夏の日。照りつける太陽が景色を歪ませる。陽炎の立ち上る浜辺にはほとんど人がいない。
波打ち際を歩く少女は、手差しで陰を作り出し、水平線を見つめた。名もない無人島や航行するタンカーが視界に入った。しかし、目的のモノを瞳にとらえることは出来ない。
「むー。やっぱお昼じゃ無理かー」
「出るのは『幽霊船』ってぇ話じゃあないかい。やはり夜に現れるものじゃあないかねぇ」
少女の背後から、着流し姿の美男子がやってきた。苦笑して腕を組んでいる。
「あちきさん。お兄ちゃんは?」
「慎檎は旅館でおとなしく寝ているよ。柑奈も夜に備えてひと眠りしたらどうだい?」
あちきさんこと勘九郎(かんくろう)から声をかけられると、天笠柑奈(あまがさかんな)は不機嫌そうに頬を膨らました。
「せっかく海来たのに寝てるだけなんてやだもん! お姉ちゃんが居れば一緒に遊んでくれるのにぃ!」
ぷいっと顔を逸らす柑奈に、勘九郎は苦笑した。
ここは、彼らの住まう龍ヶ崎町から少し離れた田舎の浜辺。夏ともなれば海水浴客でごった返し、平素とは違う光景を望めるスポットなのではあるが…… 10日ほど前からこの田舎の海では平素通りの閑古鳥が鳴いている。
そしてその原因こそが、勘九郎の先の発言にもあった『幽霊船』なのである。夜になるとぼろぼろの船体が姿を顕し、浜辺に近い浅瀬から沖までの区域をゆらりゆらりと漂うという。
夜のみの出現とはいえ、当然ながら人々は気味悪がり、昼間も遊泳しようなどとは思わないようだ。一方で、オカルト趣味の者や野次馬たちが夜遅くに騒がしくしており、土地の者としては踏んだり蹴ったりな状態とのことだった。
それゆえ、困った村長が知り合いの天原の民に相談し、巡りに巡って柑奈の祖父、天笠阿聖(あまがさあせい)に伝わり、その結果、手の空いていた柑奈と、柑奈の兄、天笠慎檎(あまがさしんご)にお鉢が回ってきたという具合である。
「そーいえば、おじいちゃんの話だと助っ人が来るらしいけど…… 誰か来た?」
「いぃや。あちきは見ていないねぇ」
阿聖の談では、微かながら危険を感じるゆえ或る者に助力を請うた、とのこと。その者が誰であるかまでは聞かされておらず、柑奈や慎檎は少しばかりイライラしていた。
「おじいちゃんってばもぉ! 柑奈とお兄ちゃんだけじゃ無理だってゆーの! 失礼しちゃうよ!」
プンプンと怒りを露わにし、柑奈は砂浜を乱暴に踏みつけた。砂の大地にザッとビーチサンダルの跡がつき、そして、直ぐさま波がザァと押し寄せて、その跡を消す。
柑奈はその様子をぼぉと見つめ、それから沖に瞳を向けた。
「……まぁ。確かに何だか嫌な気配はするけどさ。おじいちゃんの判断に間違いがあるとも思えないし」
勘九郎は柑奈同様に沖に瞳を向け、首を傾げた。
「そんな気配するかい? あちきは感じないけどねぇ」
彼は付喪神と称される存在であり、霊的な感知能力は比較的長けていると言える。それでも、柑奈が言うような『嫌な気配』を感じることは能わなかった。
「昼間だからだと思うけど凄く微かだもん。あちきさんじゃ無理だよ。柑奈だって、おじいちゃんの判断があったから気づいたくらいで、ただ単にここに遊びに来ただけだったら気づかないよ」
「へぇ。するってぇと、柑奈たちの爺様ってぇのは凄いお人なんだねぇ。ここからは随分遠くにお住みになっているんだろぅ?」
天笠本家は、現在地から100キロ以上も離れた、関西の片田舎にある。
そのような距離を隔ててなお、天笠阿聖は仕事にかかわるだろう怪異の中身と危険度を正確に把握している。そして大抵の場合、彼の言うことは正しい。
従う側としては頼り強いことこの上ないのではあるが……
――心配してくれてるのは嬉しいんだけど、力不足だって思われるのはちょっとヤなんだよね。実際そうなんだけどさ……
はぁ。
小さくため息をつき、柑奈は再び砂浜を蹴る。湿った砂が飛び散った。
22時10分過ぎ。遅めの夕ご飯に舌鼓を打ちながら、慎檎は窓の外へと視線を向けた。都会とは違う薄暗さに似つかわしくないざわめきが、彼の耳をついていた。
野次馬が夜遅くまで騒いで迷惑だという話は聞いていた。しかし、それにしても実際にその場に来てみれば実感が沸くようで、このような田舎でこの時間に外で騒ぐというのは、本当に人としての品性を疑いたくなる。
「これじゃあ安眠妨害もいいとこだな」
「ホントだよ、もぉ! まだ寝てたかったのに!!」
プンプンと怒りつつ、魚の煮付けを口に運ぶ柑奈。彼女は先程、外の騒々しさを因として目を覚ました。それが21時30分のことである。
しかしそもそも、本来であればその時間に旅館を出る予定であったのだが……
「まったく。昼間寝とけよ」
「あちきも注意したんだけどねぇ」
ずずっと味噌汁をすする慎檎の横で、勘九郎が苦笑した。
彼らの様子を瞳に映し、柑奈は頬を膨らました。食事中であることを鑑みるに、非常にお行儀が悪い。
「2人ともうるさいし。柑奈は正常な若者なの。お兄ちゃんみたいに枯れてないから海に来ればテンション上がるし、昼間に大人しく寝てられないの。青春マックスなの」
「プロ意識が足りないな」
言い訳に冷静に返され、柑奈はますます頬を膨らませた。どこまで膨らませられるのか限界に挑戦しているかのようだ。
妹のその様子を瞳に映し、慎檎は嘆息する。
「はいはい。悪かった。いいからさっさと食え。村長さんと22時に待ち合わせだったのに、既に10分も待ってもらってるんだ。30分ほど遅れると連絡はしているものの、出来るだけ早く行かんとな。……ごちそうさまでした」
