双搭の凶事(三)

 ……荒斗さんは……死んでいた。前頭部の右側から血が流れ出ている。何かがそこを貫いたのだろう。順当に考えれば銃だろうけど、そんなものがここにあるのだろうか?
「あ…… 荒……斗……!」
 知恵さんは途切れ途切れに呟いて、立ち尽くす。しかし、しばらくするとゆっくり荒斗さんの所へ近づいていった。ようやく彼の側へ至ると、彼の頭を抱き、大きな声で泣き出す。
 ……これは事故か自殺なのだろうか? ここには鍵がかかっていたわけだし、窓は相変わらず鎖でがんじがらめになっている。誰かが出入りした様子も――
 どさああぁあぁあ!
 そこで、場違いにも間抜けな行動を取る人間がいた。クローゼットの前で小物類を散乱させている果歩だ。
「……果歩」
「いや、違うからね。別に悪戯でやったわけじゃないよ。これは――」
「それは判るけど、せめてもう少し待ってられなかったの? 別に今開けなくても、入り口さえ見張ってれば……」
「そうだけど、つい逸る気持ちを抑えられなくて」
 要するに、彼女はこれが殺人事件かも知れないと考えて、犯人が隠れ得る場所を探そうとしたのだろう。まず、入り口に一番近いクローゼットを探して、それから、お風呂場とかトイレとかを探すつもりだったんだろうけど……
「また見事にばら撒いたね……」
「面目ないです……」
 未だ荒斗さんの側で泣いている知恵さんに気を遣い、ぼくらは共に小声で話していた。それでも、知恵さんの耳には届いていたらしい。涙を流したままでこちらを見た。
 焦点の合っていないその瞳を見るのが辛かったので、ぼくはとりあえず口を開く。
「あの、その――」
「きっと…… 芳樹がやったんだわ……」
「え」
 先程とは違い、多分に怯えの混じった表情で知恵さんが呟いた。口元が震えている。
 芳樹というのは――鍵崎芳樹。
 けど、それはあり得るだろうか? あり得ないと、思うんだけど……
「と、とにかく、下におりませんか? 香月さんやこちらのご主人に知らせておかないと」
 僕が問いかけると、知恵さんは首を振る。そして、
「……わたしは残るわ。俊和くんと果歩ちゃんだけで行ってくれる?」
 荒斗さんをうつろな瞳で見たあと、言った。
 その言葉は疑問の形をとってはいたけど、こちらの意見を聞く気はないのだと感じた。自分は絶対にここを離れないと、そういう強い意志のこもった断定に思えた。
「……わかりました。果歩」
「少し待ってくれる?」
 果歩は部屋の奥に消え、しばらくすると帰ってきた。そして、ぼくの目の前でお風呂の扉をあけて中に入る。数秒してから出てきて、行こう、と言って部屋を飛び出す。
 たぶん、部屋の奥に行ったのはトイレを確認するためだろう。部屋の中で隠れられるところといったら、クローゼットとお風呂とトイレくらい――いや。
「どうしたの?」
 果歩がこちらを訝しげに見る。それも仕方ないかも知れない。ぼくが床に這いつくばって、知恵さんがいる方向を見ていたのだから。
「いない……か」
「ああ、ベッドの下? でも、いないんだ…… そうするとやっぱり――」
「とにかく、香月さん……いや、ご主人の道彦さんに知らせた方がいいのかな? っていうか、どこにいるんだろう?」
「こっちとは違う搭――入り口から見て左の搭にいるんじゃない? 行ってみよ」
 ぼくらは知恵さんを残して、荒斗さんの部屋をあとにした。

 下りる方が上る時より楽とはいえ、階段を一階まで一気に、となると、それも大変だった。下についた頃には完全に息があがっていた。
「ほら、しっかり」
「はぁ、はぁ、判ってる」
 荒斗さんがあんなことになってしまったんだから、ゆっくり休んでいる気はさすがに起きない。一度大きく深呼吸し、ぼくは懸命に一歩を踏み出す。
 玄関の前を過ぎて、暖炉があるのとは逆側へと進む。
 と、その時――
