞ」
必要以上に卑屈な態度だった。生まれついての子分肌なのだろう。
慎檎は正直、態度を少し改めて欲しいと思ったが、そのようなことをわざわざ口にするのも失礼かと考えて言葉を飲み込む。代わりに仕事の話を進めることにした。
「早速ですが、くだんの夏芳洞へ案内して頂けますか? 事前に伺っていたお話では、洞内にあり得ないモノが居るため、追い出すか退治するか、とにかく観光客を怖がらせないようにしたいとのことでしたが……」
促されると、上利はやはりぺこぺこと頭を下げて、慎檎たちの先を歩む。夏芳洞へと向かい始めた。
そして、道中にとつとつと語り出す。
「夏芳洞の伝説というと河童なのです。ですので、仮に河童が顕れたというのならば、わたくし共といたしましても観光業に利用しやすいのですが…… いきなりあのようなモノが顕れたとあっては、普通はデマと思われるのが関の山。今のところ危険はないようですが、最悪の場合、皆様を怖がらせるだけの結果を生まんとも限りません。どうしたものか、考えあぐねておりましてな」
しきりに額の汗を拭く上利は、眉根を寄せてため息をついた。
「へー。河童の伝説があるんだー」
「ええ。お坊様とお心を通わせなさった河童の伝説ですな。わたくし共は古来よりそのお坊様と河童を祀ってまいりましたのです」
河童は妖怪とされることも多いが、時には水の神ともされる。ここ實彌村では後者なのだろう。
しかし――
――河童まんじゅう。河童せんべい。河童ラーメン。……河童を祀ってるというわりには、何とも俗っぽい。まあ、観光収入を得ないことには村存続の危機だろうから、仕方ないんだろうがなぁ
夏芳洞へ向かう途上にある土産物屋をのぞき込みつつ、慎檎が苦笑した。
一方で、柑奈は楽しそうに各々の店を冷やかしている。河童まんじゅうを1つだけ買って、歩きながら食していた。
「何が河童なのか分かんない普通のおまんじゅうだけど、おいしー」
――……そこは思ってても言ってやるなよっ
深いため息をついて、慎檎が頭を抱える。そして、帰る時にはせめて河童まんじゅうやら河童せんべいやらをお土産として買っていこうと決意した。妹の考えなしの発言に対するせめてもの罪滅ぼしとして。
ざあああぁあ!
水流の生み出す音が耳朶を心地良く刺激する。夏芳洞へと続く欄干からは、洞内から止め処なく溢れる清流を見渡せる。酷暑を忘れさせる涼やかさだ。
「ふわぁ。見た目だけでも涼しいのは嬉しいなぁ。うちにも滝とかあればいいのにねー」
「本家ならともかく、うちの庭に滝を作るスペースなんてねえだろ」
無邪気な柑奈の発言に、慎檎がつれなく応える。
一方で、上利が困ったような顔を浮かべて立ち止まった。
「ところで、お2人は上着などはご持参なさっておりますかな?」
『上着?』
揃って小首を傾げる天笠兄妹。このような暑い日に上着を持ち歩くわけがないではないか、という思いが満ち満ちていた。
「ははは。洞内に入ればわかりますよ。まあ、しばらくは問題ないでしょうから、とりあえずはこのまま参りましょうか」
笑って、上利は先を行く。欄干を抜けて暗闇の中へと進入した。
兄妹は訝りながらも後に続く。すると――
「! す、すっずしー! 何これ−!」
「こいつは凄いな…… いっそ寒いくらいだ……」
夏芳洞の中は、酷暑など押しのけるように涼やかだった。陽光を受けて熱を帯びた体には心地良い。
柑奈はこの上なく嬉しそうだが、慎檎はどこか浮かない顔だ。
「……まさか、ここに座しているモノの影響か? 何やら不穏な気配を感じる気もするな」
慎檎が訳知り顔で呟いた。
しかし……
「えと、お兄ちゃん。それ、気のせい」
「夏芳洞はいつでもこのような具合でして…… 陽の光が届かず、水気が熱気に勝るのでしょうな。自然の冷房です」
……………………………………………………
痛い沈黙が慎檎を突き刺した。響くは水の音ばかりである。
「そ、それで、目的の場所はどこでしょうか?」
沈黙を埋めるように、少年が早口に言った。
上利が腕で洞穴の奥を示す。歩みを進めて、天笠兄妹を先導する。
「職員がしばしば目撃する場所は小規模な地底湖です。底を影が横切るそうでして」
「地底湖、か。まあ、彼のモノもまた、河童同様に水の神などとも呼ばれますしね。他には?」
「あとは『龍の抜け穴』と呼ばれる縦穴にて目撃されますな。そこから出入りされるようでして」
夏芳洞の奥、地下水の流れから外れた位置に、地上から光を届ける穴が開いている。あたかも龍の通るべき道のようなそれは、龍の抜け穴などと称される。
その名をつけた者は、やはり同じモノを目にしたのだろうか。
「そのまんまかー。でも、これまでは目撃例とかなかったんだよね−?」
こつッ。
友だちに接するように上利に声をかける柑奈の頭を、慎檎が小突く。
「天笠家の代表として来ていることを自覚しろ。すみません、上利さん。それで、どうなのでしょうか? 伝説などもないのですか?」
「わたくしは存じ上げませんなぁ。夏芳洞と言えば河童ですからね。ここ数日で突然噂が立ち始めたものですから、わたくしどもも戸惑っておりますよ。いったい何故――」
