四章 一年前

 その日、相良公彦は、県警本部地域部地域課にある自分のデスクで山積みの書類と戦っていた。もっとも、紙を一枚一枚捲ってペンを走らせていたというわけではない。専らパソコン上での処理となるため、机の上はすっきりしたものである。
 カタカタカタカタカタ。
 キーボードを叩き続ける腕は当の昔に気だるさすら通り越し、何も感じない。そして、液晶画面を見詰める瞳は酷使しすぎたようで、今ならばベタベタのメロドラマでも涙を流せそうだった。
 カタカタカタ……
 相良は打鍵を止め、右手の人差し指と親指で眉間を押さえる。しばらくの間揉み続け、若干ではあるが目の疲れが取れたような錯覚を得た。とはいえ、錯覚なのだから根本は解決しない。
 今度、薬局で目薬でも買おう。そう心に決めてから、相良は大きく伸びをする。そして、再び打鍵を始めた。
 それにしても。相良は作業をしながら考える。
 それにしても、なぜ資料など作らなくてはいけないのだろう。民間からの善意の情報や、既に解決した事件に関する報告。今作成しているのは、そういったものをまとめた書類だ。
 いいではないか。情報は捜査員がメモを取って記録しておけばいい。事件は解決したのだからそれでいい。報告など、書類などいらないではないか。相良はそのように、投げやりに考えてみた。
 勿論のことだが……一応断っておこう。勿論のことだが、本気ではない。確かに、何十年も前の書類が何かの拍子に見つかり、こんなものもういらないだろうと思うことはある。しかし、最近起きた事件をとり巻く情報、そして、近年解決した事件の報告を書類としてまとめることは、必要に決まっている。
 書類という形をとって情報をまとめることで、その情報は組織で共有が可能になる。情報が人づてに、伝言ゲーム形式で伝わる形態を採っていたのでは、それはもはや原始時代の警察である。原始時代に警察があったかどうかはさておき……
 投げやりに、不良警官――そのような者はいないと信じたいものだ――のように、相良が書類を軽んじてみたのには、一応訳がある。わざわざ明言するまでもないであろうが、腕を、目を、そして地味に腰を酷使する作業に嫌気が差し、くさくさしていたのだ。所謂、現実逃避というやつである。
 もっとも、そのように脳だけ逃避している状態であっても、特に考えを巡らす必要のない作業、数値打ち込みを勤勉に行っていたのだから、そこは褒めて欲しいと、相良は誰に向けるでもなく思念を発してみる。当然、受信者などいない。彼はテレパスではないし、県警にお抱えのテレパスなど存在しない。
 駄目だ。集中できていない。
 相良は馬鹿なことばかり考える頭を掻きむしり、椅子の背もたれにどかっと寄りかかる。えびぞりになって腰を伸ばしてみると非常に気持ちよく、少しだけ、本当に少しだけ癒された。
「……ちょっと休憩」
 呟いて立ち上がる。廊下に設置されている自販機を目指し、ポケットから小銭を取り出す。百円玉を投入口に入れ、砂糖なしのボタンを押してからアメリカンコーヒーを選択した。紙コップが取り出し口に落ち、続いて黒い液体が噴出する。紙コップはみるみる満たされ、完了のランプがついた。
 腰をかがめてコップを取り出し、一口啜る。そうしてから、相良は壁に寄りかかり、息を吐いた。長い間座っていたため、このように立ったままでいる方が楽だった。
 ふうぅ…… ずず。
 息をコップの中身に吹きかけ、コーヒーの冷却を試みてから再び啜る。当然ながら、熱さに変わりはなかった。しかし、それでいい。実際は熱いままの方嬉しい。息を吹きかけたのは、熱いものを飲む時の儀式のようなものだ。決して冷めることはないと判っていても、また、冷めることを望んでいなくとも、ついやってしまう。それだけだった。
「おう。休憩か、相良」
 その時、廊下を歩いてきた植草正樹が相良を見つけ、声をかけた。植草は相良の上司に当たる。
「ええ、まあ、そんなところです。警部はゴルフの帰りですか?」
「馬鹿言え。今しがた会議が終わったところだ。日本の未来を守るための大事な会議がな」
 相良の軽口に植草は苦笑してから、大げさな身振り手振りを交えて言った。