「どうかなさいましたか? そのように慌てて……」
「香月さん」
 玄関口からみて左前にある部屋から、香月さんが出てきた。エプロンをつけているところを見ると、その部屋はキッチンであり、食事の準備をしていたといったところだろう。
「大変なの! 荒斗さんが!」
「佐川様がどうかされましたか?」
 果歩が早口で説明すると、香月さんの顔色が目に見えて悪くなっていった。そして、エプロンをつけたままで左の搭を上がっていく。おそらく、ご主人に報告に行ったのだろう。
「ぼくらは……どうしようか?」
「上に戻っても、知恵さんのお邪魔かも知れないしね。……香月さんが戻ってくるまで暖炉の前にでもいよっか」
 反対する理由もないので、そうすることにした。
 けど、お喋りをするっていう気分には勿論なれなかった。当然、自然と空気は重くなった。こうして落ち着いてみると、改めて何が起こったのか認識してしまう。荒斗さんは――死んだんだ……
 ざぁざぁという音だけが響く。外はまだ雨が降り続いているらしい。
 それにしても、あれは事故なのだろうか。まさか自殺ではないだろう。だって、荒斗さんはそんなそぶりを全く見せていなかった。ぼくはそのことに確信を持っている。そうなれば、やっぱり――
「ねぇ、果歩。事故……なのかな?」
「……そうならよかったのにって思うわ」
 よかったのに……ってことは、果歩もそういう風に考えているんだろう。
 けど、それを口にするのは少し嫌だったので、とぼけてみせる。
「事故じゃないってことは、自殺? でも、荒斗さんには――」
「そんなそぶりはなかったっていうんでしょ? 判ってるよ。これは俊和の言うとおり自殺でもない。だから残るは、殺人」
 やはり……そうなるんだろうか。正直、殺人なんて非日常的なことが目の前で起こるなんて、思えなかった。それに、誰かが人を殺すという禁忌を犯したのなら、問題がある。
「でも、それも無理だよ。だって、鍵が――」
「たしかに鍵の問題はあるけどね。でも、あの部屋には大事なものが一つないと思わない? それがないってことは、これは事故でも自殺でもありえないじゃない?」
「大事なもの? ああ、もしかして、荒斗さんが死ぬことになった原因の道具」
「もっと簡単な言い方をすると、凶器ね。それがあの部屋になかった以上、誰かが凶器を持ち去ったのよ」
 でも、ぼくはそれほどしっかり、凶器があるかどうかの確認をしていない。果歩の意見に手放しで賛成は出来ない。
 そう言うと、果歩は胸を張って口を開いた。
「それなら大丈夫。私がばっちり観察してきたから。仮に自殺なら、凶器が落ちているところは荒斗さんが倒れていた辺りになるけど、そこにはなかったよ。それは、床に這いつくばってベッドの下まであらためてた俊和の方が判ってそうだけど」
 正直に言うと、それほどしっかり覚えてはいなかった。けど、面目が立たないので黙っておく。
「それから、事故だとしたら少し離れた場所にあった銃か何かが暴発、って場面も思い浮かぶけど、それっぽいものもなかったよ。結構頑張って探したけどねぇ」
 いつの間に探してたんだろう。ぼくは衝撃で固まっていたから、覚えているのは荒斗さんの無残な姿と知恵さんの悲痛な表情だけだ。仕方がないとはいえ、嫌な光景ばかり記憶してしまった……
「……そうなると、殺人――なのかな。でも、そんなの誰が」
「それはわかんないよ。果歩ちゃんは名探偵ってわけじゃないんだから。問題が多すぎて訳ワカメです」
 ふざけたことを口にする果歩に、少しいらついた。けど、口調がふざけていても彼女の表情は真剣だったので、その感情はしまい込んだ。
 今の茶化すような発言も、こちらを気遣った結果といったところなのだろう。
 はぁ…… なんだか、疲れたよ。
 どんどんどんどんどんっ!
 って、うわ!
