3月3日。長篠(ながしの)家の居間には2体の人形が飾られた。お世辞にも綺麗とは言えないそれらは、布で作られた手製の男雛と女雛だった。ところどころ汚れが目立ち、少しばかり古いものであろうことが伺える。
ぽりぽり。ふぅ。
長女の夏茄(かな)は、雛あられをつまみながら、小さく息をついた。
「どうでもいいし、文句はないけど、うちのお雛様って安上がりだよね」
別段、高価で雅やかなお雛様に憧れているわけでもないようで、夏茄は本当にどうでもよさそうに言った。
彼女としては、叔父の冬流(とうる)が行事好きなことを鑑みるにお雛様のセットも気合を入れて用意しそうなものだけどなぁ、という思いの方が強かった。正直、みすぼらしい男雛と女雛のみで満足するとは思えない。
「まあそりゃ、もともとは流し雛だからな。あんま高いもんは使えないだろ」
そう口にしたのは、当の冬流である。
流し雛といえば、人形を水に流すことで共に身に宿る厄を流す、というような行事だったか。
夏茄はそのように考えつつ、お雛様を見やる。
そう言われればなるほど、水に流すことを惜しもうとは思わない安上がりな作りだと納得した。
しかし、そうなるとひとつ、おかしなことがある。
「でも、この人形って毎年飾ってるよね? 流してなくない?」
そう。長篠家のお雛様が活躍するのは、何も今年が初めてのことではない。毎年、この時期には居間に顔を出すのだ。
当該お雛様が流し雛だというのであれば、それはまさしくおかしなことであろう。
冬流は寸の間沈黙し、それから意味ありげに笑った。
「……何? その笑い方、何だかムカつくんだけど」
「なぁに。ちょっと昔のことを思い出しててな」
言った冬流は、やはりニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。
ぞく。
夏茄は嫌な予感がした。
冬流は両親に代わり、幼少時の夏茄を世話していた。それは母の春風(はるか)が仕事を辞めてからも続き、小学校中学年くらいまで夏茄は叔父と多くの時間を過ごした。
しかし当然ながら、小さい頃の記憶というのはどんどんと薄れていき、ましてや、5歳以前の記憶など曖昧模糊としている。そんな記憶の中には忌まわしい記憶も多いものだ。
冬流はしばしば、そんな過ぎ去りし日々の記憶を引き出す。
「あれは夏茄が3歳のとき」
「ま、待って。もーいいよ、叔父さ――」
「『なんでおひなさまかわにすてちゃうの。かわいそーだよー』と泣き叫び、外で駄々をこねたんだったな。『おひなさまゆるしてあげてーとーるちゃーん』とか言って泣きじゃくってよぉ。いやぁ、あの頃のお前は可愛かったなぁ」
「いやああぁあぁぁああ!! やーめーてーーーー!!」
はぁはぁはぁ。
荒い息をつき、夏茄はキッと冬流を睨みつける。
「何だよ。俺は事実しか口にしてないぞ。睨まれる筋合いはない」
「……陰険」
「褒め言葉として受け取っとこう。さて、俺も雛あられ食うか。結構うまいよな」
がさがさ。
スーパーで売っていた小分け包装のお徳用雛あられを手に取り、冬流は満足そうに笑った。ぽりぽりとつまみ、お雛様に歩み寄る。
「にしても、こいつらもそろそろ10年目か。厄も随分たまってそーだな」
それはそうかもしれない。
ボロボロの男雛、女雛を瞳に映し、夏茄は得心した。ぽりぽりと雛あられを噛みながら。
「そろそろ流す?」
「また『かわいそーだよー』つって駄々こねないだろーな」
「しつこい!」
まなじりを上げて叫ぶ姪を見やり、冬流は小さく笑う。
そうしてから、考え込むように瞳を閉じた。
「ただなぁ。せっかくだからもーちょっと待ってみてーよなー」
「? 待つって、何を?」
当然の疑問を抱く夏茄。
冬流は彼女に視線を向け、真面目な顔で真剣な口調を保ち、言う。
「長年の厄を身に溜めたこいつらが、暗黒のエネルギーを糧に世界征服に乗り出す暗闇の時代を」
「いや来ないから」
現役女子中学生は、重症厨二病を患った29歳の患者に冷静に突っ込んだ。非常に冷めた瞳だった。
その瞳からは、かつてお雛様の心情を慮った想像力の豊かさを窺うことはできない。
「……かわいげねぇの」
「うっさい」