番外編 天原の軌跡
寄る辺なき生者

 高層マンションの1室。夜半のベランダにて眼下を注視する影があった。影の正体は10代半ばの少年。彼は光ない瞳で闇を見つめている。
 少年は勉強が苦手だった。運動も、人付き合いも、得意と言えるものがなかった。何につけても優秀な父母や兄は、そんな才能なき彼を認めない。そして、学校の級友もまた、彼を遠ざけ、居ない者と扱った。
 誰も彼を必要としていなかった。
 誰にも認められず、誰の大切な人にもなれない者は、果たして生きているのか死んでいるのか。彼は常に自問している。そして、その答えはきっと……
 なれば、生きて死者たることなど空しい。きちんとした生者になれぬなら、せめて――
 どんッ!

 降り注ぐ陽光を受けて河川が煌めく。耳を突くせせらぎは心地良く、視線の先を流れる稜線は、普段街中で過ごしている者の心を安らがせる。山々に連なる木々からは、季節を思わせる虫の声が響いてくる。
 そのような光景が広がる関西の片田舎に天笠(あまがさ)本家は在った。天笠阿聖(あせい)を当主に置く天原(あまはら)の民の家系である天笠家は、一帯を霊的に統治している名門である。
 その家の門前で伸びをしている少女がいた。彼女の名は天笠柑奈(かんな)。姓からも分かる通り、天笠家ゆかりの者である。彼女の父、天笠櫂(かい)は阿聖の息子であり、詰まる所、柑奈は阿聖の孫なのであった。
 彼女ははるばる龍ヶ崎町(りゅうがさきちょう)から電車やバスを乗り継いで、ようやくここまでやって来たところであった。
「んんっ! 長かったぁ! まったくもぉ、お爺ちゃん家遠すぎだよ」
 ぎー、ばたん!
「柑奈様。ようこそいらっしゃいました。ささ、お荷物を」
 柑奈の来訪とほぼ同時に門を開けて出てきた女中数名の内の1人が、柑奈の手から大きな荷物を取った。それを他の女中に渡してしまい、彼女自身は手で示して柑奈を天笠家領内に招き入れる。
「お疲れになりましたでしょう? どうぞおあがり下さいませ」
「あ、はい。どぉも」
 いつ来ても慣れないなーという感想を抱きつつ、柑奈は天笠家領内に足を踏み入れる。長く続く石畳を進むと、しばらくして大きな玄関口に辿り着いた。女中2名が先回りして引き戸を両側から開ける。
 がらがらがら。
 開け放たれた玄関の正面には、龍の描かれた屏風が置かれている。正面を睨みつけるその視線は、訪問者を威圧する。
 ――いつも思うけど、やくざっぽいよね。この玄関の屏風
 苦笑する柑奈。しかし、直ぐに気を取り直して1歩を踏み出す。三和土に上がり、フラボアのスニーカーを脱いだ。
 さっ。
 直ぐに柑奈用にしつらえられたスリッパが出され、スニーカーは靴箱にすっと収められる。
 ――たまにしか来ないのに専用のスリッパがあるとか、落ち着かないなー
 再度苦笑する柑奈。が、そうしてばかりもいられないため、歩を進めた。
 向かう先は奥の間――祖父の阿聖がいる場所である。

「ご当主様。柑奈様をお連れいたしました」
「うむ。入れ」
 がら。
 重厚な声音がふすまの向こうから響き、それに伴って左右同時にふすまが開いた。柑奈の眼前に、ただっ広い和室が広がる。天笠家当主の間である。
 その部屋の奥に、柑奈の祖父阿聖と祖母フユが正座していた。共に80歳、71歳と高齢ではあるが、しゃんと背筋を伸ばした姿は実年齢よりも若々しく見えた。
「遠いところよく来たな、柑奈」
「やっほー……じゃなくて、こほん。ご無沙汰してま――おります、当主さま」
 未だ脇に控えている女中たちの視線を受け、柑奈は精いっぱい丁寧な口調を作る。しかし、普段口にしていない言葉のオンパレードで、たどたどしくなってしまった感が否めなかった。更には膝をついて深々と礼をしてもいたが、どう見ても武士のような礼であった。女人の柑奈が振舞うべき礼節とはかけ離れている。
 阿聖の隣でフユが口元を押さえた。笑いをこらえているらしい。
 一方で阿聖は、ふぅ、と小さく息を吐き、女中たちを見渡す。
「ご苦労であった。下がってよい」
『はい』
 さっ。
 阿聖の言葉を受け、女中たちはきびきびとした動作で退出していく。
 かたんっ。
 ごくごく小さな物音だけを立ててふすまを閉めた。
 ふぅ。
 ほっとひと息つく柑奈。彼女は正座から横座りになり、ぐでっと畳に手をついた。
「やっと堅苦しい人たちが居なくなったぁ。やっほ。久しぶり。お爺ちゃん、お婆ちゃん」
「ああ。久しいな」
「遠いところ大変だったねぇ、柑奈ちゃん。ジュース飲むかい?」
 柔和な笑みの祖父母が孫娘を迎えた。