「な、何?」
「風――ではないよね? ぼくらと同じように、遭難した人かな」
 玄関を何度も叩く音に、ぼくらは顔を見合わせる。そして、扉の前まで移動する。
「勝手に開けてもいいのかな?」
「香月さんが戻るまで待った方がいいかもしれないけど、このまま締め出しておくっていうのもちょっと……じゃない?」
 ぼくらが扉を見ながら相談していると、来訪者の断続的な主張が途切れる。そして……
 がちゃ。
 扉が開いた。
「あ、何だ。開いてんじゃん。ん? お前ら、ここの住人か? 人がノックしてんだから、さっさと開けろよな」
 内へと足を踏み入れた男性は、ぼくらを目にして口を尖らせた。
「す、すみません。けどぼくら、ここの住人じゃなくて客なんです。それで、勝手に開けていいものか迷って――」
「てか、玄関開けっぱだったわけ?」
 ぼくが男性に向けて懸命に言い訳を重ねているというのに、果歩はその言葉を遮って不満げに声を上げた。
 いやまあ、その不満は理解できるけどさ。
 これで、荒斗さんの一件は外部犯ということもあり得るようになったわけだ。雨の中、このような場所を通りかかる強盗もいないとは思うけど、それに、鍵の問題とか、凶器の問題とかもあるけど、それでも容疑者の数は無限になってしまった。
 もっとも、この建物内に犯人がいるということになっていれば、香月さんや道彦さん、知恵さん、それにぼくと果歩くらいの選択肢しかなくなっちゃうっていう嫌な事実にぶちあたっちゃうところだったんだけど。
「ああ。見ての通り、開いてたな。おかげでオレは助かったわけだ。いやぁ、運がいい」
 男性は果歩を一度訝しげに見たけど、そのあとは機嫌よさそうに笑い声を上げる。そして、ゆっくりとした足取りで暖炉に向けて歩き出した。
「あ、勝手に――」
「いいじゃんか。それとも、土砂降りの中に戻れって? 不人情じゃねぇか」
 それは、そうだけど……
「ま、いんじゃない? 私達を快く入れてくれたくらいだから、香月さんがこの場に居たら間違いなく入れただろうし」
「ふぅ。ま、確かにそれはそうかもね…… ですけど、宜しければお名前くらいいただけませんか? あ、ぼくは――」
 ぼくが名乗ると、続いて果歩も名乗る。
 男性はぼくらを交互に瞳に入れ、それからやはり名を口にした。
「え!」
 ぼくらは嘆声を上げた。
 男性は――鍵崎芳樹と名乗った。

 香月さんが下りてきた。道彦さんも来るかと思っていたけど、彼はいなかった。全ての判断、処理は香月さんが任されたという。自分の家で起きたことなのに、少し無責任じゃないかとは思った。けど、今はあまり気にしないことにする。
「それで……」
 芳樹さんを瞳に入れ、香月さんが呟く。
「こちらは――鍵崎芳樹さんです。ぼくらと同じように迷われていたようで…… すみません。勝手に」
「いえ、それは構いません。しかし鍵崎様。ただ今、立て込んでおりますゆえ、今しばらく、ご対応できかねます。そういうわけですので、暖炉の前のソファにいらしていただけますかな?」
「んん? 押しかけた身だし、別に構やぁしないが…… 何かあったのかい?」
 ぼくらは口を噤んだ。
 芳樹さんが荒斗さんや知恵さんと知り合いなのは、彼らの話から知ってる。そんな彼に、いきなり、荒斗さんが亡くなったという衝撃的な事実を話していいものか迷った。仲違いをしてるという話ではあったけど、それでも、友達が急にこの世からいなくなってしまったと知れたら、それは辛いことだろう。
 しかし、いずれは知れてしまうことだ。ぼくは意を決して状況を説明した。
 芳樹さんは俯き、右手で両の目を押さえている。