手を合わせてぺこりと頭を下げる慎檎。その後、麦茶をすする。
そのような彼を追い、柑奈は食べ物を口に運ぶスピードを加速する。そうしながら、疑問を呈する。
「でも助っ人さん、まだ来てなくない?」
「来ないものは仕方がないだろう。俺らだけで行く」
そう宣言した慎檎の瞳には険が見えた。彼は柑奈とは違い感知能力に長けていないため、彼女以上に不満を募らせていた。本当に危険なことなどあるのか、助っ人など必要なのか、と。阿聖の判断に信頼を寄せてはいるのだが、感情の機微だけは如何ともし難いところがあるようだ。
一方で、昼間は未だ猜疑心のあった柑奈は、今や阿聖の判断は疑うべくもないという結論に達していた。昼間とは比べものにならない嫌な気配が、潮風にのって彼女の元へと至る。不安が募っていた。
「あのね、お兄ちゃん。ホントに、ヤバイかも……」
普段ふざけた調子の妹が、いつになく真剣な面持ちで言った。食事の手すら止めている様子からは、恐れの感情すら窺える。
しかし、助っ人が来ないからと言って仕事を放棄するわけに行かないのも事実だった。
「いいから食え。来なけりゃ俺らだけで行く」
慎檎は端的に、もう1度言う。
確認するように。自分に言い聞かせるように。
ざっざっざっ。
3人は岩場を危なげに進んでいった。その間、闇に支配された海原を見渡す。上空と海面、双方が暗闇に包まれており、その上、深い霧が海岸から沖までを覆っている。ほとんど何も見えないと言ってよかった。
その光景に更なる不安を募らせつつ歩み、そうしてようやく、慎檎たちは待ち合わせの場所へ至る。そこには、依頼主の村長と、伝言を頼んだ旅館の仲居、そして、船を出してくれる漁師が揃っていた。
「申し訳ございません。準備に手間取ってしまいました」
慎檎が頭を下げる。それに柑奈と勘九郎が倣った。
対して、村民たちは気にした風もない。
「いいえ。お気になさらず。それよりも本当に船でおいでになるので? 幽霊船はフェリー並の大きさの帆船ですよ?」
漁師が出すような小舟で向かったところで乗り移れない、といいたいようだ。
しかし勿論、慎檎たちもそこは了解している。
「構いません。近くまで寄って下さればあとは何とかします」
「左様ですか…… では、こちらの者に舟を出させますので」
村長がそう口にすると、後ろに控えていた男が前に出た。
少なく見積もったとしても40代といったところ。筋肉質な体は日に焼けており、健康的な印象を与える。
「……三好だ」
そのように小さく呟き、男は岩場を大股で歩いて行く。その先には波に揺れる舟があった。彼が漁に使用している中型船である。
三好は手際よくエンジンをかけ、3人に乗るよう促す。
まずは慎檎、続いて柑奈、最後に勘九郎が飛び乗った。
「霧が深いようですが、『幽霊船』の場所は分かるんですか?」
「おおまかな予想くらいはつけられる」
ばばばばばっ。
端的な応えを返してから、三好は予告もなく舟を発進させた。
海上になれていない面々はバランスを崩すが、直ぐに態勢を立て直す。そして、進行方向に視線を向けた。そちらには未だ霧と闇しか見えない。
「柑奈。どういうモノか見当つくか?」
「……うーん。駄目っぽい。この霧も霊気を含んでるみたいで気配が分散してる。ただ、ちょっと覚えのある気配がするような気が。何だっけ、これ」
眉根を寄せ、両のこめかみを両手の人差し指で刺激し、柑奈は考え込んだ。しかし、なかなか答えに至れないようで、いつまでも呻り続ける。
現状では結論を導き出すことが不可能のようだと認識し、慎檎は嘆息した。相手がどういうモノか事前に判明すれば、多少は気も楽になるかと考えていたのだが、当てが外れた。
ざわざわざわ。
遠くからのざわめきが耳に届く。浜辺に集った迷惑な野次馬が騒いでいる。その音量は次第に大きくなっていった。
「何だ?」
「『幽霊船』だ。今あそこらにいるんだろう」
三好がぶっきらぼうに応え、舟を止めた。そして、言葉を続ける。
「もうしばらくするとこの近くを通るはずだ」
「『幽霊船』はいつも同じように漂うのですか?」
「俺の知る限り、そうだ」
端的な応えを受け、慎檎は考え込む。
――決まったパターンに沿うなら、この間と同じ、噂が力を持つ都市伝説型のモノか?
「この辺りじゃあ『幽霊船』の噂が前からあったのかい?」
勘九郎も慎檎と同様の考えを抱いたらしい。三好に向けて問いを放った。
しかし、三好は期待を裏切り首を左右に振る。
「聞いたことがない」
否定の言葉。彼が嘘を言う利点は皆無である。真実と考えて良いだろう。勿論、三好が認識していないだけということもあり得るが。
ざあぁあ。
その時、海面をさざ波が乱した。野次馬たちの生み出す喧噪に紛れ、何かが動く音が響く。そして、霧の中に影が生じた。
「来たぞ」
霧の中、黒い影のみが姿を大きくしていく。その影が近づくにつれ、それは確かに帆船らしいということが窺えた。
「ふわー! でっかーっ!」
「ぱっと見たところ、映画とかで見るガレオン船ってやつみたいだな」
呟いてから、慎檎は三好に視線を投げる。
「念のため窺いますが、この近辺でガレオン船が沈没したことは?」
三好は黙って首を振る。彼の知る限りでは、そのような事実はないようだ。遠い過去までさかのぼればあるいは、ということもあるやも知れぬが、日本の田舎にガレオン船というのは、どうにもちぐはぐな印象を受ける。
ふぅ。
いずれにしても乗り込んで調査しなければならないだろう、と慎檎は嘆息した。
「柑奈。勘九郎。行くぞ」
「おぅさ。気を引き締めようかねぇ」
「……うん」
ぱんっ!
