帝和大学工学部キャンパス

 突然吹いた冷風を受け、幹也はコートの襟を右手で掴み、合わせる。外界からの遮断が完了するだけで、幾分寒さが和らいだ。
 そして、彼同様に寒さに震える者が隣に一名。
「うぅ、寒いっすねぇ。大学のキャンパスって、ドームに囲まれてて、暖房完備で、何時でも小春日和なのかと思ってたっす」
「何処のシェルター施設だ、それは」
 震えながら紡がれた雄大の言葉に、幹也は間髪要れずに返す。
 いくら大学に通ったことがないとはいえ、そのような誤解を持っている者がいようとは…… しかもそれが、自分の事務所で雇っている人間だとは……
 幹也は少しばかり落ち込んだ。
 しかし、努めて気にせず、更に言葉を紡ぐ。
「というか、お前は来る必要がないだろう? 寒いなら家に帰って、炬燵で丸くなっていてもいいのだぞ」
 幹也はコートのポケットから百円玉を三枚取り出し、自動販売機の硬貨投入口に入れる。そうして、ホット缶コーヒーとホットココアを購入した。まずは釣銭を取り出してしっかりとしまい込む。そしてその上で、取り出し口から二つの缶を取り出す。缶コーヒーを自分の手におさめ、ココアを雄大に渡す。
 雄大は、どうもっす、と応えてから、先の幹也の言葉に応える。
「大学なんて来る機会ないっすから、来てみたかったんすよ。それに、家帰っても誰もいないんすもん。寂しいじゃないすか。父さんも母さんも仕事っすし、姉ちゃんは大学行ってますし」
「そういえば、お姉さんは帝和大学の学生じゃなかったか?」
「ええ。けど、文学部っすからここにはいないっすよ。奴の住処の文学部キャンパスはうちの直ぐ近くにあって、歩いて十分くらいっすかね。奴は近さだけで大学を決めた阿呆っすよ」
 肩をすくめ、雄大が言う。
 大学全入時代などと謳われるこの時代に、彼は授業料を出して貰えるという家庭環境にあって、敢えて中卒でいる。それは彼自身の意思による結果である。そのような彼だからこそ、進学に対する自分なりの美学があるのかもしれない。
「まあ、お姉さんが阿呆かどうかの議論はさて置き、だ。大学に行く機会は今日じゃなくてもあるのではないか? お姉さんが通っているなら、帝和祭の時に行ってみてもいいだろう?」
 幹也が訊く。
 ちなみに、帝和祭というのは、ここ帝和大学が催す学園祭の通称だ。
 雄大は肩をすくめ、応える。
「帝和祭に限らず、以前奴は俺を大学に何度も連れ出そうとしてたんすけどね。あの阿呆に誘われた結果として大学に潜入する気はありません。そんな、周りの人間から、いかにも奴の弟として扱われそうな状況はうざくて仕方ないっすよ。んで、ずっと断ってたら、最近は姉ちゃんも来るなとか言い出す始末っすから、より一層足は遠のきましたね」
「ふむ。そいつは麗しい姉弟愛だな」
「せんせえ、話聞いてました?」
 一般にも開放されているキャンパスゆえか、誰にも咎められることなく、雑談を交わしつつどんどんと進入していく二名。そのうち一名――雄大は、軽く駆け足で行ったり来たりしながら幹也に対している。恐らくは、寒さを運動によって緩和しようという試みだろう。怪しいことこの上ない。
 当然、そのような調子の男性二名はそれなりに目立つ。そして、そんな彼らを、立ち話をしていた帝和大学の女学生二名が見咎める。そのうち一名が声を上げた。
「葦乃木さん!」
 幹也が声のした方向に瞳を向けると、そこには昨日知り合ったばかりの女性が手を振っていた。
 桐香である。
 幹也もまた手を軽く上げ、そして、歩み寄った。
「お早うございます、西島さん。授業は鮫川准教授のもののみとの話でしたし、授業ではないですね。これから研究室に向かうといったところですか?」
「いえ、研究室は午後からでして、今は友人と雑談に興じているところです。寒いから学食に行こうとしていたのですけれど、葦乃木さんと雄大くんも宜しかったら――」
「雄大!」
 桐香の言葉を遮って、帝和大学工学部キャンパスを大きな声がこだました。
 幹也、雄大、桐香の三名が、一斉にその声の元へ瞳を向ける。
