二章 八年前

「だからぁ! こいつらが最初に突っかかってきたんすよぉ!」
「何言ってやがんだっ! 手前ぇが俺のダチに蹴り入れたのが最初じゃねぇかっ!」
 北谷卓郎は思わず頭を抱えたくなった。彼の前で言い訳を重ねる若者達は、互いに向こうのグループこそが元凶なのだ、と罪を擦り付け合っている。このままでは埒が明かない。
 彼らは祭り二日目の夕刻、人込みのど真ん中で大立ち回りを演じていた。手が出、足が出、遂には刃物が出ようとしたその時、通報を聞きつけて駆けつけた北谷巡査が止めに入ったのだ。
 無鉄砲な若者達も、さすがに国家権力の介入を受けたらば、振り上げた腕を大人しく下ろした……までは良かったのだが…… そのあとが先のとおりなのである。自分達は悪くない。相手が悪い。その繰り返し。
 北谷がうんざりしてうな垂れていると、両グループは再び興奮してきたのか、今にも手が出そうな程に語気が荒くなる。
 まずい、と感じた北谷は、慌てて口を挟む。
「ストップ、ストップ! そう興奮しない。君らねぇ、さっきからどっちが悪いって永遠繰り返しているけれど、その努力は無駄だよ? こういう時は喧嘩両成敗。どっちが悪いも何もない」
「ちょっ! 待ってよ、刑事さん」
 刑事ではないけどな、と北谷はどうでもいいことを考える。彼は派出所に勤務する一警察官。そういう意味でも刑事ではないが、根本として、日本に法令上刑事という役職はない。刑事事件を扱う警察官や、私服警察官を指す俗称が刑事であるらしいのだ。
 最近そのことを同僚の津田から聞いた北谷は、思わずそのことについて講釈してやろうと口を開きかける。が、さすがにそこは踏み止まる。そんなことを講釈したところで、若者達に煩げに見られるだけだろう。
 そのようなどうでもいいことを考え北谷が黙していると、グループの何名かが不安げに彼を見る。そして、一人が代表して声を上げた。
「軽い喧嘩だゼ? んなんで逮捕されて、前科者になるなんてあんまりじゃね?」
 若者が慌てたように言うのを聞きながら、根本的な誤解があることを、北谷は知る。彼とて、この程度の騒ぎでそこまでする気など、毛頭ない。今日は祭りだ。普段よりも気が大きくなり、小競り合いが増えるのは毎年同じこと。ちょっとした喧嘩で逮捕などと大仰な措置を採っていたら、留置所はシーズン中の観光地の宿のようになってしまう。結果として、彼、もしくは彼の同僚が迷惑するだけだ。
「安心しなさい。逮捕なんてことにはならないから。軽く注意をして、それで無罪放免。だから、罪を擦り付け合うのは止めて正直な供述を頼むよ」
 北谷がそのように声をかけると、一応安心したのか、少年達は若干の緊張は見えるものの、ややリラックスした様子で事実と思しき話を始めた。
 彼らの話を要約してしまうと、特出したところのないただの喧嘩。それが事実だった。そんなことは判りきっていたことであったが、北谷は少年達の話に根気よく耳を傾けながら、心の中のみで深いため息を吐いた。

「ただいま戻りました」
「ああ。お帰り」
 携帯電話の画面を注視したままで、津田光雄が返事をした。北谷が彼の手の内に収まる機器を覗き込むと、そこにはこの時間帯にお馴染みのニュースキャスターがいた。
「津田さん、勤務中にワンセグなんて見ないで下さいよ」
 そもそもワンセグ云々よりも、派出所の外から窺える位置で携帯電話に熱中しているという点からしてまずいのだろうが……
 若輩から注意を受けた津田は飄々とした態度で、やはり携帯画面に瞳を落としたまま、応える。
「何だよ、ワンセグって。お前、ここにおわすお嬢さんを記憶していないのか? 今を時めく、栄田理佐嬢だぞ。いやー、可愛らしいねぇ」
 津田はそのように呟き、口許を笑みで歪める。五十歳をとうに超えているというのが嘘のような反応である。もっとも、自分が閲覧しているサービスが、一般にワンセグと呼ばれることを知らないというのは妙齢の人間らしく、いかにも機械オンチ然としていたが……
