「まあ、与作ちゃん! 無事だったのね!」
事務所に帰り着いて幹也がさっそく電話報告すると、しばらくして、気高き獣――与作の飼い主が厚い化粧と共にやって来た。与作が月に一度必ず行方をくらまし、そのたびに、ここ葦乃木探偵事務所を訪れているため、すっかり常連となっている女性。その名を、桂坂さちという。彼女の容貌をチェックしてみると、元から厚い唇を更に際立てている真っ赤な口紅。目元をはっきりさせすぎているアイシャドウ。肌の色が不自然としか感じられないほどに塗りたくられているファンデーション。どれをとっても、ある意味で凄い。そして、それら化粧の匂いに加え、香水もつけているためか、当然のごとく、臭いが凄い。
それにしても――
今更ながら、幹也は考える。
それにしても、雌猫の名が与作というのはどうなのか。いや、例え雄だったとしても……
そこまで考え、彼は猫――与作に憐れみの視線を向ける。
幹也の推理では、与作が頻繁に逃げ出す原因は、その奇抜な名と、さちが漂わせている臭いだ。悪臭とまでは言わないが、それでも、強い刺激を有しているのは間違いがない。獣にはややきついことだろう。そして、与作はさちに愛でられている間、その臭いを間近で嗅ぐことになるのだ。
今さちが目の前にいなければ、幹也は与作のために手を合わせたことだろう。強く、同情していた。
一方、そのような幹也の思考などどこ吹く風で、さちはひとしきり与作を愛で続け、それを終えると、彼を見つめる。
「ありがとうね、葦乃木さん。いつもいつも見つけて貰って。大変だったでしょう?」
「いえいえ、このくらい僕にかかればどうということもありません」
幹也はにこやかに言葉を返しながらも、『いつもいつも』逃がさないでくれよ、と瞳で訴えかけていた。しかし、『いつもいつも』そうであるように、その訴えは伝わらない。
言葉の表面どおりにしか解しなかったさちは、さすが名探偵ねぇ、とにこやかに言ってから、雄大が運んできた紅茶を飲み、続けて、長い世間話を始めた。ちなみにその紅茶は、スーパーで安売りしている時に大量買いしたティーバッグである。ここ、葦乃木探偵事務所は財政難に陥っているのだ。
さて、さちの言葉を信じるのなら、葦乃木探偵事務所は名探偵がいる探偵事務所である。なぜそのような事務所が財政難になるのか、という疑問がわくことだろう。その疑問を解消するのは、実に簡単である。
幹也は別に、名探偵ではないのだ。
いや、それも正確ではないだろうか。実際には、名探偵『かもしれない』わけなのだから。
考えてみよう。名探偵と呼ばれるにはどのような条件が必要だろうか。真っ先に浮かぶのは、連続殺人事件を華麗に解決、というような限りなくあり得そうにない条件ではあるまいか。もしくは、警察に協力要請をされる程に優秀である、などという条件も挙げられるだろう。
はっきり言える。間違いなく、そんな探偵は存在しない。
探偵は、浮気調査、ペット捜索、見合い相手の素行調査、などなど、地道な作業を時間をかけて行う。それが普通だ。
しかし、それらを効率よく行い、数多くの案件をこなしたとして、それは名探偵だろうか? その答えはイエスである――が、世間一般で言うところの名探偵では、決してないわけである。世間一般での名探偵は先に挙げたように、連続殺人を解決し、警察から頼られる存在なのだ。ならば、浮気の証拠を掴もうとも、犬猫を見つけようとも、名探偵とは呼ばれまい。
そして、葦乃木幹也は今のところ、連続殺人事件に出くわした経験もなければ警察に頼られたこともない。後者の条件はともかく、前者の条件は、実際に事件に遭遇して初めて、名探偵かどうかを決することができる。だからこそ、連続殺人事件に遭遇したことのない幹也は、『もしかしたら』名探偵『かもしれない』わけだ。
