理系学生の課題

 雄大に連れられて事務所に入って来たのは、ショートヘアがよく似合う女性だった。赤縁の眼鏡をかけ、服装はチェックのシャツにジーンズという簡素なもの。上着掛けにかけられたダッフルコートが唯一金のかかっていそうな物品ではあるが、基本的にぱっとしない外見である。この事務所同様に財政難なのか、はたまた服装に無頓着なのか。いずれにしても、幹也には関係のないことであるが……
「ようこそいらっしゃいました。僕がこの葦乃木探偵事務所の所長、葦乃木幹也です。そちらは僕の助手で霧谷雄大といいます」
「ども」
 幹也が堂々と自己紹介をし、雄大が軽く頭を下げると、女性は恭しく頭を下げた。そして、彼らを順に瞳に入れ、口を開く。
「わたしは西島桐香といいます。それで、早速依頼についてお話させていただきたいのですけれど……」
「ええ、勿論ですとも。それで、どういったご用件でしょうか? こちらの雄大からは、課題とか謎とか聞き及んでおりますが」
 謎という単語に力を入れた幹也を、雄大は苦笑して見る。
 一方、桐香はそのような事実には気付いていない様子で、ショルダバッグからプリントを一枚取り出す。
「まずはこちらをご覧いただけますか?」
「失礼」
 示された紙を幹也は手に取り、引き寄せる。そして、紙面に書かれた文字列を目で追った。
 雄大もまた、幹也の後ろに回りこんで、こちらは文字列を音声に変換する。
「以上の文章を読み、自分なりに推理を展開させよ。諸君らが指摘すべき事項は以下の通りである。鍵崎が川を渡った方法。第一の殺人のトリック。第二の殺人のトリック。犯人。提出期限は――今週末っすね」
「はい」
 プリントに書かれていた期日は、今週の金曜日の日付だ。今日は火曜日であるため、あと四日の猶予があることになる。
 幹也はプリントから顔を上げ、桐香に視線をやる。
「成る程、何かの課題といったところですか。これを解いて欲しいというのが依頼ですか?」
「はい」
 瞳を伏せて返事をする桐香。少しばかり表情が硬い。それは、課題を他人任せにすることへの罪悪感のためか。それとも、恥ずかしさを感じたためか。はたまた、その両方か。
 しかし、幹也はそういった点に言及せず、話を続ける。
「ここには『以上の文章』とありますが、つまり、これ以前にも何枚かのプリントがありますね。そして、それはミステリ小説の様相を呈している」
「ええ。仰るとおりです。それはこちらになります」
 今度は幹也を真っ直ぐと見返し、桐香はショルダバッグから更にプリントを取り出す。そちらは相当な厚さをしており、概算ではあるが数十枚と見えた。
「この物語はファンタジーだ?」
 幹也がプリントの束を手に取り、その一枚目に目を通すと、雄大が後ろでやはり声を発した。そして、続けて感想を口にする。
「何か変な始まり方っすねぇ。フィクションなら判りますけど」
「はい。わたしもそう思います。フィクションと間違えた、とまでは言いませんけれど、それと同義で使っているのではないか、と考えています」
「ああ、成る程ぉ。お姉さん、頭いいっすね。大学生っすか?」
「ええ。もう四年生で、来年の春には卒業します」
 幹也は難しい顔をして奇妙な序文をしばし見つめていたが、気を取り直して雄大と桐香の会話に気を向ける。そして、大学生なのか、という疑問を持ち、桐香に瞳を向ける。
 桐香を見る限り、あどけない――というよりは寧ろ、大層地味な容貌で、服装は先述の通り地味すぎる。大学生と言われると疑問を禁じえないのではあるが、それは幹也が文系大学の出身であるためかもしれない。
 彼の大学の女性同窓生達は、随分と派手な装いをしていたものである。が、そういえば、高校の同窓生であり、理系大学に進んだ女性は、ちょうど彼女のようにお洒落に無頓着な外見をしていた。そして、問うてみると、やはり桐香も理系の大学生であるという。
 在籍しているのは、この近所にある帝和大学の工学部だとか。
 ただそうなると、これまた奇妙な話である。
「しかし、工学部の四年生の授業でこのような課題が出るものですか? それとも、他学部の授業を履修しておられるとか?」
「いえ、それが違うのです。この課題を出されたのは確かに工学部の先生で、鮫川真治准教授です」
 桐香の言によれば、鮫川はコンピュータ通信に関する研究を行っているという。その詳しい内容に関しては、鮫川の研究室に属しているわけでもない桐香は知らなかったが、彼のレポートの変わり様については落ち着いた口調で語ってくれた。
 彼女曰く。まず、一つ目のレポート課題では、この近在の戦前の歴史について書かされた。続けて、二つ目の課題は、自分なりのカレーの美味しい作り方について書かされ、そして、今回が三度目のレポート課題ということになるのだと言う。
「それらのレポートは、鮫川准教授の研究分野に全く関係がないのですか?」
「ええ、おそらくは。ただ、准教授は歴史の考察や料理、それから読書を趣味にしていると聞いたことがあります。ですから……」
「ああ、それでっすか。けど、そんなんで妙な課題ばっか出されちゃたまったもんじゃないっすねぇ。俺が中学の時に出されてたら、絶対文句言ってますよ」
「文句を言った学生もいたみたいなのですけれど、ならば授業を受けなければいい、と一蹴されたそうです。実際、必修単位ではなく選択単位ですから、履修しないこともできます」
