津田光雄が、先日買い換えた携帯電話を閉じ素早くズボンのポケットに滑り込ませたのは、実直さゆえではない。帰りました、と口にしながら派出所に入って来たのが同僚の北谷卓郎ではなく、県警から応援に来ていた相良公彦であったゆえだ。さすがの津田も、先日会ったばかりの巡査部長の目の前で、遠慮なく女性アナウンサーを眺める大胆さは持ち合わせていないらしい。
数年来贔屓にしている栄田理佐を拝顔できない代わりとはいかないが、津田は気を紛らわすために相良に話しかける。会って間もないながらも相良は、朗らかな口調と応答が話しやすく、雑談を共にするに向いていた。
「お疲れさん。どうだい? あの凶悪な町内会の連中に妙な動きはないかい?」
「おそらく、と曖昧な形容をつけなければいけませんが、ないですね。戻る途中で北谷さんに会いましたけど、あちらも問題はなさそうでした。祭りの前からそれとなく圧力をかけておきましたし、さすがに大丈夫じゃないですか? 勿論、油断は禁物でしょうけれど」
相良は応えて、笑う。少しばかり緊張感が足りなくはあるが、そのくらいで調度いいやも知れない。津田はそう思う。
確かに。ポケットの中の携帯に触れながら津田は思い出す。
確かに、町内会は二年連続で殺人未遂事件の犯人を輩出したエリート犯罪集団――馬鹿らしいことに、巷説ではそう囁かれる――である。三年前には当時の町内会長であった藤堂喜一が、二年前には町内会役員だった三島完治が、それぞれ祭りの日に、殺人未遂の容疑で逮捕された。
だが、逆に言うと、それだけだ。この町の町内会は二人の犯罪者を世に送り出しはしたが、ただそれだけなのだ。
勿論、二年連続で殺人未遂犯が一つの組織から生まれるなど、偶然の一言で片付けるのは楽観が過ぎるだろう。しかし。しかしである。それでも、町内会自体が犯罪集団とみなすのには無理がある、と津田は考える。
所詮は町内会なのだ。時にはゴミの出し方について真剣に議論し、時には児童と共に廃品回収を行う。そんな町内会なのだ。それが、殺人計画を立て、組織だって動いていると考えるなど、馬鹿げている。
そもそも、藤堂も三島も、人を殺すという行為は未遂で終わっている。そんな杜撰な様相で、エリート犯罪集団が聞いて呆れるというものだ。まあ、町内会がエリート犯罪集団を自ら名乗ったわけでもないので、勝手につけた呼び名を呆れられても困るだろうが……
ただでさえ暑いのに人込みのせいで散々ですよぉ、などと愚痴りつつ麦茶をコップに注ぐ相良。彼は昨年いなかったな、と津田は一年前の記憶を手繰り寄せ、ついでに事件についての記憶をも手繰る。
昨年の今頃は、もう少しくらい緊張の糸とやらが張っていた気もする。何しろ三年目であったのだから。二年連続であのようなことになったため、当然の如く、町民の間には不安があった。祭りの時期のみならず、町内会への不信感はうなぎ上りであった。
そういった状況を受け、藤堂喜一の跡を継いで会長を務めていた者は、責任を取る意味でその座を降りた。しかし、それだけで町民の不信感が払拭されるはずもない。駐在所や県警への電話も、ひっきりなしとはいかないまでも、常に町内会という単語を覚えているように強制される程度にはかかってきていた。
それゆえか、昨年の今頃は県警からの応援もそれなりに多く配属された。と言っても、津田、北谷を含めて十に満たない人数だったのだから、県警がまともに受け止めていないことは明白だった。これっぽっちの人員で町内会全体を見張れるかい、と応援要員や北谷と共に笑いあったものだ。
ちなみに、勿論のことだが。津田は相良から麦茶入りのコップを、礼を述べて受け取り、他愛ない雑談に興じつつ、思う。
勿論のことだが、津田は、町内会が……などという世迷言は信じていない。それは北谷も同様だろう。そして、その考えが正しいことを裏付けるように、昨年は町内会の者が事件を起こすことはなかった。町民の中には、警察の巡回が厳しくなったから自粛したのだ、と主張している者も多い。しかし、そうだろうか?