両手で頬を叩き、気合いを入れる勘九郎。
一方で、不安げに小さく頷く柑奈。
それぞれを瞳に映してから、慎檎はゆっくりと瞑目する。そして、小さく息を吸い込んだ。
「高天原(たかまがはら)に坐(ま)し坐(ま)して天(てん)と地(ち)に御働(みはたら)きを現(あらは)し給(たま)ふ龍王(りゅうじん)は 万物(よろづのもの)の病災(やまひ)をも立所(たちどころ)に祓(はら)ひ清(きよ)め給(たま)ひ 万世界(よろづせかい)も御祖(みおや)のもとにおさめせしめ給(たま)へと 祈願(こひねがい)奉(たてまつ)ることの由(よし)をきこしめして――」
慎檎は瞳を閉じたまま暗唱を続ける。
三好は訝しげに彼を見た。
「六根(むね)の内(うち)に念(ねんじ)じ申(まを)す大願(だいがん)を成就(じょうじゅ)なさしめ給(たま)へと恐(かしこ)み恐(かしこ)み白(まを)す!!」
そこで、慎檎は瞳を見開いた。力強い言葉に伴い、左腕を突き出す。
にゅっ。
「海が……」
唐突に隆起した海水を瞳に映し、三好は瞳を見開いた。彼の視線の先で、どんどんと海水が液体から固体へと変化してゆく。
鹿の角、駱駝(らくだ)の頭、蛇の身体、鯉の鱗、鷹の爪、牛の耳。形成されていった肢体は、水の神たる龍神のそれと成った。先の詠唱は龍神祝詞といい、水の龍を顕現させる術なのである。
「よし。乗れ。俺の実力じゃ2分と保たないからな。早くしろよ」
「へぇ、凄いねぇ。慎檎」
「龍さん久しぶりー」
慎檎が促すと、柑奈も勘九郎も素直に龍の背に乗る。
それを確認すると、慎檎は小さく頷いて三好に視線を向けた。
「三好さん。ここまでありがとうございました。帰りは何とかしますので、貴方はもうお戻りください」
「世話になったねぇ。ありがとぅよ」
「いってきまーす!」
ブンブンと大きく手を振る柑奈。彼女の元気な言葉が終わるか否かといった時に、龍は突然発進した。霧の夜空を1度、急旋回し、幽霊船めがけて真っ直ぐに突っ込む。
三好はその様子を見開いた瞳で追っていたが――
ニヤリ。
なぜか不敵な笑みを浮かべ、それから、岸辺へと引き返した。
ひゅぅ!
勢いにのって龍が翔る。幽霊船に向かっていく中、その全容を見渡せる位置に至った。
「マストの先端が光ってる……」
「おや、綺麗だねぇ」
柑奈の呟きを受けて、勘九郎がのんきに応じた。
慎檎は苦笑する。そうしてから、霧深いながらも、天からは月光が降り注ぐ夜陰を見渡す。天気予報風に言い表すならば、晴れ時々濃霧、といったところか。
「セントエルモの火っていうやつじゃないか? 実際には雷雲を伴う嵐の前後や最中に見られるコロナ現象というものらしいから、あれは誰かが演出しているだけの偽物だろう」
そのように説明がなされている合間に、龍がようよう幽霊船へと至る。甲板の上あたりをぷかぷかと浮かんで、待ちの状態に入った。
「よし。降りろ、2人とも」
たっ。
慎檎、柑奈、勘九郎の順番で甲板に降り立つ。
すると――
すぅ。ばしゃっ!
突然、龍がただの水へと変化し、一行の足下を濡らした。
「靴ぬれたぁ! ちょっとぉ、お兄ちゃん! 龍さん、海に戻してから術解いてよぉ!」
不満顔を浮かべる柑奈に、慎檎は疲れた表情で応える。
「無茶言うなよ。ここまで姿を維持するので精一杯だっつーの。乗ってる最中に水に戻らなかっただけマシだと思え」
「ぶぅ」
膨れる妹を瞳に映して兄は嘆息する。そうしてから、表情を硬くした。
「柑奈。どうだ?」
「ん? んーとねぇ…… これ、たぶん妖狐。さっきの『セントエルモの火』も狐火だよ」
考え込むように目をつむり、懸命に悩みながら言葉を紡ぐ柑奈。そして、一層真剣な表情となり、先を続ける。
「それでね。やっぱり……やばめの強さみたい」
妹の様子に、慎檎は瞳を鋭くした。
「助っ人は必須、か?」
問いかけに、柑奈はコクリと頷く。
ふぅ。
普段脳天気な妹の真剣な表情。慎檎は小さく息をついた。そして、決断を下す。
「わかった。そういうことなら、今さら情けないがここで助っ人とやらが来るのを待とう。こちらに電話なりの連絡が来ない以上、そこまで極端に遅れるとは思えない。その妖狐から襲撃があった場合は迎撃するが、何もしてこないのであれば待機する」
コクリ。
柑奈、勘九郎共に頷く。
その様子を瞳に映して慎檎は頷き返し、そのまま船縁へ寄る。手すりに手をつき、そして、他2名に知らぬように嘆息した。
「あらん。来ないのぉ。せっかく待ってるのにん。興ざめー」
帆船内の1室にて、幼い少女が呟いた。彼女の瞳は前を向いていたが、どこか違う場所を見ているようでもあった。
ぱちん。
そして、ようよう指を鳴らした。
「大神、お願い」
ひゅっ、ばん!
