茶色くも白くもない日 Shiho side
図々しさはもっと大事な場面で発揮したいよね……
さっ。さっ。さっ。
教室中にはマル、もしくはバツを書く音が満ちていた。今日はセンター試験の翌日。クラス全員が学校でマル付けしているところだ。
しっかし――
「ふぅ…… 面倒臭いなぁ」
「まったくよね。答えなんて新聞に載ってるんだから、各自家でマル付けすればいいじゃないのよ」
「そうそう。まったくその通りよね。この寒い中、わざわざ学校まで来るのはキツいってもんよ。ここ最近メチャクチャ寒いし、そういう時期は、暖房のきいた部屋でぬくぬくしてるのがいいと思うのよね」
「賛成。うちは、父さんが嫌いだからエアコンつけないけど、コタツがあるから居間でだらだらしているわね。夜になると家族四人が揃うから鬱陶しいけど、昼間なら母さんと二人で素敵なコタツライフが過ごせるのに…… ちっ、小林め」
玲紗が舌打ちして、担任の小林正信の名をはき捨てた時、困ったことにその小林当人が彼女の背後にいた。
「そいつは申し訳ないことをしたな」
小林が意地悪く笑いつつ言うと、さすがの玲紗も顔を強張らせて振り返る。
我らが担任殿が続ける。
「しかしな、御堂。これは一応、そっちに気を遣った結果でもあるんだぞ。独りでマル付けしていたら、結果が悪かった時にフォローも何もなくてどんどん陰鬱になっていくだろう? しかし、こうして全員で集まっていれば、友達同士で慰めあうこともできるだろうし、俺たち教師がフォローを入れることもできる。結果が良かった奴らも、気を抜かないように鼓舞してやる必要があるしな」
小林の言葉は、まあご説ごもっともなわけだけど、だからって感謝する気になるかって言われると、微妙よね。だって、この寒い中、学校なんて来たくないんだもん。
それに――
「結果悪かった奴が、いい奴との差を気にして憂鬱になることもあるんじゃないですか? そう考えると、独りでマル付けした方がいい気もするけど」
「そういうところをフォローするのも教師の仕事さな。というわけで、来栖、御堂。西陣との結果の差は気にするなよ」
小林が言うと、玲紗は先ほどの『突然背後に小林事件』の動揺を吹き飛ばしたようで、鋭い目つきを小林に向ける。彼女の口から出た言葉は、口調はそれなりに丁寧だけど、発言内容は丁寧とは言えない。
「私らは結果が悪いこと決定ですか。しかも、堂々と生徒の差別発言だし。そりゃ、来夏とは成績のレベルが違いますけどね。ちょっとばかり発言が無遠慮に過ぎるんじゃないですか。週刊誌にチクりますよ」
彼女の言葉にあたしは苦笑する。
玲紗も、小林がさっきの発言を本気でしたとは思ってないだろうから、特に機嫌を悪くしているわけではないはずだ。ただ、先ほどのお返しに、少し動揺させてやろうというだけのことだろう。
しかし、小林は口の端を持ち上げて笑う。
「これでも一年間担任だったからな。お前らがそういうことを気にする奴らじゃないことくらい解ってるさ。まあ、週刊誌にチクるってのは、事実無根でも実際にやっちまいそうなのが怖いが……」
玲紗もあたしも、さすがにそんなことはしないし。まあ、実際に問題があるようなら、マジでチクる気はあるけど、幸いこの三年間でチクらないといけないような不祥事には出会わなかった。
平和なのはいいことよね、うん。
「ところで」
そこで、小林が話題を変える。
「お前らマル付けしろよ。さっきから無駄話しかしてないじゃないか」
「ああ、そもそもそれを注意しにきたわけですか」
玲紗が赤ペンを右手だけで軽快に回しつつ、言った。
確かに、クラス中で懸命にマル付け作業を続けている中、どんなに小さい声で無駄話を展開させたとしても、目立つだろう。にもかかわらず、玲紗とあたしは堂々と普通の声で話していたのだから、小林が注意に来ない方がおかしい話だ。
「西陣を見ろ。隣でお前らが話をしているにもかかわらず、一切気にせず、鬼神の如くマルをつけているぞ」
小林の言うとおり、来夏はあたし達の直ぐ隣で、ひたすらに赤ペンを操っている。
まあ、とはいえ、それはセンターの結果が気になってのことってわけでもないんだけどね。小林が最初に、マル付け終わるまで教室から出るな、とか言ったから――
「終わった……! 先生! ちょっとトイレ!」
「お? あ、ああ、行って来い」
突然声を上げ、小林の返事も待たずに飛び出して行った来夏。
小林はそれを見送り、よっぽど我慢してたんだな、と呟いたけど、それは違うだろう。そしてそれは、直ぐに聞こえてきた来夏の叫びによって証明された。
「久遠寺くんっ! どうだった!?」
やっぱ宗輔くんのとこ行ったのね。てか、宗輔くんもこの間ケータイ買ったんだから、メールででも訊けばいいのに……
あたしがそんなことを考えている一方で、小林は聞こえてきた叫びに眉を顰める。
「西陣は隣のクラスで用を済ますのか」
『そんなわけないだろ。てか、微妙にセクハラだ』
玲紗と共に突っ込むと、小林はまじめな顔で、冗談だ、と返す。