 柑奈が天笠本家にやってきたのには理由があった。
「でさ。お兄ちゃん、どんな感じ?」
 彼女の兄、天笠慎檎(しんご)は1週間ほど前から本家へ赴き、天原の民としての力を強めるための修行を行っている。8月の初めのとある事件にて、到底太刀打ちできない力の持ち主と対峙したのが契機であった。このまま漫然と過ごしていたのではそのうち命を落としかねない、と危惧した彼は阿聖に助力を請うたのだ。
 そんな彼の身を案じたのが父母、天笠櫂(かい)と天笠瑠実音(るみね)であった。彼らは柑奈に、慎檎の様子を見に行くように頼んだのだ。
 最初は面倒臭いと渋った柑奈であったが、好物である綺羅星堂のケーキを報酬として提示されたら断る理由がなくなった。関西への小旅行ついでという心持ちでやって来たのである。
「知らん。慎檎の修行については阿澄(あすみ)に全て任せている」
 阿聖が無愛想に言い放った。
 天笠阿澄は阿聖とフユの娘である。柑奈の母である瑠実音とは義理の姉妹、かつ、元同級生にあたり、今年で38歳になる。現在、阿聖の補佐や周辺地方の天笠傘下の天原の民を統率する立場にある。
「すみ叔母さんが?」
 柑奈は思わず顔をしかめた。彼女は幼少時、この家で軽く天原の力を鍛えられたことがある。その際に最も恐ろしかったのが阿澄だった。阿聖や、阿聖の長男であり柑奈の伯父である天笠樹都(きと)もまた厳しくはあったが、阿澄ほどではなかった。普段は至って優しい阿澄が、修行モードになった時に一層恐ろしくなる様は、完全にトラウマである。
「阿澄は他の仕事もあるからな。以前のように付きっ切りで怒鳴りつけているわけではない」
 恐怖の記憶を呼び起こしている柑奈を気遣ったのか、阿聖が言った。
 フユも隣で苦笑している。
「阿澄が帰ってくると毎日『まだ終ってないのかこのボケ茄子がっ!』って叫んでるけど、その時以外は静かなもんだよ」
「相変わらずなんだね、すみ叔母さん……」
 まったくフォローになっていないフユの言葉を受け、柑奈はため息をついた。
 そうしながら、すっと立ち上がる。
「すみ叔母さんっていつ頃帰ってくるの?」
「17時くらいだ。その後は20時まで慎檎の相手をする。慎檎の状況を知りたいのならばその後がよいだろう」
 現在は16時過ぎ。今慎檎に接触しても、修行の途中ということで詳しく話など出来ないと思われた。
 柑奈はこくりと頷く。
「おっけー。なら柑奈は部屋で適当に過ごしてるよ。柑奈の部屋、変わってないよね?」
「ああ。荷物もいつもの部屋に運ばせている。案内はいるか?」
 尋ねられると、柑奈は慌てて手を振った。
「いい、いい。疲れちゃうもん」
 苦笑して、肩を揉む真似をしてみせる。
 阿聖とフユもまた苦笑した。
 そんな中、柑奈はすっと背筋を伸ばし、正面を見据えた。阿聖とフユの瞳を真っ直ぐ見つめ、微笑みを浮かべる。
「お爺ちゃん、お婆ちゃん。しばらくお世話になります。よろしくね」
 ぺこり。
 深々と下げられた孫の頭を目にし、祖父母は相好を崩した。