 その様子に、やはり相良も苦笑いを返す。彼の言う日本の未来を守るという発言が大げさに感じたゆえであるが、広義で解釈すれば間違っていない以上ふざけて突っ込むことも憚られる。相良は話題を変えることにした。
「ところで、北谷さんのところへの応援はどうなりました?」
 ある町の派出所に勤務している男の顔を思い描きながら訊く。
 相良があそこに応援に向ったのは四年前のことになる。あの時は、殺人という大罪を未然に防ぐという重大な使命を抱えて旅立ち、何とも勇ましかったものだが、現在の自分たるや、オフィスで書類と戦う企業戦士さながらである。
 ……また下らないことを考えている。相良は苦笑してから、芳しい香りの液体をひと啜り。
「北谷? ああ、あの町の派出所の……」
 植草は突然出た名前に訝しげに眉を顰め、しばらくしてからぽんと手を打つ。何とか思いだしたようだ。逆に言うと、よくよく考えなければ思い出せないようだ。まあ、それも仕方がないだろう、と相良も思う。
 ここ数年連続で祭りの日に事件が起きているため、あの町のことは覚えているのは当然だろう。しかし、だからといって、そこの派出所に勤めている者の名を話として突然振られ、それで直ぐに思い出せというのも酷である。
 植草は相良がアメリカンコーヒーを購入した自販機に寄り、やはり百円玉を投入した。そして、砂糖増量のボタンを押してからブレンドコーヒーを所望する。
「今年は六名向わせられることになった。人間でないとはいえ、四年も連続で殺されたんだ。ちょっとは融通も利かせられるようになる」
 取り出し口からコップを取り出し、軽く口をつけてから大げさに熱がる植草。相良の上司は猫舌だ。ついでに猫背だ。しかし、舌と背以外は人間そのものである。決してにゃーとは鳴かない。
 さて、三年前にあの町で死んだのは、植草のような猫もどきではなく、本物の猫だった。町ではここ数年、人ではなく動物が殺されていた。昨年は雀。二年前は鴉。
 そして、四年前は……そう、犬だった。犬の死体を発見したのは、巡回中だった相良自身である。口から泡を吹いていた。毒殺だった。後から聞いた話では、農薬がドックフードに混ぜられていたとか。惨いことをしたものである。
「六名……というのは、まあ、多いのでしょうね。正直、それで防げるとは思えませんけど」
 相良は正直な感想を述べる。それを耳にした植草は、コップに幾度も息を吹き込みながら苦笑している。あれほど繰り返すのならば、さすがに冷却の実効性も期待できるだろう。
「やはりポーズですか? 町民へ、そして動物愛護団体へ対する」
 更に言葉を紡いでから、相良は口許を右手で押さえる。言い過ぎたと思ったからだ。事実はともかくとして、さすがに言い過ぎた。すみません、と謝辞を述べる。
「別にいいだろ。俺しか聞いてないわけだし、気にするな。そもそも、俺だってこれはただのポーズだと思う。実際人員不足なんだから、仕方ないと言えばそれまでだろうよ」
 植草は相良の失言など気にしない風で、それどころか、自身までもそのように述べる。相良としては、大いに反応に困る。自分が言う分にはまだいいが、他人がこういったことを口にすると、賛同するのも憚られるし、下手に否定するのも気まずい。
 漸くコップの中身が適温になったのか、植草は手の中のそれに口をつけ、ごくごくと勢いよく喉を鳴らす。そして、半分ほど飲み干すと、口もとを歪めて相良を見やった。
「くく。自分で言い出したくせに戸惑った顔だな」
 彼の言葉に、相良は困ったように笑うしかなかった。植草の言葉が本気でなかったということもないだろうが、それでもこちらをからかっていたのは確からしい。やられた。
 相良が少しばかり悔しがっていると、植草は紙コップの残りの半分を満たしていた黒い液体を一気に飲み干し、くしゃっと空になったコップを握りつぶす。そして、存外真剣な様子で先を続けた。
「とはいえだ。数によるごり押しができないなら、他のアプローチを探せばいい」
「他のアプローチ……ですか?」
 相良が訝しげに訊くと、植草は力強く笑う。そして、話し始めた。その内容は、次のようなものであった。相良は感心することになる。
