和見町商店街にある八百屋の脇から入った路地裏を駆けながら、葦乃木幹也は思う。どうしてこの商店街は『なごみ』などと言う名がつけられているのだろう、と。
勿論、普段であればその名に文句など無い。立ち並ぶ商店の店主達は皆、気のいい連中ばかりであり、街路を行く主婦の方々もまた、楽しそうに歓談しつつ、わんぱく坊主どもを叱り付けているという微笑ましき存在。一昔前の時代にタイムスリップしたかのようで、文字どおり和む。
しかしだ。今のこの状況を鑑みる限り、幹也は全く和めない。
路地裏を懸命に駆け、目標を追い続ける幹也。しかし、彼と目標の距離はひたすらに開くばかりだ。普段から運動とは無縁の幹也の足は、既にまともに動かず、彼の呼吸は興奮した犬のそれよりも荒い。
そのような状況で和めるはずなど、絶対にない。
もっとも、だからといって商店街の名に文句をつけるというのは、見当違いも甚だしいであろうが……
「はぁ、はぁ、くそっ……」
視界を遮る前髪を右手で払いのけ、幹也は悪態をつく。
彼の視線の先には、路地裏を軽々しく駆けていく小さきものの姿があった。
そもそも――
再び足の筋肉に鞭打って走り出し、幹也は考える。
そもそも、人間が獣に追いつこうっていうのが間違いなんだよっ!
そう。彼が追っているのは人ではない。獣だ。遥か昔から人と共に在り、穀類を食すことなく、肉食であったため、古代においては益獣とみなされていた、そんな存在。それは――
「にゃー」
幹也の視線の先で立ち止まり、そのものは一声鳴いた。可愛らしいその外見も、もはや幹也の瞳には小憎らしくしか映らない。
さて、改めて言うまでも無いだろうが、敢えて言う。幹也が追っている存在。それは、猫だった。
アビシニアンの雌。淡い茶の毛は綺麗に整えられており、つんと尖った耳が気高きその心を表しているようだ。スラリとしたその体は、狭い路地を駆けるのに最適で、例え幹也が身軽な体を有していたとしても、追いつくことなど能わなかっただろう。
必死に駆ける幹也の前方を猫が悠々と駆ける。幹也はその姿を睨みつけつつ、とにかく追い立てることしかできないでいた。彼自身の手で彼女を捕まえることは、もはや無理であろう。
猫の行く先に光が溢れている。薄暗い路地裏を遂に抜け、人に媚びる事なき気高き獣は光の中へ飛び込もうとしている。自由をその手に掴もうとしている。そして――
「にゃああぁあぁーっ!」
街路に跳び出した猫は、勢いよく捕獲網に絡まれた。自由を奪われた。
突然のことに、彼女は大きな鳴き声を響かせる。そして、その響き渡った声が、路地裏で独り佇んでいる幹也に作戦の成功を教えてくれる。
「せんせえ、お疲れ様っす。ほら、この通り、にゃんこ姫様は確保しましたよ」
ようやく駆けっこから解放された幹也が、肩で息をして酸素を必死に吸入していると、猫を捕らえた網を掲げて男が声をかけてくる。
すっきり刈られた短髪と、やる気なさげな目元が特徴的な少年の名前は、霧谷雄大。幹也の元で時給千円のアルバイトを勤めているフリーター少年である。彼は、吹けば倒れる幹也と違い、体力があり、その上腕力も平均的男子を上回る。学生時代は柔道に精を出していただけあり、素晴らしいまでの体育会系人間なのだ。それこそ、雄大という名が相応しい。中卒だと履歴書には書いてあり、その上卒業が昨年だというから、今は十五、六歳か。
「よ、よくやった…… はぁ、はぁ、雄大…… お姫さんに……怪我は、はぁ、ないか?」
「見たところご健康そのものってとこっすけど…… ていうか、健康すぎますね。興奮してさっきからにゃーにゃー五月蝿いったら」
雄大の言うとおり、猫は捕まってから終始鳴き続けている。街路を行く奥様方も、揃って何事かと足を止める次第だ。しかし、騒ぎの中にいるのが幹也と雄大だとわかると、彼女達は納得顔で再び歩を進める。
そこで納得されるのも釈然としないものがあるな、などと思いつつ、幹也は、汗で張り付いた前髪をかき上げた。息は整ってきたものの、『なごみ』を得るには猫の五月蝿さが邪魔だった。