と、それはともかくとして……
「ところで、ミス桂坂」
さちがしている取り留めない話をにこやかに聞いていた幹也だったが、数十分が過ぎた頃、さすがに焦れて口を挟む。
「報酬についてですが……」
「あら、そういえばお支払いしていませんでしたわね」
口元に手を当て、可笑しそうに笑うさち。そして、脇に置いておいたハンドバッグを引き寄せる。
「では――」
彼女は、バッグから封筒を出し、差し出す。
幹也はそれを恭しく受け取り、小さく微笑む、が、内心では快哉を叫んでいた。これで数日振りにカップラーメン以外のものを食べられるぞ、と。もっとも、事務所のテナント料金の支払いを考えると、それも数日のことになるだろうが……
「では、これで失礼しますわね。また与作ちゃんが逃げたら来ますわ」
路地裏を駆け回り翌日の筋肉痛が気になる現状としては、逃がさない努力をしてくれ、と忠言したくなるところだが、貴重な収入源を失うわけにはいかないということで、幹也は口を噤む。そして、慇懃な所作でさちを扉へ導き、見送る。
「それじゃ、どうも有難うねぇ」
がちゃ。
さちが去った。
ふぅ……
幹也は顔に貼り付けていた笑みを取り去り、どっかとソファに座り込む。そして、心なし痛くなってきた太腿を軽く揉む。
「ああ、やっと化粧魔人が帰りましたねぇ。せんせえが愛想良くするから一時間十八分も居座るんですよ。もっと適当な対応でいいっしょうに」
雄大が窓を開け放ち、心底ほっとしたように言った。彼は化粧の臭いが苦手なのだ。さちが来ている間は文字通り息を潜めているため、大抵大人しい。それゆえか、さちの雄大に対する印象は、引っ込み思案な可愛い子である。実際はその正反対の性質であるというのに……
窓縁に肘をついて外を見渡し、雄大は空気を胸いっぱいに吸い込む。そうしておいて、息を吐き出しながら、生き返るー、と満足そうに独白した。
「そう言うな、雄大。ミス桂坂はうちの唯一の常連だ。愛想もよくなる」
「探偵事務所に常連がいるのもどうかと思うっすけどねぇ」
くくく、と笑い、雄大は窓辺を離れて、幹也に歩み寄る。
そして、おもむろに手を差し出した。
「? この手は何だ?」
「先月分の給料。未払いでしたよね。週三で一日四時間っすから、えーと……五万円っすか」
雄大の言葉に幹也は顔を顰める。そういえばそういう出費もあったか、と。
そうなってくると、テナント料を併せて考えれば、人並みな食事を取れるのは今日だけ――いや、今日ですらも……
幹也はそのように考えつつ、五万二千円だ、と雄大の間違いを訂正する。先月の雄大の出勤日数は十三日間。時給が千円であるのだから、一日四時間働かせれば五万二千円である。
「そうっしたっけ? じゃ、そゆことなら、五万二千円、払ってください」
にこりと笑って、今度は両手を差し出す雄大。
払わないという暴挙にでるわけにもいかないため、幹也はしぶしぶながら貰ったばかりの封筒を開ける。そこには新札で一万円札が二十枚入っていた。
正直な話、幹也は猫探しの相場というものを知らない。そもそも、猫を探す仕事に相場があるのかも知らない。それでも、二十万円という金額は高すぎるのではないか、とは考えている。それでも、さちは一律でこの金額を置いていく。金持ちなのだろう。
幹也も詳しくは知らないが、さちはどこかの会社の社長なのだという。偶に自社製品だと言って食品を置いていくため、食品メーカーなのだろうが、聞いて直ぐに判るほど有名なメーカーではない。幹也に判るのはそれくらいだった。
どうであれ、金持ちが常連となり、金を落としていってくれる。それだけが彼にとっての僥倖であり、全てであった。