 泣いて――
「あっはっはっはっはっッ! 何だよ! あいつ死んだん? 手間省けたなぁ、おい。それに、知恵もここにいるんだな? いやぁ、手間が省けすぎちゃって申し訳ないぜ」
 突然顔を上げたら、芳樹さんは笑い出した。そして、友達を失った人間とは思えない、楽しそうな口調で言った。
 ぼくは、腹が立った。
「ちょっと! 荒斗さんは本当に亡くなったんですよ? そんな――」
「あんな奴は死んで当然さぁ。人の女盗りやがって。ま、知恵も知恵だけどよぉ」
 くくく、と含み笑いをする芳樹さん――いや、鍵崎に、ぼくは掴みかかろうとした。
 けど、果歩がそんなぼくを止める。そして、彼女もまた笑顔で口を開く。
「それはあなたの方に問題があった結果――という風にも考えられるんじゃないの? 詳しいことは知らないから断定なんて出来ないけど、この状況で笑い出すような奴、見限られても仕方ないと思うなぁ」
 思わず呆けた。鍵崎に対する敵愾心すら吹き飛んだ。
 とはいえ、臨戦態勢は解かない。鍵崎が逆上して果歩に襲い掛かるということもあるかと考えたからだ。乱闘になったとして彼に敵うかは判らないけど、果歩の代わりに殴られるくらいはできるだろう。
 そのように覚悟を決めていたのだけど、結局、その決意は徒労に終わった。
 鍵崎は、果歩の発言を受けても機嫌よさそうに笑った。
「はっはっはっ! 手厳しいなぁ、お嬢ちゃん。まあ、あまり否定はしないけどな。オレに問題が全くないとは言わないさ」
「ふぅん…… 今ので怒り出さないなんて、心が広いのね。……うぅん、もしかして、今機嫌がいいだけのことかしら? 邪魔な荒斗さんを殺すことに成功したから」
「!」
 果歩の言葉を聞き、ぼくは緊張した。先程、玄関が開きっぱなしであったことを考えてみれば、鍵崎が犯人である可能性も確かにあり得るのでは――いや、やっぱり無理か。
「オレが犯人? 今来たばっかなのになぁ。ま、それが演技ってこともあるかもしれねぇってか?」
「そうではないと――」
「待って、果歩。その人が犯人っていうのは、やっぱり無理があるよ」
「おっと。そっちの坊やはオレの味方か? こいつは嬉しいね」
 本当は味方になんてなりたくないけど、と心の中で舌打ちしてからぼくは続ける。
「ぼくらが部屋で大きな音を聞いた以上、犯人はその時に銃か何か知らないけど、凶器を持って部屋に居たはずでしょ? そして、鍵の問題を無視して、とにかく犯人が逃げ出したとする。その犯人がその人だとしたら、どうやって外に出たの?」
「それは、玄関が開いてたんだから、普通に出ればいいでしょ?」
「だから、それが無理なんだよ。ぼくらは音がして直ぐに階段を駆け上がった。犯人が逃げ出したら、そして、玄関がある一階に向かったなら、ぼくらと犯人は鉢合わせしていたはずなんだ」
「あ」
 そして、同じ理由から犯人は上にもいけなかったはずだ。上からは知恵さんが下りてきていた。
「じゃあ残るは――」
 果歩が呟く。
 残る逃走経路なんてあるだろうか? 部屋に留まっていた可能性はない。階段で下りたとも上ったとも思えない。部屋の窓はアレだし、他の方法なんて……
「窓だよ!」
 得意げに言い放つ果歩。
 しかし、窓は一番あり得なくないだろうか。
「窓? けど、窓は鎖で――」
「違うよ。部屋の窓じゃなくて、階段の踊り場にある窓! あそこが開いてれば……」
 そういえば階段を一階分上り切るごとに、目の前に窓が姿を現す。錠も、部屋と違って普通のものだ。あれなら簡単に開け閉めできる――けど……
「八階だよ?」
