双搭の凶事(一)

 この物語はファンタジーだ。

 森をようやく抜けると、そこには深い峡谷が口を開けて待っていた。見下ろすと、遥か十数メートル下に濁流が轟々と音を立てて流れている。その荒々しい流れが、昨日から現在まで降り続けている雨を因としているのは想像に難くない。
 目的の場所はこの峡谷の向こう岸にあるというのに、これでは立ち往生だ。
「ちょっと、俊和! これじゃ目印が判りやすくったって辿り着けないじゃない! このままじゃ本気で遭難するわよ!」
「そんなことぼくに言われても困るよ。そもそも果歩がどんどんと先に向かってくから皆と別れ――いや、何でもない」
 果歩の射すくめるような視線を受け、ぼくは途中で言葉を止める。そして、今の状況を何とかして打破しようと、必死で視線を巡らした。とはいえ、そうそう都合の良い展開など望めるはずも――
「あれ…… ねぇ、果歩。あっちに橋みたいなの見えない?」
「橋? あ、本当ね! けど、すっごく古そうだけど」
「この際、文句は言ってられないでしょ。とにかく近くまで行ってみよう」
「そうね」

 近づいてみると、橋は遠くから見た際の予想を裏切らずにとても古いものだった。巨漢の男が二名ほど同時に渡ればあっさりと落ちてしまいそうである。しかし、ぼくと果歩の体重は、二人合わせても百キログラムに達しないはずだ。なんとか渡れるだろう。
「よし、渡ろう」
「ほ、本気? 渡ってる途中で落ちようものなら間違いなく死ぬわよ」
 不安そうにしている果歩を横目に、僕は橋に近寄る。手だけで力いっぱい揺らしてみると、激しく揺れはするけれど落ちる心配はまずなさそうだった。
「この通り大丈夫だよ。問題はこの橋よりも雨でしょ。このまま雨宿りもしないで雨に打たれっぱなしじゃ、風邪どころか肺炎を患うかもしれない。場合によっちゃ、それこそ死んでしまうよ」
「それはそうだけど……」
「ほら、行くよ」
 何時までも煮え切らない態度の果歩に、ぼくは手を差し出す。果歩はためらいながらもその手を取った。ぼくたちは一度頷きあって、それから橋を渡りだす。案ずるより産むが易しという言葉どおり、何事もなく対岸に至った。
「ふぅ。怖かった」
「私は案外楽しかったけど…… 俊和ったら臆病なんだから」
 思わず呟くと、果歩が意地悪な笑みを浮かべてそのように言った。正直、橋を渡るまでしり込みしていた人間に言われたくはない。
 しかし、そこで言い返したところで言い負かされるのは目に見えているので、口を噤む。こういう時、男は黙して語らずを決め込むしかない、と僕は思っている。
 そして、その話題はそこまでにして、ぼくは視線を上げる。
「ここまで来て、あれは実は建造物っぽく見えるただの木でした、なんてことにならないといいけど」
「怖いこと言うな。バカ俊」
 視線の先で、乱立する木々から頭を突き出している双子の搭は、遭難しかけているぼくらにとって導であり、希望だった。

 後方で何かが光った気配があった。しかし、振り返らなくてもその正体はわかっている。二日間も続く悪天候の中で、雷が落ちることなんて何度もあったことだ。なら、今のもそうなのだろう。
 気にせずに一歩踏み出そうとしたその時――
 ガンッ!!
