茶色くも白くもない日 Reisa side

 反省したあとの行動が早い奴は、割と嫌いじゃない。

 あれは学年が変わってクラスが替わった年だったから、小学3年生になる前の春休みだっただろうか? 祖父が死んだ。
 お祖父ちゃんっ子だった私は、凄く悲しくて、何もしたくなくて、けれど、学校にはいかなくてはいけなくて……
 私は誰に話しかけられてもまともな返答をしていなかったと思う。ひょっとしたら無視していたこともあったかもしれない。そんなんだったから、学年が変わってひと月も過ぎると、私は孤立していた。
 1、2年で同じクラスだった子達とも、全く話をしなくなっていた。
 でも、その時私は、それが心地よかった。祖父が亡くなったというのに、誰かと笑ってお喋りなんてしていたくなかった。だから、誰とも話さず、ずっと独りでいる方が、とても楽だった。
 今になって思えば、なんとも馬鹿な子供だと思うけど、それでもその時は真剣にそう思った。
 けれど、良くも悪くも人は忘れていく。悲しみも、辛さも。
 祖父が亡くなってみ月程が経つと、さすがにしぼんでいた心も膨らみだした。誰かと笑い合って、馬鹿な話に花を咲かせたいと思えるようになった。
 しかし、その時になると私は完全なる異端者。
 誰もが私を遠ざけた。苛めらしい扱いは受けなかったにしても、誰も積極的に関わってくることはなかった。孤立していた。
 ……少し辛かったが、仕方がないとは思った。
 まあ別に、上履きを隠されるわけでも、教科書を破かれるわけでもなかったし、何より家では兄が必要以上に構ってきたから、バランスは取れている、と強がってもいられた。
 3つ違いの兄はあの頃事情を察していたのだろう、と今では思う。家で必要以上に構ってきたのは、学校での様子を気にかけていたから。その点は感謝するけど、今でも鬱陶しいほど構ってくるのは、ウザい以外の何ものでもない。ホワイトデーで千倍返しくらいして貰うのは、当然の権利というものだろう。
 と、それはともかく、そんなわけだから、当時の私は絶望的というほど最悪でないにしても、それなりに辛い日々を送っていたのである。
 そして、そんな時――7月に入って直ぐの頃だった。来夏が転校してきた。来夏は直ぐにクラスに溶け込み、友達もたくさん出来ていた。
 それを妬むほど捻くれてはいなかったけど、それでも、少し寂しさを感じたのを覚えている。
 来夏が新しい学校に慣れてきた頃のこと。新しい環境に馴染むことで手いっぱいだった彼女が落ち着き、生来持っていた人を気遣う気持ちを発揮したのだと思う。毎日何度も、私に話しかけてくれるようになった。
 私も別に人嫌いであったわけでもないため、普通に話をした。
 相変わらず他の子達は私と話さなかったけど、1日に数回でも来夏と話を出来るのは凄く嬉しかった。学校で一切話をしない日々が続いていたから、とてもとても嬉しかった。
 それからしばらくすると、来夏と一緒に志穂も話しかけてくるようになった。そして4年生になって、更に5年生になってクラス替えをすると、クラスの顔ぶれが変わったからか、大抵の人とは話せるようになっていた。
 もしかしたら、あのまま5年生までいっても、クラス替えによって孤立状態から抜け出せたのかもしれない。でも、もしかしたらずっとあのままだったのかもしれない。どちらに転んでいたかは今となっては分からない。
 けど、1つだけはっきりしているのは、私が来夏と志穂のことを、とても大事に想っているということ……

