帝和大学学生食堂

 食堂の入り口に並んでいる者達を横目に、幹也と雄大は構わず進入していく。何も頼む気がない以上、わざわざその列に並ぶ必要など無かった。しばらく進むと、食事をするスペースが視界に入る。しかし昼時のこと。人の多さからか桐香と雅の姿を見止めることはできなかった――のであるが……
「あはははは! 何それぇ!」
 甲高い笑いが聞こえた。
 雄大が眉根を押さえて、ため息をつく。
「姉ちゃん…… 大学でもこんな調子なのか……」
「というと、家でもあんな様子なのか。ふむ、面白いお姉さんじゃないか」
「ひとごとだと思って面白いで済まさないで下さいよ。うるさいだけならまだしも、何かあるごとに弟殴る暴力姉っすよ」
「そのおかげで体が鍛えられているのじゃないか? 次の猫探しの時は、いつも通りお前が走り回ってくれよ」
 勘弁して下さいよ、という雄大の呟きなど聞こえないふりで、幹也は先程の声の主の元へ向かう。窓際で、桐香と雅が机を隔ててお喋りに興じていた。
「失礼。お邪魔ですか?」
「あ。葦乃木さん。いえ、お邪魔だなんて」
「雄大は邪魔だけど」
「おい」
 雅の一言に起因して姉弟喧嘩が勃発した。周りにいる者達が何事かと振り返るほどには騒々しかった。
 しかし、幹也はそれを適当に無視し、桐香に声をかける。
「ところで西島さん。午後から研究室に顔を出されるとのことでしたが、まだ宜しいのですか?」
「あ、はい。十二時半までに行けばいいので、もうしばらくは大丈夫です」
 雄大達に気を取られていた桐香は少しばかり驚いて、しかし、丁寧に応じた。
 彼女の柔らかな笑みと態度から、こちらに気を遣ったというわけでなく言葉の通りなのだろう、と幹也は考えた。そして、あいている雅の隣に腰掛け、桐香を斜め前に見ながら遠慮なく疑問をぶつける。姉弟が中々にやかましいが、そこは気にしない。
「ではせっかくですので、少しばかりお訊きしたいことがあります。課題に関係することです」
「はい」
「まずあの小説ですが、誰が書いたのかお判りになりますか? 鮫川准教授が課題を出す際に言及されませんでしたか?」
「誰が――ですか? わたしの記憶では出典は書かれていなかっただろう、と。准教授も、何も仰られていませんでした」
「誰それが書いたものだとは記されておらず、准教授も何も仰られなかった、と。なるほど、そうですか」
 幹也は満足そうに頷くと、続けて質問する。
「では、鮫川准教授は普段の授業で著作権に関して五月蝿く仰られていませんか? 卒業論文を執筆する際に、引用の出典表記には気をつけろ、といったように」
「よく知っていますね。確かに、准教授は著作権に関してしつこいほどに注意なさいます。ピアツーピアを研究対象にされているためではないかと存じますが……」
 桐香の答えに、幹也は再び満足そうに頷く。そうして、やはりそうか、と呟いて時計を見た。長針が一の数字を差している。
「ここは何分ぐらいに出られますか? もう十二時五分ですが」
「十五分くらいには…… あの、申し訳ありません。ゆっくりお話しすることもできず」
「いえ。構いませんよ。質問もあと二、三で終わりますから、十分もかかりはしないでしょう。さて、さっそく一つ目ですが、鮫川准教授は授業中に学生にあてて答えさせるということがありますか?」
「はい。授業毎に四、五名ほどにあてられます。前の方に座っている学生にしかあてませんから、あてられたくないのであれば後ろに座る、というのが暗黙の諒解になっています」
「なるほど。では、それに正しい答えを返す学生はいましたか?」
「難しい質問が多いので大抵間違って答えますが、時々正解をする人もいます」
「その時の准教授の反応は?」
 その質問に桐香は眉根を寄せる。そういえば、と呟き、不思議そうに首を傾げた。
「少しおかしいんですよ。自分から質問をしたくせに、正しい答えが返ると少し不機嫌になるんです。それで授業が荒れることもたまに…… ちなみに、間違っている答えが返った時は機嫌よさそうに見えます。ご教授下さっている先生に対して失礼ではありますけれど、少し気難しいところがあると思います」
「なるほど。それは素晴らしい情報です。推理の外堀を非常に強固にしてくれました。有難う御座います」
「は、はあ」
 にこやかに差し出された幹也の右手を、桐香は戸惑いつつ握る。
 彼らの直ぐ側では、姉弟が飽きもせずに口論を続けていた。しかし、最後の質問が残っていたので、幹也は気にせずに話を再開させる。
「では最後の質問です。これは貴女自身に関することですが、プライベートに踏み込むわけではありません。気負わずどうぞ」
「判りました」
「単位に関してですが、取れさえすれば最低限の成績でもいいと考えますか? つまり、最低成績である『可』でもいいかどうか、ということです。それとも、一番いい成績である『優』を望みますか?」
