「あー、お前ら、明日から3連休、更に言えば来週が終われば夏休みだが、羽目外すんじゃねーぞー。えーと、何だっけ? ああそうそう」
夏休みを迎える前にある3連休前日、帰りの会でのこと。天ヶ原女子中学校2年1組の担任、岩瀬奈那海(いわせななみ)は気だるそうに頬杖をつき、言った。連絡事項をしっかりと記憶していなかったようで、職員会議で配られたプリントをガサゴソと取り出している。ちなみにそのプリントはくしゃくしゃのボロボロになっており、彼女のいい加減な性格がよく窺える。
「海や山、川、プールなどで遊ぶ際、遠出、近場の如何にかかわらず保護者同伴で行くこと。学生だけで出かけたことが発覚した場合、夏休み中、掃除のために週三で登校することを義務付ける、だとよ。まー気をつけろ」
『えええぇええー!』
教室中から不満げな声が上がった。
それも当然だろうと考え、奈那海は嘆息する。不満が出ない道理はない。
しかし、物騒なご時世、思考のまともな教師勢が無駄と思える程に敏感になるのもまた仕方のないことだ。生徒が事件に巻き込まれてからでは遅い、と考える常識人の意見を一笑に付すことなど出来ない世情なのだから。
「なみちゃん、ひどーい!」
「この年で保護者同伴なんてあり得なくなーい?」
ぶーぶーと不満を垂れる若者。
奈那海は申しわけなく思いながらも……
「三十路ー!」
「いかず後家ー!」
ぶちっ。
「やっかましいわ糞ガキどもがあっ! てめえら、私が見つけたら掃除に加えて宿題2倍にしたるから覚悟しとけよ、あぁあ!?」
若者の無謀で向う見ずな発言に、キレた。教師も人間。夏の暑さでイライラしていたのだろう。加えて言えば、彼女は今年で29歳であり、辛うじて三十路ではないという微妙な年齢である。そのこともまた、イラつきを助長した一因かと推測できる。
しーん。
夏の風物詩たる蝉さえ黙り、重苦しい沈黙が場を支配した。
帰りの会が終わり、放課後。2年1組の教室にはまばらに生徒が残っていた。
その中の1グループ。長篠夏茄(ながしのかな)、深咲桜莉(みさきおうり)、黒輝雪歌(くろきせつか)の3人組は、揃ってため息をついていた。
「ふぅ。どうしよっか、18日の海行き。電車で20分だから私達だけで行こうと思ってたけど……」
「近場だし絶対、先生が見張りでいるよねー。わたしんちはめんどくさがって連れてってくんないと思う」
「うちのパパとママは、18日は2人で出かけるって言ってた。夏茄ちゃんちは?」
雪歌に問われると、夏茄はうーんと考え込む。
父親たる長篠秋良(あきら)はこのところお疲れだ。仕事が忙しいらしい。
母親たる長篠春風(はるか)はたいてい暇をしている。行ける確率が高いだろう。
しかし、どうせならば荷物持ち的な意味で男手があった方がよいやもしれない。
「じゃー、叔父さんに頼んでみるよ」
「……叔父コン」
「うっさい」
ジト目で言った桜莉に、夏茄はイラっとした様子で端的に返した。
一方――
「き、如月(きさらぎ)先生?! ど、どうしよー! もっと可愛い水着を買いに――」
『行かなくていいから』
長篠冬流(とうる)こと、児童文学作家如月睦月(むつき)の熱烈なファンのおかしな暴走に、ごく普通な女学生2名は冷静に突っ込んだ。
18日。ハッピーマンデーにより前へずれ込んだ海の日。駅前には3名の女子中学生と、態度の悪い男性が1名いた。
男性は不機嫌そうな顔つきで、女学生の1人を睨みつけている。