「こ、これを全部やるの?」
 来夏が持ってきた問題集とセンター試験の過去問を瞳に映し、久遠寺宗輔はかすれた声を出した。
 ……気持ちは分からなくもないけどね。
 私の前にもセンター過去問が山積みになっている。問題集のような他のものがない分、久遠寺宗輔よりはマシかもしれないけれど、その過去問の量だけでも眩暈を覚える太さだ。
 しかし、久遠寺宗輔のように不満のこもった言葉を口から出すわけにはいかない。山のように不満を連ねたとしても来夏は気にしないだろうけど、でも……
「そ。全部やるの。言ったでしょ? 厳しくいくって。久遠寺くんは英語が特に悪いみたいだから、取り敢えずセンターの過去問5年分と、私が使ってた問題集ね。玲紗は壊滅的に悪い数学の過去問」
 それじゃ開始、と来夏が口にしたので、とにかく問題に目を向ける。
 1問目。数字とアルファベットと矢印の先っちょみたいのが目に入った。あと、ゆうりすうやら、ひつようじゅうぶんじょうけんやら、馴染みのない言葉がちらほら。うん、分かんない。
 2問目。yとxがいっぱい出て来て、イコールがある。xの右上の方には数字がある。2次関数というものらしい。これはきっと……因数分解をやればいいんだ。少しだけ覚えがある。覚えがあるだけで、できないけど。
 3問目。なんか箱がでてきた。箱の名前は直方体ABCD-EFGHだって。箱もこんな変な名前で呼ばれたくなんてないだろうな、と思った。
 4問目。袋にカードが入ってて、それを取り出したのがどうなってるか、だって。……今までのやつよりは出来そうな気がしなくもなくもなくもない。まあ、取り敢えずここで努力賞を手に入れよう。
 ひと通り問題に目を通して、4問目だけでも頑張ってみることに決定。えーと…… 3を4回かけるのかな、これ。3かける3で9で、9かける3で27で、27かける3が……91? あれ? 違う……かも?
「わ、わからん」
 私が頭を抱えて必死に考え込んでいると、久遠寺宗輔がシャーペンを放り投げて呟いた。
 早いよ! 英語ならもっと勘でいけるだろ!
「ん? 久遠寺くん、どこ分かんない?」
「大多数の単語が分かんない」
 来夏が声をかけると、久遠寺宗輔は甘えたことを言う。
 英単語なんて分からないのがあって当たり前だろ! 前後から読み取れ! 寧ろお前の脳みそに足りないのは日本語力だ!
「えと、@番とB番の単語は分かる?」
「うん。それは分かる。たぶん…… 上がるとかそんな意味だよね。で、A番とC番はそれにsがついてるだけ、と。けど、本文の方の単語がほとんど分からないんだよね」
 来夏は厳しくいくと言いながら、充分すぎるくらいに甘い。いちいち相手にしないで、ひと通り答えさせてから見直せばいいのに。ちょっとくらい苦しまないと。
「じゃあ、本文で分からない単語って?」
「えっと…… このgovermentとdecisionとtaxesっていうのが分からないかな」
 3つもかよ! えと、govermentは『政府』で、decisionは『決定』? taxesは……『税金』? たぶんそんな感じだよね。うん、英語は数学より大分マシだな、私。
「なるほど…… けどね、久遠寺くん。この穴になってるところの直前、toがあるよね。to不定詞っていうのはわかる?」
「えーと…… たしかtoの後に動詞の原形がくるやつだよね? 意味は――分かんないけど」
 それだけ分かってりゃ、取り敢えず確率2分の1になるじゃん。
「意味は分からなくてても大丈夫。まあ、分かってるに越したことはないけど、ここの場合、今久遠寺くんが言った、動詞の原形が後ろにくるっていうのがわかってれば、AとCは入らないことが分からない?」
「あ」
 来夏に言われて、間の抜けた声を上げる久遠寺宗輔。
 そんくらい自分で気づけ。まあ、だからこそ成績悪いんだろうけど。
「ね? 単語の意味分からなくても、センター試験の場合、選択肢を絞れることが結構あるんだよ? ちなみにこのあとの絞込みも、@番が自動詞でA番が他動詞だってことを知ってれば、意味なんて全くわからなくてもできるんだけど……」
 そこまで口にして、来夏は久遠寺宗輔をちらりと見る。久遠寺宗輔は首を傾げていた。
 まあ、そんな他動詞とか自動詞とか知ってるなら、もうちょっと偏差値も上でしょ。
「うん、まあ、それは分からなくても、この時点で2分の1だよね。それなら勘に賭ける気も起きるんじゃない?」
「それは……確かに」
「センター試験はこういうテクニックも結構あるし、そういうのを覚えていくのもいいと思うよ。まあ、2次試験でも英語があるなら、もっと単語とかも覚えないと駄目だろうけど、……んと、農学部だとあるっぽいよね」
 苦笑する来夏。ぐったりする久遠寺宗輔。
 まったく、情けない。
「まあ何にしても、単語が分からなくても挫けないで、問題解いてみて」
 来夏がそのように声をかけると、久遠寺宗輔は素直にシャーペンを持ち直した。
 ……まだ許容範囲ね。
 さて、私もこれで4問目が終わったわ。次は……どれも分かんないわけだし、順番に1問目からやっていこうかな。
 そう思って、見当すらつかない問題と戦い始める。
 しかし、しばらく経つと――
「駄目だ。ここまで単語が分からないと…… ねえ、西陣さん。少し休憩にしない?」
 ……この男。ちょいとお仕置きが必要ね。
「もう、久遠寺くん? できなくてもいいから、ひと通り集中して解かないと――」
「来夏」
 久遠寺宗輔を諭そうとしている来夏を遮り、私は声をかける。来夏の優しい態度での注意じゃ、久遠寺宗輔に効果があるか怪しいところだ。だから……
「え? どしたの、玲紗」
「喉渇いた。ジュース買ってきて」
 私の言葉に、来夏は笑顔を浮かべつつ、こめかみにバッテンをつくった。
 確かに、勉強教えてもらって、その上パシらせるとかどんだけ〜って感じだけど、さすがに来夏のいる前ではねぇ……
「問題解くので忙しいのよ。来夏の分も奢るから」
 そう言って500円玉を渡すと、未だ不満げながらも納得する来夏。久遠寺宗輔に瞳を向け――
「久遠寺くんも何か欲しい?」
「久遠寺宗輔には奢らないわよ」
 重要な点を告げておく。こんな男に飲ませるものなんてないわ。
「ぼ、僕はいいよ、うん」
「そ、そう? それじゃ、ちょっと行って来るね」
 自販機がある外へと向かう来夏。しばらくすると、見えなくなる。
 よし。今のうち。
 ぱちいぃんっ!
 私は久遠寺宗輔の前に立ち、思い切りその頬を張った。久遠寺宗輔は叩かれたままの姿勢で止まり、しばらくするとこちらに困惑の瞳を向ける。
「え、えと…… 御堂さん?」
「ちょっとは来夏の誠意に応えたらどうなの」
 私が言うと、久遠寺宗輔はきょとんとした表情になった。
 勉強のできない馬鹿は構わないけど、こういう馬鹿はウザったいわね。
「センターの問題、来夏が持ってきたのは5年分。普通こんなの自分で持ってないでしょ。これはたぶん、わざわざ学校で先生にでも頼んで貰ってきたんでしょうね」
 私が言うと、久遠寺宗輔は頬をさすりながら驚いたような顔をする。
「それだけじゃなくて、来夏は私達の質問に答えられるように、ざっと問題に目を通して解くくらいのことはしてるわ。あの子、律儀だから」
 続けてそのように言うと、久遠寺宗輔はすまなそうな表情を浮かべた。
 ……単純な男ね。まあ、悪くはない。寧ろいいことだわ。
「御堂さんに叩かれても仕方ないな…… 僕のさっきまでの態度じゃ……」
 ま、そういうことね。
 むかっ腹が弱冠収まってなくて、もうちょっと叩きたかったりするけど、さすがに反省してる奴を叩く気は起きない。反省だけなら猿でも出来ると誰かが言ったけど、反省すらできないよりはましだろう。
 そのようなことを考えていると、久遠寺宗輔はばっと顔を上げる。そして――
「ちょっと謝ってくる!」
 って、早っ!
 反省したようにうな垂れていたかと思ったら、来夏の元へ向かうため、即座に外へ足を向ける久遠寺宗輔。
 ま、馬鹿なのはウザいけど、きちんと反省する点と反省後の行動が早い点は評価しよう。うん。