海側から船縁を飛び越え、影が甲板に降り立った。
「なんだ!」
慎檎はその姿をとらえようと視線を移すが、次の瞬間には消えていた。
そして――
「きゃあっ!」
「柑奈!?」
妹の悲鳴を受け、慎檎はそちらへ瞳を向ける。
そこには巨大な狼がいた。その傍らには倒れ伏す勘九郎、更にその口には柑奈の姿があった。服の一部を銜えられているらしい。
「妖怪……! 柑奈を放せ!」
慎檎が睨み付けて恫喝するが、狼は、その程度では意にも介さない、という風。彼、或いは彼女は、慎檎を一瞥してから駆けだした。
ばきぃ!
船室への扉を体当たりで易々と破り、獣は船内に消える。
「お兄ちゃあーん! あちきさぁーん!」
小さくなってゆく柑奈の声。
慎檎は直ぐに追いかけようとするが、倒れている勘九郎が目に入った。駆け寄って抱き起こす。
「おい! 大丈夫か!?」
「だ、大丈夫さぁ。それよりも行くよ、慎檎」
痛みを感じているのか表情をゆがめ、しかし、口元には笑みを作り、勘九郎が言った。
「おい、無理は――」
「お忘れかい? あちきはテレビの付喪神さぁ。お前さんの部屋に居候させてもらっている本体さえ無事ならぁ、致命的なダメージにはならないよぅ」
ほっ。
付喪神の言葉を聞き、ようやく慎檎は胸をなで下ろした。勘九郎に大事はまず無さそうである。
残るは柑奈だが……
「勘九郎。柑奈の気配、追えるか?」
「愚問さね。あちきに任しときな」
自信満々の言葉を受け、慎檎は力強く頷いた。
狼が破った扉をくぐり、慎檎と勘九郎は船内へ這入った。奥へと向かう通路は存外広く、映画で見るような豪華客船を思い出させる。
通路の両脇には扉があった。それぞれ船室へ続いてるようだが、そこからは柑奈の気配はしない。
「このまま奥へ進んでいったよぅだねぇ」
「狼はまだ進んでいるのか?」
「そのよぅだねぇ。……っと。どうやら止まったよ。同じ場所に強い気配を感じるけど、あれがくだんの妖狐かねぇ」
苦い口調で言った勘九郎を瞳に映して、慎檎は舌を打った。よりによって大将と思しき奴のところへ行くのか、と。
しかし、柑奈が攫われている以上、先の決定通りに待機というわけにもいかない。
かっ。かっ。かっ。
早足で先を急ぐ2名。足音だけが通路に響く。
がちゃ。
その時、通路の両脇の扉が一斉に開いた。これから通る場所、既に通った場所の両脇から、何かが顕れる。ぼろぼろのタキシードやドレスを着込んだモノたちは、白人特有の透き通る肌つやの顔に、苦しげな表情を浮かべている。
慎檎は咄嗟に、背に下げていた竹刀袋を手に取った。口を縛っている麻紐をほどき、三日月宗近(みかづきむねちか)という銘の刀を引き抜く。
「はぁ!」
気合い一閃。彼は天原の民の力を霊刀に流し、不可視の衝撃波を前方へと放つ。波は、通路に顕れていた幽霊たちを切り裂きながら突き進んだ。
慎檎と背中合わせで立つ勘九郎もまた、叫びながら腕を突き出す。
「食らいなぁ!」
付喪神の放つ霊気が、慎檎の後方で弾けた。同じく幽霊たちが吹き飛び、姿を消す。
「これも妖狐の力なのか?」
絶えず力を放ちながら、慎檎が言った。
その言葉に対し、勘九郎は首を振るう。
「いぃや。違うようだよぅ。こいつらはこいつらで別個の存在さぁ。古い人の霊魂らしぃねぇ。――はぁあっ!」
「そんなものが何故――」
慎檎の言葉を遮り、通路脇の扉から新たな霊魂が姿を顕す。
「ちっ、キリがない……! 勘九郎! 後ろはいいから前に力を集中だ! 一掃したところを一気に抜ける!」
「了解さぁ!」
応えると、勘九郎は後方の幽霊をまず一掃する。そうしてから、踵を返して慎檎の隣に並んだ。
『はああぁあっっ!!』
天原の民と付喪神が共に力を放つと、猛き奔流が通路を駆け抜けた。恨みをもった霊魂たちは、長き呪縛から解放されて漸う消え去る。
前方の通路はすっかり見通しがよくなった。
「よしっ! 行くぞっ!」
「応さぁ!」
だだだだだだだっ!