ぴちゃん。ぴちゃん。
水音が響く。水が天井から滴り落ちていた。そのように水の気が満ちているためか、洞穴の岩場は滑りやすくなっている。
設置されている手すりをしっかりと掴んで一行は奥へと向かう。その最中、慎檎は洞穴の奥から入り口へと流れ出でる地下水に視線を落とした。水底の影が蠢いているように感じたのは気のせいだろうか。
「龍などというモノが顕れたのか……」
上利が小さく嘆息して、そのようにぼやいた。
煌めく陽の光が洞内に微かに差し込んでいる。龍の抜け穴は事実、何かが鍾乳洞から抜け出すためにあるかのようだった。
「遙か昔、洪水で増量した地下水がこの穴から噴き出したため、『龍の抜け穴』などという名がついたとの説もあります」
龍とはしばしば、氾濫した河川の猛々しさを現しているとも言われる。荒ぶる龍の逸話が残る地域には、洪水の元となる大きな河川があることも多い。
「ふーん。でも、少なくとも今はホントに龍がいるっぽいねー。微かに気配が残ってるよ。んで、こっちにいるのはお仲間かな?」
「いるのか? というか、お仲間?」
柑奈の言葉を耳にして、慎檎が難しそうな顔を浮かべる。修行の成果があまり出ていないのが気にかかるのだろう。彼の意識下では、龍の気配も何も感じ得ない。
「この岩、ただの岩じゃないみたい。上利さん、これは?」
「それは『巌窟王』という名の岩ですな。そちらは特に変な噂もないのですが……」
巌窟王などと名を頂いてはいるものの、特別な伝承があるわけでもない。その上、龍のように噂も立っていないとなると、上利としては柑奈の言葉が不可思議でしかなかった。
「んー、この人は上手く隠れてるみたいだねー。本来は『龍』もそうあるべきなんだと思うけど…… たぶん、何かがあって力が弱ってるのかな? 力の元に何かがあれば…… ねえ、君は龍さんの力の元、知ってる?」
柑奈が不思議そうに首を傾げて、傍らに佇む岩に疑問を投げかける。
端から見ると、岩に話しかける頭の残念な少女である。慎檎はともかくとして、上利は少しばかり訝しげにしている。
しかし……
「我が主は洞を流るる水を司る御方。冷気が力の源泉で在らせられる」
重々しい声が洞穴に響き渡る。慎檎の声でも、上利の声でも、当然、柑奈の声でもない。声を発したのは、巌窟王だった。
「りゅ、龍だけでなく巌窟王まで…… この鍾乳洞は怪しいモノだらけなのでしょうか?」
慎檎の陰に隠れて上利がぼやく。流石に喋る岩を目の当たりにすると、落ち着いてもいられないようだ。
「俺は特に感じませんが…… どうなんだ、柑奈」
「龍とこの岩、あとは蝙蝠の一部がちょっと力を持ってるくらいかな。逆に河童みたいな気配こそ感じないけどね」
鍾乳洞のあちこちから甲高い鳴き声が響いている。蝙蝠が飛び回る羽虫を追いかけているらしい。そのうちの数匹は、目の前で言葉を発している岩同様に力有るモノだと、少女は言う。
「な、なんと……恐ろしい……」
上利が青い顔で呟いた。
しかし、柑奈が笑顔で彼に反論する。
「恐ろしいことなんか何もないよー。この人も龍さんも、柑奈たちとおんなじだもん」
慎檎もまた、妹の言葉に頷く。
「ええ。人も妖も基本は同じです。そして、罪を犯す人とそうでない人がいるように、妖怪にも罪を犯すモノとそうでないモノがいます。夏芳洞はこれまで観光地として賑わってきたのです。そのような地に居るモノたちが恐ろしい存在である可能性はゼロですよ。ご安心を」
自信に満ちた言葉を聞いて、上利は曖昧に笑んだ。そう言われたところで、非日常に慣れ親しんでいない身としてはにわかには信じられない。
それも仕方の無いことと諒解している2者は、それ以上は何も言わずに話を戻す。
「それはともかく、巌ちゃんの言うとおりなら、龍が突然姿を見せるようになったのはもしかして…… どうしよっか、お兄ちゃん」
腕を組んで考え込み、柑奈が困ったように苦笑した。
話を振られた慎檎は嘆息して、腰に手を当てる。念のため、竹刀袋を腰に下げてきたが、今のところは龍を調伏する必要性は皆無である。
――単純に調伏すればいいわけじゃない仕事、か。柑奈がいなかったら何も考えずに龍を斬ってたかもな。ちょっとは修行の成果を示したいんだが……
軽く落ち込みつつ、彼はキッと前を向く。
「まずは龍を見つけよう。話し合ってここから出ていってもらうとか、積極的に村おこしを手伝ってもらうとか、色々と道はあるさ」
「そだね。ねえ、巌ちゃん。君のご主人様って今はどこに居るの?」
慎檎の宣言を耳に入れて、柑奈が言った。
岩はしばらく黙り込み、それから、重々しい口を開く。
「主は水の神。各地に雨の気を振りまいておられる。もう少しすればご帰還なさるだろう」
夏芳洞には水の気が満ち満ちている。龍はこの場所で力を蓄えて、暑気の中へと飛び出していくのだろう。そのため、外では姿を隠せているものと思われる。しかし、外で力を消耗し尽くした彼のモノは、鍾乳洞内では力を保てず、姿を人に目撃されてしまっているのではないか。