 北谷はもう一度携帯の画面を瞳に入れ、硬い口調で原稿を読み上げている女性が、最近彼の友人達の間でも話題になっている栄田理佐アナウンサーであることを確認する。そうした上で、彼は津田から携帯電話を取り上げた。
 ちょうどその時、画面の中の栄田理佐の声に明るさが交じり、微笑ましい地域のニュースの報道に移った。が、それに見入るでもなく北谷は、津田の携帯電話自体は初見ながらも、見事にボタンを操作して動画の受信を止める。
「ああっ! 俺の理沙ちゃんが……」
 名残惜しそうに携帯画面を覗く津田。そんな彼に呆れた視線を送り、北谷は口を開く。
「何が俺の理沙ちゃんですか。こっちはさっきまで、興奮した連中の馬鹿げた騒ぎの相手で四苦八苦していたっていうのに。まあ、怪我人がいなかったのは幸いでしたがね」
 北谷が瞳を細めて言うと、津田は年下の相棒の機嫌が悪いことに漸く気付く。栄田理佐の可愛らしい顔を拝することはすっぱり諦め、携帯電話を折り畳む。そして、それをこなれた動作でポケットに突っ込み、苦笑した。
「そんなに大変だったか? 祭り時の小競り合いなんぞ、慣れたものだろう?」
「大変ということはないんですよ。ちょっとした不満を吐き出している連中の話を、根気強く聞くだけのことなんですから。けれど、それもこうしょっちゅうだと、さすがに鬱屈してくるというか、何というか……」
 津田が椅子を勧めると、北谷は、どうも、と軽く礼を言ってからどかっと腰をかける。使い古された旧世代の椅子は、ぎしっと嫌な音を立てた。
「まあ今回は、近くの高校に通う学生グループ同士が起こした騒ぎでしたから、少しはましでしたけどね。ここら辺の高校は、ちょっとガラの悪いのがいはしても、何だかんだで進学校ばかりですからね。可愛いもんです。それに比べて、昨日の酔っ払い同士の喧嘩は性質悪いったらありませんでしたよ。言っていることが滅茶苦茶なんですから。終いにゃ、宇宙の真理が、とか何とか言い出すから閉口しました」
 一度文句を紡ぎ出すと止まらなくなるのか、北谷は軽快にその口を動かす。それを受ける津田は、宇宙の真理ねぇ、と呟いてから大きく笑った。
「どうかしましたか、津田さん。そんなに大笑いするほど面白いですかねぇ。僕は、嫌いなお笑い芸人が口にしたネタくらい笑えないと思いますけど」
 冷めた表情で、一風変わった批評を口にした北谷を目にし、津田はもう一度大きく笑った。そして、右手を振りながら否定の言葉を紡ぐ。
「はっはっはっ。いやぁ、違うんだ。もし宇宙の真理がそいつに、暴れろぉ、それ、そいつを殺せぇ、ってな感じで唆したんだとしたら、それも満更違やぁしないかも知れんと、そう思ってな。何やら笑けてきた。その酔っ払い、実は、霊が見えるとか、神さんみたいな絶対主が見えるとか、そんな奴だったんじゃないか?」
 そう言って、津田はみたび笑う。
 しかし、北谷はそのような話を聞かされても、ますます意味が分からなくなるだけだ。彼は、この年の離れた同僚に徐々に不満を募らせ、先ほど以上に表情を険しくしていく。
 と、そのような彼の表情の変化から彼の不満に気付いた津田は、瞳に若干の真面目さを取り戻し、一度こほんと咳払いをする。そうしてから、姿勢を正して北谷に対した。
「なあ、北やん。お前さんは、ここに来て何年になるんだった?」
 津田は、普段北谷を北やんと呼ぶ。声をかけられた北谷は、訝しげにしながらも指を折って年数を数える。
「まだ……四、いえ三年ですか。この祭りに付き合うのも、一昨年、昨年、そして今年。三回目ですね」
 北谷の答えを耳にした津田は、じゃあギリギリ知らんのか、と呟いて考え込む。彼のそんな様子に、北谷はますます苛立ちを募らせた。
「何なんですか、津田さん。どうにもさっきから、歯に物が詰まったような物言いをしますね。言いたいことがあるなら言って下さいよ。納得できるようでしたら改善します」
 そのように食って掛かる。津田が何やら言い難そうにしているため、北谷は、津田が自分に対する不満でもあるのだろう、と判断したようだった。口調は丁寧ながら、文句があるならさっさと言え、と態度が言っていた。
 津田はそんな北谷の様子を瞳に写し、まあいいか、と呟いて先を続けた。