2名は脇目もふらず、通路の奥めがけて駆け出した。
はぁはぁはぁ……
通路をひたすらに突き進んだのち、慎檎は突き当たりの扉にて呼吸を乱し、佇んだ。
「大丈夫かい、慎檎」
「あ、ああ。少し疲れただけだ。お前は大丈夫なのか?」
尋ねられると、勘九郎はにかっと笑った。
「あちきはテレビだからねぇ。疲れるってぇこたぁないのさぁ」
その言葉に、そいつは便利だな、と感想を述べて苦笑し、それから、慎檎は大きく息を吸い込んだ。何度か、深く深く呼吸をし、ようよう息を整えた。
「よし、行くか。柑奈はこの扉の向こうか? 勘九郎」
瞑目して、勘九郎はしばし考え込む。
「……あぁ、そのよぅだねぇ。さっきの狼と、妖狐もいるよぅだ」
彼の緊張した面持ちから、扉の向こうにいるモノたち――特に妖狐の危険性が窺えた。しかし、ここで引き返すわけにはいかない。
慎檎は寸の間、黙り込み、それから小さく頷いた。
「勘九郎。さっきと同じでいく。余計な戦いはしない。まずは柑奈の身を確保し、あとは逃げの一手だ。狐も狼も極力相手にするな」
「そいつぁ、何とも弱腰だねぇ」
苦笑する勘九郎。しかし、その口調には反対しようという思いは内在していない。諸手を挙げて賛成しているようだ。
「『生きてなんぼの愉しき俗世』、うちの当主の言葉だ。船に乗り込む前に思い出すべきだったがな」
「へぇ。良いご当主、いや、爺様さねぇ。帰ったら電話の1本もしておやり」
「ああ。考えておく」
緊張した面持ちながら笑みを投げ合い、2者は頷いた。
そして、扉を押す。
数分前のこと。慎檎たちが緊張と共に開けようとしている部屋には幼女と狼がおり、寝転ばされている柑奈を見下ろしていた。
柑奈は狼の力で自由を奪われており、身動きが取れない状態であった。その上、狼からは鋭い視線を向けられ、威嚇されてもいた。
『こいつも天原だ。他の奴らを待つ必要はない。殺させろ』
狼が幼女に向けて言う。
とんでもないことを言い出すものだと、柑奈は内心焦る。しかし、声を上げて相手を刺激するのもまずかろうと、だんまりを決め込むことにした。
すると、幼女がけたけたとやかましく笑い、指を振る。
「ダ・メ。この子はおとりなんだからん。今気配が途絶えたら、必死で向かってきてる子たちが引き返しちゃうでしょ?」
ぐるるるるるぅ……
低く呻る狼。しかし、幼女に逆らうつもりはないようで、ようよう大人しく伏せた。
その狼の実力はせいぜいが勘九郎と同等か、彼より少し上。慎檎が相手をすれば難なく倒せる存在だ。しかし――
――この女の子、何? こんな恐ろしい気配の妖狐なんて……
ぶるっ。
恐怖が柑奈を支配した。
ぎぃ……
さび付いた扉がきしみ、空間への道がひらけた。扉越しには感じることの出来なかった気配が、慎檎を襲う。なるほど柑奈や勘九郎が危険視するわけである。冷や汗が吹き出る程に強力な気配が、その部屋に充満していた。
しかし、その力の主の姿は未だ見えない。狼と柑奈の姿も同様であった。
扉の向こうにまず見えたのは食台である。大きな空間を埋めるだけの大きな食台と、その上に載る美味しそうな食事たち。たった今用意したかのように、香ばしい湯気を立ち上らせている。
「……メアリー・セレスト号かよ。ちっ。趣味悪ぃ」
「? 何だい、それは?」
訝しげにしている勘九郎に、慎檎は気にするなと手を振る。
「くだらない創作話さ。それよりも柑奈は――」
「くだらないなんて失礼ねん。せっかく、低脳なお前たち人間の喜びそうな趣向を凝らしてあげたのにぃ。この食事も、幽霊たちも。『幽霊船』は楽しめたん?」
ばっ!
突然の声に、慎檎と勘九郎は視線を上げる。声が聞こえた方向へ。
天井にはシャンデリアが下がっている。無駄に豪華なそれに、金の毛並みの美麗な狐が座っていた。その尾は9つに裂けている。
――九尾の狐、だと……!? こいつはヤバイなんてもんじゃねぇぞ!
心内で叫びながらも、慎檎は動揺を見せないように笑んでみせる。
「低脳とは随分だね。貴様こそ獣の分際で生意気だな。そうして上にいる辺りもアレだぜ。何とかと煙は……ってな」
「きゃははっ! 口の減らない子ねん。早くなった心音。高くなった体温。焦っているのは目に見えて明らかよん。わらわが誰かわかってるんでしょ? 強がるのもいいけど、怒らせない方がよいのでない?」
ぽんッ!
おかしそうな声を上げ、狐は変化した。金の髪に碧い瞳。目を瞠るほどの美しい幼女であった。明治期や大正期、もしくは昭和初期に童女が着ていそうな着物に身を包んでいる。容貌との不一致が新鮮さを覚えさせた。
「……柑奈はどこだ?」
「大神に攫わせた女のこと? さて、どうしてるかしらん? 腕の1本くらい食べられてしまってるかも。きゃはっ!」
びゅっ!
三日月宗近が衝撃波を生み出す。波は真っ直ぐに狐へ向かった。
ばあぁんっ!
轟音が響き、シャンデリアが食台に落ちる。料理が床に飛び散った。
「あらん、もったいない。きゃははははっ!」
狐はシャンデリアと共に墜ちた。しかし、ダメージを受けた様子は一切なく、愉しそうに笑っている。
慎檎は目つきを鋭くし、正眼の構えを取った。
「せっかちな子。わらわも早々に遊びたいのは同じだけど、自己紹介くらいしましょ?」
そう口にすると、白い肌を這う真っ赤な唇を笑みの形にゆがめた幼女は、ゆっくりとした足取りで前に出た。刀を構えた者が目の前にいるというのに、隙だらけである。
しかし、なぜか慎檎は手を出せなかった。
「わらわの名はアフロディテ」
無邪気に笑み、幼女はギリシャの美の女神であると名乗った。ゆったりと礼をするその様子は良家の令嬢のようでもある。
「妲己(だっき)、クレオパトラ、玉藻前(たまものまえ)、マリー=アントワネット、色んな名前で呼ばれたけど、結局、最初につけられた名が1番好きよん」
慎檎の頬をつぅと汗が流れ落ちる。予想の範疇であった名、予想外の名、それぞれあるが、そこはさしたる問題ではない。慎檎に畏れを抱かせるには『玉藻前』の名のみで充分だった。
――かつて、天原の民どころか、天津神(あまつかみ)総出で調伏しようとした大妖怪……! 俺の手に負えるわけがねぇ!