なれば、このところ龍の目撃談が相次ぐのは、猛暑日が続いて、龍の蓄えた水の気が消耗されやすくなっているためなのだろう。少なくとも、慎檎と柑奈はそのように予想した。
それが事実とすれば、いつもの夏芳洞――龍など存在しない夏芳洞に戻すための手段は、龍を追い出すか、調伏するかという話になってくる。もしくは、龍を最大限利用して、観光事業を盛り上げるしか道はない。
しかし、観光事業に積極的に協力する龍というのは、少々想像しがたい。ともすれば、倒すか、追い出すか。
かちゃ。
腰に刺さる刀、三日月宗近を握り、慎檎は深いため息をつく。
「何だかんだで、いつも通りに力で解決することになるかもな」
ずずずずずっ。
勢いよく麺をすする天笠兄妹。兄は河童しょう油ラーメンを、妹は河童塩ラーメンをそれぞれ食している。昼食には少し遅い時間であったが、腹ごなし、かつ、龍が帰ってくるまでの時間潰しに、ご当地メニューを注文してみたのだった。
「夏芳洞が涼しいのを通り越して寒く感じたから、無難な味にもかかわらずおいしく感じるねー」
「ったく。お前は思ったことを正直に口にしすぎだぞ」
正面に座る上利のことなど一切気にせずに笑顔で言い放った柑奈に、慎檎が弱々しい注意を向ける。
「まあまあ、お気遣い無くどうぞです、はい。忌憚ないご意見は今後の参考とさせて頂きますからして」
額の汗を忙しく拭きつつ、上利が愛想笑いを浮かべて言った。そして、落ち着かない様子で慎檎と柑奈を交互に見る。
「それはそれとして、よろしいのでしょうか? その、龍を夏芳洞で待たず……?」
確かに、こうして食事処でゆったりしていたのでは、龍とすれ違いになってしまわないとも限らない。しかし、それは素人考えというものだ。
「だいじょぶですよー。戻って来たらわかりますから。ねー、お兄ちゃん」
「ええ。この柑奈は龍の気配を感知することができますからね。ここに居たとしても龍の帰還を逃すことはありません」
慎檎自身は龍の気配を感知できない、という事実は伏せられた。
そのような事情を知らない上利は、一抹の不安さえも抱かず、ほっとひと息をつく。そして、再び愛想笑いを浮かべた。
「そ、そうですか。でしたら――」
がたッ!
と、その時、突然に柑奈が立ち上がった。テーブルが揺れて、ラーメンの汁が少しだけこぼれる。
「うわっ! こ、こら! 気をつけろ!」
布巾を手にしてテーブルを拭きつつ、兄が妹に注意する。
しかし、妹はそのような注意など耳に入っていない風に食事処の天井を、いや、その更に上、遥か天上を見つめていた。
「そっかぁ。弱ってたわけじゃなくて…… まあ、狐さん本人が居ないのは幸いだけど」
「? 何を言ってるんだ?」
不可思議な呟きを耳にして、慎檎が尋ねる。
「えと、取り敢えず、龍さんが戻ってきたみたいなんで行こっか。あとは実際に目にしてからってことで」
何やら苦笑して言葉を紡ぐ柑奈。しかし、一変して、にぱっと元気に笑む。
「もしくは、感知がんばって。お兄ちゃん」
「……うるせ」
渋い顔で呟きつつも、試しに意識を上空や夏芳洞へ集中してみる慎檎。しかし、柑奈が驚く因となるような気配を感じ取ることは出来なかった。そうなると、あとは夏芳洞へ向かうしかない。
がたッ。
「行くか。……上利さんはこの店でしばらくお待ち下さい。それでいいよな、柑奈?」
少し考え込んでから、慎檎が上利に向けて言った。柑奈があのように戸惑う以上、夏芳洞には何かしらが居ると思ってよい。ほんのわずかでも危険な要素があるのであれば、クライアントを伴って向かうわけにはいくまい。
「うん、そだねー。じゃ、あがリンはここで待っててよ」
「は、はあ。……あがリン?」
にぱっと元気に笑う14歳少女と、戸惑った顔の60間近の男性。
がんッッ!!
礼儀というものからはかけ離れた妹の言動に対して、暫定的に保護者となっている兄の拳がうなった。
ぽた……ぽた……
水滴の落ちる鍾乳洞を天笠兄妹が進む。上利に連れられて3人で辿った道を、今度は2人だけで行く。
「龍が帰ったからか、さっきよりも気配が濃いな。俺でも感じる」
「うん。でも、本来ならこんな風に気配が充満してちゃ駄目なはずだよ。龍さんが気配を隠しきれないほどに力を失ってる、もしくは……」
キィキィと、天井の暗がりから甲高い鳴き声が聞こえる。蝙蝠たちも夏芳洞の主の帰還に騒いでいるようだ。
「もしくは、なんだよ?」
「龍さんが人間に気を遣わなくなったっていう可能性も出てきたかな。残念ながら。しかも、そっちの可能性の方が有力」
ため息をついて、柑奈が言う。
慎檎が彼女の言葉の真意を問い質す前に、薄暗い照明で照らされた通路上に人影が顕れた。
「久しいな、天原の民ども」
「……はぁ。やっぱ貴方だったんだね、三好(みよし)さん。いや、本名は大神(おおかみ)さんだっけ?」
ため息をついた柑奈は、目の前の男性、大神という名の妖に瞳を向けた。
「こいつは……玉藻の前と一緒にいた狼の妖か!」
すちゃ。
竹刀袋から素早く三日月宗近を抜き放ち、慎檎が構えを取る。
「ふん。貴様の相手は分が悪い。まかせたぞ」
ばしゃああああぁああ!