 そこにいたのは、茶に染めた髪はウェーブがかかり、目鼻立ちのはっきりした顔には華やかな化粧を施している、そんな女性だった。黒のハイネックシャツの上に革のジャケットを着込み、首元には白い宝石が目立つネックレスをかけている。白のブーツを履いている足元から視線を上げていくと、彼女は寒さにも負けずにタイトスカートをはいていた。桐香とは違い、服装や装飾に気を配るタイプらしい。
 その女性に対してまず反応したのは、呼びかけられた当人である雄大だった。
「げ。姉ちゃん」
「げ、とは何よ! ご挨拶ね!」
 嫌そうに顔を歪めた雄大に歩み寄り、彼の姉は眉を吊り上げる。
「あんた、あたしが誘っても来なかったくせに……! いや、それよりも、もう絶対来るなって言ったでしょ! 帰んなさいよ!」
 にべもなく言われ、雄大もやはり眉を吊り上げた。
「な! ここは姉ちゃんの学部のキャンパスじゃないんだし、いいじゃんか! それに、俺は仕事で来てるんだから、帰れって言われて、はいそうですかって帰るわけにはいかないよ!」
「仕事ぉ? ん? そっちにいるのは――牛丼屋の店長は禿げてるって話だし、コンビニの店長はちょび髭を生やしてるんだったわね。とすると、例の探偵気取りの馬鹿男ね」
 牛丼屋、コンビニは共に、雄大がアルバイトをしている場所だ。それらに葦乃木探偵事務所が加わることで、雄大の仕事先リストは完成する。彼が仕事と口にした以上、この場にいるのは、そのいずれかに関係ある責任者であるべきだろう。そして、幹也は禿げておらず、ちょび髭も生やしていない。ともすれば、女性が幹也を探偵事務所の人間と認識するのも当然だった。
「ちょ、ちょっと…… 雅」
 幹也を見据えて暴言を吐いた雄大の姉――雅の腕を取り、桐香がたしなめる。しかし、雅は悪びれするでもなく幹也に指を突きつけた。
「あんたのせいで最近、雄大が理屈っぽくなってるのよ! 色んなことに疑問を覚えてそれに対する考察をするように、とかって変な指導をしたでしょ! うちの雄大の売りはフィーリングで生きる阿呆っぽさなんだから、余計なことをさせるのは止めてくれない? 迷惑なのよ!」
 雄大に、頭がよくなるにはどうすればいいか、と訊かれ、幹也は雅が口にしたように答えたことがあった。しかし、それは指導ではない。そうしろと言った覚えもなかったし、雄大がそのように実行しているとも、幹也には思えなかった。
「雄大が理屈っぽい? 僕はそのように感じたことなど一度たりとも――」
 幹也は戸惑ったように呟くが、しかし、不機嫌さが際立っている雅の様子に危険を感じ、途中で言葉を止めて咳払いをした。
 そうしてから、雅に対してにこやかに声をかける。昨日の桐香の言葉と、以前雄大から聞いた雅の趣味、その二つの事実から得た予想を確認するためだった。
「はじめまして。僕は葦乃木幹也といいます。僕に至らない点があったようで、お姉さんを不快にさせてしまったことをお詫び致します。ところで、貴女はそちらの西島さんのご友人ということですが、例の課題について相談を持ちかけられたのも貴女ですか?」
 幹也は雄大から、姉の趣味が読書――とりわけ、ミステリ小説を読むことであると聞いたことがあった。ならば、桐香が話していた、課題について相談した友人というのも、恐らくではあるが、雅なのだろう。
 突然愛想よくされた雅はたじろいだが、直ぐに勢い込んで声を上げる。
「そうよ! 課題ってあれでしょ? 桐香が受けてる授業の准教授が出した変な課題。じゃあ、桐香が昨日相談しに行った探偵っていうのもこいつなわけね。たくっ! 桐香も桐香よ! あたしが出した答えじゃ不満なわけ!?」
「だって雅。貴女の推理って、偶然に頼ることが多すぎるんだもの。犯人は運が良かったから偶然見咎められなかったとか、流石に受け入れ難いわ」
「大抵、真実なんてそんなものでしょ。偶然が重なった結果、謎としか思えない事態に陥ったりするのよ。だから、ああいうのは屁理屈をこねればいいの。特に今回は実際に事件に巻き込まれたんじゃないわけでしょ? ただの課題なんだから、真実を絶対に指摘しなければいけないってわけでもない。だったらそれでいいじゃない」
