探偵と助手の朝

 窓から差し込む陽の光を受け、葦乃木探偵事務所の主人である葦乃木幹也は覚醒した。枕もとの時計を見てみると、時刻はちょうど午前八時を示している。早くもなく、遅くもなくという時間帯だ。
 幹也はベッドから身を起こし、洗面台へとその足を向ける。鏡面に見知った顔を映し出し、歯ブラシと歯磨き粉を、それぞれ右手と左手で掴んだ。しゃかしゃかとしばし反復運動をし、それを一分ほど継続してから水を口に含む。そして、がらがらがらと数秒間うがい。最後に、ぺっと口に含まれているものを吐き出した。
 そうしてから、幹也はデスクに戻り、パソコンの電源を入れる。しばらくすると、液晶画面には緑豊かな色彩の壁紙が映し出される。その壁紙の隅には窓を意味する英単語の複数形が書かれている。パソコン購入当時から変えていない、すっかり見慣れた壁紙である。幹也はマウスを繰り、メールのチェックを始める。新着のメールがあった。
「お。来ているな」
 独り呟き、幹也は満足そうに笑む。
 そのメールを開いてみると、そこには今日の午前十一時から一時間だけであれば面談してくれるという旨が書かれていた。文章の内容は硬いもので、流石は大学職員だな、と幹也に思わせた。
 それにしても――
 幹也はパソコンの電源を落とし、軽く伸びをして考える。
 それにしても、一時間で上手く把握できるだろうか。最悪、聞き込みで風評を知るという手もあるが、それでは余計な先入観を与えられるだけかも知れない。なるべく、今日の一時間で正しい印象を受けておきたいものだな。
 ぎっ。
 腰掛けていた椅子から立ち上がり、幹也は書棚へと歩を進める。そこには近在の地図をまとめた本がある。少し古い年のものではあるが、この近在で路線状況や地名が大きく変化したことは数年来ないため、それで事足りる。彼は目的のページを開き、帝和大学工学部キャンパスに一番近い駅名を確認する。そうしてから、今度は電車の時刻表を取り出して、ちょうどよい時刻の電車を確認する。それによると、事務所を十時前後に出ればいいことが判った。

 幹也が外出の準備を始めた九時半頃、事務所の扉が開いた。
「せんせえ。おはようございまーす」
 雄大だった。
「どうした? 今日はバイトの日ではないだろう? 給料の前借も断るぞ」
「この極貧事務所のどこを叩けば前借のための金が出てくるっつうんすか。そんなことじゃなくて、他のバイトもなかったんで、ちょっと昨日の依頼のアレはどうなったかなぁと様子を見にきたんすよ。アレ、読みました?」
 ネクタイを締めつつ応えた幹也に瞳を向け、雄大はデスクの上のプリントの束を指差し、問う。それらのプリントは、昨日桐香から渡された課題資料だ。
「人、何人死にました? 首は飛びました?」
 幹也は雄大に視線をやらずに答える。
「死ぬのは恐らく二人。首が飛ぶかどうかは知らん」
「ちょ、知らんって。もう読んだ内容忘れたんすか? せんせえ、まだ辛うじて二十代なんすから、ボケるにゃ早いっすよ」
「忘れたわけではない。まだ読んでいないため、判らないのだ」
「へ?」
 準備を続けながら紡がれた幹也の言葉に、雄大は目を点にする。そして、少し考え込んだ。
 数十秒ののち――幹也がすっかりネクタイを結び終えた頃に、彼はようやく問う内容をまとめ終えたようで、口を開く。
「けど、せんせえはさっき、何人死んだかって質問に答えましたよね? それなのに、読んでないって言うんですか?」
「ああ、読んでいないよ。だが、読まなくとも、死ぬ人数の予想はつけられる」
 幹也は呆れた瞳を雄大に向け、それからデスクに歩み寄った。雄大を手招きして、彼が寄って来ると、プリントを一枚渡す。
「そこに書いてあるだろう? 第一の殺人、第二の殺人――と。ならば、少なくとも二人が死ぬのだ」
「あ」
 小説部分以外――問いや提出期限が書かれているプリントに瞳を落とし、幹也の言葉を聞いた雄大。彼は間の抜けた声を上げ、紙面に書かれた問いを見つめる。
「仮に二人以上死んでいるのなら、第三の殺人、第四の殺人が問題にならない道理もないであろうし、恐らくは人死にも二で打ち止めだろう。そういうことだ。……しかしお前、昨日見た問題文も覚えてないのか? とてもではないが、探偵事務所の助手とは思えんな」
「し、仕方ないじゃないすか。一回しか読んでないんすよ?」
「僕も一度しか読んでいないがな」
「くっ…… ああ言えばこう言う」
 幹也の皮肉交じりの発言に、雄大は瞳を細める。が、直ぐに疑問を顔中に浮かべて口を開いた。
「って、そういえば、なんでまだ読んでないんすか? 桐香さんにお答えするのは明日っすよねぇ。早くとりかかった方がいいんじゃ――」
「急ぐ必要などない。僕の頭脳を持ってすればミステリ小説もどきなど一読するだけで解ける。それよりも、今は答えを出すための材料を揃えなければならない」
 雄大は怪訝そうに幹也を見る。
「だからこそ、その課題のプリントを熟読するべきなんじゃ? 答えを出すのに必要なものなんて他にないじゃないすか」
「雄大」
「はい?」
 一度時計を確認してから、幹也は雄大を見る。そして、言葉を続けた。
「お前はこの課題にどう答えればベストだと考える?」
「は? ……そりゃあ、鮫川准教授大先生が意図するとおりに、トリックやら何やらを看破すればいいんでしょ?」
「半分正解、半分不正解と言ったところかな。今のところは」
「? 今のところ……っすか? よく判んないっすけど、今、俺が言ったことをしただけじゃ、正解とは言えないんすか?」
「ああ。ミステリ小説の正解には到達するかも知れないが、課題の正解を得ることはできないかも知れないな」
「それらは同じものでは――」
「ないのさ。これから会う人物の性格によっては、ね」
 そこで幹也は再び時計に目をやる。時刻は午前十時五分前を示している。
 約束の時間よりもできる限り早く行動しておきたい性質の幹也は、椅子にかけていた背広を着、その上に黒のロングコートを羽織る。
 支度が整った。
「あれ、どっか行くんすか? せんせえ」
 今更ながら訊いた雄大に、幹也は口の端を持ち上げて応える。
「ああ。材料を揃えに、帝和大学工学部のキャンパスへな」

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