何とか逃げる算段を立てようと思考を巡らしている慎檎。
その顔をのぞき込み、アフロディテは微笑んだ。天使のようなその笑みは、しかし、見る者に恐れと畏れを抱かせる。
「名を教えてん。ねぇ、天原さん」
ゾワッ!!
総毛立つほどの怖気を覚えながらも、慎檎は動けずにただ応える。
「天笠、慎檎……」
「あらん。天笠。知った名ねん。貴方のご先祖様はそれなりに強かったわよん」
ケタケタとかしましく笑い、それから、アフロディテはすぅっと後退した。そして、これまでとは違う冷たい笑みを浮かべる。残忍な本性が垣間見えた。
「鬱陶しい奴らを消す第1歩としては、上等な獲物ねん」
勘九郎は駆けた。慎檎とアフロディテが対峙している間に、柑奈と狼の居場所を探る。どうやら、食堂と思しきこの空間を抜けた先、扉の向こうにいるよう。
――無事でいるんだよぅ、柑奈!
ばんっ!
彼は力を放ち、扉を破る。すると、その奥から獣が飛び出した。
「とっ! そう何度も食らいやぁしないよぅ!」
横に跳んで避け、勘九郎はざっと着地する。直ぐさま態勢を立て直し、狼に向き直った。その背には柑奈の姿がある。
「あちきさんっ!」
「柑奈ぁっ! 犬っころの背ぇでゆったりしてないで飛び降りちまいなよぅ!」
勘九郎が呼びかけると、柑奈はぷぅっと頬を膨らまして首を振るう。
「出来るんならやってるし! 力で縛られてるのっ!」
耳慣れた甲高い声を耳にし、勘九郎はなるほどと納得する。どおりで狼が激しく動いても、柑奈の身体が転げ落ちないはずである。
――最低限あいつは倒さないといけないよぅだねぇ……
勘九郎はちらりと慎檎の方を見やる。慎檎とアフロディテは未だ戦いを始めてはいないが、開戦したならば慎檎に勝ち目は無さそうに思える。ましてや、こちらに力を貸すことなど不可能だろう。
ふぅ。
「まったくテレビに優しくない世の中だねぇ」
呟くと、勘九郎はかっと瞳を開く。それに伴い、強い力が空間を駆け抜けた。力はそのまま壁につきささる。
ひゅっ!
回避行動を取った勢いのまま、狼は俊敏に駆ける。船上で姿を見失った時にも感じたが、不自然な程に素早い。
――流石にただの獣じゃないよぅだねぇ。さぁて、どうしたもんか
必死で姿を目で追いつつ、勘九郎は心内でのみ息をつく。一筋縄ではいかないらしい。
かっ! かっ!
鋭い爪が床に食い込む音が周りで響き、そのたびに付喪神は慌てて瞳を向ける。しかし、その時には残像が残るのみで本体の姿はない。
――ちぃ! こんなことしてる場合じゃないってぇのに!
焦る勘九郎。時には勘を頼りに力を放つが、そうそう上手くゆくはずもない。力は、空しく壁や床に小さな穴を穿つ。
付喪神が心労ばかりをためていった――その時。
「あちきさんっ! 目を瞑ってっ!」
柑奈の不可解な言葉に、勘九郎は眉をしかめる。しかし、直ぐさまその意図をくみ取った。
すぅ。
素直に瞳を閉じる。
――あちきさんはけっこー感知に長けてる。目に頼るよりも……
その時、狼の気配がだんだんと消えていった。彼も柑奈の意図をくんだのだろう。彼特有の霊気はすっかり姿を潜めた。
しかし……
――柑奈を乗せたのは失敗、だよ!
「甘いよぉ!」
ばあぁんっ!
勘九郎が自身の背後に力を放つ。柑奈の気配を感じた方向へ。すると、音もなく彼に襲いかかろうとしていた狼の腹に一撃が入った。
『ぐおぉおっ!』
苦しみの叫びを上げ、狼が転がる。
その際、柑奈が彼の背から落ち、床に倒れた。
「柑奈!」
「だ、だいじょぶ。あちきさん、ありがと」
打ち付けた身体をさすりながらも、柑奈はにかりと笑ってみせる。
その様子に安心した勘九郎はほっとひと息ついた。
「まったく、心配させるんじゃないよぅ」
「てへへ。ごめんなさぁい。と、それよりも――」
舌を出して詫びた柑奈。しかし直ぐに視線を巡らす。弱々しく立ち上がろうとする狼に瞳を向けた。
『……ぐるるるぅ!』
喉を鳴らして威嚇してくる狼。
勘九郎が柑奈をかばうように前に出る。
しかし、その勘九郎を柑奈は押しのけた。
「待って、あちきさん。さっきのでもう弱り切ってる。危険はないよ」
そう言って、柑奈は前に出た。そして微笑む。
「もうやめよ? 三好さん」
「……! 三好ってぇと、あの漁師かい?」
勘九郎が驚愕する一方で、狼――三好は大人しくなった。正体を言い当てられ、少なからず動揺したらしい。
すぅ。
狼の姿と人の姿がだぶり、ようよう彼は『三好』と成った。
「……大神。それが本来の名だ」
そう呟くと、大神はぎっと柑奈を睨めつけた。そのまなざしには、尋常ならざる恨みの念がこもっていた。
柑奈と勘九郎は一瞬たじろぎ、立ちすくむ。
その隙に大神は狼の姿をとり、壁に体当たりした。
がんっ!
木の壁が壊れ、弱々しい月光のもと暗い海がのぞく。
『アフロディテ。俺は下がる』
「あらん。これからが愉しいのにぃ。にっくき天原の八つ裂きショーよん?」
可笑しそうに笑う妖狐。穿たれた穴から流れ込む潮風が、彼女の美しい金の髪を揺らす。
大神は彼女に興味のない瞳を向け、言い捨てる。
『俺自身で八つ裂きにせねば意味がない。今回は力が足りぬ。その天原の民は、貴様に譲ることにする』
ばっ!