平常なら二名で行う祭りの巡回を、八名で行った。四倍だ。随分増えたな、とは思う。しかし、八名全員が千里眼の持ち主で、どこそこで何があったらば直ぐに駆けつけられる、というわけではないのだ。町内会が再び殺人を画策していたのなら、そういった隙をつけば、やってやれないことはなかっただろう。にも拘らず、実際は何も起こらなかった。
ならば、そこから導き出される答えは一つしかない。町内会は、ただの町内会なのだ。殺人を組織だって画策し、実行に移そうとするような、そんな町内会ではないのだ。どこの町にでもある平和な町内会なのだ。
「ただ今戻りました」
北谷が帰ってきた。いつかと同じように、その表情からは不機嫌さが窺える。悪の組織の暗躍がなくとも、善良な町民による小競り合いは多発していたのだろう。
「お帰りなさい、北谷さん」
相良は一般的な挨拶を返し、やはり麦茶をコップについで渡す。まめな男だ。津田は感心する。
「お疲れ。どうした? また宇宙の真理がどうとか管を巻く酔っ払いがいたか?」
そして、まめな男相良公彦に次いで、津田は、いつかの祭りで出た話題を口にする。相良、北谷、共に訝しげに津田を見る。しかし、北谷は直ぐに合点がいったようで、麦茶に口をつけながら苦笑いした。
「津田さん、よく覚えていますね。あれって確か、藤堂喜一が事件を起こした年だったですし、三年前ですよ?」
「三年前のことくらい覚えてらぁな。人をもうろくじじいみたいに言ってくれるなよ、おい」
津田が冗談で凄むと、北谷は一度、くく、と笑いを漏らしてから、表情を引き締める。そして、びっと背筋を伸ばして右手を額に軽く当て、敬礼。失礼致しました、と不自然なほどに大きな声で謝辞を述べた。そして、津田と共にお互い相好を崩し、声を上げて笑う。
そのやり取りを見ていた相良も、苦笑を浮かべて、麦茶を口に含む。ごくん。喉を鳴らして飲み下してから、彼は口を開いた。
「それで、北谷さん。質問なんですが、津田さんが仰った宇宙の真理っていうのは何ですか? 北谷さん達にはそういった妙な…… あ、いえ、結構な趣味がおありで?」
名指しされた北谷は、とんでもない、と首を激しく振り、否定する。そうしてから、彼は三年前に津田と話した内容を大ざっぱに教える。ついでに、そこから発展して、あの妙な昔話についても語る。
一方で、北谷が相良に説明している間、津田は再び思索の旅路へと出かける。
一昨々年と一昨年の祭りの後、津田は県警に赴き、藤堂、三島と面会をしたことがあった。彼らから聞けた話は、あの妙な昔話と、事件を起こしたのはそれを再現するためだったという動機の供述。彼らの目的は、祭りの日に死人を出すことだった。社の御大様に、贄を捧げることだった。
馬鹿らしい。そういう感想を抱いたことを、津田は思い出す。今でも思う。馬鹿らしい。
藤堂と三島はそのあと、彼らが馬鹿なことを実行するに至ったある事実を口にした。それは次のとおりだった。
しばらく前からこの町の死亡者数、負傷者数が増えている。社の御大による恩赦がなくなった。この町の未来が侵害され始めた。だからこそ、彼らは殺人を試みた。むかし昔ある所にのお話にあるとおり、社の御大が求める命のともし火を捧げようとした。
馬鹿らしい。あの時もやはり思った。そしてやはり今も思う、馬鹿らしい。何度でも言ってやろう。馬鹿らしい。
けれども、藤堂らはそれが正しいことだと思いこみ、祭りの日という社の御大の指定した日に、二年間にわたって連続で実行した。
まず、藤堂が三年前の事件を起こす。その際藤堂は、三島には事前に殺しを実行に移すことを話していたと供述している。三島に決意を語った理由を藤堂は、自分がしくじったら三島が続いてくれると思ったから、としている。そのような都合のいい話があるか、とも思うが…… しかし、彼らにはある強い繋がりがあった。
藤堂らは、この町の未来を自分達こそが侵害したのだ、という被害妄想、いや、加害妄想を共有していた。