 足元を揺らす衝撃と共に大きな音が轟く。
「きゃっ」
 果歩がぼくの腕にしがみついたが、ぼくもまた倒れこんでしまったため、果歩の行為は意味を為さなかった。二人とも地面に倒れこみ、衣服を汚す。
「今のは――」
「落ちた……よね?」
 果歩と顔を見合わせて、それから後方に瞳を向ける。木々の合間から煙が立ち昇っているのをうかがい知れた。
 そして、それを目にすると、ぼくらは寧ろこれから向かう先に意識を向ける。
「あそこ、大丈夫なのかな?」
 一般に雷は高い場所に落ちると言われる。木々から飛び出ている高い建物を――これから避難しようとしている双搭を見やり、ぼくらは呆けた。
 とはいえ、他に行くところもないのだから仕方がない。気を取り直して歩き出すと、果歩もまたぼくに続く。
「ねえ、俊和。火出して」
「何で?」
 突然に言い出した果歩に、ぼくは問う。
 彼女は両手を擦り合わせながら、青くなってしまっているふくよかな唇を動かした。
「寒いの。暖まりたいの」
「けど、雨で枯れ葉なんかも湿ってるから、燃やすものがなくて長持ちはしないと思うけど」
「いいから! ちょっとでも火にあたれば、気分的に暖かくなるわよ!」
 黙して語らずを信条にしている僕が、それ以上言い返せるはずもなかった。僕は大人しく火を出す。
「はあ…… 生き返るわぁ、ってもう消えたし。早過ぎない?」
「雨降ってるんだからそんなにもたないよ。それより、ちょっとは暖まったでしょ? 行くよ」
「はぁい。あの搭が冷暖房完備で温泉つきだといいなぁ」
 無茶を言っている果歩を無視し、ぼくは歩き出す。
 そのあとは数分ほど黙ったままで歩き、何とはなしであるが、目的の双搭が近づいたような気がしてきた頃――
 がさがさっ!
「うわっ! 何?」
「動物じゃないの? 捕まえて食べたいわね」
 情けなくも声を上げてしまったぼくとは対照的に、果歩は落ち着いた様子でたくましいことを言った。時にか弱いかと思いきや、時にたくましい。いつものことだが、果歩は不思議な女の子だ。
「けど、熊とかだったらどうする?」
「うぅん…… その場合は死んだふりがいいんだっけ? いや、寧ろ駄目なんだっけ? ていうか、熊鍋もいいわね」
「いや、それは無理でしょ」
 危機感薄く会話をしていると、物音がだんだんと近づいてくる。真っ直ぐとこちらへ。
 さすがに怖くなったぼくは、果歩の手を取って走り出そうとした。しかし、果歩は動かない。
「果歩?」
「あれ、たぶん人だよ。声も聞こえる」
「え?」
 果歩はそう言うが、ぼくには何も聞こえない。ざーざーという雨音が激しすぎて、他に聞こえてくるのは、がさがさという繁みが揺れる音だけである。
 しかし、果歩の自信に満ちた様子は、ぼくに疑うという行為を忘れさせた。
「誰かいるんですか! ぼくら遭難しているんです! どこか避難できる場所をご存知でしたら、案内してくれませんか!」
「お願いします!」
 二人で叫ぶと物音は一旦止み、それから、何某かはゆったりとした歩調で近づいてきた。姿を見せた相手もまた、ぼくらと同じように男女の二人組だった。
「君達は……?」
 男の人が警戒した様子で口を開いた。女の人は後方を盛んに振り返り、怯えている。
「えっと…… ぼくらは近くにキャンプに来ていたんですけど、迷ってしまって。それで向こうに見える双搭に避難しようと、向かっているところなんです。ただ、あなた達のおうちがこの近くにあるのでしたら、そちらでしばらく休ませてもらえないかな、と」
 そう思っていたのだけれど、ぼくら同様に雨に打たれて泥だらけになっている彼らは、とてもではないけれどこの近くに住居をもっているとは思えない。やはり遭難していると考えた方が妥当だろう。
「そうか…… しかし、申し訳ない。俺達も遭難しているようなものなんだ。峡谷の向こう側に出られるのであれば帰るあてはあるが、橋が落ちた今となっては……」
『え!』
 男の人の言葉に、ぼくらは共に声を上げた。瞠目し、立ち尽くす。