穴から海に身を投げる獣。彼は最後に恨みの視線を投げた。慎檎に、柑奈に、天原の民に。かつて民草の安全というお題目と引き替えに、多くの仲間を殺された恨み。その暗き感情が込められた視線を。
ばしゃあっ!
海面に小さな波が生じた。
アフロディテは戦線を離脱した大神を見送り、笑んだ。これで取り分が増えた、と。慎檎という少年以外は、手応えの無さそうな相手である。それでも、断末魔を愉しむことぐらいはできよう。
にぃ。
笑みの形に歪められた紅の唇。薄暗い船内に浮かぶそれを瞳に映し、天原の民と付喪神は恐怖した。幼い顔に浮かぶ無邪気な笑み。しかし、そこから放たれる気配は邪悪そのものである。
――柑奈は奪回した。もう戦う必要はない
慎檎の頭に浮かぶのは逃げの一手のみであった。伝説に名を残す大妖怪と、これ以上対峙する必要性など皆無である。
その気持ちは柑奈も勘九郎も同様で、アフロディテと相対する気などさらさらありはしない。逃げようという気持ちしかない。
が、相手はそれを許さない。
――下手に動けば殺される…… さっきまでとは違う。柑奈とあちきさんにも殺気が向いてる
――あちきは死ぬこたぁないけど、そばにいる柑奈がまきこまれちまう。動けんさねぇ
或いは慎重さを携え、或いは恐怖に従い、2名は1歩も動かない。
その一方で、動く影があった。
「はあぁあ!」
慎檎が三日月宗近を一閃する。衝撃波がアフロディテを襲い、その後をおって慎檎自身も突進する。
アフロディテは力を表出させ、防壁のようなモノで衝撃波を打ち消し、空間の裂け目から出した扇子で刀を受けた。扇子には力が込められているようで、真剣の刃をいともたやすく受ける。
「きゃはっ! お前は馬鹿ねん。わらわとの力の差も計れないのん? それとも、お前が犠牲になって仲間を逃がす?」
「へっ! 自己犠牲なんつーもんに浸る程ナルシストじゃねぇ、よっ!」
恐怖を吹き飛ばすように叫びつつ、慎檎は腰を落とす。足捌きでアフロディテの死角に入ろうと努めるが、彼女が鼻歌交じりに素早く動き回るため、それも能わない。振るう刀も扇で軽くあしらわれる。
がっ! ざっざっ! ぎぃん!
適切に急所を襲う慎檎の1撃、2撃、3撃。しかし、その全ては或いは扇で、或いは白い腕で、或いは九尾で防がれる。彼女に傷を負わせることは不可能に思えた。
――ちぃ…… こっちは1撃1撃が全力だってのに、この女狐!
「きゃははっ! その焦った顔、最高ぉ! まだ殺さないわよん。もっともっと怖がってねぇん」
びゅうぅう!
アフロディテが腕を振るった。すると、突風が生じ、慎檎の動きをとどめる。その隙をついて、彼女は細長い腕を伸ばして慎檎の首を掴む。
「ぐ……っ!」
「苦しい? 苦しい?」
ぶんっ!
愉しそうに笑む狐の足下を、慎檎は刀で薙ぐ。
しかし、その一閃も狐は跳び退り難なく避ける。
完全に遊ばれている。
その後も十数撃の重たい振りを見舞うが、狐の毛並みすら乱すことができない。
――畜生…… せめて1撃でも入れば隙が出来て、あの狼が開けた穴から逃げられるかと思ったが……
その程度の希望すら、星の光よりもあやふやだった。
「ふあぁあ。そろそろ飽きてきたわねん。貴方を殺して、次はあっちの女の子を嬲ろうかしらん。付喪神は本体じゃないみたいだしぃ」
右手の指先をしゃぶりながら、妖狐が言った。
「うん。そぉしよ♪」
ぞくり。
瞬時、明確な殺気が慎檎を襲った。それゆえに彼は、次の瞬間には死んでいるだろうことを覚悟した。
どおおぉおおおぉんっっ!!
船の壁が爆ぜた。破片が部屋の中へ散り、慎檎の肌を打ち付ける。その痛みが、彼に生を教えてくれた。
「な、何これぇん!」
ここに来て初めて、焦った声を上げるアフロディテ。破片を防ぐのに力を使い、慎檎への注意が散漫になっている。
慎檎は咄嗟に、三日月宗近を振るった。
ざしゅっ!
初めて手応えがあった。刀はアフロディテの頬に赤い筋を引いており、ようよう紅い液体が流れ出る。
破片に翻弄されていた狐は、静まった。頬を撫で、指先に紅がつくことを確認する。そして、醜く顔を歪めた。
「傷…… 顔に……わらわの顔に……」
フルフルと震えながら、無機質に呟く幼女。その碧い瞳は怪しく光り、金の髪はざわざわとうねった。
彼女の気が高まり、これまでにない恐怖を辺りに振りまく。
しかし、激高したその様子はある意味では隙だらけであり、逃げるのであれば今しかないと思えた。
だっ!
駆け出す慎檎。
そして、柑奈と勘九郎もまたそれに倣う。
先程よりも大きくなった穴めがけ、懸命に駆ける。
狐は彼らの後ろ姿を睨めつける。強大な力をその腕にため、彼らへ向けてようよう放とうとする、まさにその時――
「天津和己(あまつかずみ)、参る」
唐突に、壁の穴から船内へ影が這入り込んだ。その影はひと振りの刀を携えており、鋭い一閃を狐に浴びせた。
ずんっ!