 天笠慎檎は武道場で竹刀を構えていた。視線の先には紙で出来た人型。慎檎の身の丈よりも少し大きいそれは、ゆっくりと間合いを詰めてくる。
 すぅ…… はぁ……
 人型を見据えたまま、慎檎は大きく深呼吸した。身に宿る天原の力を媒体として大気中の霊気を集結させる。力は竹刀に集中し、強固な光の刃が形成された。
 ひゅっ!
 人型が動いた。慎檎に向けて瞬時に詰め寄ってくる。人型の纏う霊気もまた弱いものではなく、彼の叔母である天笠阿澄の強い力の片鱗が練り込まれているのだ。人型の攻勢を身に受けたらば、死にはせずともしばらく動けなくなるだろう。
 ぶんっ!
 人型の腕にあたる部分が慎檎に向けて振るわれた。腕は慎檎の右肩を穿とうとする。
 しかし、慎檎は冷静にそれを見切り、軽く右足を引いて避ける。続けて、小さい動作で竹刀を振るった。
「めえええええええぇえんっっ!!」
 ぱあんっっ!!
 小気味のいい音が響き、人型が縮んだ。しゅるしゅると小さくなっていき、最終的に手のひら大になった。
 ふぅ。
 慎檎が額の汗を拭いてひと息つく。そして、武道場の隅に置いてある木箱を見た。
「これで5時間で人型100体抜き完了、か。1週間かかっちまった」
 1週間毎日、叔母である阿澄の罵詈雑言を浴びせられ続けたのだ。ほっとひと息もつきたくなる。
「やれやれ。今日は怒鳴られずに――」
「こぉの馬鹿ものがああああああぁあ!!」
 済まなかった。
 慎檎が視線を巡らすと、武道場の入口に阿澄が立っていた。涼しげなワンピースという格好に、般若のような怒り顔が似合わないことこの上ない。
 つかつかつかつか!
 怒り顔のまま迫ってくる叔母。甥は目を白黒させた。
 そして――
 がぁんっっ!!
 拳骨が落とされた。
「っつうぅう…… な、なんだよ叔母さん。100体全部倒したぜ?!」
 与えられた課題はこなしている。叱られる意味が分からなかった。
 しかし、阿澄は相変わらず目を吊り上げている。
「倒せばいいというものではない馬鹿たれがっ!」
「はぁ?」
 霊気を宿した紙製人型――仮想的な敵との連続戦闘が本修行の趣旨である。にもかかわらず『倒せばいいというものではない』と言われても意味が分からない。
 阿澄は疑問符を浮かべている甥の頭を乱暴に掴み、無理やり左に回した。ごきっと鈍い音がした。
「っつ〜」
「見ろ!」
 痛がっている慎檎には構わず、阿澄は叫んだ。
 慎檎の視線の先には紙きれが散乱していた。倒した人型たちである。
「赤く変色している紙が見えるか?」
 阿澄の言葉通り、破れて散乱している人型の中には赤色のものがあった。人型は全て白かったはずだが……
「敵意のない人型を斬ると赤くなるようにしてあったのだ」
「へ?」
 慎檎が間抜けな声を上げた。相手の敵意など気にしていなかった。そもそも、敵意などの気配を感知することに、慎檎は長けていない。
「敵意のような分かり易い気配であればあるいはと思ったのだがな。まったく」
「い、言ってくれりゃあ注意し――」
「それでは意味がない」
 ぴしゃりと言い放つ阿澄。
「敵意など、常人でも意識すれば感じることが出来るもの。注意して相対したならば気づくのが当然。それに、お前がここに来た初日に私は言ったぞ。感知も鍛えろ、と」
 睨み付けてくる叔母にたじろぎながらも、甥は言葉を返そうと口を開く。
「それは聞いたけど――」
「覚えているのならばなぜ自発的に鍛えん!」
 怒鳴り声が響く。
 慎檎は萎縮し、俯いた。
「敵と相対しながらも感知力を最大限に維持し続けるくらい、どの天原の民も鬼流もしている。出来ぬお前は半人前どころの話ではない!」
「で、でも、感知なんて出来なくたって、敵は倒せるじゃ――」
 がんッッッッ!!!!
 頭頂部に衝撃が走った。凄まじい一撃が慎檎を襲った。
「やはりお前は駄目だ。そもそも私はお前に仕事を任せること自体、反対だったのだ。次からは柑奈で解決できるレベルの仕事しか回さぬよう、当主には言っておく」
 踵を返す阿澄。
 痛みに目を白黒させていた慎檎は、慌てて1歩を踏み出す。
「ま、待ってくれよ、叔母さん!」
「玉藻の前ならば天津(あまつ)と木之下(きのした)くんの娘に任せておけ。不完全にしか復活できていない妖狐など彼らならば容易に倒せる。お前は平和ぼけしていればよい」
 すたすた。
 慎檎の言葉など意に介さず、阿澄は足早に武道場を去ろうとする。
 そんな彼女の背後で慎檎はおもむろに――
 がばっ!
 膝を突いた。
「頼むから鍛えてくれ! 感知も可能な限り頑張るようにするから!」
「……なぜ感知を『頑張る』必要があるか、お前は分かっているのか?」
 立ち止まって阿澄が問うた。
「それは……」
 ふぅ。
 阿澄は息をついてから無言で慎檎を睨めつけ、ふっと視線をあさっての方向へ向けた。
「……この気配。柑奈が来ているか。丁度いい。例の仕事を――」
 そこまで口にして、阿澄は再び歩みを進めた。武道場の入口へ向かう。
「叔母さん?」
 訝しげに声をかける慎檎。
 それを受け、阿澄は振り返った。
「今日はここまでにしましょう。慎檎」
 にこり。
 先ほどまでとはあまりにも違う優しい微笑み。叔母のそれを目にし、慎檎は今日の修行が終わったことを知った。
「一緒に離れへ行くわよ。柑奈が訪ねてきているみたい」
 すたすたすたすた。
 柔らかい口調で甥に声をかけ、叔母は武道場を去って行った。
 残された慎檎はぐったりと腰を下ろし、小さく嘆息する。
 はぁ。
「2重人格なのかな、叔母さんって」