そのような加害妄想は、六年前にあった事実と、ここ数年に共通している事実を統合した結果生まれた。その結果を受けて、畏れ多くも社の御大様を自分達は人間の分際で愚弄した、と藤堂らは思い込んでいる。
六年前のことだ。社の御大を祀っている社が老朽化したためということで、改築計画が持ち上がった。その計画には誰もが賛同し、改築費を出す者が多くいたという。そこまではよかった。しかし、社の位置を移動させようと藤堂、三島が言い出すと、問題が発生した。異を唱える者が現れたのだ。
遥か昔より鎮座しておわした聖地よりお移しして、社の御大の機嫌を損ねては大事である。そう主張する者がいた。最も強く反撥していたのは……
津田はぱっと思い出せずに頭を抱える。トントンと二度、頭を指で叩き、そこで漸く思い出した。
反撥していた者の代表として挙げられる人物。それは、町屋トメと内藤松之介だった。当時、彼らは共に卒寿を迎える一歩手前の年齢で、町内でも有名な長寿であった。生まれも育ちもこの町で、ともすれば、社の御大への拘泥ぶりは相当なものだった。
それゆえに、彼らは藤堂達を執拗に責め立てていた。御大様の機嫌を損ねたらどうする、移転する意味がないだろう、と。
しかし、居もしない御大様の機嫌はともかく、藤堂達が口にした移転の理由は納得できるものだったと、津田は思う。いや、実際問題そう思ったのは津田だけではなかった。先に結論を言うことになるが、だからこそ、社の移転は実現したのだろう。多くの者の支持を得て。
藤堂達の提示した理由はこうだった。社のある場所は向かうのが困難過ぎる。百段に達しそうな石段を上るだけでも一苦労であるというのに、社へ至るには石段を上りきってから更に、小高い丘を、呼吸を乱しつつ上っていかなくてはならなかったのだ。
生まれてこの方、津田は社の御大にさして興味を抱いてこなかった。しかし、試しということで社をその時初めて目指し、なるほど確かに大変である、という結論を持ったものだ。車道も通ってない以上、老人も子供も、えっちらおっちらと上っていくしかなかった。
そういうわけであったから、藤堂達は、社を石段の下に建て直してしまおうと提案した。そうすれば、参拝は楽になり、社の御大様も寂しくないだろうと、そういう妙な屁理屈までこねた。しかし、その矢先のこと。前述のとおり、トメと松之介の反対にあった。
ただしそれでも、藤堂達は若者……と呼ぶには藤堂も三島も、随分な歳であったが、それはともかく、彼らは若者特有の横暴さを勢いに、老人達を煙に巻いて計画を進めていくのだろう、と津田は思っていた。しかし、実際はその予想を大きく外れる様相となった。
結論からみれば、藤堂達に勝利が齎されたように見える。支持する声が多かったことは大きく、社は移転された。いくらトメや松之介が代表的な長寿とはいえ、それだけなのだ。大多数の支持者を擁する意見には、トメ達も屈したのだ。そのように結論付けるに足る。しかし、あれは藤堂らがトメらに妥協して貰った結果だった。決して、勝利はしていなかった。
まず、社は丘の上から下りたというだけで、相変わらず石段の上にある。それは、松之介の意向を取り入れた結果だった。松之介は、現在の位置から社が遠くなり過ぎてはまずいのでは、という危惧を持っていた。それゆえ、丘を下ることはともかく、それ以上離れることは容認できなかったのだ。ここで、藤堂らは一旦折れ、一度負けているともいえる。
そして更に、社が移転されたのとは別に、丘の上に祠ができた、という事実がある。これは、トメが提案し建設されたものであるが、その祠の中にあるのは……
社の中には、例の社の御大を象った何かがあったと伝え聞いたことがある。津田は、それがどのようなものであるのかは知らない。しかしだ。津田は見た。
ある日の定期巡回。彼は眠気を誘ううららかな陽気や、社改築・移転計画の際の騒ぎに対する好奇心などを因として、真新しい社へふらふらと赴いた。そして、形だけの参拝をしてから丘を上っていった。歳のせいか、動悸と息切れが酷かったことを覚えている。