 植草は、殺される動物が毎年違う種類であることに注目した。とにかく殺すことが目的であるのなら、所謂愉快犯であるなら、犯人はもっと手軽な――というのは不謹慎だろうが、とにかくそこここに沢山いる動物、例えば犬ばかりを殺せばいい。けれど、そうしない。四年連続違う動物であるのだから、恐らくは意味があるのだろう。その意味は判らないにしても、この法則が今年も守られるとしたら……
「あの町に動物園はない。そして、もうそこらを無造作に闊歩しているような動物は大方殺されている。あとは……一般的じゃない種類のペットでもマークすれば、案外いけると思わないか?」
「一理ありますね。絶対に法則が守られるとは限らないし、まだ鳩なんてどこにでもいそうなのが残ってはいますが、これで阻止できる可能性はぐんと高まります。すると、保健所ですか?」
 特殊な動物を飼う際は、保健所への届出が必要である場合が多い。そこからターゲットを絞り込むことができる。
「そうだな。あとは派出所の連中のコミュニケーション能力に期待、だろう」
 植草の言葉に相良は首を傾げるが、直ぐに思い至る。彼はつまり、北谷らが普段から町民としっかり関わっているのなら、町内のペット状況を把握しているやも知れない、と期待したのだ。
 実際に彼らと話をしたことのある相良としては、その期待はする価値が充分あるように思えた。北谷と津田であれば、コミュニケーション能力は疑いようもなく高いであろうし、町中全てのペット飼育状況とは言わないまでも、派出所界隈の状況くらいは把握していそうだ。
 と、待てよ。相良はふと思った。津田はもう定年を迎えているやも知れない。とすれば、津田の代わりに誰か他の者がいるのか。北谷はともかく、顔も名前も知らない新人は不安材料…… いや、それは言い過ぎか。
 そこまで考えてから、相良はすっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干す。そして植草同様、紙コップを力いっぱい潰した。このコップのように、あの一連の事件の犯人――同一犯とは限らないが――の野望を、握りつぶしたいものである。
 そのように思いながら、相良は植草と共に部署へ戻った。
 憂鬱な時間の再開だ。

 内藤は四年前のことを思い出していた。ほんの思い付きを口にしてみた、あの会合の席を。
 社の御大が人を求めないというのなら、代わりに犬っころでも捧げなさってはどうでしょうか。そう口にしたのは、沈黙に耐えられなかったゆえ。冗談のつもりだった。しかし……
 誰かが試してみる価値はあると言い――そんな価値はない、と口にした本人ながら内藤は思ったものだ――さらに、賛同の声がいくつも続いた。もしかしたら、皆、内藤同様沈黙に耐え兼ねていたのやも知れない。それゆえに食いついたのやも知れない。
 しかしそこで、三家老が馬鹿らしい意見を棄却してくれると、内藤はそう思った。そのはずだと期待していた。だが困ったことに、古居勝次郎、梶山吉衛門までもが首を縦に振った。成る程一理ある、不明瞭な発音でそう口にするのを、内藤は辛うじて聞き取った。阿呆か。いや、それとも惚けたか。不遜なことをつい考えた。
 このままでは馬鹿らしい意見が通ってしまう。内藤は大いに焦った。落ち着きのない瞳が部屋を巡ると、まず佐織が目に入った。佐織の瞳は、呆れと軽蔑が交配したような色を携えていた。思い出して、内藤はまた落ち込む。
 続けて、トメを瞳に捕えた。トメは皆がざわめく中で、独り黙り込み座していた。彼女なら…… そんな期待を再び膨らましながらも、それは無理だと、冷静さを保っていた脳の一部が言った。事実、それは無理だった。三家老中、二名までが賛同を示していたのだ。トメだけが否定したとしても、無理だった。どちらの意見が理性的な判断だったかなど問題ではなかった。民主主義に則った結果が生まれた。
 そして当然、お役目は言い出した内藤に回ってきた。自分の浅はかさを呪った。