 聞き間違えであって欲しいけれど、このどしゃぶりの中においてもよく響くこの男の人の声を聞き間違えることは難しい。ともすれば、先の絶望的な事実は確かに起こってしまったことなのだろう。
「橋…… 落ちたんですか……?」
「そうか…… 君達は橋が落ちたことを知らなかったのか。さっき、落ちたんだ。俺達の目の前で雷が落ちて、それで橋は燃え、落ちた」
「あの人がやったのよ!」
 そこで、ずっと黙っていた女の人が、瞳にある怯えの色を濃くして叫んだ。
 目鼻立ちがはっきりしていて、まつげも長い。すらっと背の高い美人なんだけど、濡れた髪を振り乱して、瞳を大きく見開いている様子は、正直怖い。
「落ち着けよ。あいつが雷を落とすなんて、そんなことをできないことはわかってるだろ? あれは神様が落としてくれたんだ。橋がなくなって峡谷で分断されれば、こっちも向こうも頭を冷やせる……かもしれない」
「でも、あの人は追って来るわ……!」
 そんな状況でも追ってくるのか。それは何とも執念深いなぁ。
 のん気にも、そのように驚嘆していると、そんな瑣末な感想など吹き飛んでしまうような発言を、女の人はする。
「追いついて来て、そしてきっと――わたし達を殺すわ!」
 その叫びは、悲鳴に近かった。
 ぼくは、心臓を鷲づかみにされたかと思った。それくらいの衝撃が襲った。
 殺す…… あまりお付き合いしたい単語ではない。彼らは殺されるようなことをしたのだろうか。それとも、彼らを追う『あの人』というのが殺すことに喜びを見出す異常者なのだろうか。どちらにせよ、僕らが置かれた状況は天候同様に怪しくなりつつあった。

 男の人は佐川荒斗、女の人は茅知恵と名乗った。この近辺に住んでいるらしいのだけれど、峡谷を渡ってこちら側に来てしまえば簡単には帰れないという。彼らもまた、ぼくら同様、あの双搭を目指しているのだ。あそこはこの辺りの出身である建築家が趣味で建てたものらしく、地元では有名なんだとか。ただ、彼らも詳しいことは知らないと語った。
「あ、よかったらお水、どうぞ」
 果歩が知恵さんに声をかけた。
 雨に降られてびしょ濡れの状況で水もないと思うけど……
「びしょ濡れだと気付かないかもしれないけど、走ってたんだから喉が渇いているはずですよ。少しだけ飲んでみて。雨と違って、不純物のない水だから」
 理屈としては判らなくもないけれど、渇きを無視するのと、凍えた体に冷たい水を与えるのと、どちらがより悪いのだろうか。ぼくには判らないので、何とも言えない。
 ただ、知恵さんは礼を言って少しだけ口に含んだ。ほんの少し、彼女の表情が和らいだように感じる。
「俺も貰っていいかな?」
 荒斗さんもまた、果歩に声をかけた。
 果歩は微笑んで水を出す。
「ふぅ」
 満足そうに息を吐く荒斗さん。効果はあるみたいだ。
 とはいえ、ぼくはやはり飲む気にならないけど……
 その後は全員黙って歩いた。荒斗さん達は先程まで全力で走っていたようで、とても疲れていたし、ぼくらだって歩き詰めだから疲れている。
 でも、しばらくすると果歩が疑問を口にした。
「それにしても、道くらいあってもいいのにね。あの双搭にだって人は住んでるんでしょ?」
「まあ、整備していないと歩きづらいのは確かだけど、それでも迷うことはないだろうからってことで道はなくしたんじゃない? 道を作るのにだってお金はかかるわけだし」
 僕が答えると、果歩は更なる疑問を覚えたみたいだ。
「迷うことはないって……何で? 建てた本人なら場所くらいわかるだろうってこと?」
「違う違う。今のぼくらと一緒だよ。ほら」
 木々の合間に見える双搭を指すと、果歩は口をぽかんと開け、それから照れたように笑った。
「そりゃそうね」
 そうして納得すると、果歩も再び黙り込む。
 また沈黙が続く。数十分が経って双搭の根元に辿り着くまで、誰も言葉を発しなかった。そこには疲労感だけじゃない、何か言い知れない不安のようなものがあったと、ぼくは思う。

 どんどんどんっ!