 桐香はその質問に呆気に取られたようであった。そして、少し不信感の生まれた瞳で、幹也を見る。
「それは、自分で取り組むことを放棄した身ですから多くは望みません。勿論、可――いえ、たとえ不可であったとしても、そちらの推理にわたしが納得した結果であれば、お金の返還を望みません。……そういう言質が欲しいのですか?」
「おっと。少し誤解を与えてしまったようですね。そういうことではありません。僕が言いたかったのは次のようなことです。もし貴女が可でもいいと考えているのなら、恐らくは雅さんの推理でも問題はない。彼女の推理をお聴きした訳ではありませんが、間違いない。だから、僕に依頼をする必要はない。余計な出費をすることはない。そういう話です」
 幹也が穏やかな口調でそう説明すると、桐香は慌てたように両手を振り、それから頭を下げた。
「そ、そうだったんですか……! すみません! 失礼なことを言いました」
「いえ。いいのですよ。それよりも、どうですか? 今であれば、依頼の取り消しはお受けします。キャンセル料も取りはしません」
 桐香は考え込み、幹也を真っ直ぐと見てから首を振った。
「依頼は取り消しません。確かに単位は大事ですが、それ以上に、あの課題の解答を私自身が知りたいのです。葦乃木さんであれば、あれの完全なる解答を導き出してくれる。そんな気がします」
 そうきっぱりと口にしたあと、それでも桐香は照れた笑みを浮かべ、けれど単位もきちんと取らせて下さいね、と口にした。
 幹也は少し可笑しくなって、口元に手を当てて軽く笑み、くくくと声を漏らす。
 それを目にした桐香は、照れくさくなったのか顔を赤くし、頬を両手で押さえた。
「あ」
 そこで急に雅が声を上げる。
 何だよ、と口喧嘩の相手をしていた雄大が勢い込んで訊くと、あんたは関係ない、と言い切って雅は桐香を見やる。そして、食堂の柱にかかっている壁時計を指す。
「桐香。微妙にラブコメってるとこ悪いけど、十五分。行かなきゃ」
「べ、別に……って、あ、本当だ。大変」
 足元に置いていた荷物を手に取り、桐香は立ち上がる。そして、三名を見回した。
「それじゃ、葦乃木さん、雄大くん、雅。これで」
「ええ。お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。明日の報告、期待していて下さい」
「勉強頑張って下さいねぇ」
「はい。それじゃ」
 西島桐香は、いまだ乱雑としている食堂の人込みを抜けて、去っていった。
 あとに残された者達は、彼女を見送ってから向き合う。
「さて、続けて雅さんにお訊きしたいことがあるわけですが…… できれば、僕が例の小説を読んだ後にお願いしたいのですよ。宜しければうちの事務所までいらしていただけませんか?」
「ん? 別にいいですけど、雄大は来ない方向でオッケー?」
「ちょ! 何でだよ! 俺は葦乃木探偵事務所の一員だぞ!」
「今日はバイトの日じゃないけどな」
 幹也が呟くと、雄大はぐっと言葉に詰まる。そこを雅は見逃さなかった。
「じゃ、部外者ね。あたしは幹也さんにお話をするよう頼まれてるし、立派なお客さん。けど、あんたは部外者。あららぁ、部外者が無理に事務所に押し入ったりしたら、警察呼ばれたって文句言えないわよねぇ。つか、あたしが呼ぶ」
 意地の悪い笑みを浮かべ、雅が言い切る。
 雄大は眉根を寄せ、口元を歪め、姉を見やる。
「く、く、くそぉ! 覚えてろよ、姉ちゃん!」
 雅の言葉と幹也の面白がるような視線に耐えかね、ついに雄大は、捨て台詞を残して走り去った。あとには、大きく笑う雅と、含み笑いをする幹也が残される。
 そして、その二名は可笑しそうに笑いつつ、言葉を交わす。
「いやあ、雄大のやつ、ああいうところは相変わらずね。可愛げがなくなってきたと思ってたけど、今時捨て台詞を残して走り去るなんて、さすがだわ。まだ楽しめる。可愛い可愛い」
「可愛いかどうかは賛否両論分かれそうですが、面白いことは確かですね」
「幹也さんとは結構趣味が合いそうね。あ、ミステリ小説は好きじゃないんでしたっけ。そこは合わないですけど」
「はは、申し訳ありません。どうにも苦手でして。とはいえ、今回の課題には粉骨砕身、懸命に取り組むつもりですよ」
 真摯な態度で幹也が応えると、雅は口の端を持ち上げて不適に笑う。
「ほぉ、そいつは、本物の探偵さんがどんな推理をするのか楽しみね。じゃ、さっそくお手並み拝見といきたいし、幹也さんの事務所へ行きましょうか!」
 そのように元気よく言い切り、雅は、小さなショルダーバックを手にし、立ち上がった。幹也も素早く席を立つ。
 そうして、二人はようやく学食を後にした。

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