 手に感触が残らない方法を選ぼう、内藤はそう思った。いくら犬とはいえ、いや寧ろ、人間のパートナーとして定着している犬だからこそ、あまり夢見の悪い実行方法は避けたかった。勿論、毒殺とて夢見はよくないのだが……
 毒を使ったのは、それが手に入れやすかったからである。適度に田舎であるこの町。町中から少し離れれば畑ばかりが広がり、そんな中にぽつんと掘っ立て小屋がある。そこには山程の毒――農薬が保管されている。
 祭りの二日目、人目につかないように気をつけ、農薬とのブレンドドッグフードを野良犬に与えた。そして、結果を確認もせずにその場を去った。その犬の命のともし火が、確かに社の御大の元へ向かったことを、内藤は人づてに聞いた。それからしばらくは、晩酌をせずには眠れなかった。
 口は災いの元という言葉を噛み締め過ぎて、襤褸襤褸に噛み砕いた。そんな年だった。そう思う。しかし。そこで内藤は唇を強く噛みしめる。
 しかしだ。内藤の努力を、愚かな努力を嘲笑うかのように、約一年後に開かれた会合で報告された一年間の死亡者数、負傷者数は、前年度以前と変わりないものであった。当然だと思う一方で、内藤は思わず涙しそうになった。社の御大め、と悪態を吐きたくなった。不遜と思われようが、そうだった。
 そして、内藤が神経を疲弊させた年の翌年の祭りでは、誰かが猫を殺した。少なくとも、好奇心が殺した訳ではない。確かに、人が殺した。殴り殺された猫が、袋に入って社の前に遺棄されていた。内藤は目にしていないのだが――目にしたくもないが――酷い有様であったらしい。しかし、その年の恩赦もなかった。
 続けて二年前、鴉の首が切られた。昨年は雀が、やはり首を切られた。それでも、社の御大は反応を示さない。毎年違う動物が捧げられるのは、社の御大が何を所望しているのか調査しているからだろうか。しかし、どんなに供物の種類を変えたところで、かの御大は知らぬ存ぜぬを決め込む。
 この野郎、ふざけやがって。内藤は口の中で悪態を吐く。すっきりしない。
「糞野郎が……」
 今度は微かに、本当に微かに音を漏らす。周りには誰もいないはずだから、内藤以外に聞き取ることは能わなかっただろう。幾分すっとした。ガス抜きは必要だ。
「何?」
 内藤はびくっと肩を震わす。秘密の悪態は失敗したらしい。内藤が急いで振り向くと、いつの間にか彼の左側に立っていた佐織が、訝しげに彼を見ていた。彼女の手にしている煙草から紫煙が立ち昇り、彼らの視線が交わるのを遮る。しかし、それも一瞬のことだ。
 会合の合間の休憩に、内藤は喫煙室の前のソファにどっかと座り込んでいた。佐織が喫煙室の中で誰かと歓談しているのは知っていたが、いつの間に出てきたのやら……
「……糞野郎って言ったわよね? 誰かと喧嘩中?」
「そ、そういうわけではないよ。ただ、その……」
 待てよ。急いで誤魔化そうとした内藤だったが、考え直す。佐織ならば良いやも知れない。彼女はそれ程社の御大に傾倒してはいない、と内藤は考えている。話をしていて、そんな印象を受けたことが何度かある。なら、ガス抜きの相手にいいではないか。
 佐織の信仰心が実際どの程度であるかも確かめずに、内藤は我慢の限界とばかりに不満を吐露する。社の御大に対してのみならず、猫を、鴉を、雀を殺した輩に対する不平を。そして、犬を殺した過去の自分への呪詛を。
 佐織は口を挟まずに聞き続けた。そして、聞き終えると右手を口許まで上げ、煙草を咥える。深く息を吸い、勢いよく紫煙を吐いた。そうしてから、ソファの空いている箇所に深く腰をかける。その時、喫煙室にいた二名が退室し、こちらに二、三声をかけてから、去った。
「不穏当な台詞は避けましょう、と注意するところかも知れないけれど、激しく賛同するわ。正直、不満しか見出せない。馬鹿をする誰かにも、その誰かの努力を平然と無視する御大殿にも」
 誰の耳も気にしなくて済むようになってから、佐織はきっぱりと言った。内藤に向けられる瞳は、お前も馬鹿をした者の一人だぞ、と言っていた。その見解は、内藤の被害妄想ではなかっただろう。