「すみませぇん!」
 果歩が盛大に扉を叩きながら叫ぶ。
 双搭は根元の方で繋がっていた。というか、長方形の建物の左右に搭がそびえている、と言ったほうが正しいだろう。長方形が双搭を支えているのだから、まずは長方形ありきである。それにしても高い塔だと思う。見上げていると首が痛くなってくる。いったい何階まであるのだろうか。
 がちゃ。
「どちら様ですかな?」
 果歩の乱暴な訪問術の結果あって、扉を開けて白髪交じりの老紳士が現れた。年のころは六十に差し掛かる手前といったところかもしれない。中々に上品そうなお爺さんだ。
「突然にすみません。ぼくら、道に迷ってしまいまして。宜しければ雨宿りさせていただけませんか? 橋も落ちてしまったようで、峡谷の向こう側へ行くことすらできないんです」
「ほぅ。迷われた。その上、橋まで落ちたとなると…… それは大変で御座いました。ささ、どうぞ」
「ありがとうございます」
 老紳士に導かれ、ぼくらはようやく雨露をしのげる場所を手に入れた。しかも、嬉しいことにそこには暖炉があった。赤々とした炎が踊っていて、芯から冷えた体を暖めるには最適の環境だった。
「ただいまお着替えをお持ちしましょう。それまではどうぞ、暖炉におあたり下さい」
「……お手洗い、借ります」
 老紳士が示した暖炉には向かわず、知恵さんが言った。そして、応えも待たずに歩き出す。
 その様子を目にすると、果歩もまたぼくの隣で体を震わせた。
「んっ。私も行っときたいかも」
「どうぞどうぞ。水が滴るのは気にせずにお向かい下さい。我慢は体に毒で御座いますからな」
「じゃ、床はあとで自分で拭くとして、お言葉に甘えます」
 果歩は小走りで知恵さんのあとを追って行った。
 老紳士も着替えやタオルを取りに行ったため、あとには荒斗さんとぼくだけが残された。会話はやはりない。
 けど、気まずいので何とかして話題を振る。
「あの…… 荒斗さん」
「ん?」
「知恵さんが言ってた、『あの人』って誰なんですか? 勿論、答えたくないんでしたら――」
 言葉尻は濁しておいた。無理に聞こうとは思っていないけど、それでも気になるのは確かだったから。
「……いや、答えるよ。知恵が恐れているのは、あいつの元恋人で鍵崎という男だ。彼は、俺の友人でもある」
「知恵さんの元恋人で、荒斗さんの友達…… それが何で……その、殺す、なんて」
「……それは、恥ずかしい話なんだけど、俺と知恵は今付き合っていて、つまり、俺が鍵崎から知恵を奪ったんだ」
「……え、あ、えぇ?」
 正直驚いた。ぼくの周りで色恋沙汰が全くないというわけではない。友達が誰それと付き合っている、とか、誰それに告白して振られた、とか、そういう、どちらかと言えば健全な恋愛事情なら溢れかえっている。けれど、今の荒斗さん達が直面しているようなドロドロした恋愛模様とは関わったことがない。
 それに、荒斗さんも、知恵さんも、僕にはそんな大胆なことをする人たちには見えなかった。人は見かけに依らないというのは、本当だ。
「あ、その、それは、何と言うか。大人の目くるめく禁断の何とやらというか。え、エロスですね!」
