「はぁ…… 残念したっすねぇ。これから面白くなりそうだったのに、中断だなんて。次、話聴きに行く時はちゃんと俺も誘って下さいよ」
「次なぞ誰が行くか」
鮫川の居室を離れエレベータに乗った時、雄大が心底残念そうに言い、幹也が心底嫌そうに言った。双方非常に驚いた顔で互いを見る。
「って、せんせえ。なんでそんな…… そもそも自分から面会申し込んだくせに。面白くなかったんすか?」
「雄大こそ面白かったのか? 僕はもともと文系の人間だからな。ああいう話は好かない」
「のわりに、理解はしてたみたいっすけど…… 話にはついていってたじゃないすか?」
「あのくらいであれば直ぐに理解できるさ。簡単な話しかしていなかったじゃないか。だが、あれよりも専門的になろうものなら、理解はできたとしても拒否反応が起こるに決まっている。僕は理系の授業の全てが嫌だったのだ。数学や物理なぞこの世から消えてしまえばいい」
吐き捨てるように言った幹也を目にし、雄大は苦笑いを浮かべる。
「そう言いつつ、どうせ成績自体はよかったんでしょ? せんせえ、好き嫌いは激しいくせに、体動かすこと以外は何でもそつなくこなすんすから」
「そんなことは当然だ。黄金の脳細胞を舐めるな」
はいはい、と適当な返事をしつつ、雄大はふと疑問を浮かべる。
「って、そうなるとせんせえ。何で鮫川准教授の話を聴きに来たんすか? わざわざ嫌いな話を電車賃払ってまで」
そこでエレベータが一階に着いた。二人は建物の出口を目指して歩き始める。
幹也が呆れた様子で雄大を見る。
「お前、昨日の出来事とか覚えてないのか。大丈夫か、頭。このタイミングで鮫川准教授に会いに来ておきながら、西島さんの依頼に関係ないはずはないだろう?」
「へ? でも、例の課題の話なんてこれっぽっちも――」
「貴方の生徒さんから課題を解くように言われたのですが……などと切り出せるはずないだろう。西島さんの名前を出さないにしても、そんなことを訊きに来たと知れれば追い返されかねんし、万が一にも西島さんが依頼者だと知れれば西島さんの不利益になる。無難に、メールで打診した通りの研究に関する質問しかできないよ」
その言葉を聞くと、雄大は首を捻った。しばらく考え込み、それから質問を口にする。
「だったら、結局課題に関係ない訪問ってことになるんじゃないすか? 実際、関係ないし」
「課題には直接関係しなくとも、鮫川真治がどういう人物であるか、大体ではあるが知ることができたさ。これは、課題の解答を得る上で大いに役に立つ」
「鮫川准教授がどういう人だったか……」
雄大は再び考え込み――
「いい人っしたっすよね。質問に丁寧に答えてくれて」
「……まあ、その点で言えばそうだろうが。お前、あれだけ不機嫌な態度取られて、よくそう感じられたな」
「不機嫌な態度っすか?」
雄大は瞳をパチクリさせて、それから続ける。
「けど、素人がでしゃばったり、変なところで口挟んだりしましたし、仕方ないかと」
その応えに、幹也は意外そうに瞠目する。雄大はやはり首を傾げた。
「どうかしたっすか?」
「いや。そういう点に気付いた上で、先の発言だとは思っていなかったものでな。少し驚いた」
「へっへ。こう見えても、空気は読めてる方なんすよ。今風に言えば、KYRっす」
「何だ? KYRって」
「空気読めてるの略っすよ。ローマ字で書いて、空気の頭文字がK。読めてるの頭文字がY。で、最後に読めてるの『る』からR。ちなみに、空気読めてないの略がKYっす」
「ああ、KYは聞いたことがあるな。そうか。確かに空気読めてるにはRがあるが、空気読めてないの方には全くRが出てこない」
「そういうことっすよ。ちなみにその派生語として『敢えて空気読まない』を略したAKYなんてのもあるっす。こう見えて、俺も若者っすからね。頭の良さじゃとても敵わないっすけど、こういう知識はせんせえよりも多い自信があるっすよ」
雄大は、卑下しつつも誇らしげに胸を張る。
と、そこで、幹也と雄大の目の前で、建物から大量の学生が排出された。もう直ぐ正午であることを考えると、ちょうど終わった授業があるのかも知れない。そのうちの数名が学食に行こうと口にしながら幹也達の目の前を通り過ぎて行った。
幹也はそちらに一度視線を送り、進行方向を変える。それから、同様に進行方向を変えた雄大に目をやる。
「そう言いながらも、お前、コンピュータのことに詳しかったじゃないか。そっちの方面も僕より知識は多いのではないか?」
「ああ。さっきのサーバ・クライアント型――あ、この名前を知ったのは、鮫川准教授に聞いたからっすよ。あれのことっすか? あれはせんせえにホームページ作り任されて、それで少し興味がわいたんで調べたから知ってただけっすよ。あとは実際に使ったから、HTMLとかFTPとかも少し覚えたっすね」
「ほぉ。僕は全く聞き覚えもないし、知りたいとも思わないが…… 興味があるようなら、必要なものを言えば買ってやるぞ。それでホームページが話題になって依頼人が増える可能性もなくはないだろうしな」
「何言ってんすか。赤貧探偵事務所にそんな余裕があるとは思えないすよ。別にいいっすよ。欲しきゃ自分で何とかします」
殊勝な発言をした雄大に、幹也は腰を曲げてよぼよぼと歩きながら、笑みを携えて声をかける。
「いつもすまないねぇ、雄大さんや」
「それは言わないお約束っすよ」
ふざけた口調で掛け合う両者の視線の先で、学食に向かうと口にしていた一団が建物に入った。どうやら、そこが目的地らしい。
とはいえ、入り口から入って右の壁に設置されている案内図を見てみると、そこに到達するためにはまだ階段を二階分ほど上らなくてはいけないようだ。エレベータは先のグループが乗っていったのだろう。上を目指している最中だった。
「ところで、せんせえ」
「何だ?」
エレベータの扉上方にある表示を見つめつつ、会話を再開する二名。
「桐香さんがいない間に聞いておきたいと思ったんすけど――この依頼、本当は嫌なんじゃないすか?」
「なぜだ。いつもの猫探しに比べれば、紙の上の出来事とはいえ不可思議な謎に満ちている。嫌がる道理がない」
「けど、ミステリ小説っすよ。せんせえ、あんまりミステリ小説好きじゃないじゃないすか。解いて下さいと待ち構えている謎はくだらないって、前に言ってませんでした?」
そこでエレベータが下まで降りて来た。幹也がまず乗り込み、その後を雄大が追う。
扉が閉まり、あとは重力に逆らって二階分ほど上昇するだけだ。
「お前は勘違いしている」
幹也の言葉に雄大は戸惑う。
「勘違い……っすか?」
「そうだ。今回のこれは、ミステリ小説を読みはするが、ミステリ小説を解く訳ではない。課題を解くのだ」
「けど、その課題がミステリ小説を解く課題で――」
「鮫川真治に会って確信を得た。ミステリ小説を解くことと課題を解くことは、同義ではない。そしてだからこそ、これは僕好みの、用意されたわけではない、不可思議に満ちた謎なのだ」
嬉しそうに言葉を紡いだ幹也。彼の言葉に、雄大がやはり首を傾げたちょうどその時、エレベータの扉が開いた。
三階――帝和大学工学部キャンパスの学生食堂だ。