「これ以上もったいぶると拳銃でずどんと撃たれ兼ねんようだから言うが……」
「んなことしませんて」
 北谷がいちいち口を挟むが、津田は適当に無視した。続ける。
「宇宙の真理だか、絶対者の意思だか知らんが、この町には昔から、それに準ずる何かの力が働いている。いや、少なくとも、古い人間はそう信じている」
 津田の言葉に北谷は目を丸くする。そして、自分の溜飲を下げるための冗談だろう、と判断して苦笑した。
「またまた。何ですか、それ?」
「いいから聞けよ。与太と思っていていいから。あんまり拘泥されても困るしな」
 津田は、北谷を手で制して、先を続ける。
「実際、この町は色々不自然なんだ。まず、殺人事件がない。これはまあ、そう変でもないけどな。田舎だから。ただ、その他の人死にもそうそうない。九十過ぎのじ様、ば様が、忘れた頃にぽっくり逝くくらいだ。年に十人いるのかね? ああ、そういえば、六年前に車に轢かれて亡くなった老婦人――あれは六十後半ってところだったか。そういうご婦人もいたにはいたが、彼女は車に引き摺られて、律儀にも隣町に入ったところでちょうど息を引き取ったらしい。と、こんな言い方は少し不謹慎か。聞かなかったことにしてくれ。ま、それはともかく、だ。問題は、偶発的な死でさえも――死なんて大抵偶発的だろうが――この町では、何がしかの力で避けられているってことだ。そういう事実を耳にした時には、俺も少しびびったよ。ああ、本当に社の御大はいるのかもな、とそう思った。偶然だとは思うがな」
 津田の忠告に従い、与太と思いながら聞いていた北谷。子供向けの寓話でももっとマシな設定を用意するだろう、と呆れながらも、少々引っかかる点を見つけて質問をはさむ。
「何ですか、『やしろのおんたい』というのは? 八代亜紀さんですか?」
 んな阿呆な、と自身で思いつつ、北谷は訊く。当然、津田は笑いながら否定した。そして、正しい説明を始める。
「さっき言った、宇宙の真理や絶対者の意思に準ずるものだ。遠い昔、遥か江戸の時代にこの町の為政者の夢枕に立ち、一年に一度だけあるモノを渡せば出来得る限りの恩赦を町に齎そう、と宣言した超越的な存在。おっと。イカれた親爺を見るような顔で見てくれるな。俺はただ、昔、じ様に聞いた話をしているだけだぞ。何も信じきっているわけじゃない」
 津田に言われ、北谷は初めて、自分が胡散臭げに彼を見ていたことに気付いた。失礼しました、と一言口にしてから、再度質問をはさむ。
「ところで、その社の御大様がご所望になられたのはどのようなものだったのですか?」
 北谷の言葉が不自然な程に丁寧だったためか、津田は、くくく、と小さく声を立てて笑う。
 津田自身、この昔話が馬鹿げた話であると自覚していたため、彼は北谷のふざけた調子に合わせて頓智の利いた答えを口にしようかとも考えた。しかし、そこははぐらかさずに、昔話のあらすじをただ正確に、愚鈍に口にする。
「社の御大ははっきりと仰られた。人の命のともし火をひとつ、祭りの日に捧げよ」
 眉を上下させ、北谷はひゅーと口笛を吹く。彼の目は言っていた。流石は社の御大様、お目が高い、と。

 町内会の会合と聞くと朗らかな印象を受けるものだが、内藤一也が居る部屋の雰囲気はその対角にあると言っても過言ではない。雑談に興じる者など一人もおらず、ピリピリとした息苦しい空気が漂う。飛び交う視線も鋭い。内藤は居たたまれなくなり、視線を下ろす。
 この会合は、町内会に属する内でも、老人達の信頼を得ている者だけが集められていた。参加している者はたいてい、戦前、もしくは戦後間もなくから命のともし火を消さずにいる熟年達である。内藤は三十半ばという若輩ではあるが、発言力の高い町屋トメによる栄誉の抜擢で、ここにいる。
 内藤は、幼き頃に祖父よりされたあの話を非常に熱心に聴いた。トメに気に入られている原因はそれだろう、と彼も予想はついている。しかし、気に入っているというのなら、本音を言えばこんな会合に誘って欲しくはなかった。息苦しいことこの上ない。もっとも、彼女の誘いを断らなかったのは彼自身なのであるから、それで文句を言うのは見当違いというものだが……