 あてがわれている部屋で柑奈がくつろいでいると、扉が2度3度とノックされた。感じる気配は覚えのあるもので、彼女の兄と叔母の纏うそれであった。時計を見ると18時。慎檎が修行を終えるにはまだ早い時間のようであるが……
「はーい」
 がら。
 ふすまを開け放つと、やはり居たのは慎檎と阿澄であった。
「久しぶりね。柑奈」
 ふわりと微笑む阿澄。
 そのような叔母を瞳に入れ、柑奈はほっとひと息ついた。
「うん、久しぶりー。よかったぁ。優しい方のすみ叔母さんで」
「まるで私が何人もいるみたいな言い方ね」
 くすくす。
 可笑しそうにしている様からは、かつて目にした恐ろしさなど微塵も感じられない。だからこそこの叔母は恐ろしい。
「時に柑奈。1つお願いがあるのだけれど」
「ふえ? お願い?」
 唐突な言葉に、柑奈は大きな瞳をぱちくりと瞬かせた。慎檎に視線をやると、彼も不思議そうにしている。別段、阿澄から事情を聞いている風でもない。
 何だろう、と首を傾げつつ、柑奈は阿澄の次の言葉を待った。
「明日、慎檎と一緒に仕事をして欲しいの。いいかしら?」
『え?』
 戸惑いの声が兄妹で揃った。
 慎檎は現在、天原の力を増強するための修行の真っ最中。ともすれば、『仕事』とやらもその一環と考えて間違いがないだろう。そこに柑奈が駆り出される意味が分からなかった。
「ちょ、ちょっと待てよ、叔母さん。今は仕事より修行を…… よしんば、その仕事が修行の一環なんだとしても、だったら俺1人で――」
「貴方の意見は聞いてないわ、慎檎」
 にべもなく言い放つ阿澄。慎吾をちらりと見るだけで、あとは柑奈を真っ直ぐ見据えた。
 上げ膳据え膳でダラダラして夏休みを謳歌しようとしていた天笠柑奈は、当然の如く焦る。
「で、でも、柑奈、明日はバスと電車で街中まで行って観光しよーかと……」
 にこにこ。
「それに柑奈じゃ幽霊退治も満足に出来ないし…… 足手まといだし……」
 にこにこ。
「えっと…… その……」
 あれこれ言い訳して逃れようとする柑奈を、阿澄はひたすらに笑顔を浮かべて見つめている。
 しかし、その目つきは段々と厳つくなっていった。
 …………………………
 しばしの沈黙。張りつめた空気は、いつ弾けるか知れたものではない。
 それゆえ――
「……はーい。やりまーす。わーい、おしごとうれしいなー」
 かつて鬼の阿澄にしごかれたトラウマを思い出して耐えられなくなった柑奈は、容易に折れた。
 快諾を耳に入れ、阿澄は機嫌よく笑む。
「まあ、ありがとう。よろしくね」
 にこっ。
 柑奈がなおも駄々をこねていたなら、女神のような彼女の笑みは一転、般若のごとき鬼面となっていたことだろう。
 はぁ。
 兄妹は思わず嘆息した。

 翌日。天笠兄妹は叔母の車で30分揺られ、最寄り駅付近までやって来た。然程栄えている風でもない。唯一、場違いな高層マンションが1棟目立っているぐらいだ。
 道中聞いた話からすると、今回の仕事はその高層マンションに住んでいる家族から頼まれたらしい。
「依頼人は1013号室にお住まいよ。エントランスに各部屋のインターホンがあるから、身分を伝えれば自動ドアのロックを外してもらえるわ。端的に言うと、依頼としては息子に憑いてるモノの調伏。ただ、時間がないから、詳しい話は依頼人から聞いてもらえる?」
 腕時計を気にしつつ、阿澄が言った。他の仕事が控えているらしい。
「わかった」
「おっけー」
 慎檎、柑奈がそれぞれ頷いた。2人とも、シートベルトを外して夏日の下へ出る。
 ぎらぎらとした陽射しが彼らを襲った。
「あっつー。依頼人さんのお部屋、冷房効いてるかなぁ」
 そのように呟き、柑奈は高層マンションを見上げる。何気なく、くだんの1013号室に意識を向けた。
 そして、
 ――……あれ?
 彼女は気付いた。
「ねぇ、すみ叔母さん。この仕事、本当に調伏?」
「クライアントの要望はそうよ」
 返答を受け、柑奈は眉根を寄せて考え込んだ。
「それで、いいの?」
 ふっ。
 姪の問いに、叔母は口の端を持ち上げて笑んだ。
「流石ね。慎檎には最後まで教えないように。それじゃ、頑張りなさい」
 ぶるるるるっ。
 白の軽自動車が、エンジン音を響かせて去って行った。

