5月5日。とある邸の1部屋にて、少女3名がダラダラしていた。
「40‐15」
液晶テレビから聞こえてきたのは、英語でのカウントであった。画面にも同様に40‐15と書かれている。
長篠夏茄(ながしのかな)はその数字を眺めながら、目の前に置かれているコップを手に取った。しゅわしゅわと気泡を発す液体は甘くておいしい。
ぶんっ。
と、その時、液晶画面の前に立っている2名のうち1名が、腕を大きく振るった。手には細長い物体を持っている。リモートコントローラーの一種である。
ぶんっ。
続けて、もう1名が横薙ぎに同じ形状のコントローラーを振った。
それに伴い、液晶画面内ではキャラクターがテニスラケットを振るい、球を勢いよく打っている。
ぶんっ!
相手は更に打ち返す。先ほどよりも強めの球が放たれ――
ぶんっ。
「あ、あれー?!」
少女は見事に空振りした。手にしているリモートコントローラーを顔の高さまで持っていき、睨みつけている。しかし当然、コントローラーのせいでは決してない。
「ゲームセットウォンバイおーり」
テレビ画面からは、女性の声でそのように流れ出た。おーりこと深咲桜莉(みさきおうり)の勝利である。
敗北した黒輝雪歌(くろきせつか)は、はあぁあと深いため息をついた。
ちなみに、既にお分かりかとは存じ上げるが、テレビゲームの真っ最中であった。みんテニというWoo専用ゲームである。
「7−2って…… 雪歌、弱すぎじゃない? 雪歌のゲームでしょ?」
ここは黒輝邸であり、雪歌の部屋だ。ゲームの所有者は当然、雪歌である。
「だってぇ。みんテニなんて普段やらないもん。それに桜莉ちゃん強すぎ」
「普通だって。じゃ次は夏茄と雪歌でビリ決定戦」
夏茄は既に桜莉に敗れていた。
「はぁい」
夏茄は素直に返事して立ち上がる。そうしながら、彼女は目ざとくも興味深いゲームソフトの存在に気付いた。
ゲームソフトフォルダともいうべき箇所に納まっているものの1つに「なりきりブリーダー」というものがあった。
「ねね、雪歌。これは?」
「え? ああ、犬を飼って育てるゲームだよ。盲導犬とか警察犬みたいな職業犬を育てるモードと、普通に飼って楽しむモードとがあるの。可愛さだけが売りで、ゲームとして楽しいかどうかと聞かれると微妙だと思うよ」
「――やりたい」
言い切った。話を聞いていたのかと問い質したくなる。
「相変わらずの動物好きねー」
小学生からの付き合いの桜莉がため息交じりに言った。
雪歌は興味深そうに夏茄を見つめる。
「わぁ。やっぱ如月先生の姪御さんなんだぁ」
嬉しそうに言った。
ちなみに雪歌の言う如月先生とは如月睦月(きさらぎむつき)のことで、夏茄の叔父、長篠冬流(とうる)のペンネームである。冬流は児童文学作家なのだ。
「え、何が『やっぱり』?」
尋ねられると、雪歌はとことこと部屋の右奥、窓際にある勉強机の脇の本棚へ向かった。そして、1冊の雑誌を手に取る。
「これだったかな? あ、うん。やっぱこれだ」
ぱらぱら。
ページをめくり、雪歌は目的のものを見つけた。
すぅ。
「中略。犬猫は世間一般で可愛いとされる。さほど間違ってはいまい。けれど、大騒ぎするほどかというと否だろう。この理屈は残念ながらうちの姪御には通用しないのだが」
朗読を始めた雪歌。
夏茄は非常に嫌な予感がした。
「猫とみれば追いかけ、犬とみれば追いかけ、鳥とみれば追いかける。事故にあわないか心配で仕方がない。無邪気に追いかける姿が可愛いと家族内でも近所でも評判だが、危ないことには変わりない。私だって無邪気に動物を愛でる姪御は超可愛いと思うが、危険は取り除かねばなるまい。きちんと指導しなければ」
朗読を続ける雪歌。
夏茄は嫌な予感しか覚え得ない。というか、もはや予感ではない。嫌な事実だ。