 内藤の祖父は一昨年の暮れ、病でこの世を去った。既に卒寿の祝いを迎えていた程の長寿であったのだから、悲しく感じながらも内藤は、仕方がないよな、と心の底から思った。人はいつか死ぬ。それは自然なことであるし、正しい。細胞の集合として形成されている人体がいつか必ず滅びゆくというのは、にわか科学の徒としても納得がいく。
 ところが、それに納得できない者がいる。老人達だ。
 この町の町内会は少しおかしいと、内部にいる内藤ですら、いや、内部にいる内藤だからこそ、思う。現在の町内会長は、翌年に還暦を迎えるという藤堂喜一である。そうであるにも拘らず、この会の実質の最高権威は現在上座におわす老人四名だ。古居勝次郎、町屋トメ、梶山吉衛門、陣内晶子である。一昨年までは、内藤の祖父である内藤松之介を加え、五家老などと洒落のような呼び名を冠していた。いずれも卒寿を迎えており、古居が唯一今年で白寿をも迎えている。
 今や四家老となった老人達は、古臭い造りの部屋に集まった一同を見渡し、年齢どおりの聞き取りづらい発音で話を始めた。
「あぁ…… ぜぇいん集まったよやがら、ぼちぼち始めよど思う。まんず、昨年までのでぇたを若いもんがら話して貰おか?」
 所々聞き取りづらい勝次郎の発音を脳内で補完し、内藤は聞きに徹する。彼がここで与えられた役目はない。勝次郎は『若いもん』へ話を譲ったが、その『若いもん』は彼ではなく、彼よりも二回りほど年を重ねた町内会長殿だ。内藤はトメに誘われたゆえ顔を出しただけであり、何かのデータを持参したわけでも、議論を戦わせに来たわけでもない。
「では、私の方から報告いたします」
 立ち上がり、一度咳払いをしてから、藤堂喜一が紙面の数字についての説明をした。予め皆に渡されていたA4の紙には、誰が調査したものなのか、十年程前から昨年までのこの町の死亡者、負傷者の数がプリントアウトされていた。その内容に、内藤は今更ながら声を失った。
 話としては知っていた。何度も何度も聞かされた……いや、寧ろ自分から聞きたがった。それはお話として興味があったから。むかし昔あるところに、という物語を好んだから。けれどこれを見る限り……真実なのだろうか。むかし昔あるところに、などと曖昧なものではないのだろうか。
「御覧のとおり、死亡者、負傷者の数は一昨々年より比べて、えー、やや増加しておりまして……」
 喜一は額に浮かんだ玉の汗を布でふき取り、上ずった声で内容を読み上げる。
 しかし…… しかしだ。彼の表現が適切とは、内藤でさえ思えない。『やや』増加などと、そんな形容でこの数字を説明できると喜一が本気で信じているなら…… そこで内藤は、鼻をずり落ちてきた眼鏡を押し上げる。隣では、彼と普段世間話すらしないご婦人が、同じく紙面に驚嘆の瞳を向けていた。
 町内会長殿がそのように本気で信じているなら、内藤は彼に軽蔑の念すら抱くだろう。普段は敬意とともに接している喜一に対してそう思ってしまうほど、それほどまでに、昨年、一昨年の数字と、それ以前の年度の数字の間にある差異は凄まじかった。
 いや違う。そうではないのだ。内藤は思う。言下に否定する。そうではなく、差異が凄まじいのではなく、一昨々年までの数字それ自体こそが凄まじいのである。
「くくくく……」
 そこで押し殺した笑いを上げたのは、トメだった。内藤はどきっと胸の鼓動を早くし、上座に瞳を向ける。その場にいた者達は、彼同様、町屋トメを見やる。
 トメは、存外しっかりした口調で話し始めた。
「のお、喜一や。おめ、汗ばっかかきよってからに、随分緊張しとるよやな。一昨々年の暮れにゴリ押ししたあのことを気にしとんやろ? 図星か? ま、そやろな。時期的に、あれが関係しとらんはずがありゃせん。お前が気にするんもよぉく分かるわ。ただな、それにしてもおかしな話じゃて。御大がご機嫌損ねよったんなら、祭りで一人やなくて幾人も欲しなさりそうなもんや。それが、事実はちゃう。御大は、一人も欲しなさらん」
 そこでトメは言葉を切った。沈黙が訪れる。
