茶色くも白くもない日 Mikitsugu side

 幼児じゃあるまいし、俺は何をやっているんだろうな……

 今日は月曜日だが休みである。いわゆる、国民の祝日というやつだ。けれど、夏以来お馴染みとなっているメンバーで勉強会が催されるため、ゆっくりしているわけにもいかない。
 午前十時に学校近くの図書館へ集合なので、それほど急ぐ必要もないが、そろそろ出かける準備を始めておこう。何があるか分からないしな。
 筆記用具と力斗から借りている参考書を鞄に入れ、それから財布も投入。あとはケータイをポケットに入れて、マフラーと手袋は――出る直前でいいか……
 さて、まだ九時十五分か…… 約束に間に合うには、まあ、四十分くらいに出ればいいし、テレビでも見ているとするかな。
 勉強はこれからたっぷりするんだから、少ない待ち時間にまでやる必要はないだろう。
 ぽち。
 主電源を入れると、いまだアナログな我が家のテレビが、見覚えのあるアイドルを映し出す。ドーナッツが、いかにも美味そうに脚色されて紹介されていた。
 ふむ。ドーナッツは美味いとは思うが、少し味が濃いから俺は嫌いだな。さっぱり系のものがギリギリ許容範囲内ってとこだ。
「ふあぁあ〜。おはよ〜、つぐみ」
 テレビCMに脳内で反応していると、姉の久留実が寝巻き姿のまま現れた。
「ああ、お早う。姉さん」
 ちなみに、つぐみとは俺のことだ。俺の名前を二回続けて読み、その境目三文字を取ってくれればいい。要するに、『みきつぐみきつぐ』の三文字目と四文字目と五文字目を読めば、つぐみになるってことだ。
 姉は小さい頃から俺をそう呼んでいる。正直、女みたいで嫌なのだけれど、姉が気に入ってしまっているのだから仕方がない。
「母さんは?」
「友達とお茶の教室だよ」
 お茶の教室というと上品なイメージだが、実際は友人とのお喋りの場となっているらしい。教室の先生も母の友人なので、お茶教室など完全に名目だけだ。
「じゃ、父さんは?」
「仕事。部活だってさ」
 父は中学校の教師だ。部活動はバドミントンを受け持っており、休日も熱心に指導している場合が多い。もっとも、全国制覇を目指しているわけでもないため、朝から晩まで練習をするほどではないが……
「そっか。じゃ、あたしの朝ご飯は?」
「作るよ」
 出かける準備を先にしていて助かったな。
「ありがと」
 姉の礼を耳にしながら、俺はパンを一枚電子レンジに入れてトーストボタンを押す。そして、冷蔵庫からマーガリンと卵を取り出し、コンロの火を点け、フライパンを適度に温めてから卵を投入。本来黒い部分が黄色くなっている目玉が、いい感じに出来上がってきた。そこで火を止め、皿に移す。
 ちーん。
 ちょうどその時、電子レンジの間抜けな電子音が鳴ったので、パンを取り出しマーガリンを塗りたくる。よし。
 トーストと目玉焼きが完成した。醤油が入った小瓶と共に姉の元へ運ぶ。
「どうぞ。オレンジジュースも飲む?」
「うん。お願い」
「了解」
 冷蔵庫を開けて1リットルの紙パックを取り出す。コップを棚から出し、三分の二ほど注いだ。
「あれ? ねえ、つぐみ。出かけるの?」
 ソファに投げ出されている鞄を目にしたのだろう。姉が訊いた。
「ああ。図書館で十時から勉強会なんだ。一応、受験生だからね」
「え!? じゃあ、朝食の用意とかしてくれなくてもよかったのに! 大丈夫? 間に合う?」
「まだ三十分過ぎだし大丈夫だよ。はい、どうぞ」
 こと。
 コップを置くと、姉は、ありがと、と口にしながら申し訳なさそうに笑った。そして、立ち上がり、俺の背中を押してソファに追いやる。
「あたしは大丈夫だから、つぐみはもう出かけていいよ。まだ大丈夫って言っても、ギリギリでしょ?」
「ああ。悪いけど、そうさせて貰うよ。片付けは任せたよ」
「うん」
 姉の返事を受けてから、俺はマフラーを首に巻く。それからジャケットを羽織り――
「あ。ところで、つぐみ」
「ん?」
 姉は朝食を口にしながら、俺は出かける準備を続けながら、会話が始まる。
「今日は何時くらいに帰る?」
「五時前には帰ると思うけど…… 何?」
「じゃあ、母さんがご飯の準備始める前には帰れるね。あたし、今日は遅くなるから、晩御飯いらないって言っといてくれる?」
 遅くなる……ね。つまり――
「デート?」
「……えへへ。うん」
「わかった。言っとくよ」
「ありがと」
 嬉しそうに微笑んでいる姉に軽く笑いかけてから、俺は荷物を手に歩き出す。
「いってらっしゃい」
「行って来ます」
 さて、行こうか。時間は、九時四十分ジャスト。