「ぎゃああぁああぁあ!」
叫ぶ狐。
そこへ更に、穴から侵入した水の神、龍神が襲いかかった。水が強い圧力をアフロディテに浴びせる。
アフロディテは力を全方位に発現して必死に耐えるが、がくっと膝をついた。しかし、それでも完全に屈しはしない。
「鬼丸國綱(おにまるくにつな)の傷を受けながらも、鬼流一の使い手と名高い幽華(ゆうか)殿の龍神祝詞に耐えるか。さすがは玉藻前。かつての力を失うも、その驚異は健在か」
刀――鬼丸國綱を携えた男、いや、少年が呟いた。彼は視線を壁の穴へ向け、頷いてみせる。
慎檎らは突然の訪問者に驚きながら、彼の視線の先を見やる。そこには、黒髪の女性がいた。
女性は微笑み、すぅっと小さく息を吸う。
「臨 兵 闘 者 皆 陣 列 在 前」
両手での印と共に静かに紡がれた言葉。しかしそれは、荒々しき力の光を生み出し、光が空間を駆け抜ける。
力は狐を包み、爆ぜた。
「ぎぎゃあああぁあああっ! があぁああぁあっっ!!」
絶叫。
そして、すぅっと狐は消え去った。
「……やった、のか?」
呆然と呟く慎檎。
彼を見やり、女性がゆっくりと首を振るった。
「いいえ。逃がしたわ」
呟かれた事実。
そして、その直ぐあとにおどろおどろしい声が響く。
『糞どもがあああぁああっ! 殺す殺す殺す殺すっ! 貴様は天津の健御雷(たけみかずち)かっ!? そこの女あぁあ! てめぇはナンだぁあ!?』
「木之下幽華。鬼流よ」
臆すことなく、端的に応える女性。
健御雷と呼ばれた少年もまた落ち着いた様。
一方で、柑奈と勘九郎は震えていた。
慎檎もまた、表面上は何でもない風を装っていたが、心底怖がっていた。
『忘れるな! 天津、木之下、そして、天笠! 貴様らは必ず、殺す!』
ぶぅんっ!
呪詛が響き渡る中、何やら鈍い音が鳴り、夜を黒い気体が流れてゆく。それに伴い、船を覆っていた霧も晴れたようだ。
驚異は去ったらしい。今この時は。
そして――
ひゅんっ!
唐突に消え去る足下。狐の力に因って生み出された『幽霊船』が消え去ったのだ。
自由落下が始まる。
「どわああぁああああぁあ!」
「きゃあああぁあああぁあ!」
ばしゃあぁあんっ!
三好――大神が乗り捨てていったらしい舟に乗り、一行は岸へと向かう。明かりが点々と見える陸は、何やらざわついている。唐突に消えた帆船に、野次馬も村人も勝手な噂を飛ばしているのだろう。
質問攻めにされそうな予感を抱き、びしょ濡れの天笠家の面々はうんざりした。
一方で、すっきりと乾いた服の天津神と鬼流は涼しい顔をしている。彼らは共に、水面に落下する前に術――龍神祝詞を行使して宙に浮き、濡れることを避けたのだ。
「……くしっ。幽華さぁん。龍神さんで柑奈のことも助けてくれればよかったのにぃ」
「ふふ。私たちを待っていなかった罰よ。遅れたのは謝るけどね。あ。あと勿論、阿聖様にもご報告させて頂くのでそのつもりで」
クスクスと笑むのは木之下幽華という、黒く艶やかな長髪が目を引く麗しい女性である。龍ヶ崎町にある気龍寺の住職、木之下実明(さねあき)の1人娘だ。常に機嫌がよさそうだが、その実、誰にも気を許していない風がある。
その隣で黙りこくっているのは天津和己。天津宗家という、天照大神(あまてらすおおみかみ)を当主に置く天津一族のひとりである。刈られた短髪と鋭い瞳が、厳しい印象を人に与える。
実際、慎檎もあまりよくない印象を受けたようだ。
「おい。お前。アフロディテに一撃食らわしたからって調子乗るなよ。俺だって一発当ててんだ」
「天笠慎檎。僕は今話したくない。玉藻前を逃した。酷い失態だ」
悔しげに息をはく和己。端的に紡がれた彼の言葉は、誰でもなく彼自身を評したものだった。
しかし、慎檎はそうとはとらない。
「俺のせいだってのか! つーか、天津! お前今高1だろ! 俺の方が年上だぞ!」
「ちょいと。よしなよぅ、慎檎」
勘九郎が止めるが、慎檎は構わず和己を睨み続ける。
一方で、和己は相変わらず冷めた瞳だ。
「そうだな。高1だ。そして君は高2だ。それがどうかしたか? それと、別に君のせいだとは思っていない。今回の失態は全て僕の不徳のいたすところによるものだ」
テレビでしか耳にしない音の波が、慎檎の鼓膜を刺激した。
「はあぁあ!? んだそらぁあ! 記者会見かあぁあ!!」
「? どういう意味だ?」
叫んだ天原の民を瞳に映し、天津神は本当に不思議そうに尋ねた。自分の発言におかしいところなどございません、という表情である。
柑奈は、何だかずれた人だなぁ、と呆れ、濡れた服の裾を絞りながら、苦笑した。一方で、彼女は夜天を不安げに見上げる。暗闇がどこまでも続く空は、恐ろしいモノが今にも降ってくるかのように夢想させた。
――狐さんもしばらくは休養してるだろうけど…… はぁ
これからを思うと不安が絶えなかった。
伝説の妖狐。天原の民を恨む狼。これから2つの脅威が、彼女と彼女の兄に降りかかる。死と隣り合わせの日常。思考回路が緩やかで、脳内が平和色に染まりきっている龍ヶ崎町の民には、何とも似つかわしくない物騒な状況である。
と、思いきや――
――……よぉし! とりあえず、帰ったら綺羅星堂のフルーツケーキ食べよ。2個!!
にっこり微笑む様からは、だいぶ余裕が感じられた。
さすがは龍ヶ崎町民。思考回路だけはいつまでも平和ぼけが基本らしい。