大神の呟きに伴い、激しい水音が洞内に木霊する。地底湖の水面がしぶきを上げて盛り上がり、鱗の生えた長い背が姿を見せた。そして、ようよう鹿の角、駱駝(らくだ)の頭などが姿を見せる。
「ちぃ! 龍か! 操られてやがるのか!」
ぼやきながら、慎檎は駆け出す。柑奈の側から離れた。
どんッ!
龍の巨体が慎檎を追い、体当たりを仕掛ける。
慎檎は大きく跳び、水の溜まっている床にばしゃりと着地した。立ち入り禁止の区域ではあるが、今は仕方が無い。
ぐわああああああぁああ!
咆哮を上げて龍が更に追いすがる。大きく開けた口は人間くらいであれば飲み込めてしまいそうだ。
「祓(はら)ひ給(たま)へ 清(きよ)め給(たま)へ 神(かむ)ながら 守(まも)り給(たま)へ 幸(さきは)へ給(たま)へ!」
三日月宗近を正眼に構えて、慎檎が守りのための祝詞を素早く唱える。すると、彼の眼前に不可視の壁が形成された。
キィンっ!
龍の牙が人の弱き体を砕くこと無く弾かれる。
「はぁ!」
弾かれた龍の体に向けて、慎檎が突きを繰り出す。
しかし、龍はその一撃を素早く中空に浮かび上がってかわした。何度慎檎が斬りかかっても、かのモノは迅速な動きで洞内の空間を飛び回る。剣技のみで捕らえるのは難しいと思われた。
ゆえに――
ぱぁんッ!
「高天原(たかまがはら)に坐(ま)し坐(ま)して天(てん)と地(ち)に御働(みはたら)きを現(あらは)し給(たま)ふ龍王(りゅうじん)は――」
かしわ手を打ち、慎檎が水の神への祈願を始める。慎檎の力と龍神祝詞の力が呼応して、高まっていく。
夏芳洞の主とは異なる水の気が、辺りに漂った。
慎檎と龍が視界の端で争いを繰り広げている中、柑奈と犬神は張り詰めた緊張感と共に対峙していた。
「龍さんに何をしたの、大神さん」
「俺は何もしていない。アフロディテの術だ」
端的にそうとだけ応えて、大神は姿を変じた。獣の巨体が柑奈の眼前に顕れる。
『今度こそ、貴様たちを八つ裂きにする』
「……ご遠慮ねがいたいかなー、あはは」
引きつった笑みを浮かべて、少女はジリジリとあと退る。しかし、獣もまた彼女に迫る。
――この前はあちきさんが居たからよかったけど、柑奈だけでどうにか出来るかなぁ……
前回、幽霊船にて大神と対峙した時には、天笠家のアナログテレビが変じた付喪神、勘九郎が共に居た。しかし、彼は現在遠く離れた龍ヶ崎町でのんびりと過ごしている。
――……えーい、助けを期待してても仕方ないよねっ
覚悟を決めた柑奈が素早く印を組む。
「オン・キリキリ・オン・キリキリ・オン・キリウン・キャクウン!」
力強い言葉は力を持ち、大神を襲う。不動金縛りの法と称される力は獣を縛り――
パァンっっ!!
しかし、直ぐさま霧散した。
「あーもー! やっぱ柑奈じゃ駄目かー!」
くるっ。
身を翻して駆け出した柑奈。大神に背を向けて、地上へ向かうエレベーターを目指す。
『逃がさん』
ひゅッ!
しかし、獣の脚力に勝てるわけもない。狼は逃げる人の子に素早く追いついて、エレベーターへの入り口を塞いだ。
がッッ!!
鋭い爪が柑奈を襲う。かろうじてその一撃をかわした柑奈は、腰のポーチに手を伸ばした。
――もぉ! 駄目で元々!
ポーチから取り出されたのは、扇だった。模様も何もない、シンプルな白地の扇子。
ばッ!
柑奈は勢いよく扇を開いて、右の手で構える。
「えいっ!」
そして、腕を勢いよく振るう。それに伴い――
ひゅッッ!!
鋭い音が空気を振動させて、空間を引き裂いた。
『ぐっ…… な、なんだ?』
大神が呻き、鋭い痛みが走った前足へと視線を向ける。右の前足に大きな傷が出来ていた。
「うわっ。流石すみおばさんの扇子だぁ」
柑奈はこの仕事に出発する前、叔母の天笠阿澄(あすみ)にこの扇を渡された。扇は、普段から阿澄が仕事で使っているものであり、阿澄の天原の民の力が蓄えられた品だった。つまり、先ほど大神を襲った力は、蓄えられた阿澄の力なのだろう。
ぽたぽた。
紅い液体が夏芳洞の地面を濡らす。天井から滴る水が、ほどなく血液を洗い流すが、痛々しい様は変わりない。
――……助かったけど、この威力、下手すると大神さんを殺しちゃうよぉ
人の好いことを考えて、柑奈は踵を返す。追撃のチャンスを逃して、逃げ出した。
『ま、待て!』
足に傷を負った獣は、脚力のない人の子に負けず劣らずの速度しか出せずに、ゆっくりと後を追った。
どんッ! どんッ!
龍の体当たりを避けながら、慎檎は祝詞を唱え続ける。龍神祝詞が完成に近づくにつれ、洞内には普段以上の水の気が満ちていく。
ぐああああああああああああああああぁあ!!
