5月2日。長篠(ながしの)家では長女の夏茄(かな)が居間にてゴロゴロしていた。手にはニンテンドンOSというゲーム機が握られている。
ぴっぴっ。
タッチペンで画面を操作すると、画面中の犬が可愛げな仕草をした。
「ふわぁ。可愛いなぁ。飼いたいなぁ」
「ゲームだけで我慢なさい。生き物を飼うのは大変なのよ」
呟いた夏茄に、母の春風(はるか)が声をかけた。台所で忙しそうにしている。2人分の昼食を用意しているところだった。
「分かってるよ」
不満げに頬を膨らませながらも、夏茄は素直に言った。
その時――
ぷるるるる。ぷるるるる。
電話が鳴った。
「夏茄、出てくれる?」
「はーい」
OSを置き、夏茄はぱたぱたと固定電話機の元へ向かう。
がちゃ。
「はい。長篠です」
『私、シーズン出版の四季弥生(しきやよい)と申します。長篠冬流(とうる)さんはご在宅でしょうか?』
電話の向こうから聞こえてきたのは落ち着いた女性の声。
四季弥生。夏茄の叔父である冬流――児童文学作家如月睦月(きさらぎむつき)の担当編集者だ。
夏茄はついに来た、と身を固くした。冬流が家出をしてから、弥生からいつ電話が来るかと心配していたのだ。
「あ、えと、叔父さんはちょっと留守にしてまして、いつ戻って来るのかは、えーと……」
ごにょごにょと言い訳めいたことを口にする夏茄。何故自分がこんなことを、と少しばかりうんざりした。
そんな中――
『あら、もしかして貴女が夏茄ちゃん?」
「え、はい。あの――」
突然名を呼ばれ、夏茄は戸惑った声を出した。
それを察したのだろう。弥生は慌てて謝った。
『ごめんなさいね。如月先生――叔父さんからよく話を聞いていたものだから。ところで、やっぱり如月先生はいらっしゃらないのかしら?』
「はい。――ん、ていうか、やっぱり?」
くすくす。
受話器から忍び笑いが漏れ出た。
『如月先生が締切前に逃げたり言い訳を並べたりっていうのはしょっちゅうだから。今回もそうだろうなって。特に世間はGWだし、あの人がやる気を出して書いてるなんて、そんな楽観的な意見を持っていられるわけないわ。担当編集者としてはね』
「えーと、ごめんなさい」
どう反応していいものやら、夏茄はとりあえず謝った。
くすくす。
すると、やはりおかしそうな声が聞こえてきた。
『大丈夫よ。実は今回の締切、5月中旬でいいの』
「え?」
『如月先生には内緒よ? 毎回締切ギリギリか、時にはちょっと過ぎるから、去年くらいから締切ちょっと早くして伝えてるの。つまり、GW中に仕上がらなくてもシーズン出版的には問題ないんだ。だから、夏茄ちゃんが気に病むことはないのよ?』
突然の情報開示に夏茄は苦笑せざるを得なかった。
毎回締切前に苦心している叔父の姿を思い浮かべると気の毒にも思えたが、自業自得ではあるので弁護する気にもならない。
寧ろ、叔父のために色々と工夫せざるを得ない弥生に、同情的な共感を覚えた。
「叔父さんがバカなせいでいつもすみません。実は叔父さん、締切が嫌で家出中なんです。といっても、叔父さん何だかんだで真面目だから、ある程度目処はついた状態で家出したと思うんです。戻ってきたら残りもなるべく早く仕上げさせますから」
『そうね。お願い。如月先生、夏茄ちゃんにせっつかれると筆が進むらしいから』
「はい」
素直に返事し、夏茄は微笑んだ。
『それじゃあGW明けの5月6日にまた電話します。如月先生が戻ってらしたら、あんまり締切守らないでいると仕事減らしますよって伝えておいて。勿論、本当の締切についてはオフレコでね』
「わ、わかりました。伝えておきます」
「お願い。じゃあ、これで失礼します」
がちゃ。
受話器から通話が切れた音が響き、それから、夏茄はゆっくりと電話を置いた。
嫌な伝言を頼まれたなぁ、と苦笑を禁じ得なかった。
その頃、長篠冬流は某所で道後温泉という名湯につかっていた。
「ふぅ。いい湯だぜ。締切なんてないさ♪ 締切なんて嘘さ♪ 寝ぼけた人が見間違えたのさ♪ ってな」
「それいうならオバケだよ、おじちゃん」
妙な歌を口ずさんでいると、近くで湯につかっていた男児が言った。
「そうだったか? 坊主は物知りだなー。何歳だ?」
「6さい!」
指を5本立て、男児は笑顔を浮かべた。構ってもらえてうれしいらしい。
冬流はがしがしと男児の頭をなで、
「はは、元気だな。いいこった」
「うん!」
編集者の腹算用や姪御の気苦労などつゆ知らず、家出先での交流を楽しんでいた。
なんともお気楽なものである。