 ピンポーン。
『はい。どちら様でしょうか?』
 呼び鈴を鳴らしてしばらく待つと、スピーカーの向こうからアルトの声音が誰何した。
「天笠の者です」
 慎檎が端的に名乗る。すると、自動ドアのロックが外れた。
『部屋までいらして下さい』
 スピーカーの声はそうとだけ言って、通話を切った。
 慎檎と柑奈はエレベーターに乗り込み、10階のボタンを押す。鉄の箱は速度に乗って上昇した。
 チーン。
 甲高い音が響いて箱は止まる。そして、扉が開いた。
 1013号室はエレベーターホールから右に向かった廊下の途中に在った。
 ピンポーン。
 部屋の前でも呼び鈴を鳴らすと、直ぐに扉が開かれた。玄関には40代前半くらいの女性が立っていた。
 慎檎が丁寧に頭を下げる。柑奈も遅れて従った。
「天笠慎檎です。こちらは天笠柑奈」
「吾妻鏡子(あづまきょうこ)と申します」
 玄関先で恭しく礼をした顔は化粧気が少なく、どこかあどけなく見えた。
「さっそく本題ですが、息子さんに憑いたモノを調伏して欲しいということですが……」
「はい…… このままでは大地(だいち)、息子は…… まだ中学生なのに……」
 声を震わせ、鏡子は俯いてしまった。そうしながらも、彼女は慎檎と柑奈を家へと招き入れる。
 家の中は整然としていた。掃除が行き届いており埃ひとつない。
「息子さんは?」
「部屋におります。数ヶ月前から息子は部屋に引きこもるようになり、このところは寝ていたと思ったら、いつの間にやら居間でボォっと立っていたりと、意識しない行動を取ることが多く…… いつ自ら――」
 あぁ、と顔を顰めて呟き、鏡子は顔を両手で覆った。
 しかし、しばらく待つと、彼女は気を持ち直したようで、天笠家の者たちを率いて先を行く。居間から続く廊下を進み、ひとつの扉の前で立ち止まった。
 慎檎は部屋内に意識を向け、憑いているというモノの感知を試みる。大きな負の気と、微かな正の気が彼の五感を刺激した。
 ――確かに悪いモノが憑いてそうだな。……ふん。俺だって注意すればこれくらいは分かるんだ。あんな抜き打ちテストみたいなのでどうこう言うなよな、叔母さんも
 真面目な顔を浮かべながらも、慎檎は心打ちでのみ文句を紡ぐ。昨日、理不尽に怒鳴られたことが気に入らないらしい。
 こんこん。
「……大地。入るわよ」
 しばし待つが、中から返事はない。そのため、鏡子は許可を得ることは諦めてドアノブを回し、ゆっくりと押した。
 ぶわっ!
 部屋から漏れ出た負の気配。それに、慎檎と柑奈だけが顔を顰めた。常人以上の感知力がある者にとっては耐えがたい程の負の気が、一気に彼らを包んだのだ。
 ――うっわぁ、予想以上。憑いてる人も大変だぁ
 意味不明な感想を抱く柑奈。彼女は負の気に中てられすぎないように、感知力を調節した。
 一方で、慎檎はひたすらに耐える。感知力が全くないわけでもなく、感知に長けているわけでもない身では、こういった場合には耐える以外の選択肢がないのだ。吐き気を覚えながら部屋の内に瞳を向ける。
 部屋はこれといって何もなく、ベッドと勉強机があるのみであった。部屋の主である吾妻大地はベッドに腰掛け、陰気な表情で皆の方を向いていた。
「大地。昨日話した方々よ」
 声をかけられた吾妻大地は陰気な表情のままに口を開いた。
「さっさとコイツをどうにかしてくれ」
 ぼそぼそと紡がれた言葉。それを耳にし、慎檎は疑問を覚える。
 ――こいつ自身の意識が強い? あれほどの負の気に取り憑かれたら、大抵は憑いたモノに操られるか、そうでなくても自分の意思で話せるもんじゃないはずだが……
 すたすた。
 頭では考え続けつつも、慎檎は何でもない風を装って歩みを進める。ジャージ姿でベッドに座る少年の目の前まで移動した。
 疑問はある。しかし、今の状況は仕事を円滑に進めることはあっても、阻害する要因にはならない。なれば、彼がすることは1つである。
 すっ。
 ゆっくりと一歩を踏み出す慎檎。
「状況は分かりました」
 しかし、そう口にしたのは慎檎ではなく、柑奈であった。
 慎檎が訝しげにする一方で、柑奈は顎に手を当てて得意げに微笑んでいる。更には考え込むように目を瞑りながら、ゆっくりと部屋内を行ったり来たりしている。さながら、テレビドラマで見る探偵のようである。
「けれど、まだ機は熟していないようです。今のところはこれでお暇させていただきましょう」
 突然の言葉に慎檎は首をひねる。『機が熟していない』ことなどあろうはずがない。目の前にいるモノを祓えば、それで終わりだ。
「し、しかし、それでは大地が――」
「急いては事をし損じる、ですよ。ご安心下さい。今夜には終わります」
 自信満々に言い切り、慎檎の手を取る柑奈。
 慎檎はそんな妹の表情を窺い見る。別段迷いがある風でもなく、先の決断に絶対の自信を持っているようだ。なれば、従うべきだろう。
「それでは、また後ほど参ります。失礼します」
 礼をし、辞する天笠の者たち。母は困惑したように閉められた扉を見つめ、息子は苦々しげに舌打ちした。

