茶色い日 Second Season:View of Reisa

 あの馬鹿に高価なお返しなんて期待していないけれど……

「んん…… 朝か……」
 窓から差し込む陽光が瞳を刺激し、雀だか何だか知れない鳥のさえずりが耳をくすぐる。階下からは、母が朝ごはんを用意してくれているのだろう、食欲をそそる匂いが臭覚に届く。
 枕元の目覚まし時計を見ると、短針は八の字を差していた。
 私はもそもそと起き出し、着替える。
「お早う」
「おっす、玲紗。そして――」
 階下へ向かい、誰にでもなく挨拶を口にすると、兄が近寄ってきた。後ろ手に何かを持ち、顔には鬱陶しいほどの笑顔。
 まあ、今日がホワイトデーであることを鑑みるに、そこにおさまっているのが何であるかは容易に想像ができる。
「ハッピーホワイトデー!」
 ウザいテンションで言った兄の右手の上に乗っているのは、クリスチャンディオールのハイヒールが入った箱。バイオレットカラーとデザインが気に入ったので、先月のうちに要求しておいたのである。
「わー、ありがとー。兄さん、大好きー」
 棒読みで口にしても馬鹿兄は喜ぶのだから、このくらいのリップサービスはしておきましょう。
 しっかし、毎年のことながらボロいわね。百円の板チョコがこれだもの。ざっと七百倍くらい?
「良騎、玲紗。さっさと食べちゃって。片づかないから」
 と、母の声。
 私たちは、はーい、と返して、食卓に着く。
 用意されているのはいつも通りの朝食――トーストと目玉焼きと牛乳だ。私はトーストをひとかじりしてから、目玉焼きにソースをかけ、箸で持ち上げる。黄身の半熟具合がいい感じだ。
「ところで、玲紗」
「ん? 何?」
 問いかけてきたのは母だ。
「あんた、良騎には毎年チョコ渡すくせに、お父さんにはあげないわよねぇ。最後にあげたのって……小学生じゃない?」
 ぱくぱく。もぐもぐ。
 食べ物を噛みしめながら、考える。
 ふむ。確かに、母の言うとおり、父にチョコをあげた最後の記憶はランドセルと共にある。しかし、それも仕方がないことなのだ。
「だって、父さんは大したものくれないし」
 小学生が相手とはいえ、くれていたのはチョコやらマシュマロやらだった。そんな相手には、板チョコであっても与えるのはおしいってものだわ。
「……なるほど。さて、良騎。あんた、カモにされてるわけだけど、何か言うことは?」
「例えそうであっても、愛しの妹からチョコが貰えるのであれば俺は構わない!」
 うざ。シスコンの典型みたいな兄ね。
 とはいえ、兄は彼女がいるらしいし、ヤバい程に極まったシスコンではないだろう。
「何と言うか…… まあ、いいけどね。兄妹仲がいいのは悪いことじゃない、と納得するとしましょう」
 兄妹仲がいい、ねぇ。双方向で仲がいいとは言い難いと思う。ま、だからって嫌いなわけじゃないけどさ。
 さて――
「ご馳走様」
 食べ終わったので食器を洗い場に運ぶ。水に浸し、洗わずにそのままで洗面所に足を向ける。
 鏡に映るのは見慣れた自分の顔。まずは歯磨きね。
 しゃかしゃかしゃかしゃかしゃか。
 二、三分ほど歯ブラシを動かし、
 がらがらがらがらがら。ぺっ。
 口をすすぐ。
 続けて、櫛を手に取り、
 しゃっ。しゃっ。しゃっ。
 軽く髪を梳いてからゴム紐で結ぶ。
 よっし。オッケー。
 ふむ。まだ、九時前か……
 今日は来夏や志穂、その他の奴らと十時から遊ぶことになっている。それに間に合うには、二十分前くらいに家を出ればいいし、それまではテレビでも観てましょうかね。
 居間へ向かうことにした。

「いってきます」
 時間になったので家を出る。
 このところ暖かくなってきたし、今日は空も蒼く晴れ渡っている。なんとも過ごし易い気候だ。ぼーっと歩くのに最適ね。
 てくてくてくてくてく。
 道行く犬を眺めたり、空を仰いだり、ぼけらーっとしながら歩いていると――
「あ」
 横手から声が聞こえた。
 そちらに瞳を向けると、今日一緒に遊ぶ人間の一人である馬鹿がいた。
「あら、宗輔。お早う」
「おはよう、御堂さん。御堂さんって、家この辺なの?」
「四丁目よ」
「じゃあ、ご近所さんだ。僕三丁目なんだ」
 そりゃ近いわね。その割に今まで遭遇しなかったけれど…… ま、そんなことはいいか。
「そうだ。御堂さんに渡すものが――」
 そう言いながら、宗輔は鞄を探り出す。今日という日を踏まえると、そこから出てくるのは板チョコに対するお返しだろう。
 こいつには端から期待していないけれど…… さて、何をくれるのかしらね。
「はい。先月はありがとう」
 彼が突き出したのは、一辺十五センチくらいの正方形の箱。
「どうも。で? これはヴィトンのハンカチとか?」
「い、いやぁ。そこまでの経済力はないです。すいません」
 ま、そうでしょうね。私だって、高三男子に――もう卒業したけれど――そんな期待はしてない。
「別にいいわよ。それより、ちゃんと来夏と志穂にも用意してるんでしょうね?」
「あ、うん。それはバッチリ。来栖さんには御堂さんにあげたのと同じやつで、西陣さんにはまたちょっと違うやつを」
 ほぉ……
「来夏を口説き落とす気まんまんなわけね。ま、頑張んなさいな」
「いや、別にそういうわけじゃなくて――」
「照れない。照れない。それで? どんなの用意したわけ? あんま高価なものあげると、あの子は遠慮するわよ?」
 ヴィトンのバッグとか、シャネルのポーチとか、そんなの渡したりしたら頑固に拒否するのがありありと目に浮かぶ。ゴディバのチョコひとかけでも拒否るかも知れない。
「ああ。その点は大丈夫。年齢に即して貧乏だからね。高価なものなんて買いたくても買えないよ」
 そんな自慢げに言われてもねぇ……
 というか、ならば何を用意しているのだろう? 自作の歌とかだったら引くわね。
「で? 何を用意しているの?」
「それは、後になってのお楽しみ、ってことで」
 むぅ。宗輔のくせに生意気な……

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