 彼女の言うとおり、内藤が昔話として聞き及んでいた社の御大は、一昨年の祭りから命のともし火を欲しない。彼の祖父である内藤松之介の言によれば、かの御大は贄が奉じられるのを大人しく待つのではなく、やれ約束じゃ、とばかりに自らで贄を一名、祭りの三日間で得る。そして、その代わりに町へ一年の安寧を与える。
 内藤が再び紙面に瞳を落とし、まず十年前の死亡者、負傷者の数を目に入れる。共に二桁、三桁だ。小さい町とはいえ、病没者や軽傷者をも数に入れているのだから、信じられない数字である。そして、九年前、八年前と見ていくと、やはり同じような数。
 そのように、順々に死傷者数の項目を見ているだけでも、緊張で喉が渇いてくるというのに……
 内藤は湯飲みを手に取り、適度に冷めたほうじ茶で喉を潤しながら思う。昔話を裏付けるかのような紙上の表項目に、思わず眉を顰めてこめかみを押さえる。顔を上げてみると、そこここで頭を押さえている者達を見ることができた。
 死傷者の数だけでも驚異と言わざるを得ないというのに、その項目の一つ上、『祭り時死亡者』の項目は、十年前から一昨々年まで、見事に1だけを並べていた。今内藤が確認することは不可能だが、彼の祖父が言っていたとおりであれば、それぞれの1はいずれも自然な環境化において出来上がったものであるはずだ。決して、国家権力が疑念を抱かない状況下で……
 内藤は紙面の年数を、年に沿って順々に見て行く。そして、彼の瞳は一昨年、昨年の項目にまで至る。それらの年の、『祭り時死亡者』を示す数字は……
「まあ、どういうことなのかは判りゃせん。喜一の判断が怒りを買ったんやったら、遥か昔より人の生き死にをどうこうしてきなさった御大が、喜一をこうして五体満足のままにしておるのも謎じゃし、贄を欲さなくなりよったのも謎じゃ。すっかり謎ばかりじゃ」
 沈黙を破り、再び語り出したのはトメだった。
 内藤は紙面から顔を上げ、彼女に集中する。話の先が気になったのもあるが、彼は単純に怖かった。彼女を見ていなかったからといって叱責されることはない。しかし、それでも怖かった。いや、その場の雰囲気に飲まれていたのやも知れない。嗚呼、情けない。そう思った。そしてその感情は、ある女性が毅然とした態度で発言することにより、更に強くなる。
「これだけのデータを見せられれば、そして、藤堂会長が英断なさった一昨々年のことを知っていれば、色々と謎なのは判るわ。若造の私でもね。けど、お祖母ちゃん。それならこの集まりの趣旨は何? 謎をただ確認するために集まったわけではないでしょう?」
 言を発したのはトメの孫娘だった。名を佐織という。彼女は内藤と同い年で、高等学校の同級生でもあった。この場にいる数少ない若者世代の一人だ。お互い独身で、現在でも親交がある数少ない相手でもある。内藤は密かに懸想していたりするが、彼女はそのようなつもりは爪の先ほどもないだろう。
「ふぉふぉふぉ…… 佐織は気が強いのぉ。これだから三十もとぉに過ぎて嫁の貰い手がない。とっとと内藤の坊主とでもくっつきゃあよかに」
 トメが突然話を向けてきたため、内藤は激しく狼狽した。手にしていたA4用紙を取り落としそうにすらなる。そして、トメの言葉を受けた佐織までも彼を見やったため、彼の緊張は頂点を迎えた。
「何言っているのよ、お祖母ちゃん。内藤君とはおしめをしていた頃からの付き合いなのよ。今更そんな仲になるわけないじゃない」
 佐織は軽く微笑んで、ねえ? と内藤に訊く。内藤は緊張を隠し、そんなに昔からの付き合いではない、という意味を込めて、そして、できればそういう仲になりたい、という意味もまた込めて、首を振る。しかし、佐織は前半の意味しか察しなかったのだろう。おしめは言いすぎ? とおどけた様子で返してから、トメに向き直る。内藤は、ほっと一息つきつつ、そして、情けなさを反芻しつつ、視線を下ろす。
 佐織が再び訊く。
「私のお婿さんのことはいいのよ。それよりお祖母ちゃん。本題に入ってくれない? この集まりは、何のため?」