 じーじーじー。
 遠くから聞こえる蝉の声が夏の暑さを増幅する。
 冷房の効いたマンションから厳しい暑さの屋外へと出た慎檎は、額の汗をぬぐいながら妹を見やる。
 彼女はバッグから携帯扇風機を取り出して、顔周りに風を送っていた。
「で? 説明してもらえるか?」
「拒否」
 にべもない言葉だった。
 慎檎は目つきを鋭くする。
「おい!」
「すみ叔母さんから『教えないように』って言われてるんだもん。詳しく知りたければ『ちゃんと感知』してよねー。あーもー、暑ーい」
 柑奈の言葉を受け、慎檎はうっと言葉を詰まらせる。
 阿澄が話を切り出したタイミングからいって、今回の仕事は慎檎の感知力云々に関わりがあるのは間違いがないと思われた。そうなれば、ここで柑奈に真意を尋ねるのはルール違反というものだろう。
 しかし、慎檎に本件の真相を掴むすべは今のところない。そもそも、先の部屋でも彼なりに感知力を最大限駆使していたのだ。それで分かったことといれば、大地が強大な負の気に憑かれていることと、大地が意外にも負の気に支配されていないことの2点である。どちらも、直ぐさま行動を起こす契機とはなれども、夜まで待つ意味を与えはしない。
「……ヒントは?」
「えー。どーしよっかなー」
 ニヤニヤと笑う妹。
 慎檎は最高にイライラした。しかし、報酬もなく情報を得るなど都合がよいのもまた事実。
「綺羅星堂のケーキ」
「憑くモノが悪いとは限らない」
 素早い回答であった。

 21時過ぎ、吾妻大地は目覚めた。ベッドで横になっていたら、いつの間にやら眠っていたらしい。彼の手には携帯電話が握られている。
 珍しい、と彼は自分で思う。友人もおらず外出もしない彼は、携帯電話にお世話になることなどない。
 4月の始業式の日にクラス全員の番号とアドレスを強制的に入力された以外には、家族の番号が入っているだけのメモリー。そのメモリーからは電話がかかることもなければ、メールが届くこともない。彼の携帯電話が電子音を奏でるのは、迷惑メールが届いた時のみである。
 腕を動かしてみる。立ち上がってみる。今夜は調子がいいらしい。『彼』が入ってから、彼の体は動作が鈍くなった。部屋を歩き回るのにも苦労する日が珍しくない。ましてや、ベランダの鍵を開けて外の空気を吸うなど不可能である。
 しかし、今日はそれが出来る。
 彼の父母は大地の動向に無関心であった。何か嬉しいことがあった、哀しいことがあったと報告しても、大地が父母から与えられたのは無難な反応のみ。ちょうど、赤の他人が興味のない話に相づちを討つように、父母は大地の話を聞く。それゆえ、彼はいつしか父母と話をしなくなった。
 彼の級友もまた、彼に関心を寄せはしない。彼は常に独りで教室に居た。時には外を眺め、時には机に突っ伏して時を過ごした。そして、今は自室にこもっている。いじめられたわけではない。しかし、居るけれど居ない、という状況に耐えられなくなったのだ。
 心は廃れていった。
 すると『彼』が来た。『彼』は彼の邪魔をした。
 しかし、今『彼』は弱っているらしい。昼間に来た『天原の民』とやらが影響を与えたのやもしれない。彼らは何もせずに去ったが、彼らが来たことで『彼』の力が減退した。
 ――役立たずかと思ったけど
 意外と役に立ったようだ、と大地は小さく笑む。
 これで――
 がらッ!
 ベランダを開け放つ。冷房の効いた部屋に夏の熱気が押し寄せた。
 暑い夜だった。

 居間でテレビを眺めていた鏡子は、突然に不安を覚えて立ち上がった。どうにも大地の部屋が気になった。時計を見上げる。21時過ぎ。夫は残業が多く、22時30分くらいまでは帰ってこない。
 彼女も夫も、昔から人付き合いが苦手だった。自身の家族とさえも上手く話せないことが多かった。当然ながら、自分たちの子供が相手でも。だからだろうか。大地はいつからか彼女や夫と話をあまりしなくなった。このままではいけないと思いつつ数年の時が流れ、大地は部屋にこもるようになる。
 その息子の部屋が異様に気になるのだ。どのように声をかけてよいかわからず、平素であれば大地の部屋を訪れることはない。しかし、今だけは尻込みしている場合ではない、という気持ちが、不安が彼女を襲った。
 こんこん。
 控えめに息子の部屋をノックした。
「大地? 入るわよ? いい?」
 声をかけてしばし待つ。返事はない。
 がちゃ。
 ゆっくりとゆっくりと扉を開ける鏡子。冷房の効いているはずの部屋から、熱気が漏れた。
「……………?」
 不審に思い、鏡子は部屋内を見やる。ベランダが開いていた。
 大地は居ない。
 そして、外から、下から、悲鳴が聞こえた。