 必ずとる必要がある必修単位ではなく、他の単位で代替がきく選択単位なのであれば、それは確かに、履修しないこともできるだろう。そして、奇抜な課題の一つ目が出されたのは、授業を履修するかどうか決定しなければいけない期日よりも前だったと、桐香は言う。ならば、妙な課題を出す授業と知った上で履修したことになるわけであり、今更文句を言うのはお門違い、という論法も成り立ちはする。
 もっとも、それは随分と乱暴な論旨ではあるだろう。そもそも、コンピュータ通信を学びたいと考えている学生に、そのような課題を出すことが問題であるのだから……
 そのように考え、そこで、幹也は一つの疑問を覚える。ちょっとした好奇心を得る。そして、訊く。
「これは依頼とは関係しないことなので、ただの好奇心からお訊きしますが、授業までその調子ということは――」
「いえ、そのようなことはありません。授業は確かにコンピュータ通信に関して講義されています。こちらは大変判りやすいと評判で、だから、履修せずに聴講だけする人も多いのです」
「へ?」
 桐香がそのように答えると、雄大は間の抜けた声を上げた。そして、言葉を続ける。
「だったら桐香さんもそうすれば――聴講だけにすればよかったじゃないすか」
 そう声をかけられ、桐香は苦笑した。笑うと――例え、それが苦々しいものであっても――より幼く見えた。
「それはそうなのですが、わたし、一つ目の課題は別に嫌ではなかったんです。わたしも歴史とか結構好きで、この辺りの歴史にも興味がありました。それで、ずっと歴史関係の課題が続くのなら、卒業論文を書く息抜きに受講するのもいいかなと、そう考えてしまったんです。勿論、コンピュータ通信についても興味がありましたし」
 そこまで耳に入れ、幹也は更に質問をはさむ。
「なるほど。しかし、履修してしまったのは仕方がないとして、単位を取れないと問題は出てくるのですか? 選択単位であるならば、他で代替が利くのでは?」
「ええ。それは、今が四年生の後学期でなければそうだったでしょう。しかし――」
「つまり、卒業に必要な単位は授業を一つ取るだけで事足りけれど、今受講しているのがその鮫川准教授の授業しかない、と?」
 桐香は黙って頷いた。そして、既に自分はとある企業への内定が決まっていると語った。卒業できないのは困るのだ、と。
 俯く桐香から視線を移し、幹也は課題のプリントを見やる。
「それで、この課題ですか。ここに持ち込んだということは、ご自身で解けなかったわけですか?」
「ええ。困ったことに」
 幹也と雄大の視線を避けるように、桐香は下を向いたままで応えた。これまでにおいて自分の単位取得に対する見通しの悪さをさらけ出し、その上で、推理力のなさまで露見させたことを恥じたのだろうか。
 そんな桐香を少し気の毒に感じ、幹也は少し助言をする。その結果、彼は不利益を被るのであるが、そこには目を瞑るよう努める。
「西島さん。貴方にはこういう選択肢もあります。この課題を、ミステリ小説好きのご友人などに解いてもらうという選択肢です。僕に依頼すれば万単位の報酬を支払うこととなりますが、そちらで解決すれば、せいぜい食事を奢る程度で事足りましょう。学生さんが万単位の出費というのは辛いでしょうし、その方がよろしいのではありませんか?」
 幹也がそう声を発すると、その後ろで雄大が息を吐いた。呆れているのだ。自分も金がなくて困っている側の人間だろうに、何を言っているんだ、と。
 しかし、幹也はそれに気付かないふりで、桐香を見つめる。
 桐香は瞠目し、そして笑みを浮かべた。
 幹也が彼自身の利益を優先させるような人物でないことが判って、安心したのかも知れない。しかし、彼女は軽く頭を振ってから、否定の言葉を紡いだ。
「それはわたしも考えました。そして、実際に試みてもみたのです。ただその…… わたし、協力してくれた人物が打ち出した推理に納得できないのです。確かにところどころ納得させられる部分がありました。けれど、それでも、多くの部分においてその推理はやはりおかしいと感じるのです。だから」
 そう応え、そして、桐香は幹也を見た。依頼を取り下げる気はないらしい。更に、
「それから、お金の心配はどうぞお忘れ下さい。わたし、これでも持ち合わせはあります。報酬が十万円だとお聞きしても、気にはいたしません」
 とも言った。
 どうやら、桐香は幹也と同じ――というより、ここ葦乃木探偵事務所と同じ財政状況の人間というわけでもないらしい。それどころか、どちらかといえば金銭には苦労していないようである。
 幹也は、ならばと納得し、力強く頷く。そして、手にしているプリントを軽く叩いた。
「そういうことであれば、この依頼お受け致します」
 桐香の表情が輝く。
 幹也は続ける。
「解答は木曜日の同じ時間にここで提出致しましょう。その時に、西島さんが納得できないものしか用意できないようでしたら、その時は報酬も要求致しません。それで、よろしいですか?」
「はい」
 自信に満ちた様子で言い切った幹也を目にし、桐香は軽く笑み、頷いた。そうしてから、深く礼をする。
「よろしくお願いします」
 幹也はそれに頷いて応え、
「ええ。僕の黄金の脳細胞に全てお任せ下さい!」
 高らかに宣言した。
 すると、やはり雄大がため息をついた。そして心の中で呟く。
 こういうモノを解決するっていう目的では一度も活躍したことのない金ぴか脳細胞っすけどね、と。

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