祠は丘の上にぽつんと立っていた。丘の上には、その祠以外は特に何もなく、唯一楽しめそうなことといえば、その丘から一望できる町の景色だった。田舎の単調で詰らない景色だったが、津田は性にあった。彼はそちらをしばらく眺めてから、漸う祠に瞳を向ける。そして、その中にまでも……
中にはただの岩があった。それは小学校高学年の児童ぐらいの大きさであった。しかし、特に加工が施されていたわけでもない。目鼻もなく、後光を表す背中の輪っかもなく、有り難げな格好をしているということもなかった。どこからどう見ても、ただの岩だった。
先にも述べたとおり、津田は御大を象ったものが何であるか知らない。しかし、彼はその岩こそがそうなのだと悟った。どことなく不思議な空気を纏っているそれこそが、御大を象ったものであるような気がした。
勿論、そのように奇妙な感覚に包まれたのは錯覚だったのだと、冷静に考え直してみて、津田自身思う。ただそれでも、彼はあれが気になった。特別見栄えよくされていたわけでもない。いかにも超越者然とした容貌が刻まれていたわけでもない。本当にただの岩であったのに、いや寧ろ、ただの岩であったからこそ、それは、社の御大は、強烈な印象を彼に与えた。
そして、もしその岩こそが、彼の予想に違わず、社の御大そのものと言っていいものであるならば、社の移転などは形だけのものではなかったのか? トメは社の移転などという瑣末なことだけを許可し、御大自身はその場に留まらせたのではないか。それが事実であるならば、勝ち負けを決めるとすれば、勝利者はトメらなのやも知れない。
くく。そこまで考えて、津田は苦笑する。
こうして考えてみると、藤堂達はトメ達に敗れ、社の御大の怒りを買い、その上、罪の意識に苛まれ犯罪を為した。ふんだりけったりだな、おい。
「随分と真面目に考え込んでいると思ったら、今度は思い出し笑いですか。お忙しいようで…… 邪魔しちゃ悪かったですか?」
北谷が津田の顔を覘きこみながら言った。津田が、どうでもいいことを考えていただけだ、別に構わない、などと応えると、北谷は、それはよかった、と微笑んで、時計を指差す。示す時間は……
「定期巡回、津田さんと相良さんの番です。気をつけて行って来て下さい」
北谷はそう声をかけてから、津田に向けて右手の手の平を見せる。それはさながら、犬にお手を要求するかのようであった。
津田は訝しげに北谷を見やり、
「金は貸さんぞ」
と一言。
「違いますよ。携帯電話、渡して下さい。大方ポケットの中にでも入れているんでしょう?」
「おいおい。緊急時の連絡に使わずに、何のための携帯だよ」
津田は北谷の言葉に反撥する。ただし、彼もこれを本気で口にしているわけではない。緊急時の連絡ならば無線機を使えばいいのだから……
やはり北谷もその点を指摘してから、自分の携帯電話を取り出す。彼はそれを津田に差し出し、どうしても携帯がないとだめだというならこれを持って行ってください、と言った。
「どうせ自分の携帯を持って行けば、巡回する振りをしつつ栄田理佐さんに見惚れるのでしょう? 僕の携帯はワンセグなんてついていませんから、こちらならば仕事に集中できること請け合いですよ。緊急連絡もできますし」
津田の後ろで相良が、ひゅーと口笛を吹くのが聞こえた。そこに台詞を上書きするならば、さすが長い付き合い、と言ったところだろうか。
津田はため息をついてから、北谷の携帯電話を丁重にお断りして、自身のものも机の抽斗にしまいこむ。ニュース番組が終わるのは三十分後。本日、彼の携帯が『理佐ちゃん』を映すことは、どうやらできないらしい。
町屋佐織は、なるべく真っ直ぐに生きよう、と心に決めている。人の道を踏み外すような、そのような行いはしないことを努めよう、と。彼女がそう考えるのには、訳がある。