 夜中にもかかわらず予想外に人の多い眼下へ向けて、大地の体が自由落下を始める。
 誰かが気づいたのだろう。男女数名の悲鳴が耳に入った。
 ――うるさいな
 そんな感想を抱き、大地は顔を顰める。しかし、気にしないことにした。どうせ直ぐに聞こえなくなる。
 ゆっくりと目を閉じた――その刹那。『彼』の気配が強くなった。

 数分前のこと。天笠慎檎と天笠柑奈がマンションの下の物陰に潜んでいた。電信柱の裏から上を、吾妻家を見つめている様は、非常に怪しい。
「なあ柑奈。吾妻家に行かなくて本当に大丈夫なのか?」
 感知して、というよりは、柑奈にヒントを貰ったことで結論に至った慎檎は、まだ懐疑的であった。『彼』に任せる、という結論に不安があるよう。
 柑奈は考え込み、苦笑した。
「大丈夫は大丈夫だよ。ま、ちょっと荒療治になるかも、だけど」
「それは――」
 ざわざわ。
 慎檎が言いかけた時、何やら話し声が聞こえてきた。いずれも若い声で、学生がたむろしているようだ。
「なんだ?」
「んー。見た感じ、アースくんと同年代っぽいし、クラスメイトじゃない?」
 柑奈の言葉通り、集っているのは中学生くらいの男女が30名ほど。ちなみにアースくんとは大地のことらしい。
「ケータイって便利だよねー。なりすましが楽々」
「……憑いてる奴があいつらを呼んだってことか。だが、何のためだ?」
「んとねぇ」
 呟き、柑奈が視線を上げる。そして、にっこりと笑った。
「タイミングばっちり。お兄ちゃん、上見てみて」
 促され、慎檎が視線を上げる。この状況で妹が月を愛でよと言っているとは思えない。瞳を向ける先は吾妻家で良いだろう。
 そこには――
「って! おい! 早まるな!」
 大きな声を上げた慎檎に、若者たちの視線が集まる。そして、最終的には彼の視線の先へと全員の瞳が向いた。
「きゃーっ!」
 少女の悲鳴を皮切りに、方々で声が上がる。そして……
 どんッ!

 そこは葬儀場だった。
 死んだ者が葬儀場の上空を漂い、残された者の悲しむ姿を見る。そのような幻想奇譚は本やドラマのみの出来事だと、大地は思っていた。しかし、彼は今ここに居る。
 葬列に並ぶ者は少なく、親戚と学校のクラスメイトが居るのみだ。クラスメイトに至ってはあからさまに面倒そうな態度をしている。
 しかし、数名は俯いて涙をこらえていた。数名は嗚咽を漏らしていた。そして、両親は、兄妹は……
 大地の胸に悲しみが溢れる。後悔が募る。
 そんなはずはない。こんな感情が生まれるはずはない。なぜなら――
『彼らは僕のクラスメイト、家族です。君のその想いは、かつて僕が抱いた悔恨、悲嘆』
 大地の中の『彼』が言った。
「……こんなものを見せてどうしようっていうんだ。俺のクラスメイトは、家族は、悲しみはしない。嘆きはしない。俺の葬儀場へ行けば分かる」
『君の葬儀場?』
 くすり。
 小さく笑う『彼』。そして、大地の意識は途切れた。

 がやがや。
 ざわめきが耳を突いた。誰かが耳元で叫んでいる。
 うるさいな。大地はそんなことを思い、眉根を寄せた。
 がやがやがやがや。
 更に騒がしい声が響く。心持ち、先ほどよりも希望の光が含まれているように感じた。
 すぅ。
 大地はゆっくりと瞳を開ける。
「起きた! 生きてるぞ!」
 目の前で喜色を浮かべて叫んだのは、大地のクラスメイトだった。名を直ぐには思い出せない。
 彼の後ろでは、男女数十名が皆抱き合って喜んでいる。皆、クラスメイトである。やはり、いずれも名をはっきりとは思い出せない。
「大地いいぃいぃいっっ! 大地いいいいいいぃいぃいいいぃいっっ!!」
 遥か上空――マンションの高層から悲鳴にも似た声が聞こえた。聞き慣れた声。母親の――吾妻鏡子のものである。
 マンションのベランダに顔が次々と並ぶ。住人が皆、何事かと外へ出てきたのだ。
 ――近所迷惑だな
 ずきッ。
 大地の体を痛みが駆け抜ける。体の随所に傷やアザがあった。しかし、致命傷や重傷は負っていないようだ。
 痛みを押して、大地は体を起こす。
「お、おい。大丈夫なのか?」
 尋ねたのはクラスメイト。
 大地は彼を見る。話をしたこともない彼を見る。赤の他人で、大地に興味など微塵も持っていないはずの彼を見る。大地の存在を無視していたはずの彼らを――クラスメイトたちを見る。
 違うのだ。分かっていた。彼らが大地を無視したのではない。大地が彼らを無視したのだ。
 クラスメイトは気のいい者たちばかりで、皆、何かと大地を気に掛けた。けれど、他ならぬ大地自身が彼らを遠ざけたのだ。大地も両親同様、他者と接することが極端に苦手なたちだった。クラスメイトは、大地が干渉されることを嫌うと知ったからこそ、大地のために努めて関わらぬようにしたのだ。
 しかし、人とは勝手なもので、心が弱れば事実を曲げる。自らが望んだ結果とて、あらゆる他者に干渉されない生活は、大地の存在価値に疑惑を持たせた。そのような負の思考が積もりに積もり、彼は彼の負の感情自身に憑かれた。
 病は気からとはよく言ったもので、負の気に憑かれた大地はまさに、悪しきモノに取り憑かれたかのようになっていった。そんな彼を寸でのところで現世にとどめていたのが――
『君の葬儀場なんて、まだまだ必要ない。思い出したね?』