「そこは――きっと気合で乗り切ったのよ! とにかく、きちんと鍵が閉まっているかどうか、見に行ってみましょう!」
 飛び降りるにしても何にしても、八階分の高さは気合でどうにかならないだろうなぁと思いながら、ぼくは階段へとむかう果歩を追った。

 はぁ、はぁ、はぁ…… 上ってみて改めて思った。八階分の高さは気合ではどうにもならない。
 ぼくは憎むべき鍵崎に支えられながら、そんなことを思った。本当に気合でどうにかなるというのなら、今すぐにでも鍵崎の腕を払いたいところだ。
「鍵は閉まってるわね。と言っても、事件発生から結構経ってるし、その間に隙をついて閉めたってことかも……」
「なぁ、お嬢ちゃん。そうなると、やっぱオレは無理だろ? 気合でそっから飛び降りたんだとしても、今まで外にいたわけだから閉める機会はないじゃん」
「……そうね」
 果歩は心底残念そうに、鍵崎に応えた。
 もっとも、ぼくとしては例えここの鍵が開いていたとしても喜べなかったと思う。そもそも、ここが八階という時点で、窓がどうこうという議論は無駄に思える。それに、わざわざ階段の窓を気にしなくても、八階というネックを考慮に入れないのであれば、部屋の窓で事足りる。ぼくはそのことに、階段を上りながら気付いた。だけど、それはやはり上層階ゆえに実現不可能なのだから、口にはしない。
 それよりも、鍵崎と知恵さんが鉢合わせしないように気をつける方が大事だろう。真実はどうあれ、知恵さんは鍵崎が荒斗さんを殺したと思い込んでいる。今までであれば、当の鍵崎がいなかったのだから考えすぎだと説得することもできたが、今や鍵崎はここにいる。知恵さんが彼を目にしたなら、傷ついてしまった彼女の心は、更にダメージを負うことになってしまうだろう。
 本来なら鍵崎を下で止めるべきだったんだろうけど、彼は気付いた時にはついて来てたし、途中からはぼくの方に彼を止めるだけの力が残っていなかった。果歩はさっさと先行していたし。それで結局、ここまで連れてきてしまった。
 しかし、それを今悔いても仕方ない。それよりも、彼らの邂逅を防ぐように努めるべきだろう。
「……果歩。窓を気にするのはそれくらいにして、知恵さんを上に連れて行って。ぼくは何とかして鍵崎を下に連れて行っとくから」
 小声で果歩に声をかける。
 すると、彼女は瞠目してから一度頷いて、目立たないように荒斗さんの部屋へと向かった。幸い、鍵崎は果歩の様子に気付かずに、窓に目をやっている。
「外から鍵を閉める、とかもできないんじゃないか? ここが一階なら、ワイヤーとか使ってどうにかできっかもしれねぇけど、八階じゃあ無理だろ。ゆっくり留まってもいられねぇ」
 鍵崎はそう口にしてから、自分の言葉に対してか、大きく笑った。それからこちらを見る。そして、眉を顰めた。
「ん? お嬢ちゃんはどこ行った?」
「あ、ああ。果歩ですか? 果歩ならちょっと自分の部屋に行くって。下です。案内しますよ」
「おお。悪いな、坊主」
 思ったよりも手こずらずに下へ誘いだせそうだ。ぼくは先行して下へ向かい――
「! 鍵崎様?」
 そこで突然、香月さんが焦ったように言った。
 どうしたのだろう、とぼくが振り返ると、鍵崎はぼくのあとには続かずに、荒斗さんの部屋へと向かっているところだった。
「ちょっ!」
「本当に悪いなぁ、坊主。オレは知恵に用があってね」
 鍵崎は荒斗さんの部屋につかつかと進んでいく。香月さんが言葉をかけて止めようとしているけど、それで止まるはずもない。しかし、力ずくでというのも無理があるだろう。体力不足のぼくはもとより、香月さんも結構な高齢だ。いい体格をしている鍵崎を止められはしない。
 がちゃ!