「もぉ、玲紗。久遠寺くんに何か言ったでしょ」
 来夏だけで帰ってくると、まず彼女はそう声をかけてきた。それからこちらへQoo(クー)のオレンジとお釣りをよこす。
「来夏の生徒歴が長い身として、少しアドバイスしてあげただけよ」
 Qooとお金を受け取りつつそう答えると、来夏は不審げに私を見る。
 叩いたことは黙っておこう。うるさく言われそうだし。
「それで? 何か言われたの」
 そして、そう訊く。
 わざわざ私に、何か言ったか、とか訊くくらいだから、あの馬鹿、話の内容は出さずにひたすら謝ったのかもしれない。
「ひたすら謝られた」
 やっぱり。
 そこで馬鹿が帰ってきた。
「ただいま」
 アルミの缶片手にそのように言う。
 ん? てか、何かあれって……
「ちょっと宗輔。それホットじゃないの?」
 宗輔が持っていたのは缶コーヒー。その見た目に少し違和感を覚えた。なんというか、やや熱そうな雰囲気が感じられたのだ。
「あはは、うん。押すとこ間違えた。まあ、冷めてから飲――ん?」
 私の疑問に笑いながら答えた宗輔。しかし、その言葉の途中で眉を顰める。
 どうかしたのかしら。
「久遠寺くん。いつの間にか玲紗に気に入られたみたいだね」
 と、突然来夏が言う。
 まあ、確かに気に入りはした。反省の早さとその後の行動で、昔の志穂を連想したからかもしれない。
 しかし、そんなこととは知らない宗輔は、やはり眉を顰める。
「玲紗が下の名前で呼ぶ場合、友達認定だよ」
 来夏の言葉に、宗輔はようやく合点がいったようだ。
「あ、ああ、そうなんだ。まあ、その、よろしく」
 弱々しく笑ってこちらを見る。弱冠どもったのは、さっき叩いたためだろうか。
 適当に反応してやると、苦笑してから椅子に座る宗輔。そして、
「ええと、じゃあ、改めて宜しくお願いします」
 シャーペンを大げさな動作で握り、来夏にそう言ってから問題を解きにかかる宗輔。
「うん、じゃあ勉強再開。ほら、玲紗も」
 私も来夏に言われてシャーペンを握る。
 さて、取り敢えず、勘でも何でも、答えを全て書き込むくらいの悪あがきはするとしよう。宗輔に言った手前、しっかり来夏の誠意ある準備に応えてやろうじゃない。

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