「おつかれさまー」
 彼から出でて去ろうとした『彼』を引き留め、柑奈が声をかけた。
 振り向き、『彼』は微笑む。
『昼間は助かりました。そっちの彼の力を受けたら、僕など即座に消滅していたでしょう』
 慎檎はこの時点になって初めて、話をする『彼』から負の力など感じ取れないことを実感する。
「すまなかった。憑いてるモノが悪くないケースなんて初めてだったもんでな」
 とは言うものの、一流の天原の民であれば気づくべきことなのだろう。実際、叔母の阿澄は現場に赴かずとも、状況を把握していたはずだ。でなければ、感知の重要性を説いていたまさにその時に、丁度良くこの仕事を回しはしない。
『気にしないで』
 そう言って、『彼』は姿を消した。終わったのだ。
 慎檎は今回の仕事を振り返る。昼間、柑奈が止めなければ……大地は最悪死んでいたかもしれない。今目の前に居る『彼』も、慎檎の手により消え去っていただろう。慎檎自身が苦しむだけであれば『感知力などなくてもよい』と強がっていてもいいだろう。しかし、結果として他者を傷つけ得ると知ってしまった以上――
 ふぅ。
「こうも見事に実感させられちゃあな。苦手なりにもどうにかしなけりゃいかんよな」
 息をつき、彼はぼやいた。

 たったったったったっ。
 次の日の早朝。昨日の昼に車で走った道のりを、慎檎と柑奈は駆けていた。
「はぁ…… はぁ…… な、んで、柑奈まで……」
 叔母、阿澄の命で、彼らはまだ薄暗い時間から今まで、有酸素運動に勤しんでいた。慎檎は当然修行の一環であるが、柑奈に関しては『罰』という意味合いが強い。
「ま。利益度外視でクライアントの命だけ救っちゃあな。人道的には褒められようが、資本主義的にはNGだろうよ」
 そう。結局、吾妻家からの成功報酬は出なかったのだ。結果的に大地は憑き物が取れたように気持ちが上向いたが、実際問題、慎檎と柑奈が為したことはひとつもない。少なくとも、吾妻鏡子からすればないように見える。当然、成功報酬など払われるはずもない。寧ろ、苦情がこなかったことが奇跡とも言えた。
 結果、今のこの状況である。天笠本家から十数キロメートル。慎檎たちは街中に出ていた。
「うー、疲れたー。お兄ちゃん、ケーキたべたい」
「スポーツドリンクで我慢しろ。さ、そろそろ戻るぞ。10時までに戻って、人型との模擬戦闘10セットを午前中はやるんだからな」
「鬼ぃ……」
 阿澄の怒りを買ったことで、夏休みの残りを思いがけず修行という名の拷問に費やすことになってしまった少女は、爽やかな朝に不似合いな暗い表情を浮かべて呟いた。
 と、そのような彼らの隣を――
「ほらほら、早く来いよ」
「朝会が始まっちゃうよ」
 手招きしながら後ろ歩きで進む少年少女たちが過ぎていった。
 そして、彼らから遅れ、
「朝会、ね。やっぱ面倒だな、学校は」
 1人の少年がぼやきつつも、明るい表情で歩みを進めている。
 正の気のみが満ちているわけではない。負の気はいまだ残り、情緒は不安定と見える。
 しかし、彼は笑っている。
 戦う力がなくても、何かを調伏しなくても、人を救えるのだ。
 ごく普通の朝。夏休み中の登校日。その登校風景の中には小さな奇跡があった。
 その奇跡の光を胸にしまい込み、慎檎は再び駆け出す。
 一方で――
「ううぅ…… 龍ヶ崎町に帰りたいよぉ……」
 少女は泣きべそをかいて重い足取りで続く。
 両極端の2者をサンサンとした朝の光が照らしていた。

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