「殺されているのが動物とはいえ、四年連続。警察の目は厳しくなっているわ。このままでは、今年こそ馬鹿な誰かが捕まってしまうかも。藤堂さん達に続いて、町内会の人間がまた関わっていたとなれば、面倒なことになるのは目に見えている。お祖母ちゃんも、何とかして止めさせなくてはと困っているわ」
 最後の家老、町屋トメ。五家老は四家老になり、三家老になり、そしてついに御家老になったのだ。古居勝次郎は一昨年、梶山吉衛門は昨年に天へと召されていった。いずれも老衰だった。しばらく家族に介護されていた吉衛門に比べると、ぽっくり逝った勝次郎は幸せだったやも知れない。不謹慎ながらそう思った。正直、身内ではないのだから、九十過ぎの爺様が逝ってもそういった感想しかもてない。
 さて、御家老トメ殿であるが、内藤は彼女の百寿の祝いに先月呼ばれた。遂に三桁の大台に達しなさってしまったのだ。未だその半分にも達していない身としては、そこまで生きた人間の心境など想像もできない。まだ生きるつもりなのか。社の御大の恩赦などいるのか。四十を少しばかり過ぎただけの内藤は、正直そう思う。もっとも、さすがに口にはしない。
 特に今は、目の前にいる佐織は、トメの実の孫なのだ。そんな彼女を前にして口にすることではない。さすがにまずい。佐織はトメを好いている。以前、彼女自身の口からトメを恐れているというようなことを耳にしたことがあるが、それでも愛しているだろうと、内藤は思う。人の感情は、単純ではないから。
「それにしても、社の御大はどうしてしまったのかしらね」
 徐に佐織は言った。真剣に議論をしたくてその話題を選んだわけではなく、時間潰しのためだろう。紫煙を輪っかにして口から吐き出している様子を見ると、そのように思えた。
 しかし、内藤自身は少し真剣に考えてみることにする。この答えを得ることができれば、毎年耳にする死傷者の数が、以前のように二桁三桁となるやも知れない。それは自分の身の安全にも繋がる。佐織の安全にも……
 そういえば。そこで内藤は軽い疑問を覚える。その先は口に出して佐織に問う。
「そういえば、毎年報告される死傷者数は誰が調べているんだい? 今まで気にも留めていなかったけれど……」
「あれは、お祖母ちゃんが毎年違う誰かに役目を割り振っているから、明瞭に誰とは指摘できないわ。お祖母ちゃんなら当然把握しているだろうけれど、私は内藤君と同じで結果を聞くだけ。要するに、判りません」
「判りませんか…… いや、具には判らなくてもいいんだけれど、それは毎年違う人が?」
「それは……そうね。指名された人は災難でしょうね。どうやって調べていることやら」
 佐織のその言葉を耳にし、内藤は一つの仮説を持つ。その正否を確認するため、まずは相談だ。
「ねえ、報告が虚実織り交ぜてあることはない?」
「……つまり?」
 内藤はそこで、眼鏡を一度外してから右手で両目を覆う。そうしながら考えを纏め、口を開く。
「今、佐織ちゃんが言ったみたいに、死傷者数の調査なんて簡単にできるとも思えない。交通事故に限定するなら警察の交通課がやっていそうだし、刑事事件の被害者数なら刑事課が把握していそうだ。病死であれば病院が記録している可能性がある。仮にそのそれぞれにコネクションがあるのなら、もしかしたら調べられるかも知れないけれど、これは現実的かな?」
「どうだろう。何とも言えないわ。そもそも、それぞれの組織で間違いなく記録をしているのかも、私には確認できないし、それらの組織に対してどのくらいの強度のコネクションを持っていれば記録を閲覧できるのかも判らない。電話するだけで丁寧に教えて貰えるのか、それとも、警察署長、病院の院長クラスと深い仲でないと教えて貰えないのか」
 成る程、確かにそうである。やはり内藤が持った仮説はいいところをついているのやも知れない。しかし、独りで考えた仮説では穴などいくらでもあるだろう。相談を続ける。
「調査は容易でないどころか、並々ならない努力が必要かも知れないわけだ。それなのに毎年違う人物が調査に当たっている。これは少しおかしいと思う」
「それは……調査を実行する能力がある人物が継続して、ということならば納得できるけれど、そうではないからおかしい。そういうこと?」
 内藤は頷く。