うなり声を上げて、龍が慎檎の眼前に迫る。開かれた口には、鋭い牙が生えそろっていた。
――ちぃ
詠唱を途切れさせぬように、心の中のみで舌打ちをする慎檎。そして、横っ飛びで龍の一撃をかわす。
「六根(むね)の内(うち)に念(ねんじ)じ申(まを)す大願(だいがん)を成就(じょうじゅ)なさしめ給(たま)へと――」
そうしながら、彼は龍神祝詞を唱え続ける。もはや完成は間近である。
しかし――
ひゅッッ!
龍の尾が空間を薙いだ。凄まじい速度で慎檎の体へと迫る。
――っ! まずい! 避けれねえ!
がッッ!
完全に身をかわすことが能わないと判断した慎檎は息をのみ、咄嗟の判断で三日月宗近を地面に突き刺した。
どぉんッッッッッ!!!!!
それから直ぐに、大きな音が響いた。龍の尾が、三日月宗近ごと、慎檎を吹き飛ばす音が。
柑奈は大神に追い立てられながら、龍の抜け穴までやって来た。この通りを更に奥まで向かえば、地上へ向かうエレベーターがもう1つある。
しかし、大神は足に傷を負いながらも、柑奈に迫ってきていた。
『ぐぅ……! に、逃がさん!』
「あーもー、しつこいー!」
叔母の扇を使えば、大神を容易く葬れることは分かっていた。しかし柑奈は、なるべくならばそうしたくなかった。殺すことも、殺されることも、是とはしたくない。
とはいえ、このままではいつか追いつかれてしまうだろう。そのことも分かってはいた。
『殺す! お前らを……殺す! それだけが――俺の願いなのだッ!』
背後から響く呪詛の言葉に、柑奈はまなじりを下げる。
天原の民はかつて、とある地域に生息していた狼たちを滅ぼしたという。資料の上では、その討伐は狼が人を襲い始めたゆえとのことであったが、実際にどのような思惑があったのか、現代の人々がうかがい知る術はない。
大神は、その時の生き残りなのだ。
――あの人にとって、柑奈は憎むべき『天原の民』でしかない。だからこそ、柑奈はこのまま殺されるわけにはいかないんだ
柑奈が柑奈として殺されるのであれば、それで全てが終わる。しかし、柑奈が『天原の民』として殺されるのであれば、何も終わらず、ただ始まるだけだ。終わりの無い憎しみが、大神を縛り続けるだけだ。
「……逃げなきゃ」
『逃がすかアァアあ!』
人の子に獣が飛びかかった。
痛みが慎檎の全身を駆け抜ける。咄嗟に三日月宗近で防ごうとしたとはいえ、巨大な龍の一撃が生み出す衝撃は緩和しきれるものではなかった。
しかし、慎檎は何とか肺に溜まった空気を吐き出すことなく、意識を保ったままで龍を睨み付ける。そして――
「恐(かしこ)み恐(かしこ)み白(まを)す!!」
どんッ!
力強い言葉に伴って、地底湖の清浄なる水が盛り上がる。水は瞬時に巨体を形成し、2匹の龍が対峙した。龍神祝詞が生み出した龍と、夏芳洞の自然が生み出した龍の2匹が。
慎檎の龍神祝詞によって生じた龍が、飛び上がってもう1匹の龍へ突撃する。2匹は揃ってはじけ飛び、鍾乳洞内に轟音を響かせて転がった。
ふらッ。
龍たちが争っている中、慎檎は痛みでよろけながらも立ち上がる。
――よ、よし…… 龍神の力はここの龍に劣らないみたいだな。叔母さんの修行の成果か
そのようなことを考えながら、再び三日月宗近を構える。
――あとは、これで仕舞いだ!
慎檎自身が持つ力を刃に込めて、駆け出した。
がしッ!
大神の爪が柑奈を切り裂く直前、暗闇の中で動く影があった。影は柑奈と大神の間に割り込み、その体で鋭い爪の一撃を弾く。
「……巌ちゃん?」
柑奈をかばったのは、龍の抜け穴の脇にそびえる巨像、巌窟王であった。巌窟王は無言で、大神の身体を押さえ込む。
大神は何とかその束縛を逃れようともがくが、巌窟王の腕力は大神のそれを上回っていた。
『は、離せッ!』
「……人の子よ。このモノを殺せ」
じっと大神を見つめたあと、巌窟王が言った。
「え?」
「憎悪に塗れた力がこのモノ。断ち切れ」
言葉少なな巌窟王を瞳に映して、柑奈は顔を歪める。彼の言うことは正しい。大神は憎しみだけを糧として生きている。力を得たのもまた、憎悪を因としているに違いない。そのように生じたモノは、ただ害を為すだけのモノとなる。今は慎檎や柑奈に固執しているが、彼らが倒れれば次なる標的を探すだろう。そして、永遠に憎しみを抱いて生を歩み続けるのだ。
なれば、ここで命を絶つことこそが、世のためであり、大神のためであるのやもしれない。
けれども――
「……………やだもんッッ!!」
迷うことも無く、ただ単純に拒絶して、天原の民は走り去る。
『待てえええぇえエェえ!』
凄まじい剣幕で叫ぶ大神と、表情も無く狼を押さえ続ける巌窟王。そうして数分間が経ち、柑奈は奥のエレベーターに乗り込んで地上へと逃れた。
相も変わらず、憎しみばかりが浮かび続ける大神の顔とは対照的に、巌窟王には微かな笑みが浮かんでいた。
がつんッッ!!