佐織の祖母であるトメは、一部の者に対して確かな権力を有している。その一部の者というのは、重大な罪とは言えないまでも、世間に顔向けできない何かを為してしまった者である。
どういうわけか、トメはそう言った犯罪に鼻が利いた。幾名かの犯罪行為を識っていた。例えば藤堂喜一は、高校生の少女と金銭の授受を伴う肉体関係を持っていた。例えば三島完治は、万引きという軽犯罪の常習者だった。
いずれも、いい大人が何をやっているのだ、と鼻で笑われそうな犯罪ではある。勿論、どちらも軽く考えていいわけではない。ただ、それでも第三者としては、然程気にせず流し聞いてしまいそうなものである。
しかし、当事者、とりわけ藤堂と三島はそうはいかない。そのようなことが明るみに出れば、少なくともこの町内では生きていくことはできないだろう。世間体などというものは襤褸襤褸と崩れ落ち、原型など留めはしないことが容易に想像できる。そんな弱みを、彼らはトメに握られている。
彼らの他にも、トメに弱みを見せてしまった者は少なくない。つまり、トメの権威の成り立ちはそこなのだ。要所要所、権力を持った者の弱みを握る。それによって、トメは三家老の一員足りえている。
そのような事実を知った佐織は、驚愕した。彼女自身がこれまで為してきたことを振り返ると、幼い頃ではあるが万引きをした。更に告白するなら、大学受験でストレスが溜まった折に放火までした。幸い小火程度で済んだのだが、もしもそれらのこと全てをトメに識られていたとしたら…… 戦慄を覚えた。
今のところ、トメにその事実を仄めかされたことはない。しかし、もしかしたら識られているのやも知れない、という気持ちは消えない。トメの前で平静を装いながらも佐織は、彼女にいつも首根っこを掴まれているかのような肌寒さを感じていた。
だからこそ、これ以上その被害妄想を拡大させないためにも佐織は、真っ直ぐに生きようと、そう強く誓っている。今のところ、その誓いは破られることなく履行されている。彼女は、幼き頃の過ちを除けば、清廉潔白であった。
それにしても。これから会合があるこの建物に入ってきた顔見知りの老人に頭を下げつつ、佐織は考える。
それにしても、藤堂と三島はなぜ、ターゲットを工夫しなかったのだろう。彼らが選出したのは、方や老婦人。方や若い女性。どちらも、一般的には腕力のないとされる女性であるから、そこは工夫したと言ってもいいやも知れない。しかしだ。もっと良い相手がいた、と佐織は思う。それは、佐織の祖母であるトメだ。
勿論、佐織はトメが亡くなることを望んではいない。望んではいないが、しかし、彼らの心情を察すれば、トメこそを葬ろうとするのが自然に思えた。
トメは彼らの弱みを握った上で、祭りの日に人が死ぬ結果を得る方法の一つを提案した。藤堂らが、彼女の言葉のみに促されて殺人、いや、殺人未遂を実行に移したのではないにしても、彼らは、どうせならばトメを……と、そのような考えを持っても良かったのではないか。佐織はそう思う。
仮に佐織が彼らの立場にいたなら、そして、トメが佐織の実の祖母でなかったなら、恐らくそのように考えた。トメを殺害し、できうる限り殺人に関与した事実を隠匿し、警察の捜査の手から逃れる。そうして、トメという脅威の情報源と、この町の憂いを取り払ったことだろう。
しかし、事実はそうでなかった。既に述べたように、藤堂は全く関係のない老婦人を狙い、三島もまた無関係の若い女性を狙った。当然ながら、トメは生き残った。
そして現在、トメはやはり生きている。卒寿を迎えてから今年で六年が過ぎた。日本の平均寿命が高いとはいえ、これは快挙であろう。社の御大の恩赦などなくても、しぶとく生きている。これでは、社の御大にわざわざ頼る必要もない。まさか御大のお力で、かの有名な八百比丘尼の齢を超えようというわけでもなかろうに……