つか、そんなことわかってるっての。本気だってんなら、マジで引くわよ。
「……久遠寺は隣のクラスの男子だよな。あいつら付き合ってるのか?」
ごもっともな疑問が、我らが担任の口から漏れた。
しかし、彼の予想は勿論間違っている。それはあたし達の間では周知のことではあるのだが、それを説明したとして、少しばかり理解し難いかと思う。
来夏の行動は『気絶チョコ大作戦』を因としたものである。しかし、それを小林に理解させるのは少々面倒だ。
あたしはとりあえず、付き合ってはいない、という事実だけを教え、後は特に言及しなかった。
「ふぅん。まあ、付き合ってなかろうとどうだろうと、とりあえず俺の仕事をしてくるか」
「どこ行くんですか?」
出入り口に向かった小林に玲紗が声をかける。
「勿論、西陣を連れ戻しに行くんだよ。他のクラスに乱入した生徒を放っておくわけにもいかんだろ。ふぅ。八代先生に後で嫌味言われるぞ、こりゃ」
小林はそう愚痴りつつ教室を出た。
ちなみに、八代先生というのは隣のクラスの担任、八代慶子のことだ。三十代後半でありながら、衰えない美貌が男子生徒と独身教師を虜にしている、魅惑の女教師である。しかし、気の強すぎるところがあり、小林は少し苦手らしい。
ま、そんなことはともかく、小林がいなくなったんだから、また無駄話に興じましょ。
「時に玲紗。ここ最近、受験受験でつまらなくない? ここはセンター終了記念ってことで、幹継くんと、ついでに宗輔くん、力斗くんを誘って、スキーにでも――」
「誘えないくせに」
うっ。
玲紗の意地の悪い笑みを含んだ言葉に、あたしは言葉に詰まる。
た、確かに、あたしはどうでもいい時に図々しいくせに、本気で誘いたい時とかにはしり込みすることが多い。というより、百パーセントしり込みする。
それは、夏休み中に幹継くんを遊びに誘えなかった時点で証明されている。おかげで、夏祭りもプールも海も、来夏、玲紗と三人で行った。
さっき口にしたみたいな、宗輔くん達もまとめて誘ってグループで、みたいなことすらできないのだから、この根性のなさっぷりといったら筋金入りである。
冬休みの行事といえばクリスマスとお正月だけど、クリスマスは例によって女だけ。お正月は力斗くんからのお誘いがあって、わくわくしながら赴いたら、いたのは宗輔くんと力斗くんと我ら女衆のみ。幹継くんは母方の実家に行ってるとのことでした……
そして、そのあとの行事といえばセンター試験やら二次試験やら受験関係のみ。さっきはスキーなんて言ってみたけど、さすがにそんなことをしている場合ではないだろう。来夏と力斗くんはともかく、他四名はギリギリ、もしくは志望校変更というセンター試験状況じゃないかと思われマス。
「てか、そんな性急にいかなくてもよくなくない?」
玲紗が言った。
あたしは考え事をしていたこともあって、ふえ? と間の抜けた声を上げる。
彼女はそのことを冷笑と共に少しばかり馬鹿にしてから、続ける。てか、むかつく。
「急に海とかスキーとか誘おうと思うから、緊張するんでしょ? 志穂は適当に馬鹿話する分にはこれっぽちも強張らずにできるんだから、今の状態で新密度を上げつつ、寧ろ向こうから誘ってくるように仕向けるとか」
あ。それは、悪くない。
がしっ!
「玲紗、天才!」
あたしは玲紗に抱きつきつつ、叫ぶ。
玲紗はあたしを鬱陶しそうに突き放し、さらに続けた。
「ただし、普段の志穂を見ていると、誰にでも明るく楽しげに声をかけるから、特別、有川幹継に気があるように見えないわ。気があるように振舞った方が、向こうがその気を持つ可能性は高いでしょう。というわけで、まず志穂は茶色い日に他と一線を隔した本気チョコを、有川幹継に送ることを目指すべきね」
「無理!」
それができたら海に誘うとかもできるし。
あたしの応えを聞いた玲紗は、口の端を持ち上げ、そして馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
「なら気の長い無駄な努力を続けることね。正直、有川幹継は恋愛とかに疎そうだし、仲良くだべっているだけじゃ気の合う友達のままでしょうよ。年取ってからも茶飲み友達としてのお付き合いをどうぞ」
うわ。ムカつくわぁ、この女。
まあ、いつものことだけど…… それに実際問題として、正鵠を射ているわよね。
茶色い日――バレンタインかぁ。いつもチロルチョコを仲のいい男子に配るくらいの日だったけど、頑張ってみようかなぁ。とはいえ結局、幹継くんにもチロルチョコってことになりそう……
いやいや! やっぱり頑張ろう!
これからのあたしは、受験三割、茶色い日七割の労力でお送りしちゃうわ!
そう決意したとき、小林が来夏の首根っこを掴んで戻ってきた。来夏の顔が満足そうに緩んでいたため、宗輔くんの結果は芳しいものだったのかも知れない。
予想しつつ、幹継くんはどうだったのかが気になったという、なんとも乙女なあたしなのでした、と。