「そう。実際、調査の役は固定した方がいい気がする。毎年変えていたら、そこで得られるデータに信頼性はあまり伴わないんじゃないか? 様々な人物に割り振っていたら、その中の誰かが調査を行う能力を持っていないという事態も起こり得るはずだ。きっと、虚偽が含まれている。そう思う」
「待って。それは変よ」
 佐織は煙草を挟んでいる右手を挙げて、内藤に待ったをかける。一旦右手を口元へ動かし、煙草を咥えてから右手の人差し指を左右に振る。そして、今度は左手で煙草を挟んで口を自由にし、語り出した。
「確かに調べる術がなくて虚偽を報告する人もいるかも知れない。けれど、そこで嘘を吐くのなら、社の御大が恩赦を与えているかのように偽造すると思うわ。勿論、五年前まで、祭りの最中の死という恩赦の条件が揃っていなかった頃は、嘘をつくにしても大目の人数を報告したかも知れない。けれど、内藤君が頑張った翌年以降の報告は、恩赦があってもよかった」
 そこで内藤は、四年前にドッグフードを撒いた後、足早にその場を離れた際の冷たい風を思い出す。あれは夏であったのに、どうしてあれほど冷たい風が吹いたのか。
 ……病は気から、と同じ理屈か。
 心うちで苦笑しつつ、内藤は佐織を真っ向から見返す。佐織の反論が尤もであった以上、先ほどの意見は棄却だ。続けて、新たな可能性を提示する。
「なら十年前までの、恩赦があったと思われていたデータが虚偽であったかも知れないという可能性はどうかな? そちらが嘘であったなら、全てが解決する。社の御大なんてものはいないんだ。そして、それまでの祭りでの毎年の死亡者は、社の御大を狂信した何某かによる私刑」
 そのように言葉を吐きながらも、内藤はこの自分自身の説を看破する自信があった。今の説は一つ、大切な情報を無視している。
「それもないわね。内藤君は松之介さんから社の御大に関する話をよく聞いていたんだから知っているでしょう? 祭りにおける社の御大への生贄は、誰がどう見ても、自然死、事故死の体裁をしているらしい。詳しくは知らないけれど、祭りの直前に降っていた雨で地盤が緩んでいた箇所が土砂崩れを起こしたことがあったらしいわ。それに巻き込まれ死亡、という完璧なる事故があったって聞いたことがある。そんなことまで計画的に為したものがいるとなれば、それこそ超越的な存在よ。こんな結論では、社の御大がいるという結論と変わらない」
 まったくそのとおり。内藤は全面降伏というように両手を軽く挙げる。しかし、それにも拘らず、佐織の話は続いた。
「それから、もう一つおかしいと断定できる理由があるわよ。そういった事情であれば、今の状況はあり得ないでしょう? その狂信者はなぜ私刑を辞めたのかしら」
 それは確かに。内藤は瞳から鱗をぽろりと落とす。
「理由として考えられるのは……私が思いつくのは二つね。一つ、狂信者が亡くなってしまった。それでシステムがダウンした。そしてもう一つ、狂信者が狂信者でなくなった。社の御大を信じなくなった。ただしそのどちらもあり得ないの」
 なぜ? 内藤は訊いた。すっかり話し手の主体が変わっている。会話において、男は女に適わないようにどこかにいる超越者によって創られているのだろう。
「言い忘れていたけれど、恩赦が打ち切られるようになるまで死傷者数の調査を行っていたのは、一貫して藤堂さんよ。今、調査する人間が決まってないのは、藤堂さんがああなったからっていうのもあるでしょうね。そうすると、調査結果が嘘である必要がある以上、狂信者は藤堂さんという結論になるけれど…… 私が挙げた理由の一つ目はあっさり却下ね」
 それはそうだ。藤堂喜一は生きている。もう出所もしているだろう。今頃どうしているのか……
「では二つ目はどうか。これも、却下よ」
「そちらはどうして?」
「藤堂さんが狂信を止めて嘘を止めた。それは絶対に違うとは言えない。けれど、彼が社移転の次の年から恩赦を打ち切ることはあり得ないでしょう?」
 内藤は、ああそうか、と呟く。