と、そのようなことはともかくとして、佐織は以前トメの口から漏れ出た言葉を思い出す。佐織は先程考えていた、トメが藤堂らに狙われなかったのはなぜだろうか、という疑問を、大胆にもトメ自身にぶつけたことがあった。トメにとって愉快な質問たり得るはずもなかったのだが、トメはおかしそうに笑って答えてくれた。
トメの答えは、彼らが愚かだからだ、という単純なものだった。愚かだからこそ、彼らは必要以上にトメを恐れた。それは、傍から見ていた佐織にも知れていたこと。いや寧ろ、トメと彼らのやり取りを一度でも見た者であれば、誰でも知れたこと。
藤堂らは恐れるがゆえに、恐れ過ぎるがゆえに、トメを畏れた。そして、畏れるがゆえ、彼女を殺害するという畏れ多い行動に出られなかった。いや寧ろ、行動に出るという考えすら想起しなかったやも知れない。
確かにトメの単純な答えは合っている。愚かだ。佐織はそう結論付けた。
そうしておいて、佐織は、彼女が現在いる建物の顔に瞳を向ける。そこでは、扉を潜って内部へと至った男性が三和土で靴を脱いでいた。本日開かれる会合の最後の出席者である。
佐織は彼と挨拶を交わした後、会合が行われる部屋を手で示して見送る。そして、彼女自身は給湯室に向う。会合の最年少仲間である内藤一也とのジャンケン勝負に負けてしまったため、彼女は出席者へのお茶を淹れる係りを賜ったのだ。
あの時、チョキを出していれば…… 佐織は舌打ちをして悔しがったが、それももはや詮無きことだった。
気を取り直して佐織は、予めポットに用意しておいたお湯を、上質な茶葉を入れた急須に注ぐ。そして、十数ほどある湯飲みを一杯ずつ緑茶で満たしていく。適度な量を注いだなら次へ、次へ、と順繰りに淹れていく。
勿論のことであるが、彼女はこの泡茶の仕方が正しいとは微塵も思っていない。正式な手順を踏み、正式な手法を実行するほどの知識は持ち合わせていない。それは認めるにしても、茶の濃さを均等に保つために複数の湯飲みを往復して少しずつ淹れる、という工夫に関しての知識くらいは持っていた。それを実行しないのは、面倒だというだけの理由だ。
そもそもトメやその他の家老が、そのことを気にしない性質なのである。そうなれば、他のどこからも文句がでないことは判っている。
これが昨年までの会合であったなら。佐織は考える。
昨年までであったなら、こうはいかなかっただろう。長寿を誇る家老の中で唯一、そういうわびさびを気にしていた陣内晶子。彼女は……
「運ぶのくらいは手伝うよ」
その時、給湯室の入り口から声がかかった。
佐織が振り向くと、そこには最年少仲間である内藤がいた。黒縁眼鏡の奥に覗くのは、高校生の頃より変わらない優しげな瞳。
「その数を運ぶのは大変だろう?」
言いながら、内藤はおぼんを二枚手に取る。一枚を佐織に渡し、もう一枚を自分の手中へ。そしてそれに、白い湯気の立ち上る湯飲みを乗せていく。
佐織は、有難う、と礼をいいつつも、手伝うなら手伝うで、泡茶もまた手伝って欲しかったものだ、と考える。しかし、それは我侭というものか。なぜなら、内藤は勝利者で、佐織は敗北者なのだから。
内藤と共に、会合の開かれる部屋を目指す。湯飲みから茶が零れぬようにゆっくりと、それでいて、茶が冷めぬように素早く進む。
部屋の前に到着し、一声かけてから入室すると、上座には三家老が。まずはそちらへ茶を回し、続けて他の者へも。最後に自分の分を手に取り、席に着く。見ると、内藤もまた時を同じくして着席した。
「そんじゃま、ぼぢぼぢ始めっとすっがな」
勝次郎の言葉を受け、座を囲む者の顔つきが引き締まる。真剣さゆえにという者も中にはいるが、多くは緊張を因としていただろう。恐らくは、いや間違いなく、内藤辺りは緊張を覚える者の筆頭だ。佐織は……半々といったところか。
「まぁず注意しとくがぁのぉ。あんまおもぉぎった行動にゃあ出んよぉになぁ。去年もぉだいじょぶやっだごどやし、心配ないどは思うがぁ」