 内藤は、はっと視線を上げた。彼女が考えていることを、その言葉の硬さから察したためだ。そして、おそらくはここにいるほぼ全員が、彼女と同様の予想図を思い描いている。四家老の考えていることは、古居勝次郎の、町屋トメの、梶山吉衛門の、陣内晶子の、彼らの頭の中にある図は、そして、ここにいる者達の頭に浮かぶ図は……
「ま、もったいぶってもしゃあないわな。さぁて、これは一つの提案じゃ。ただの――提案じゃ」
 代表して口を開いたのは町屋トメ。彼女の射竦めるような瞳が、誰にとってもっとも効果的に働くか。これまでの会合の様子を思い返せば、内藤は、いや、誰もが、その時点で予想してしかるべきだった。後になって、内藤はそう思う。

 今年の祭りは、皆の記憶によく残ったのではないかと思う。というのも、珍しく怪我人が出たからだ。酔っ払い同士の小競り合いだった。頬にあざが出来たようだ。
 それくらいの怪我ならば、騒ぐほどのことではないと思われそうだ。しかし、この祭りで怪我をするだけの人が出るのは珍しい。大抵は、傷だけを作る者など一人もなく、平和に、ただ平和に過ぎていく。昨年や一昨年なども、あれはあれで珍しい年ではあったが、全く何も起こらなかったのだから、祭り自体が平和だったことだけは間違いがない。
 それが今年は……
 そして更には、殺人未遂事件が起きた。町内会のさる者による犯行だった。祭りに孫と共に赴いた老婦人が標的だった。人の多さに参り、彼女が独りで座り込んでいたところを狙われた。しかし、犯人は凶事を完遂できなかった。偶然通りかかった的屋の男性に取り押さえられたのだ。
 そして同男性が通報。現場は一時騒然としたが、祭りは続いた。
 僕の視線は移り行く。
「人の多さが好き」
 雑踏の中で彼女の唇は、そのような発声を促すように動いた。出店で購入したたこ焼きを口に含みながら、懸命に続きを口にする。
「普段は道を歩いても数人とすれ違う程度なのに、毎年この日は常に数十人とすれ違う」
 すれ違う人々をキョロキョロと見回して、嬉しそうに笑った。
「何だか楽しい」
 楽しんでくれるのならば幸いだ。僕も嬉しい。実はあまり好きではない雑踏も、見ていて楽しくなってくる。
 彼女は、最後の一個のたこ焼きに、ケース内に散乱しているソースを塗りたくる。そして、楊枝で勢いよく突き刺して口に運んだ。表情がまた和らぐ。食べることが好きなのだろう。
 そして、たこ焼きがすっかり無くなってしまったケースを設置されていたゴミ箱に捨て、彼女は石段の下で足を止める。
 誰かが同じように足を止めるのが見えたが、直ぐに去って行く。彼女が立ち止まったために、何か面白いものでもあるのかと考えたのやも知れない。しかし、実際は階段があるだけ。それで興味をなくし、去った。きっとそんなところだろう。
 そんなことよりも、彼女はまた、一昨年と同じように、石段の上を目指す。一段、二段、三段……
 石段を上りきると、やはり丘の頂上を目指す。急勾配を駆ける。駆けて、上を目指す。冷風もまた昇り来るが、そんなもの、気にはならない。
「はぁ、疲れた。ここまで来るのは、さすがにきついなぁ」
 頂上まで至ると、彼女は肩で息をしながらも呟く。そして一昨年と同じように、額に張り付いた前髪を右手の指で払った。
 彼女は少し髪が伸びていた。肩甲骨の下辺りまで伸びた髪は、後ろで緩く結わえられている。
「でも風が気持ちいい。少し冷たいけど、ここに来るまでに汗をかいたから、ちょうどいいわ」
 ああそうか。だからこの丘の風は冷たいのか。彼女のために冷たいのか。
 白地に桃色の花が多数描かれている着物を着た彼女。彼女を見ながら、僕はそんなことを考えていた。
「それに眺めもいい。百万ドルとはいかないけれど、素敵な景色……」
 彼女の視線の先には、いつも見ている景色があるだけだ。祭りだから多少は華やいではいるけれど、パッとしない町の安っぽい景色。
 でも、今日からは違う。ここからの景色は僕に、僕らにとって、大都会の色とりどりのネオンよりも、自然に満ちた絶景よりも、心に強く焼きつくだろう。
「綺麗……」
 鈴の音色が響いた。

 記録には、その年の死亡者は九百三十一人、負傷者は十八万二百九人とある。