「話は変わるが、我が家の隣では犬を飼っている。赤い屋根の犬小屋には黒いパグが住んでいる。世間でいうところのぶさ可愛いという類の駄犬だ。しかし、姪御はその駄犬もまたお気に入りなのだ。それでいて、駄犬は私を嫌っているようで、近寄るだけで泣きわめく」
笑顔で読む雪歌。
桜莉もまたにやにやと鬱陶しい笑みを浮かべている。
夏茄は顔が熱くなるのを感じた。
「当然、姪御と共にパグの近くを通ると、パグは私と一緒に姪御へも吠える。姪御はそれが非常にショックなようだ。ある日、半べそをかきながら言った。もう睦月ちゃんと一緒に歩きたくない〜。……くっ無念千万。おのれパグ」
ぷるぷる。
腹を押さえ、桜莉は笑いをこらえて震えている。
一方で、雪歌は非常に嬉しそうに夏茄につめよる。
「ねね、これ何歳くらい?」
「え、そんなの覚えてないって。とゆーか、忘れたい黒歴史とゆーか、叔父さん何してくれてんだこの野郎とゆーか」
叔父がエッセイで自分のことを書いていたことが多々あることは知っていた。事実、いくつかは夏茄自身読んでいる。
しかし、ここまで聞いていて恥ずかしいのは終ぞ読んだことがなかった。
「えー、でもわたし、これ見て如月先生と姪御さんのファンになったんだよ。可愛いんだもん。ちなみに、これみたいに『うちの姪御超可愛い』ってゆーテンションのエッセイは如月先生ファンの間では人気の高いエッセイシリーズでね。総じて『叔父バカシリーズ』って呼ばれてるの」
ぶふぅっ!
必死で笑いを噛みしめていた少女は、ついに耐えられなくなった。
「あっはっはっははははは! お、おな、お腹いた……っ!」
ひーひーと苦しそうに息をしつつ、桜莉は笑い続けている。
そんな彼女をきょとんとした表情でみつめている雪歌に、悪気は一切ないよう。
夏茄はやり場のない怒りを――遠くでGWを満喫しているであろう叔父へぶつけようと決心した。
わんわんわんわんわんっ!
夏茄が17時頃に帰宅すると、お隣のパグ――ウィンくんが盛んに吠えていた。そろそろいい年ではあるのだが、未だ落ち着く気配はない。
(……もしかして)
「おいおいウィン。いい加減慣れてくれよ。何年の付き合いだよ」
「叔父さん!」
ウィンに目線を合わせてしゃがみ込んでいたのは、長篠冬流であった。両手に紙袋を大量に下げている。
彼は夏茄を瞳に入れ、人懐こい笑みを浮かべた。
「おー夏茄。元気だったかー?」
ばしっ!
問いに応えず、夏茄は冬流を叩いた。頭を平手で。
「……なにをする?」
「いろいろ溜まってるの。締切とか叔父バカシリーズとかで心労が。あ、ウィン。やっほ」
わん!
ウィンが元気よく応えた。ここ数年で、夏茄と冬流が一緒にいても、冬流にのみ吠えるという分別はつけていた。
「心労なら俺も溜まってるぞ。3日遅れだが短編仕上げたからな。旅先でノートPCいじるとか、あーだりー」
「あんま締切破ると仕事減らすって四季(しき)さん、言ってたよ?」
3日前に電話口で聞いた事実を開示する。しかし、叔父は気にした風もない。
「へいへい。弥生(やよい)の脅しなんていつものことだし気にしてらんね。さて、とっとと家入ろうぜ。疲れたー」
はぁ。
反省した風もない叔父に、姪御は思わずため息をついた。
「まったくもぉ…… 次は締切守りなよ」
「へーい」
適当すぎる返事がまた不安を誘った。
「ふぅ。あ、そだ」
再度ため息をついてから、夏茄はとたとたと小走りで長篠家の玄関口へ向かう。
がちゃ。
扉を開けると、半身を中へ滑り込ませた。そうしながら彼女は――
にこり。
「おかえりなさい、叔父さん。ちまきと兜と菖蒲湯、あとこいのぼりも用意できてるよ。今日、叔父さんの日だもんね」
端午の節句。俗にいうこどもの日だ。
「誰がこどもだっつーの…… ふぅ。ま、いいか」
にやり。
「ただいま」
2者は微笑みあう。そして、玄関をくぐった。
ばたんっ。
世間に喜びを満たした黄金の日々。その時がいよいよ終りゆく。