人を殺そうなどと画策するな、と暗に言っているのだ。三年前、二年前と連続し、藤堂、三島が思い切ったおかげで、町内会は昨年より、警察から形式上は睨まれている。実際には、警察は懐疑的どころか、全くこちらを気にしてはいないだろうが、町民への建前として巡回警備も増えている。それゆえに、こういう注意が為されるようになった。そしてまた、それ以外にも理由があるだろうと、佐織は考える。
まず一つに、失敗が重なったことから、そういった気勢が削がれているのだ。二年連続で未遂に終わったこともあって、殺人などするなと社の御大が告げているのでは、と考える者までいたりする。
そして更には、物騒なことを仄めかしたとしても、それを受けて物騒なことを実際に為すまでの人物が最早いない、という事情もある。三年前のトメの言霊に操られる可能性があったのは、藤堂、三島の二名くらいだった。それは、ここにいる全ての者に一致した見解であろう。余程の鈍感がここにいなければそのはずだ。
藤堂らには、自分達がこの町の未来を侵害したという自覚があった。その自覚が正しいものであったかはさておき、その事実は彼らの心に仕掛けられた爆弾であった。そういった爆弾を抱えていた二名は、三年前の会合におけるトメの言葉に、自我の操縦桿を奪われてしまったのだ。その結果は、過去が示すとおりである。
しかし、今この場にそのような者はいない。物騒なことを仄めかしたところで、誰も実行まではしない。いくらトメに弱みを握られている者であっても、殺人まではしないのが普通だろう。
「さぁで。誰ぞ何かねぇもんがのぉ」
すっかり考え込んでいたため、突然耳に入った勝次郎の言葉に佐織は首を捻る。それまでの話を全て聞いていなかった形になるため、何を訊かれているのかと怪訝に思った。
しかし、直ぐに思い至る。何のことはない。昨年も同じことを問われていたのだから、今の問いもそれだろう。
即ち、殺人の代わりになる解決法はないものか、と。勿論、殺人などという不穏当かつ直接的な表現はしなかっただろうが……
沈黙が落ちた。これもまた昨年と同じだ。
しかし、仕方がない、と佐織は思う。直面している問題を解決するためには、社の御大に命のともし火を捧げる必要があるのだから、必ず人の死がなければならない。
死は事故、殺人、老衰、病などで齎される。もうひとパターン、ストレス社会たる近年になって増加したという死の生産法があるが、それがこの場で口に出されることはないだろう。誰もが避けたがるのは間違いない。
そして、その最後のパターンと、もはや候補から下げねばならない殺人を除くとすれば、残りは人為を持ってして得ることのできない死ばかりだ。事故は人為を加えた時点で殺人となる。老衰は人為でどうにもならない天与のものだ。病もまた然り。これで意見が出るはずがない。これといった意見が出ぬ内に、先程淹れた茶が温くなり、座布団は汗で湿ることとなるのだろう。昨年と同様に意味を成さないまま会合は……
「あのぉ」
しかし、佐織の予想は早くも裏切られる。発言する者がいた。瞳を向けると、そこにいたのは共に給仕役を務めた男性。
佐織は、珍しいこともあるものだ、と目を丸くする。これまで彼女は、内藤が会合で発言する場面を目にしたことがない。それがまさか、このように誰もが口を噤んでいる場面で…… 知らずに感心していた。
しかし…… その直ぐ後に、強く呆れることとなる。よくそのような気分の悪い上に実効性の乏しそうなことを思いつき、なおかつ口にできたものだと。
今年は怪我をした人はいなかったみたいだ。
ただ、代わりに犬が死んだ。僕の元から去った。
おかしいとは思った。けど、人じゃなかったからなのやも知れない。獣であったから、帰結するところが違ったのやも知れない。
きっとそうだ。そうに違いない。
さっさと結論付けて、僕は丘の下を、社がある下方を見やる。
社の前には特設ステージが組まれていた。ステージの前には十数脚の椅子が並ぶ。そこに彼女は座っている。神楽が始まるのを待ちわびている様子だ。