名刀三日月宗近に天原の民の強い力が宿ったことで、その刃の切れ味は龍の硬い鱗をも容易に切り裂くはずだった。しかし、龍は傷を受けることもなく、ただ吹き飛んだ。鍾乳洞の壁にぶつかり、再び轟音を響かせる。
「……ふぅ。これでどうだ?」
止めていた息を吐き、慎檎が呟いた。視線を龍が伏せる地に向ける。
ぐぐっ。
水場に半分身体を沈めた龍が、ゆっくりと身を起こした。身体には打ち身やすり傷がありはするが、致命傷となり得るような傷は一切ないようだ。
『……んと、ここは夏芳洞? うち、何しとったんやろ』
――正気に戻ったか…… これで駄目なら手加減やめて斬るしかないとこだったぜ、ったく
かちゃりと、『逆刃』に構えていた三日月宗近を竹刀袋に収めて、慎檎がひと息つく。
『って、人間!? た、大変! えと、う、うちは怪しいもんとちゃうねん。今度の夏祭りで披露する仮装の練習しとるだけやねん!』
何やら慌てた様子で無理のある言い訳を始めた龍。甲高い声は女性のもののようだった。
慎檎は苦笑して手を振る。
「あー、安心しろ。俺、地元民じゃねえし。それに、一応天原の民なんで、あんたみたいなのには慣れてるよ」
『あ、そうなん? なぁんだ』
ほっとした様子で笑みを浮かべる龍。そして、ようようその姿を人のそれに変じた。
艶やかな黒髪が特徴的な、20代半ば程度の女性が姿を見せた。女性はにっこりと微笑んで、ひとっ飛びで順路へと降り立つ。
慎檎もまた、千畳敷(せんじょうじき)の名を冠する広間から通路へと戻る。
「うち、辰野亜依(たつのあい)いいます。あんたさんは?」
「天笠慎檎。……辰野さんは普段は人として過ごしているのですか?」
友好的な辰野を瞳に映して、慎檎は戸惑った顔を浮かべる。
「そうなんよ。うち、普段は観光協会で働いておりますのや。……今日、何日?」
「えーと、23日ですね」
慎檎の答えを耳にして、辰野はさぁっと顔色を青くした。そして、ぱたぱたと順路を奥へ向かう。
「ちょお、巌くん! 何でうちのこと起こしてくれんかったん? よおわからんけど、何か操られとったんやろ?」
彼女の問いかけを受けて、巌窟王が姿を見せた。
そして、彼の脇を大きな獣が飛び出していく。獣は辰野と慎檎の間を抜けていく時、ギロリと強く睨み付けた。
「? 何や? けったいなワンちゃんやなぁ」
「大神!!」
すっ!
竹刀袋から再び三日月宗近を抜いた慎檎。
しかし、辰野が彼の腕を強く握って、止めた。その間に、大神は外界へと続く道を駆けてゆき、陽の光の中へと消える。
「物騒なんは許さんよ、慎くん。それより巌くん、どういうことなん? うちが覚えとるんは、あの狐――玉ちゃんが来たとこまでなんやけど」
――玉ちゃん…… まあ、玉藻の前だから間違っちゃあいねえけど
かちゃ。
辰野の様子に毒気を抜かれて、慎檎が三日月宗近を収める。そして、呆れ顔で嘆息した。
「主はここ5日ほど龍の姿で過ごしておられた。時には人に目撃されて、騒ぎになっておったな」
淡々と紡がれた言葉。それは上利に聞いていた事実と何ら齟齬のないものである。
「そして今日、天原が顕れ、豹変なさった。推察するに、天原を誘き出して殺すことを、かの狐や狼は目的としていたのだろう」
続いた言葉に、慎檎が頷く。実際に体験したことゆえ、間違いないことを確信できた。
「ふーん。ならまあええかー。一般の人にはあんま迷惑かけとらんもんなぁ」
唯一あかんのはうちが何日か無断欠勤しとることやなぁ、などとぼやきつつ、辰野がため息をつく。
慎檎は慎檎で、そんなことだけを心配されても、などと考えてため息をついた。
そのような中、洞穴の奥から足音が響いてきた。タタタっという音と共に、軽装の少女が姿を現す。
「……むむ、大神さん、もう居ないよね。あっちのエレベーター上がってもさっきのとこに戻れなくてどうしよーかと思ったよ、まったく」
「何や、天原がもう1人おったんか。嬢ちゃんは何ちゅう名前や?」
辰野は柑奈が天原の力を有していることを瞬時に看破した。慎檎を苦戦させるだけの戦いの力に加え、他の力や状態を感知する力についても実力のある存在なのだろう。長い時間をかけて形成された鍾乳洞に住まう龍ともなれば、それも当然か。
「貴女は……ああ、龍さん? んとね、柑奈は天笠柑奈っていいます。よろしくー!」
にぱっ。
元気に笑う少女を瞳に映して、龍もまた笑みを返した。
「お。柑ちゃんは元気ええなぁ。慎くんはちょっと無愛想で、うち寂しかったんよ。子供はやっぱ元気やないとなぁ」
――ほっといてくれ……
疲れた顔で項垂れ、慎檎が心の中のみでぼやく。
「お兄ちゃん、普段はそうでもないんだけど、仕事中はむっつりしてるからねー。だからモテないんだよ」
「関係なくねーか! それ、今は関係なくね?」
あんまりな妹の言葉に、慎檎も今度ばかりは声を荒げる。
すると、辰野は楽しそうに笑った。
「お。ええね。元気出たやん。っと、それはともかく、そろそろ外出ん? 無断欠勤5日かぁ。直くんに絞られるんかな−?」
