冷たい風が丘を昇ってきた。八月も半ばになっていたけれど、その風のおかげか肌寒さを感じる。最高気温三十二度、最低気温二十八度。そのような夏日にも拘らず、なぜ肌寒く感じるほどの冷風が吹いたのか。僕には分からない。
いや、そもそも、僕はそんなことを考えているだけの余裕がなかったのだ。雑踏の中の一点。一人の少女に視線を注ぐので忙しかったから。肩辺りまでの髪をゴム紐でくくり、肢体を空色の浴衣で包んでいる。右手に綿飴を握りしめ、左手には女友達の右手を収めていた。
僕は彼女の名前を知らない。いくつなのかも、どこの学び舎に通っているのかも、どんな声なのかも。それは当然のことだ。なぜなら、僕は今日ここで、初めて、彼女を目にしたのだから。僕らは出会ってすらいないのだから。
彼女は綿飴を舐めきる。すると今度は、ねじり鉢巻を巻いた中年男性が営む出店から、バナナチョコを購入した。そして、手を繋いだ女友達とお喋りに興じつつ、それを口に運ぶ。一口、二口、三口と続き、バナナチョコは半分ほどが彼女の胃の腑に納まった。
その頃には、彼女と女友達は長い石段の下へ至っていた。その石段を上れば、最上段から少し進んだところに鳥居があり、その更に奥に社がある。そして、そこを左に折れた先にある丘、その頂上にこそ……
どきっ。
彼女の視線が、僕の視線と交わった。いや、気のせいやも知れない。だって、そんなはずはない。僕らの視線が交わるはずがない。
けれど……
彼女は石段の下で友達と別れたようだ。独りになる。そして、その足は石段の一段目へと向かう。一段、二段、三段……
彼女が腿を上げて淘汰した段数が百を過ぎ、そこから更に数歩進んで、漸く彼女の体は朱色の門を潜る。寂れた神社の境内に人気などありはしないのが常だ。しかし、祭りというだけあって、出店で賑わう眼下の光景ほどではないにしても、人影がちらほらと見える。
……不思議なことだが、そのどれもが、彼女が作り出す陰影とは明らかに異なるものとしてしか、僕の瞳には映らない。
なぜこうも、彼女ばかりが僕の注意を引くのか。それは分からない。偶然にも彼女とここまで接近し、これからどうするべきなのか。それも分からない。僕には分からないことしかない。
そのようなことを考えている間にも、驚いたことに彼女はこちらへ真っ直ぐに向かってくる。社には見向きもせずに丘を上ってきた。先ほど冷風が昇った丘を、今度は彼女が上る。
「はあ、はあ、はあ。すぅ…… ふぅ……」
頂上まで上りきった彼女は、どさっと地面に腰を下ろし、肩を上下させて大きく息をする。そして、少し落ち着くと小さく深呼吸をした。そのように呼吸を整え、右手の指で額に張り付いた前髪を払ってから……
こちらを見た……のやも知れない。明瞭ではなかった。直ぐに視線は逸れた。一方で、彼女は口をゆっくりと開く。
「今晩は」
彼女の声は、鈴の音色を想起させた。
この町では、次の年の今日までに千三十二人が亡くなり、十六万五千八十六人が怪我をした。