「……ぶっ。あっはははははっ!」
 混乱して頭の回らない状況でとりあえず口を開いてみた僕の言葉は、やはりおかしかったのだろう。荒斗さんはお腹を抱えて笑った。
 目じりに涙を溜めて、彼はこちらを見た。
「俊和くんだったっけ? 純だねぇ。どこの出身?」
 僕が素直に出身地を告げると、荒斗さんは納得したように頷いた。
「そっか。あそこら辺は適度に田舎で適度に都会だよな。栄えている主要都市とかだと誘惑が多いから、若い奴は乱れやすい。それはよく言われるけど、田舎過ぎても俺達みたいに乱れやすかったりするんだ。ほら、何もないから逆にやることがない」
 どちらにも属さないぼくとしては、曖昧に頷くことしかできない。そもそも、やることがないとどうして乱れるんだろう? 実感が湧かない。
「ちょっと判ってない風だな。純粋なのか、野暮天なのか。いずれにしても、やっぱ適度な環境がいいのかな。毒されることも、退屈にかられて馬鹿をやることもない。そんな環境が」
「……正直なところ、やっぱりよく判ってませんけど、じゃあうちの町に来ます? さっきの――えっと、大人の世界な状況を考えると、故郷に居づらそうですし。近所の集合住宅に空きがたくさんありますから、荒斗さんや知恵さんみたいな若い人がくれば喜ばれますよ」
「それもいいけどなぁ。今は逃げるわけにもいかないかな。芳樹――あ、鍵崎の名前な。芳樹っていうんだ。芳樹が逆上して攻撃的になったから今回は逃げてきたけど、俺はちゃんと認めて欲しいんだよ。彼女奪っといて都合いいんだけどさ。昔から仲いいんだ。芳樹とは」
 苦笑しながら荒斗さんは懐に手を差し入れた。そこから煙草のケースを取り出す。一本だけ抜き、口に咥えた。そして、
「お、ありがとな。便利なモン持ってんな」
 ぼくが火をつけてあげると、煙草を咥えたまま口元だけで微笑んだ。かっこいいなと思った。もっとも、煙たいのが苦手なので、ぼく自身は将来も煙草を吸うことはないだろうけど。
 荒斗さんはたっぷりと息を吸い、それから細かい粒子を空気中に漂わせた。
「ま、お誘いは感謝するよ。芳樹が許してくれて、ひと段落着いたらお邪魔するとしようかな。知恵との子供を育てるにはいい環境だろうさ」
「も、もしかして、もうお子さんが……?」
 そうであれば、なんというエロスな世界であろうか。
「はは。俺らもそこまでじゃないよ。今のは将来的にはって話さ」
 快活に笑い、応える荒斗さん。先程までは少し暗い雰囲気があったけど、元々はこんな風に明るい人なのだろう。
 早く芳樹さんという人と仲直りできるといいのに。そんな風に考えたちょうどその時、果歩と知恵さんが帰ってきた。
「おう。遅かったな。大きい方か? ぶりぶりぃっと」
「……馬鹿」
 おどけた様子で声をかけた荒斗さんに、知恵さんが可笑しそうに瞳を細めて応えた。向こうも果歩と話をしていたのかもしれない。それで少し落ち着いたのだろう。表情からは硬さが取れていた。
「てか、寒いぃ。暖炉、暖炉…… ん? ちょっと、俊和」
「何?」
 暖炉に向かう途中で荒斗さんの煙草を瞳に入れた果歩は、少し考え込んでからこちらを見た。どうかしたのかな?