のんきなことを口にする女性を瞳に映して、慎檎はため息をついた。
「絞られるとかいう以前に、辰野さんは現状行方不明ということになっているのでは? 奥のエレベーターで上がって1度村の外へ出られてはどうです? いきなり夏芳洞から出てくるのは流石に不審すぎるでしょう?」
その進言に、辰野はぱちくりと瞳を瞬かせたあと、瞑目して考え込む。しばらくすると、ぽんと手を打った。
「そやね。慎くん、頭ええやん。なら、うちはちょっと行っとくるわ」
にっこりと笑みを浮かべて、辰野は後ろに跳んだ。ふわりと中空に浮かんだままで地底湖の上を漂い、ようよう龍の姿へと変じた。
『じゃあ、巌くん。いつも通り留守を頼むな。慎くんと柑ちゃんはまた後で』
そして、慎檎の目からは辰野の身体が消えたように見えた。
「……どこに消えたんだ?」
「力を目に集中する感じで視てみて、お兄ちゃん。まだ居るし、凄いよ」
妹の言葉を受けて、慎檎は瞳に力を込める。初めは上手くいかなかったが、ようよう、見えないはずのものが視え始めた。
龍が洞穴の奥へと向かっている。しなやかな動きで蛇の身体が空間を横切っていく。そして、上昇を始めた。龍の抜け穴に沿って、昇っている。
「光? そうか、外の……」
キラキラと乱反射する光が洞穴を満たした。抜け穴から漏れる陽の光が、辰野の身を包む鱗に当たり、煌めいている。
そして、光は水の気と融け合い、自然の奇跡を生んだ。
「虹色の龍…… ははっ。上利さんが見たら、村興しに使えるって喜ぶんじゃねえか?」
思わず呟いた慎檎。
そんな兄を横目で見て、妹が嘆息する。
「夢のない発言…… だからモテないんだよ……」
「……あのな」
再び肩を落とす兄。妹は悪戯っぽく小首を傾げ、笑った。
實彌村よりも東の地、天笠本家の武道場にて、慎檎と柑奈の叔母である天笠阿澄が瞑目して座していた。彼女は意識を遠くへと向け、甥と姪の動向を探っている。そして、ようよう瞼を押し上げた。
「……戻ってきたら説教ね」
阿澄が目つき鋭く呟いた。
すっすっすっ。
そんな彼女の元へとすり足で近づいてきたのは、天笠阿聖(あせい)だ。彼は阿澄の父であり、天笠家の現当主である。
「あれで説教とは、相変わらず厳しいな、阿澄。慎檎の成長ぶりは充分評価に値すると思うがな」
「評価していないわけではございません、当主。ただ、満点とはいかないでしょう。三日月宗近を抜いたのですから」
阿聖の言葉を受けて、阿澄は前髪をかき上げた。そして、ため息をつく。
「龍の身体を操っていた妖狐の力を正しく感知し、その力を取り除くだけで今回の件は解決できました。あのように戦う必要など皆無でしょう?」
「……まあな。無駄は多かった。そこは否定せんよ」
肩をすくめる阿聖。
彼を瞳に映して、阿澄は目つきを鋭くした。
「何かご不満でも?」
尋ねられると、阿聖は小さく笑み、瞳を閉じた。踵を返して歩を進める。そして、武道場の戸を開けて、立ち止まった。
「龍の意識が戻ったのは、慎檎が無意識のうちに妖狐の力を感知し、適切に除いたからだ。三日月宗近の峰で殴るという乱暴なやり方だったにしても、な。……あの子は着実に感知力をつけてきている。お前の指導も、あの子の努力も、もう少し認めてはどうだ?」
ぱたん。
言うだけ言い、阿聖は戸を閉じて去って行った。虫の鳴き声だけが響く。
ギシ。
しばらくして、ゆっくりと阿澄が立ち上がり、ため息をついた。
「……孫に甘い人ですね、まったく」
阿澄もまた戸に手をかけて、がらりと開ける。夏の夜を涼やかな風が駆け抜けていた。月明かりが大地を照らし、星明かりが天を彩っている。雲ひとつない夜空は、明くる日の晴天を予感させた。
彼女の甥と姪が戻る頃には、気持ちのいい夏日となっていることだろう。
――まあ、無事でよかった……
微笑みを浮かべる叔母上殿。彼女も結局は、人のことを言えないようだ。
「辰野さん。あんたも懲りんなぁ。まぁた、プチ駆け落ちかいな」
慎檎たちが夏芳洞から戻って来て数刻、龍への対処が完了したお礼にと、上利は實彌村の民宿にて、天笠兄妹に魚介や山菜を振舞っていた。そして、そんな彼らの前には、龍――辰野亜依が居た。
辰野は泣きながら實彌村へと帰還し、これまで男と駆け落ちしていたと言い訳したのだ。
「直くん、冷たいやんかぁ。うち、傷ついとんよ? あの人、うちのこと愛しとる言うっとったんにぃ! 慰めてぇな!」
「年に何回慰めりゃええんじゃ。もう逃げられるんにも慣れたじゃろ。仕事溜まっとるんじゃから、明日から頼むで」
呆れ顔でにべもなく言う上利。山菜の天ぷらにしょう油をかけて、口に運んでいる。
――てか、またって…… なんつーか、変わった龍だな
今回はただの言い訳に過ぎないが、年に何度も同じような事態に陥るとは思えない。他の『駆け落ち』は事実、男に逃げられているのだろう。
「よくクビにならないよねー、辰のん。どう考えてもリストラ対象なのに。あはっ」