 確かにそうだろう。藤堂は三島と共に、社の移転を実行に移した。そして、その次の年に恩赦が打ち切られる。藤堂自身が元狂信者で、私刑を行い、虚偽の報告をしていたのならば、そのタイミングで恩赦を打ち切ろうとは思わないだろう。彼自身の首を絞めることになるという予想は容易に立てられる。そして、実際首を絞めた。
「私刑を為すことに嫌気が差して狂信を止めたとしたら、その場合は、自分が不利になると判っていても私刑と恩赦のペアを生み出す気が起きなかった、という理屈が成り立つかも知れないけれど……」
「いや、それもないんじゃないかな。確かに人を殺すのは憚られただろうけれど、今どこかの誰かが三年間も続けているみたいに、この場合は、動物で代用してもよかったはずだ。祭りで人が死なないという事態になるし、その時は騒ぎになるかも知れない。でも、次の年の報告で虚言を放てば、それで事足りた。それからは、ああ動物の命のともし火でも社の御大様は恩赦を与えて下さるのか、という新しい常識ができる。それだけだ」
 今度は佐織がなるほどと相槌を打つ。そして、中々結論がでないわね、と呟いた。
 結論など出るはずがないだろう、と内藤は思う。少しの事実を除いて、他の全てを予想で語っている。そのような議論で結論を導き出すなど、無理だ。小説の中の生き物である、安楽椅子探偵でもあるまいし。
 内藤が何気なく向けた視線の先では、紫煙を天井へと向けて放っている佐織の左手の中の物体が、そろそろ灰を床にぶちまけてしまいそうになっている。そのことを指摘してやると、佐織は慌てた様子で喫煙室へ向う。中に備え付けられている灰皿が目的だろう。
 さて、そろそろ会合の部屋へ戻るべきかもな。そのように考えつつ、内藤は重力が働くに任せてソファに埋もれる。中々いいソファだな、と思う。
 それにしても、根本的な問題として社の御大は存在するのだろうか。内藤はそんなことを考えた。トメらと違い、科学の時代を生きてきた内藤としては、否定したい。しかし、先程まで話していたようにあの報告が嘘であればともかく、そうでないのなら、あの異常な数値の低さは…… 社の御大の存在を肯定していると見ざるを得ないだろう。
 だが、社の御大の存在を全面肯定したとしても、疑問がある。なぜ、贄が、恩赦が、打ち切られたのか。
 藤堂と三島による移転の件が関係しているかどうか。それを考えてみれば、おそらくその答えはイエス。時期的に関係していないはずはない。
 では、どのように関係しているのかが問題だろう。移転が御大の怒りを買ったのならば、以前トメが言っていたように、藤堂らが生きているのが不思議である。かの御大は遥か昔より、人を生かし、殺してきたのだから。つまり、御大は怒りを感じているわけではない。
 他の可能性としては何があるか。それが判らない。いや、予想だけならばどうとでもなるか…… 例えば、もっとも大胆な予想は、移転によって社の御大という超越者の存在自体が消滅してしまった、というものだろう。大事なのは、あの場所に社があることであり、中にあった岩はただの飾りであったのだ。藤堂は、三島は、そしてトメまでもが判断を誤った。あの社は、祠は、まったく意味を成さない胡乱な存在となった。
 また、他の例を挙げてみよう。こういうのはどうだ? 内藤は声に出さずに、誰にでもなく呼びかける。
 社の御大の本体は、トメが睨んだとおり祠に安置された岩だったのだ。しかし、しかしだ。実は、あの場所――丘の上という場所自体は意味を持ってなどいなかった。社の御大は、社の中にいてこその存在だった。だからこそ、社ではなく祠に安置された御大は、その超越者たる資質を失い、贄を得ることも、恩赦を与えることもできなくなってしまったのだ。
 いや、もしかしたら――内藤はそこから更に発想を広げていく。
 社の御大は社の主であった時、祭りで捧げられた贄を社の中へ迎え入れていたのやも知れない。あの社は、死した者を迎えるためにあるのやも知れない。そして、御大は贄を得たあと社を内側から閉ざし、祭り以外ではなるべく誰も入って来ないようにしていたのやも知れない。人の命を迎えるためにある社が閉ざされることで、この町では人が死ねなくなっていたのだ。それこそが恩赦の正体。