 鍵崎はドアを乱暴に開ける。まず部屋の中に見えたのは果歩だった。
「げ」
 声を上げてから、果歩はこちらを睨む。
 ……きちんと下へ誘導できなくてごめんなさい。
「……果歩ちゃん。どうし――っ!」
「よぉ、知恵」
 ごく日常的な様子で声をかけた鍵崎に対し、鍵崎の肩越しに見える知恵さんの顔はこれ以上ないほど強張っていた。そして、そのまま倒れこむ。
「知恵さん!」
「おっとっと。こいつは大変だぁ。オレが上まで運んでやろう」
 おどけた様子で上――知恵さんの部屋を指差すと、鍵崎は含み笑いをしながら言った。その際、彼は荒斗さんの部屋に足を踏み入れ、一度左側に瞳を向けている。そちらには、荒斗さんの遺体があるはずだった。今はシーツなどをかぶせられている可能性はあるけれど、それでも事前に荒斗さんが亡くなったことを聞いているのだから、その中身がなんであるかくらいはわかるはずだ。にもかかわらず、鍵崎は笑っていた。にやにやと、気味の悪い笑いを浮かべていた。
「止めろ! お前は知恵さんに触るな!」
「おっと。怖い坊主だなぁ」
 ぼくが叫ぶと、やはり鍵崎はにやにやと笑い、言う。
 彼が荒斗さんを殺したのかどうか、それは判らないけど、ぼくは絶対にこいつを好きにはなれない。
「ま、元カノを抱いて運ぶってのも妙な話か。なら、知恵はお前らに任せて、オレはそちらの爺さんに部屋まで案内してもらおうかね」
 鍵崎は意外にもあっさりと退いて、香月さんを指差した。香月さんはびくりと体を震わせつつも、かしこまりました、と丁寧に応えて鍵崎を誘導しようとした。
 しかし、鍵崎は荒斗さんの部屋を見回して――
「いや、やっぱ案内いいや。別に荒斗の死体があるってだけで、この部屋でもいいもんな。ああ。あれ、ベッドから下ろしていいよな? どうせ死体なんだし、床に転がしとけば――」
 無神経にも言い放った男は、ベッドがある方向を――荒斗さんを指差した。
 ぼくは我慢できなくなって、拳を固める。
 ぱぁん!
 鍵崎の頬を叩いたのはぼくの拳ではなく、果歩の平手だった。
「……気の強いお嬢ちゃんだな」
「あんたと荒斗さんの間の確執なんて知らない。けど、死者への最低限の敬意くらい持ってたらどうなの?」
 果歩は冷たい視線を鍵崎に送り、それから香月さんを見た。
「こいつは、知恵さんから一番遠い部屋にぶち込んでください。お願いします」
「は、はい。かしこまりました」
 気おされたのか。香月さんは畏まって答えた。
 一方鍵崎は、たいしたダメージもなかったのだろう。余裕の表情で笑っていた。しかし、今度は立ち止まることもなく、香月さんと共に下におりた。
「さてと。まずは知恵さんを運ぼうか。俊和は頭の方を持って。私は足を持つから」
「果歩は無茶をしすぎだよ」
 思わず言うと、果歩は舌を軽く出していたずらっぽく笑った。

 知恵さんの部屋は鍵がかかっていなかった。荒斗さんの様子を見たら直ぐに帰ってくるつもりだったのかもしれない。それが……
 なんだかやるせなかった。
 ぼくらは知恵さんをベッドに寝かせて布団をかぶせると、直ぐに外に出た。鍵をかけないというのも現状を考えると危険に思えたので、鍵を探し出して外から施錠した。そして、鍵は果歩がポケットに入れる。
 それから、ぼくらは荒斗さんの部屋に戻った。
 正直なところ、無残な姿の荒斗さんがいる空間に入るのは気が進まなかったけど、確かめないといけないことがあった。
「あ、あったよ。ここ」
 果歩の声を受け、ぼくはベッドの脇へと歩み寄る。
 ベッドの脇には、引き出しが三つばかりある台がおいてあった。そして、この部屋の鍵はそれの一番上の引き出しに入っていた。
「やっぱりこの部屋の鍵は中にあったんだ…… とすると、やっぱり事故か自殺?」
 部屋の鍵がかかっていたことは、ドアノブを回したぼくが一番よく知ってる。
「でも、荒斗さんの頭を貫いたモノが見当たらないわ。事故か自殺だったら、この部屋に残ってないとおかしい」
「そうだよね」
 結局はそういう話になる。
 しかし、今さっき判った事実を考慮に入れれば、これが殺人だという結論もおかしい。だって、この部屋は密室だった。密室殺人なんて、そんなものは物語の中だけで充分だ。