封筒から五枚の一万円札を取り出し、それから幹也は、自分の机の引き出しを開けて、くしゃくしゃの千円札を二枚、手に取る。そうして、なけなしの札束をアルバイト社員霧谷雄大に支払った。
「ありがとうございまーす」
雄大はほくほく顔でそれを受け取り、ズボンのポケットに突っ込んだ。そうしてから、彼はあっと声を上げ、ふと思い出したというように口を開いた。
「ああ、それから、このあと人が来ますから」
「へえ、そうか…… 中学の時の友人でも呼んだのか? 五月蝿くするなよ」
幹也は適当に反応しながら、封筒の中身を数え始める。五枚抜いたのだから当然十五枚しかないのだが、未練たらしく繰り返し数えていた。
彼のそのような様子を瞳に入れ、雄大は不満そうに息を吐く。
「何言ってんすか。お客さんですよ。昨日せんせえがいない時に電話があったんす。依頼したいことがあるから今日の十五時にって――」
「はあ!? ちょっと待て。お前、それを昨日僕に言ったか?」
「いいえ。けどまあ、今日のことなんで今日言えばいいかなぁって思いまして」
あっけらかんとして言う雄大に、お前なぁ、と幹也が呟く。
こういう時に幹也は、アルバイトを時給千円も出して雇っていることを後悔する。
先にも述べたように彼の事務所の財政状況は火の車である。にもかかわらず、大金を出して雄大を雇っているのには理由がある。幹也に著しく欠如している体力を補うためだ。今回の猫との追いかけっこでもそうであったが、幹也の身体能力はまず活躍することがない。走れば確実に筋肉痛を引き起こし、歩き回れば疲れ、カフェで休憩する回数が日に五回という体たらく。
そのような幹也の弱さを補うのが、バイトである雄大の仕事である。実際、いつも通りであれば今回の猫との追いかけっこであっても、追い回すのは雄大の仕事だったのだ。しかし、せんせえも偶には動かないと早々におっさん化しますよ、という雄大の言葉に幹也が憤慨し、半ばやけになって走り回ったのである。
もっとも、立ち上がることすら億劫になりつつある現状では、もうおっさんになってもいいや、と幹也は考えていたりするが……
それはともかくとして――
「まあいい。それで、十五時だな。何の依頼か聞いたか?」
「確か……謎を解いて欲しいとかって。あとは課題がなんとか」
「本当か!」
雄大の言葉に、幹也は瞳を輝かす。お前忘れるくらいならメモ取っておけよ、などと考えながらも、顔には喜色を携える。
幹也は謎というものが大好きだった。名探偵が華麗に解くような、そんな難解な謎を求めていた。ちなみに勿論、ここで言う名探偵は、効率的に浮気調査や犬猫捜索を行うそれではない。連続殺人事件を華麗に解決し、警察機構に頼られるそれである。
とはいえ、幹也も連続殺人が界隈で起きることを望んでいるわけではない。どこかの洋館に閉じ込められたり、無人島に取り残されたりした上に、殺人事件に巻き込まれる。そんな状況を望んではいない。そもそも、人が死ぬことすら厭う。それでも、好きなものは仕方がないということか、彼の心はそれらを求める。謎を求める。
そして当然のごとく、幹也は謎という言葉に過剰に反応する。
「謎か…… くくく。いい響きだな、雄大」
「そうっすか。俺は謎よりもまず、何か食いたいんすけど。猫ちゃん追っかけてて何も食ってませんし」
「少しは雰囲気を読め。ここは、『そうっすねぇ! 俺、謎って聞くとワクワクするんです!』などと口にする場面だ」
「そんな反応もどうかと思うっすけど」
こんこん。
呆れたような表情で雄大が呟くと同時に、事務所の扉が遠慮がちに叩かれる。それを受け、はいはーい、と返事しながら、雄大は扉へ向かった。
幹也が掛け時計に目をやると、短針は三を指し、長針は零を指している。
謎が――やってきたのだ。
彼は唇をひと舐めしつつ、期待に胸を膨らませた。