忘却のカカオパニック
2月の行事編「バレンタインデー」。今のところ禁断の愛の予定はないです。

 かちゃかちゃかちゃ。
 2月13日の21時過ぎ。長篠(ながしの)家の台所には甘い香りが立ち込めていた。
 台所に立っているのは長篠家長女の夏茄(かな)だった。ふつふつと沸くお湯にボウルを突っ込み、中身を泡だて器でかき混ぜている。
 その中身は茶色く甘いもの。いわゆる、チョコレートだった。
「……で、あとは型に流し込んで――」
「夏茄(かな)っ!」
 ボウルを傾けて不器用にチョコを流し込んでいる夏茄の背中に、鋭い声が突き刺さった。声の主は、その顔を見ずとも分かっている。
 はぁ。
 夏茄はボウルをゆっくりとテーブルの上に置き、それから振り返った。
「なぁに、叔父さん。つまみ食いはダメだよ?」
 呆れた表情を自分の叔父――長篠冬流(とうる)に向け、夏茄は言った。常日頃からつまみ食いやらおやつの横取りやらをやらかしてくれる29歳にも、今回ばかりは自粛していただきたいという願いを切にこめて。
 一方で、冬流はどこかショックを受けた風で、拳を固めている。
「色気づいてるんじゃないっ! まだ子供(がき)のくせにっ!」
「……はぁ?」
 突然の言葉に、当然のごとく疑問を覚える夏茄。数秒間考え込み、それから、自分が先ほどまで手にしていたものを思い出し、解を得る。
 はあぁあ。
 そうして、深く深くため息をついた。
「あのねぇ。これは…… ていうか、いつも言ってるけど、私もう中2なんだからね」
「中2なんざまだまだ子供だって言ってるだろうがっ! 愛だの恋だの、お前にはまだまだまだまだまだまだ早いっ!」
「そこまで連呼せずとも…… あのねぇ、そもそも私は――」
「うるせぇ! ばぁかっ!」
 どたどたどたどたっ!
 叫び、台所から出ていく冬流。
「なっ、ちょっと叔父さん! ふぅ。毎度のことながら、どっちが子供なのやら……」

 2月14日。バレンタインデイ。世の乙女が浮足立ち、やはり世の男どもも浮足立つ1日。
 そんな日に、長篠冬流は不機嫌そうに外を眺めていた。
「どうしたの、冬流ちゃん。今日はまた一段と不機嫌ね」
「別に。何でもねぇし」
 声をかけてきた義姉、長篠春風(はるか)に短く返してから、冬流はテーブルの上のノートパソコンに手を置いた。週末が締め切りの短篇を書かなければいけないのだが……
 かた……かた……
 筆の進み具合は芳しくなかった。
 ふぅ。
 小さく息をついた春風は、一転、破顔一笑してぽんっと手をたたく。
「そうだ。いい天気だし、気分転換にカフェで執筆ってゆーのも悪くないんじゃない?」
「へ。カフェ、だぁ? んなのガラじゃねぇんだけど」
「まぁまぁ。たまにはいいでしょ? お茶代のお小遣いはあげるから」
 春風の言葉に、冬流は苦笑する。
「お小遣いってなぁ。原稿料、結構残ってるしいいよ。俺だっていつまでも子供じゃねぇんだぜ、春風さん」
「秋良(あきら)さんにとって冬流ちゃんがいつまでも小さな弟である以上、私にとっても冬流ちゃんは小さな弟なのよ。夏茄が冬流ちゃんにとって、いつまで経っても小さな可愛いお姫様なのと同じように、ね」
 冬流は唇を突出し、さっと視線をそらす。
「別に可愛くねぇし。どっちかっつーと憎らしーし」
 くす。
 小さく笑みをこぼし、春風はタンスにしまっている財布を取り出した。
「はい。お茶代。ついでに、帰りにお豆腐、買ってきてね」
「……てゆーか、そっちがメインだろ」
「うふふ」

 下校中、夏茄は交差点の角の喫茶店内に見知った顔を見つけた。
「あ、叔父さん。外で仕事してるなんて珍しいなぁ」
 その呟きに反応し、彼女の隣を歩いていた少女が視線を巡らした。
「え、夏茄ちゃんの叔父さんって如月睦月(きさらぎむつき)だよね。どこどこ?」
「あそこ。キャトル・セゾンの窓際でふんぞり返ってノートパソコンを睨みつけてる人」
「わぁ。著者近影と同じ顔。あたし、有名人って初めて見た」
 友人のその言葉に、夏茄は苦笑を禁じ得ない。
「有名人って…… そんな大層なもんじゃないって。ホントに」
「うん。わたしは小学校の時に何度か会ってるけど、ホント有名人って感じじゃないよ。ただの叔父バカって感じ。そりゃあ、姪も叔父コンに育つだろってゆーか」
「なっ! そんなんじゃないし!」
 突然発された、仲間内でたまに使われる造語を耳にし、夏茄は思わず声を荒げる。
 しかし、友人は慣れた様子でひらひらと手を振る。
「はいはい。じゃ、また明日ね。ほら、雪歌(せつか)。行くよ」
「あ、うん、桜莉(おうり)ちゃん。夏茄ちゃん、じゃーね」
「え。あ、えと。うん。じゃね」
 唐突に別れを告げて去っていた友人たちに、戸惑いながらも手を振り、夏茄は交差点に立ち尽くした。なぜここでお別れすると決めつけられたのだろう、と。叔父を見かけたからと言って、必ずしも自分がここで別れるとは限らないだろうに。
(まあ確かに、叔父さんに用事はあるんだけどさ)
 ふぅ。
 小さく息をついて、夏茄は交差点の対岸にある喫茶キャトル・セゾンを目指した。