「うっかりしてたけど、着替えとかタオルとか、いらなくない? あんたがいれば」
「あ、そうか」
 確かにぼくもうっかりしてた。
 果歩と、訝しげにしている荒斗さん、知恵さんを呼び寄せ、用意をする。

 結局は、老紳士――香月さんが持って来てくれた服に、全員着替えた。理由は簡単だ。着ていた服が泥で汚れていたのである。
 着替えが終わると、果歩は香月さんからタオルを受け取り、元気よく宣言する。
「じゃ、私はこのタオルで床をふきふきしてまいります!」
「あ、わたしも――」
「大丈夫、大丈夫。知恵さんはごゆっくりどうぞ」
 知恵さんを手で制して、果歩はひとりで先程歩いていった方向へ向かった。腰をかがめて水滴を拭きつつ、進んでいく。
 その様子をずっと見ていても仕方がないので、僕は香月さんに気になったことを訊いてみる。
「ところで、ぼくらが着させてもらっている服はどなたのなんですか?」
 ぼくと荒斗さんが着ているのは香月さんのものだとしてもおかしくないけど、果歩と知恵さんの服は明らかに女物だ。さすがに香月さんのものということはないだろう。
「男物は私がお仕えする道彦様の、女物は道彦様のご息女――路美様のお召し物です」
「あ、それじゃここのご主人は香月さんではないんですか? じゃあ、その道彦さんや路美さんにもご挨拶――」
「いえ。道彦様はお忙しいとのことで、皆様のお相手は私が任されました。また、路美様は現在遠方の大学に通われているため、ここにはおられません」
「そうなんですか」
 こんな建物に住んでいる人がどんな人か気になったけど、忙しいなら仕方ないかな。
「さて、本日はもう雨が上がることはないとのことですし、加えて橋も落ちております。道彦様とのご相談の結果、お泊りいただくのがよろしいのではないかと、そういうことになりました。勿論、無理にとは申しませんが」
 そこで香月さんが言葉を区切ったのは、こちらの意見を求めるためだろう。けど、反対意見なんて出るわけがなかった。正直泊めてもらえるのはありがたい。
 果歩は床を拭くので忙しいけれど、例えこの場にいたとしても反対はしないだろう。
「異論はないと判断して宜しいですね? では、皆様には入り口から見まして右側の搭に部屋をあてがうように、道彦様から申し付かっております。九階までありますが、どの階がいいか希望は御座いますか? ああ。部屋は各階に一部屋ずつしか御座いません」
 香月さんが、果歩が這いつくばって奥へと進んでいる廊下よりもこちら側に近い方向を指す。そこには階段が見えた。明かりがないため、その先は暗くなっていて見えなかったが、まあ、あそこが右側の搭に上るための階段なのだろう。
 それにしても、あの搭は九階まであるのか…… 外で見た時に高いとは思ったけど、九階とは恐れ入った。都会では知らないけど、ぼくの住む町では高いと言ってもせいぜいが五階建てくらいだ。
「わ、私は最上階でお願いします。少しでも地上から離れていたいわ」
「けど、知恵。芳樹は――」
「それでも、下よりは上の方が少しだけ安心じゃない」
「……ふぅ。なら、俺はその下にするかな。同じ部屋ってのは、俊和くんや果歩ちゃんの教育上宜しくないだろう」
「かしこまりました。では、そのように」
 とすると、荒斗さんが八階で知恵さんが九階か。ていうか、教育上宜しくないっていうのは何だろう?
「俊和くんはどうする?」
 荒斗さんに訊かれた。
 うぅん…… どうしようかな。あまり上でも怖いけど、せっかくだから上の方にするのもいいかなぁ…… けど……
「俊和は七階で、私は六階ね!」
「諒解いたしました」
「は?」
 諒解されてしまった。というか、果歩はいつの間に戻ってきたのか。
「ちゃんと拭いたの……?」
「ばっちりよ」
 果歩は胸を張って言ったけど、途中で面倒になって適当に終えてきたのではないかと疑いたくなる。少し早すぎるような気がしたからだ。
 いや、まあそれはいいかな。それよりも――
「何でぼくが七階で果歩が六階?」
 別に文句はないけど、よく判らない選択ではある。
 訊かれると果歩は、右手の人差し指を振りつつ答えた。
「せっかくだから高いところの方がいいでしょ? けど、あんまり高いと怖いから、私は俊和よりも一階下」
 なるほど。結局はぼくと同じような思考回路ってわけか。同郷だと思考回路が似るのかな。まあ、七階という数字も縁起がいい気がするし、気にしないことにしよう。
 僕らは香月さんの誘導に従って階段を上りだした。

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