「よお、桜莉。元気そうで何よりだ。俺が丹精込めて作った藁人形と五寸釘の効果でそろそろ入院する頃かと思ってたんだがな」
「お陰様で病気になることもなく健康優良児ですわ、おじ様。ひと回りも若い女学生にその態度、相変わらず大人げないですね」
「へっ。俺のモットーは子供の目線に合わせた執筆活動でね」
「日常生活にもそのモットーを適用させるとただのバカですよ? 叔父バカだけならまだ可愛げがあると言えなくもなくもなくもないんですから、ちょっとは自重したらどうですか?」
「言うじゃねぇか。くっくっくっくっ」
「いえいえ、それ程でも。ふっふっふっふっ」
火花を散らせて睨みあう2者。
そのような彼らを瞳に映し、気合を入れた格好の女学生――雪歌が戸惑った表情を浮かべる。
「えっと…… どゆこと、夏茄ちゃん?」
「あー。叔父さんと桜莉、少しだけ仲悪いのよ。叔父さん曰く、私が可愛くなくなったのは桜莉のせいだとか何とか」
「ふんっ。いつまでも叔父さんと結婚するとか言ってたらただのバカじゃん? そんな夏茄に現実を教えてあげただけよ」
夏茄の言葉を受け、桜莉が言った。
すると、冬流は拳を握りしめ、怒りを顕わにする。
「本っ当に余計なことをしてくれたぜ! こいつがいなければ夏茄は今でもパタパタと俺の後ろをついて回り、可愛い発言をしまくる可愛い可愛い天使だっただろうに……!」
「帰っていいよ、叔父さん」
にっこり。
眩い笑顔で言い切った夏茄。
「ま、まあまあ、夏茄ちゃん。これぞ如月先生!って感じで素敵じゃない。あたしも可愛い天使な夏茄ちゃん見たかったなー」
「裏を返すと今の私は可愛くない、と?」
「え、あ、いや、そんなことないよー。えへ」
夏茄の問いかけに、雪歌は慌てた様子で両の手を懸命に振った。そうしながら、微笑む。
そのような少女達のやり取りを目にし、冬流はふと雪歌の存在に気付く。天敵桜莉に意識を奪われ、3人目の存在を失念していた。
「ああ、君が黒輝雪歌ちゃんか? 俺は夏茄の叔父の長篠冬流だ。夏茄がいつも世話になってる。ありがとうな」
「は、はい! あ、あの、申し遅れました。あたし、黒輝雪歌です。雪歌と呼んでください、如月先生!」
にぱっ。
満面の笑みを浮かべ、頬を赤らめ、雪歌が言った。
「如月先生は止めてくれ。俺も冬流でいいよ。そうそう。雪歌ちゃんは俺の作品を読んでくれていると聞いた。ありがとう。嬉しいよ」
「いえこちらこそ! お会いできて嬉しいです、冬流さんっ! あの、後でサイン下さい! 今日は夏茄ちゃんがお隣のワンちゃんと戯れて泥んこになったっていうお話の載った雑誌を持ってきたんです! 是非それに!」
「おー、いーぞー。あの時の夏茄は可愛かったなー。ついでに当時のことを詳しく話してあげよう」
「お、お願いします!」
夏の日差しの元、戯れる29歳と14歳。
取り残された2名はそれぞれ、ため息をついた。
「どーよ、叔父コン。嫉妬に狂って鬼と化す?」
「それはない。つか、一度叔父さんのエッセイの棚卸しよう。そして場合によっては説教だわ」
電車に揺られて十数分。車窓からは輝く水面を一望できた。
「おー、海だー! これぞ夏、って感じだよなー! セドナとかいねーかなー! シーサーペントもいいなー! いや、日本だし、ここは舟幽霊かっ!? 底を抜いた柄杓を用意せねば!!」
「叔父さん。あんまりはしゃがない。恥ずかしいなーもう」
窓にかじりつき大きな声で騒ぐ29歳児を横目に、14歳の姪御が呆れた表情を携えて言った。
明らかに立場が逆である。