 ……負傷者が出ない理由が説明できないな、と内藤は考えを中断する。しかし、気にしないことにした。どうせ下らない妄想なのだから、そこまで緻密に詰めることはない。さて、続けようか。下らない妄想であるなら、続けなくてもいいだろうと言う無かれ。
 先の妄想からすると、今の御大は社の外にいる。つまり、こちら側にいる。ならば、御大が贄を得ようとしないのも当然だろう。態々何かしなくとも、彼と同じ側に全ての者がいる。生ある限り、皆が御大と共に在る。ともすれば、寧ろ祭りの日に命のともし火を消した者は、社の中へと向う。社の御大の元から去ることになる。
 では、あの犬は、猫は、鴉は、雀は、あの社の中で、主がいない檻の中で、鳴き声を響かせていたのだろうか。犬は内藤へ向けた呪詛を、他の動物は他の者へ向けた呪詛を、響かせていたのだろうか。
 ……気が滅入ってきた。妄想を広げすぎて余計なことまで考えてしまった。内藤は前髪を掻き揚げて後ろに撫で付けてから、軽く伸びをした。その時、隣に何かが在ることに気付き、内藤は叫び声を上げる。しかし、何のことはない。いつの間に喫煙室から戻ってきたのか、そこにいたのは佐織だった。
「人の顔見て叫ぶなんて、私が喫煙室から出てきて声をかけた時とか、隣に腰掛けた時も、気付いてなかったようね。何をそんなに集中していたの?」
 内藤は、ちょっと妄想していた、と答えてから、社の御大に関して現実性を欠いた妄想を、と付け加えた。後半を付け加えなければ、妙な誤解を生んでいたやも知れない。
「ああ、御大に関してか。いきなり妄想とか言い出すから、いかがわしい事を考えていたのかと思った」
 思ったとおりだよ…… 内藤は苦笑して佐織を見詰めた。
 先ほどの妄想を話す必要は……ないだろう。所詮は妄想で確たる証拠も無い。その上、内容が佐織の希望と成り得ないのだから。先程の妄想が真実であったならば、もはや何びとも恩赦を受けること能わない。
 佐織はまだ四十前半であるゆえ、勿論死というものはそれ程近しい友ではない。しかし、トメは違う。トメが死の親友候補の筆頭であることは間違いない。これを阻止したければ、社の御大の恩赦は魅力的だ。だからこそ、佐織にとって御大の存在は希望だと、内藤は考える。確認したことはないが、恐らく間違ってはいない。無駄に長い付き合いな訳ではない……と信じたいものだ。
「さて、そろそろ戻ろうか。いい加減休憩も終わりだろう」
 内藤が言いながら立ち上がる。すると、佐織は妄想の内容を気にしながらも、従う。このまま会合の部屋へ向えば、内藤の妄想のことなど有耶無耶になるだろう。廊下を進み出し――
 だだだだだだっ!
 その時、誰かの駆ける音が響いた。内藤らがいる喫煙室は玄関に近いため、誰かが急用を思い出して帰ろうと駆けて来ているところなのやも知れない。それにしても、随分と慌てているようであるが……
「さ、佐織ちゃん!」
 駆けてきた初老の男性は、玄関に向わずこちらへ――というより、佐織に向った。佐織はきょとんとした表情で、どうかしましたか、と声を返している。不穏な空気を感じ取ったようで声は硬いが、充分落ち着いていた。一方、男性は落ち着きという言葉など忘れたかのように、慌てふためいている。
 しかし、しばらく経つと彼の話の中身が知れた。現状が知れた。佐織もまた、落ち着きという言葉を忘れた。――トメが倒れた。
 救急を知らせるサイレンが、だんだんと近づいてくる。

 彼女は何処だろう。何処にいるのだろう。こんなにも人が、人ばかりがいる中で、彼女がいない。
 ここに、この丘に来ずとも、毎年必ず祭りだけは楽しんでいた彼女がいない。
 一昨日も、昨日も、今日もいない。最終日だというのに、いない。
 その最中、一人の人間が僕の元を去ったが、そんなことはどうでもいい。それよりも……
 いや、待てよ。犬が去り、猫が去り、鴉が去り、雀が去り、そして人が去った。去った人は、死んだ。去った雀も、鴉も、猫も、犬も、死んだ。つまり……
 そうであるのならば――
 祭りが終わって行く。今年はもう無理だ。
 けれど、来年は――来年こそは。
 僕が望むのは、彼女唯一人だ。

 その年の死傷者数は……