 ん? いや、そういえば――
「マスターキーがある…… それがあれば、この部屋を密室にすることはできる」
「それでもどこに逃げればよかったかは……謎だけど」
 それはそうだ。けど、密室を作り出せた人間が限られる。
 香月さんは、マスターキーを道彦さんから借りてきたと言った。ならば、普段その鍵は道彦さんが持っていることになる。犯行が可能だったのは彼か、それ以外では、香月さんか……
 いや、でも鍵崎だって、鍵を盗んでから上にあがってくるチャンスがあったかも知れない。これは、どういう風に保管されているかによるだろうけど……
「あれ? こっちは何の鍵かな?」
 ぼくが考えを巡らしていると、果歩は不思議そうに小さな鍵を取り出した。
 彼女は不思議そうにしているけど、ぼくにはそれが何の鍵なのか直ぐに判った。もっとも、それは直ぐに判るのが当然のことだと思う。果歩は変なところで抜けている。
「それはたぶん、鎖にかかっている南京錠の鍵じゃないかな? 南京錠の鍵ってそんな感じだよね?」
「あ、そか。どっかで見たことある形だと思ったけど、南京錠のか。うん、確かに開くみたい」
 果歩は窓に寄って、南京錠の鍵を開けた。そして、開いたことを確かめると、再びぱちっと閉めた。
「じゃあ、私たちの部屋にも南京錠の鍵があるのかもね。窓の鎖、ちょっと鬱陶しかったし、外そうかな」
「それもいいね。まあ、とにかく部屋を出ようよ。鍵がこの部屋にあったことは判ったわけだし」
「そうね」
 荒斗さんを瞳にいれ、短く黙祷し、それからぼくらは部屋を出た。

 ぼくらはそれぞれの部屋に戻った。
 果歩と別れて部屋に入ると、ぼくはまず果歩が言っていたように南京錠の鍵を開けた。そして鎖を取り去る。それだけで、重苦しかった空気が少し軽くなった気になるから不思議だ。
 ちなみに、その時、ぼくは鎖が張り巡らされていた理由を見つけた。出窓には錠がなかった。だからこそ、鎖を張り巡らせ、南京錠で留めているのだろう。
 もっとも、四階よりも上であれば、わざわざ、そのような措置を採ることもないとは思うけど…… どれほど豪気な泥棒でも、四階までよじ登ろうとは思わないはずだ。
 そんなことを考えながら、ぼくは服を脱ぐ。そして、お風呂に入る。
 のん気にそんなことをしている時じゃないとも思ったけど、気を引き締めてばかりいるのもよくないだろう。ただ、それでもやはり荒斗さんのことが気にかかったため、カラスの行水になってしまった……
 泥を落とした体でベッドに寝転んでいると、果歩が来た。
「や。ご機嫌いかが」
「いいと思う?」
「思わない。あ、窓すっきりしたね」
 苦笑しつつ応えた果歩は、窓に目をやって言い、それからそちらへ歩み寄った。
「あの鎖がないだけで大分気持ちが楽だよ。気にしないようにはしてたけど、やっぱり圧迫感があったからね」
「そうだよねぇ。私も外したんだけど、なんていうか、自由になったなぁっていうか、シャバの空気はうめぇっていうか」
「極道の方じゃないんだから」
 呆れて、そのように呟く。
 果歩は、そんなぼくの言葉には耳を貸さず、窓の外に目を向けていた。すっかり夜になっている上、土砂降りであるから何も見えない――かと思いきや……
「あ。香月さん、ちゃんと一番遠い部屋にあの男を通したみたいね」
「え? どうして判ったの?」
「ほら、あっち。向こうの搭の一番上の部屋の電気がついてる」
 確かにその通りだった。向こう側の搭は、九階の部屋の電気がついていた。
 そして、そこ以外には二階の部屋の電気もまたついている。そちらは恐らく道彦さんだろう。鍵崎が二階の可能性もないとは言わないけど、普段ここで生活している人間こそ、玄関やキッチンとの行き来が楽な下の階を使いそうな気がする。
 それに、果歩が頼んだことを香月さんが無視する理由もない。
「これで知恵さんも少しくらいは安心かもね」
「一番安心させるには、鍵崎をここから追い出すのがいいと思うけど…… そういうわけにもいかないもんね」