「……相変わらずのガキっぷり。ねえ、雪歌。さすがに目ぇ覚めたんじゃ――」
「わー。あーゆー子供っぽいところも『如月先生』って感じで素敵。あたしもセントエルモの火とか見てみたい。ふふ。ん? 何か言った? 桜莉ちゃん」
純真な瞳を携えて尋ねる友人を瞳に映し、深咲桜莉は深いため息をついた。
「……………ナンデモナイ。海、楽しみね」
「? そだね」
太陽の強い日差しに照らされながら冬流は、心地よく吹く潮風の香りに思わず瞳を細めた。彼は適度に人がごった返している砂浜を見回し、比較的すいている箇所にビーチパラソルを立て始める。
そうしているうちに彼の連れ3人娘が小走りでやってきた。
「叔父さん。お待たせー」
「お勤めご苦労。では、あっちで焼きそばを買ってこい。そして帰りの時間まで姿見せんな」
空色のワンピースに身を包んだ夏茄、紺色の競泳水着に身を包んだ桜莉がそれぞれ言った。
冬流はこめかみに青筋を立てて腕を組む。
「まだ飯時じゃねぇよ。太るぞ」
「乙女に対して言っていいことと悪いことがあるってなぜ分からないのかしら、おじ様」
「誰が乙女なんだ? 誰が?」
再び睨みあう少女と三十路まじかの男。
姪御は本日何度目になるか分からないため息をつく。
「ふぅ。いい加減にしなよ、2人とも。まったく…… 呆れちゃうよねー、雪歌」
「えっと、その、あたし達と同じ目線で相手してくれて、素晴らしいことだと思うよ」
恥ずかしそうに頬を染め、雪歌が言った。彼女の身を包むのはピンクのチェック柄のビキニ。フリルがふんだんに装飾され、可愛らしいと評するに遜色ないデザインだ。
(……この前買ったって言ってたやつと明らかに違うし。本気で水着買い替えた、この娘)
夏茄は呆れた瞳で桃色の水着を検分してから、叔父をちらりと見やる。
彼女の叔父は、彼女の友人と騒がしい言い合いを続けている。彼の関心は女子中学生の水着には向かないらしい。ちょっとは注意を向けろと怒るべきか、ほっとひと息つくべきか。
「てめぇが乙女なら、うちの夏茄は世界で一番お姫様だ! 同じ土台に立つことすら出来ねぇよ! 月とスッポンどころか宇宙とサナダムシだ!」
「身内びいきもそこまで行くと清々しいわね! 言っとくけどね! 夏茄よりもわたしの方がスタイルいいし! 夏茄はその筋にしか受けない幼児体型なんだから!」
「お、女の価値はスタイルじゃねぇ! 日本人はロリコンが多いんだよ! 貧乳の方が受けるんだっ!」
何やらおかしな様相を呈しはじめた言い合い。
「あんたら、まとめてしめる」
にこり。
素敵な笑顔の姪御がのたまった。
ざっ!
両足で砂浜を踏みしめ、雪歌はきっと上を見つめる。そして、ふわりと落ちてくる球体を捉えた。
「えいっ! 夏茄ちゃん!」
下段で構えた両腕がビーチボールを弾いた。ぽんと音が響き、ボールが宙を舞う。
「よし来た! 叔父さん!」
ぱんっ。
「おうよ! 行っくぞおぉお! 桜おおぉお莉いいぃいい!!」
ばんっ!
平素と違う大きな音が響いた。冬流が力いっぱいビーチボールを弾いたことによって。
ボールは急スピードで桜莉へ向かい――
「甘いっ!」
ぽんっ!
向かってくるボールの正面に素早く回り込み、桜莉は難なくレシーブした。ふわりと浮いたビーチボール。
「夏茄! 上げて!」
「おっけ! えい!」
緩やかなトスを桜莉に飛ばす夏茄。
そして――
「喰らえええぇええっっ!!」
ばあぁあんっ!
盛大なスパイクが空間を翔けぬける。空気を切り裂き、ボールは寸の間も置かずに冬流の顔面へと至った。
ばんっ!