浴衣に身を包み、柑奈が無邪気に笑った。
「柑ちゃん酷いやん! な、直くん! うち、クビとちゃうよね?!」
「えーかげん思い切りたいんじゃが、人手不足じゃからな。残念ながらクビと違うで」
「さっすが直くん! 愛しとるでー!」
こちらもまた無邪気に笑う辰野。絶えず嬌声を上げていて、やかましい。ゆっくり食事も取れやしない。
「……ふぅ。蒸し返すのもなんですが、よくクビにしませんね?」
「ちょ! 慎くんまで!?」
辰野が瞳に涙を浮かべて、恨みがましく慎檎をキっと睨む。
慎檎はそれを軽く無視して、上利に視線を向ける。
「まあ、先ほども申しました通り、どうしようもない人手不足ゆえ、というのは勿論あるのですが…… どうにも憎めなくてですな」
苦笑して肩をすくめる上利。
「夏芳洞の河童伝説については軽く説明させていただきましたな?」
「? ええ」
突然、河童の話になった。上利が何を言わんとしているのか、慎檎には理解しかねた。
「この人、その河童に似とるんですよ」
『……は?』
間の抜けた声を上げたのは、慎檎と柑奈だ。
辰野は、うら若き乙女を掴まえて河童やなんてけったいな話やで、と憤慨している。しかし、さほど騒ぎ立てないところを見ると、本気で怒っているわけではないようだ。
「実はわたくし、幼い時分に夏芳洞で河童と遊んだことがございましてな。と言いましても、もしかしたら河童だったのやもしれないという程度の話なのですがね…… その河童がまた、辰野さんのようにやかましい奴でして、いやはや懐かしいですな」
どこか遠くを見つめるように、上利は語る。表情は柔らかく、遠い幼き日の思い出を想う優しい気持ちが満ちていた。
「やかましいなんて、随分やな」
頬を膨らます辰野もまた、上利のように柔らかい表情をしていた。しかし、彼女は更に遠い過去を、もはや伝説と呼ばれるような時代を視ているようだった。
河童も龍も水の神だ。この地に伝わる伝説の全ては、龍であり河童でもある彼女と共にあったのやもしれない。真実が如何なるものかはともかくとして、彼女はずっと、この地を、そして、この地に住まう人々を守ってきたのだろう。
人ならざるモノは、何時の世にも慈しみの心をもって人の子を見守る。
「あはっ。龍でも河童でもある辰野さんが居るなんて、實彌村は守り神のご加護がたっぷりだねー」
ぺしっ。
慎檎が、考えなしに脳天気な発言をした妹の頭をすかさず叩く。そして、何事もなかったかのように上利に笑顔を向けた。
「ところで上利さん。この宿でお土産を買えますか? 夏芳洞前で売っていた河童まんじゅうや河童せんべいを数箱買おうかと思うんですけど……」
「え? ああ、そういうことでしたら土産物屋の主人に声をかけておきましょう。残念ながら宿には置いておりませんので、明日のお見送りの時にでもお渡しいたしますよ」
柑奈の発言を耳にして首を傾げていた上利だったが、慎檎の言葉に直ぐさま笑顔を浮かべた。上手く話をそらせたようだ。
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げつつ、慎檎はほっとひと息ついた。
一方で、柑奈は頭をさすって恨みがましげな表情を浮かべている。視線が向かう先は、当然ながら慎檎だ。口の動きのみで『ばーか』と言い、ぷいとそっぽを向いた。すると、辰野と目があった。
「堪忍な」
手を合わせて、小声で謝る辰野。
柑奈は瞠目し、それから決まり悪そうに頭をかいた。
「……柑奈こそ、ごめんなさい。今の時代でもバレたらまずいよね」
辰野が苦笑した。
「ええよ。それより、ケータイ番号おしえてーな。うちのこと知っとるの巌ちゃんと蝙蝠たちくらいやから、ぶっちゃけトーク出来る友だち欲しかってん」
「うん、いいよ。ついでだからお兄ちゃんの番号も教えるね」
本人の許可もなく勝手なことを言う柑奈。個人情報保護法も何もない。
「お。じゃあ、愚痴は慎ちゃん、恋ばなは柑ちゃんにするな」
――愚痴も恋ばなも、正体が龍とか一切関係ない気がするけど……
辰野の言葉を耳にして、柑奈が戸惑った顔で考える。しかし、
――ま、いっか
ニコニコと満面の笑みを浮かべている辰野を瞳に映して、苦笑と共に息をついた。仕方ないなぁ、と笑う。
人ならざるモノは、しばしば人間よりも感情表現が豊かである。時には憎しみのままに人間を襲い、時には喜びのままに益をもたらす。あたかも、幼い子供のようである。
「おい、柑奈。河童ケーキっていうのもあるらしいぞ。もらうか?」
おみやげの話題から派生したのだろう。慎檎が妹に声をかけた。
響きからするとあまりおいしそうではないが……
「うん! 食べる!」
瞳を輝かせて叫ぶ14歳の少女。さすがは若者、好奇心に満ち満ちている。
アフロディテや大神の動向など、頭を悩ませるべき事項は山ほどあるだろうに。龍ヶ崎町から遠く離れた地に居たとしても、かの町の住人の頭の中は、素晴らしく平和だ。