 雅の言葉に、雄大は呆れたように天を仰ぐ。
「姉ちゃん、いくらなんでもそりゃないだろ。一応ミステリ小説が好きって公言してるんだからさぁ。もうちょっと論理的な答えを出してあげなよ。桐香さんも困ってせんせえのとこに来るはずだよ」
「また、そんな理屈っぽいことを! ほら見なさい! 探偵もどき! これもあんたのせいよ! 前までの雄大なら、今のあたしの言葉に感動して、姉ちゃんすげぇ、とか言ってくれたのに! 最近はとみに可愛くないったら!」
 きっと睨まれた幹也は心うちで、今の雄大の何処が理屈ぽかったのだろう、と苦悶しつつ、しかし、そのような思考などおくびにも出さずに言葉を紡いだ。その言葉は雅の機嫌を取るためのものではあるが、その一方で、幹也の本音も多分に含まれていた。
「それは申し訳ない。ところで、僕としては貴女の意見は傾聴に値すると判断しましたよ」
「……はい?」
「先程の西島さんへ仰られた意見のことです。僕としても、随分共感する部分がありました」
「あ、葦乃木さん?」
「せんせえ?」
 桐香と雄大が、ぽかんとした表情で幹也を見る。
 一方、雅は単純にも相好を崩す。幹也の狙い通りに、機嫌は直ったらしい。
「……何よ。意外と普通ね。もっと理屈っぽくて鬱陶しいタイプかと思ってたわ」
「僕も理屈っぽいのは苦手な性質でして。ミステリ小説なども、お好きなお姉さんの前でこのようなことを口にするのは気が引けますが、少し苦手なのですよ。実際、読んだこともありません」
「あら、そうなの。意外ね」
「そうなのですか!」
 雅は随分と好印象を持ったようで、笑顔で声を上げ、桐香は寧ろ不満げに声を上げた。雄大にとっては既知のことであったのか、彼は特に反応しない。
 幹也は三名をそれぞれ瞳に映し、不満そうにしている桐香に声をかけた。
「ああ。安心してください、西島さん。僕は確かにミステリ小説に慣れ親しんではいませんが、頭を使う作業は昔から得意です。必ず、課題の正解となり得る結論を導き出してみせます」
「はあ」
 自信満々に紡がれた幹也の言葉も、先程露見した事実によって生まれた桐香の不信感を完全に払拭することはできない。とはいえ、成功報酬でいいという言質を昨日得ていたためか、桐香は納得しかねる表情を浮かべながらも、それ以上は何も言わなかった。
 一方で、多分に誤解が含まれていた第一印象を払拭したらしい雅が、好意的な様子で幹也に声をかける。
「探偵さん――確か、幹也さんだったわね。さっきは色々と御免なさい。気を悪くしたでしょう?」
「いえ、気にしていませんよ。それよりも――」
 そこで幹也は腕時計を一瞥する。長針が十の数字に迫っていた。現在十時四十九分。もうすぐ、約束の十一時を向かえようとしている。
「ああ、申し訳ない。実はこれから約束がありまして。今はこれで失礼致します」
 瞳を伏せて幹也が言うと、雅は少しばかり残念そうに息をついた。
 彼女のそのような様子などいざ知らず、幹也は更に続ける。
「ところで、雅さんにお聞きしたいことがあるのですが…… このあと――そうですね、午後にお時間をいただけませんでしょうか?」
「午後? そうねぇ…… 研究室に顔出す予定だったけど、さぼってもいいし……」
 雅は右手を口元に添えて考え込み、しばらくすると笑顔で応える。
「いいわよ。オッケーです。そちらの約束が済んだら学食で落ち合いましょう」
 その言葉に幹也は満足そうに頷く。
「学食ですね。判りました。用が済みましたら伺います。では、これで失礼致しますよ。行くぞ、雄大」
「あ、はい。じゃあまた、桐香さん」
「ええ」
 幹也の後に続きつつ、雄大は桐香に手を振る。
 桐香は笑顔でそれに応え――
「雄大! あたしには挨拶も何もなしってわけ!」
 雅は眉を吊り上げて声を張り上げた。

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