 姉の久留実は俺よりも一歳年上で、現在大学一年生。通っているのはKS大学の経済学部だ。
 去年までは俺が警戒することで何とかなっていた。しかし、今年は無理だった。大学というのは、高校や中学校、小学校とは大分勝手が違う。授業の時間は朝から晩まで定まっているわけでなく、姉がフリーになっている時間帯が多すぎた。
 結果、九月の後半くらいに、姉には彼氏ができた。
 まあ、それはいいだろう。姉が楽しそうなこと自体は、間違いなく喜ばしいのだから。
 けれど、彼女の楽しそうな顔を素直に喜べないというのは、やはり問題だった。なんともはや、だ。

「あ、幹継くん! おっ早ぉー!」
 玄関を出たところで、来栖さんが通りの向こうからちょうどやってきた。どうやら彼女の家は俺の家に近いらしく、待ち合わせ場所と時間が決まっているなら、行く方向が一緒になり、結果として、合流する可能性が高くなる。
 駆け寄ってくる彼女に向けて手を上げ、挨拶を返す。
 来栖さんは、こちらをにこやかに見て、そして、なぜか俺ではなく、俺の後方に注意を向けた。
「つぐみー。手袋忘れてる……よ。あら?」
 そして、後方からは姉の声。
 振り返ると、俺の手袋を右手に提げた姉は、左手を口元に持っていってニヤニヤと笑っていた。妙な想像をしているらしい。
「つぐみ。もしかして、かの――」
「学校の友達、来栖志穂さんだよ。来栖さん。俺の姉で有川久留実」
「あ、はじめまして。来栖志穂です」
 俺の紹介に伴い、来栖さんは無難な挨拶を口にする。そして、我が姉はがっかりしたように嘆息し、俺に手袋を押し付けつつ声を上げる。
「はじめまして、志穂ちゃん。久留実です。つぐみが――幹継がいつもお世話になってます」
「いえ、そんな。こちらこそ……」
 彼女たちは、そのような初対面として無難である言葉を二、三交わし、
「じゃ、あたしはこれで。早く行かないと遅れちゃうよ、つぐみ」
 姉がそのように締めた。
 確かに、割とギリギリに出たっていうのに、こんなところで話し込んでいたら遅れてしまうな。さっさと行くか。
 俺は姉に手袋の礼を言って、来栖さんを促し、図書館への道程に足を踏み出す。
「いってらっしゃーい」
「行って来るよ」
「あ、失礼します」
 姉に、俺と来栖さんがそれぞれ返す。
 そうしてから三十秒ほど経ち、まず来栖さんが口を開いた。 
「お姉さん、綺麗な人だねぇ」
「ありがとう」
 ここは謙遜するところかもしれないが、謙遜の上とはいえ、姉を悪く言うのは避けたかった。そのため、俺は素直に礼を言った。少しばかり会話として妙だった感が否めない。
 しかし、来栖さんはそのようなことは気にせず、次の話題に移る。
「ところで、つぐみって何?」
 ……やっぱりその話題になるか。別に、今更その呼び名を隠そうとも思わないけど、それでも、少し気恥ずかしくはある。とはいえ、黙っているのも妙な話だし、説明するとしよう。
 その説明とそこから派生した会話により、図書館までの道中で声が途切れることはなかった。

 俺が勉強会を終えて帰宅すると、家には父と母しかいなかった。姉は予告どおりデートに行ったらしい。
 母には姉の分の夕飯がいらないことを話し、部屋に鞄を置きに行く。
 そして、音楽を聴きながら二時間ほど部屋で参考書を眺めていると、いい匂いが漂ってきた。夕飯ができたらしい。
 居間へ向かうと、テーブルには鰈の煮付けをメインに、ご飯とおかずが並んでいた。
「いただきます」
 父と二人で口々に言い、箸をつける。美味しかった。
 食後は居間で、一時間ほどテレビを見て、それから部屋に戻る。姉はまだ戻ってこない。
 それから更に二時間ほど経ち、風呂に入る。さっぱりして、再び居間でテレビを見て、母が寝室に向かい、続いて、父が寝室に向かい、十二時を過ぎる。
 そして漸く、姉が帰ってきた。
 こんな時間まで一緒にいたということは、そういうことなのだろう。そこで胸を痛くするのは、一般的な弟の感情の動きではない。それでも、痛くなってしまうのだから仕方がない。
 ……まったく。俺は、家族間の愛情と男女間の愛情の差異すらつけられない幼児かよ。

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