彼女の学び舎の友らしき者もいたが、そちらは少し退屈そうにしている。自然なことだとは思う。
僕自身、あれがそれ程楽しめるとは思えない。ただ、彼女が喜ぶのなら、それはそれでもいいかと思える。
ステージ上で男が声を張り上げる。始まったらしい。
まずは男が引っこみ、入れ替わりに獅子舞が顔を出す。後ろに控える老夫婦が奏でる横笛と太鼓にあわせ、獅子は舞う。ある時は緩やかに、ある時は激しく、緩急をつけて舞う。
その舞が終わると、お次は傘を使用した演目だ。傘の上では、玉やら升やらが回りだす。見たところ誰でもできそうではあるが、多数の人間が感心し、手を打っているところを見ると、意外と難しいのだろう。
その後、二人の男が出てくる。よく舌の回る男達だ。彼らは早口で何やら話しているようだが、当然僕には聞こえない。しかし、彼女が楽しげに笑っていることからも、彼らはいい仕事をしていると判る。
彼らが引っこむと、先ほど傘を回していた御仁が現れ、刃物を取り出した。彼は刃物を巧みに操り、絶妙なバランスで縦に三つ重ねた。バランスが崩れることになれば、刃物は下に落ち、ステージ、もしくは男自身に深く突き刺さるだろう。彼女から、感嘆の溜め息が漏れる。しかし、それだけでは終わらなかった。男はその刃物三つを十寸ほどの棒の先で支え、更にはその棒を口で咥えようとする。彼女が息を呑むのが判った。そして……
ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちっ!
盛大な拍手は僕にも届いた。成功した――と言ってもいいのだろう。棒を一瞬だけ咥え、直ぐに手で支え直した様子は滑稽にも見えたが、受けがいいのだからあれで成功なのだろう。
さて、そろそろ最後だ。再び獅子舞が現れる。かの獅子は、やはり笛の音、太鼓の音と共に舞う。最初の舞よりも、緩やかである時が少なく、終始激しく動き回る。中に入っている人間も疲れているだろうに――恐らくは、他の演目をやっていた者と同じ者だ――ご苦労なことだ。音楽が緩やかなものになり、舞もまた緩慢になった。そして、獅子が動かなくなり……
終了だ。
観客達は皆ゆっくりと腰を上げ、石段を下りる。彼女もまた下へ――と思いきや、友人を石段の上で見送ると、丘を上り、駆け来る。
上りきって立ち止まると、波打つ髪が背を流れる。さらりとした長髪は、鈴の音色を聞けずにいた三年間という長い月日を確認させた。
「今晩は」
息を整えてから、彼女は言う。しかし、直ぐに口許を手で押さえる。
「と、いけない。さっき言われたばかりなのに」
独りごちる彼女。
「けど、さっき注意されたのは独り言についてだし、これは独り言じゃないから、いいのかな」
瞳を細め、頬を綻ばす。
「一応、相手はいるものね」
そう口にしてから、こちらを見やる。その瞳に映るのは、無機質な物体。それが僕なのか、僕じゃないのか、僕にもわからない。
「って、祠に話しかけているなんて、独り言よりも変かな。けど、癖みたいなものだし、いっか。祠さんだって、偶には誰かとお話したいでしょう?」
こちらに瞳を向けた彼女は、おかしそうに笑った。いつもながら、よく喋る。よく転がる鈴だ。
「祠さんは目ってあるの? さっきね。直ぐそこでお神楽をやっていたのよ。神が楽しむって書いてかぐら。凄く楽しかった。もうちょっと幻想的で宗教がかった感じかと思っていたんだけれど、結構俗っぽい内容だったわ。漫才みたいなこともしていたし、神様もきっとお笑いがマイブームなのね」
そのように語ってから、彼女は先ほどのそれぞれの演目について細かく報告し、感想を口にした。僕も見ていたのだから聞かなくても知っているのだが、彼女の主観が入った話は、自分で見た光景よりも輝いて見えた。
この心地よい鈴の音が、鈴の音だけが、ただひたすら共にあればいいのに。そう思った。
死亡者千六十五人、負傷者十五万千二百二人。それがこの年に作られた記録だ。