 かちかちかち…… かち。
 順調にキーボードを叩いていたかのように見えた冬流だったが、そのすぐ後にバックスペースキーを押しっぱなしで数秒間待った。書いていた文章の大部分が消え去った。
 あまり調子は上がっていないようである。
(今週末、短篇の締め切りって言ってた気がするけど…… だいじょぶかな?)
 冬流の席へと向かいながら、彼の仕事の状況が捗々しくないことを知り、夏茄は苦笑した。いつも締め切り前は似たような状況ではあるが、毎度のことながら心配になる。
「叔父さん。どうしたの? 外で仕事なんて珍しいじゃない?」
「ん? 夏茄。学校は終ったのか?」
「もう17時だもん。当然でしょ」
 夏茄の言葉を耳にすると、冬流はディスプレイの右下に映し出されている時刻に視線を送る。確かに、17時13分と書かれている。
 はあぁあ。
 大きくため息をついて、彼はノートパソコンをぱたんっと閉じた。
「全然なの?」
「……さあな。それより、ちょっと帰りが遅いんじゃねぇか? 直ぐ帰りゃあもっと早いだろ? 何してた?」
 睨みつけるように夏茄を見て、冬流は言った。その後、不機嫌丸出しで外に視線を移す。
 そんな彼の様子に、夏茄は呆れたように息をつく。そうしてから、手に提げている鞄の中に手を伸ばした。
 がさがさ。
「はい。叔父さん」
 ぽん。
 冬流の頭に乗せられた四角い箱。その物体には見覚えがあった。夏茄が朝、大事そうに通学鞄に入れていたものだ。そして、昨日に作っていた菓子が詰められているものだ。
「って、お前こりゃあ……」
「チョコ。バレンタインの」
 …………………………………
「つっかえされたのか! 許さねぇ! うちの夏茄が一生懸命作ったもんをどこの馬の骨だかしらねぇが……! ぶっ殺してやる!!」
 がたっ!
 勢い込んで立ち上がる冬流。
 夏茄は一瞬呆けてから、慌てて叔父を押さえつける。
「ちょ、叔父さん。何言ってんの?」
「だってお前、こりゃあ昨日作ってたやつだろ! 受け取んなかったバカ男のとこ連れてけ! 叔父さんがぶっとばしてやる!!」
「……最初から叔父さん用だけど。あと、お父さん」
「は?」
 沈黙が落ちた。
 それから、静まり返っていた店内に、くすくすと忍び笑いがあふれる。
 冬流は相変わらず固まっていたが、夏茄は恥ずかしさで顔を赤くした。
「いや、だってお前。いつも手作りなんてしねぇじゃん」
「手作りして、友達と交換して食べることにしてたの。だからついでに、叔父さんとお父さんの分もって」
「な、なら何で学校持ってったんだ?」
「叔父さんが昨日つっかかってくるから、ちょっと意地悪したくなっただけ。あと、叔父さん、忘れてるみたいだから言っとくけどね」
 そこで口を尖らし、いくぶん不機嫌そうに夏茄が言う。
「私の中学、女子中だよ。学校に男の子なんていないんだから」
 そこまで説明を聞くと、冬流はようやく呆けることをやめた。
 ようよう、顔に笑みが広がる。
「だよなぁ! お前、まだまだまだまだまだまだまだ子供だもんな!!」
「……はいはい」
 他の客に好奇の目を向けられつつ、なおかつ、くすくすと笑われつつ、夏茄は苦笑した。
 自分が叔父コン――叔父コンプレックスであるという友人の評価は間違っていると思うが、冬流が叔父バカだという意見は的を射ているなぁと、そのように思いつつ。
「お、うまいぞ。溶かして固めただけとはいえ、大したもんだ」
「……それ、他の人には言わないよーにね。最悪の感想だよ」
 苦い顔で笑み、夏茄は言った。
 そうしながらも、叔父が嬉しそうにチョコを食す様子を瞳に写し、一転、嬉しそうに微笑んだ。

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