「あいつは凄くむかつくけど、それでも荒斗さんを殺したのがあいつとは断定できないし。無理やり追い出すってわけにもいかない……だろうね」
「俊和は……どう思う? やっぱりあいつが犯人だと思う?」
 果歩は窓の外を見たままで、訊いた。
「犯人かどうか――断定はできない。ただ、状況を考えると違うんじゃないかと思う。寧ろ、まだ会ってない道彦さんが怪しい気も……」
「まだ知り合ってない人間に疑惑を向けて気持ちを軽くしようとしてない? どうかと思うよ」
「でも、他の人って言ったら知恵さんと香月さんだよ? ぼくにはどっちも――」
「もう一人いるよ」
「え?」
 ぼくが呆けていると、果歩は自分自身を指差した。自分も容疑者だと、そう言うのだ。
 けど、そんなの……
「果歩がそんなことするはずない! そもそも、荒斗さんと知り合ったのだって今日で――」
「もしかしたら、俊和が知らないだけで、以前に知り合ってたかもしれないよ。それで、何か恨みを持っていたかも」
「そんなこと……」
 けど、もし果歩が犯人だったら――
 ぼくは嫌な考えを持った。否定したいのに、そのための材料が中々見つからない。
 ……いや待てよ。それでも凶器の問題がある。
「果歩は銃なんて持ってない」
「こっそり持ってたかもしれないよ。それで、階段の窓から捨てた。鍵だって荒斗さんが持っていた鍵を使えばよかった。そして、さっきこっそりとポケットから取り出して、引き出しから見つけた振りをすればよかった」
 それは少しだけありえると、僕自身さっき思ったこと。
「そして私なら、逃げ出す必要はなかった。俊和の階まで急いで下りて、そこで下から上がってきたような顔をすればよかった。私は全ての不都合な事実をクリアし得る」
「違う!」
 果歩なわけはない。ぼくは再び否定するための材料を探す。
 必死に頭を巡らし、巡らし、そして――
 見つけた。
「果歩は部屋を決める時に、自分と荒斗さんの部屋の間にぼくを入れた。けど、果歩が犯人だったら、荒斗さんの部屋と自分の部屋の間にぼくを挟むはずがない。荒斗さんのすぐ下の階に自分の部屋があれば、果歩は急げば誰にも見られずに自分の階に戻れた。ぼくはああいう場合動きが遅いから、その可能性は高かったはずだ。けど、果歩はぼくを七階にした」
「けどそれは、俊和に私が下から来たということを認識してもらって、それで容疑圏内から逃れようという作戦かもしれないよ」
「それだけじゃない。果歩が犯人なら、そして、荒斗さんが持っていた鍵を使って密室を作ったんなら、鍵をさっき見つけるというのはタイミング的におかしいじゃないか」
「え?」
「荒斗さんの部屋の鍵なんて、持っているというだけで重要な証拠になってしまうものだよ。それをずっと持ってるなんておかしい」
「それは、荒斗さんの部屋に鍵を置くタイミングがなかっただけで――」
「そこがおかしいんだ。だって果歩は、荒斗さんの死体を発見したあの時に、ぼくと知恵さんの視界から消えた。お風呂場に入ったり、トイレに入ったりしたじゃないか。そこに置けばよかったはずだ。荒斗さんがお風呂に入る時に念のため鍵を中まで持っていって、それでお風呂場に置き忘れた、なんてストーリーは充分にありえることだよ。果歩はそういう風なストーリーをでっちあげられた。それなのに、ついさっき引き出しの中から鍵が見つかる、というのは果歩が犯人だというストーリーの流れにおいては不適切じゃないか」
 果歩はぼくの言葉を反芻し、そして笑った。安堵しているように見えた。
「そっか。それは気付かなかったな。俊和は凄いね」
「果歩?」
「勿論、私は荒斗さんを殺してなんていないよ。けどね、さっき口にしたみたいに、自分が犯人だったら犯行が可能だった事実に気付いちゃった。だから、怖くなったの。そんなことをした意識はないけど、いつの間にか気づかずにしてしまったんじゃないかって、怖くなったの」
 そんなことはあるはずがないのに……
 果歩は強いくせに、変なところで弱すぎる。
「俊和、ありがとう」

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