「いってええぇえ!」
「いえーい! ナイストス、夏茄」
「桜莉こそナイススパイク」
ぱんっ。
ハイタッチする夏茄と桜莉。
そんな友人たちと、痛がっている冬流をオロオロと見つめる雪歌。
「あ、その、大丈夫ですか?」
「な、なんとかな…… お前らなぁ」
怒り顔を携え、冬流は姪御とその友人を睨みつける。
「何よ。あんたが先に、か弱いわたしに剛速球よこしてくれたんでしょ」
「うんうん。桜莉がか弱いかはともかく、叔父さんが悪い」
桜莉のみならず夏茄までも敵に回ると、冬流はバツが悪そうに頭を掻いた。
その時――
「こらあ! お前ら! 子供だけで来んなっつったろーがっ!」
「あ、岩瀬先生」
黒ビキニに身を包んだ岩瀬奈那海が現れた。
夏茄は叔父をちらりと見てから、苦笑いを浮かべる。
「あの、先生。こちら、私の叔父です。なので私達だけで来てるわけじゃ……」
その言葉を受け、奈那海は冬流に視線を向ける。そうしてから再度口を開いた。
「これは大きな子供だろうが! 意味がない! まともな大人を連れてこい!」
言い得て妙なことをのたまった。
それに対し、冬流は頭を抱えて苦々しく言葉を紡ぐ。
「あのなぁ、岩瀬。喧嘩売ってんのか?」
「正当な評価だろ、長篠。お前がまともな大人だなどと、どんな楽観主義者でも言わん」
「岩瀬妹といいお前といい、お前ら双子はムカつくことこの上ないな」
言って、深いため息を吐く冬流。
その様子を瞳に映し、中学生3名は首を傾げる。
「叔父さん、先生と知り合いなの?」
「ん、ああ。岩瀬とは小中高の同級生だ。たまにクラスが一緒だった。双子の妹の奈那子(ななこ)もな」
へえぇえ、と感心する14歳3名。
その一方で、29歳2名は険悪な雰囲気で睨みあう。
「うちの生徒を3人もはべらして海水浴とは、良いご身分だな。ロリコン作家」
「ふざけた職種作ってんじゃねぇよ。いかず後家教師」
「沈めるぞ」
「やってみろ」
ばちばちばちばち。
火花を散らす作家と教師。
「……叔父さんって、色んな人と相性悪いね」
「性格悪いからじゃない?」
「先生、スタイルいいなぁ。冬流さん、ああいうのがいいのかなぁ」
中学生3名。うち1名だけ、ずれた感想を口にした。
午後3時。そろそろ遊び疲れ、年かさのいった29歳児がいち早く音を上げた。
「も、もう休もう。さすがにきつい」
「流石、頭脳は子供、体は大人だね。精神に体力が追いつかない、と」
肩を竦めて言った夏茄を、冬流はひと睨み。しかし、余力がないのだろう。それだけに留まり、肩を落とした。
「お若い方々には敵わんよ。つーか、そろそろ帰らねぇか? いい時間だぞ」
「えー。まだ早いっしょ! もうちょっと泳ぎたい!」
不満げに頬をふくらましたのは桜莉のみだった。夏茄と雪歌は、帰ることには反対のようだが、さらに体力を浪費する気はなさそうだ。
「ならあと1時間な。午後4時になったら帰る準備。それでいいか?」
「……まぁいいでしょ。まったく、これだから三十路は」
ぶつぶつとこぼしつつ、桜莉は1人で海へ入っていく。そして、気持ちよさそうに泳ぎだした。
「桜莉ちゃん、元気ぃ。さすがに泳ぐ元気までは残ってないなぁ。あとは日光浴、かな」
「だよなぁ。雪歌ちゃんとは気が合いそうだ」
何気なく冬流が零した。
それに対し、雪歌は嬉しそうに微笑む。
むっ。
なぜか面白くない夏茄。
「叔父さん!」
「ああ? 何だ?」
姪御は叔父の注意を取りあえず自分に向ける。そうしてから、話題を探す。
「あのー。あれよ。えーと…… そうそう! さっき気になったんだけど、岩瀬先生って双子なの?」
「んー。ああ、そうだぞ。一卵性で瓜二つなんだ。性格は全く違うがな」
そう口にしながら、冬流はペットボトルの蓋をあける。ぷしゅーっと炭酸の抜ける音が漏れた。
「妹の岩瀬奈那子は真面目過ぎる程に真面目。堅物すぎて鬱陶しいタイプだ。今は確か、龍ヶ崎中学で数学教師をしているはずだ」
「へー。双子で教師なんですか。漫画とか小説みたい」
何やら嬉しそうに言う雪歌。
冬流もまた嬉しそうに頷く。
「岩瀬姉妹のリアル双子は正直うざいが、創作上での双子設定は結構いいポイントだよな。俺も自作品で何度か双子を出してるが、書いてて楽しい」
「双子といえば、三大陸幻想譚シリーズのリバルディー兄弟ですね! 気弱な兄としっかりものの弟というちぐはぐな関係が素敵だと思います!」
「あの2人は俺もお気に入りだ。最近はストーリー上出せない巻が続いてるが、そろそろ出したいと思ってるところなんだよ」
「あたし、あの2人大好きなんです! 出てきてくれたら寝る暇惜しんで読んじゃいます!」
顔を寄せ合い楽しそうに語り合う2者。
夏茄は激しく置いて行かれた感を覚えていた。そして、楽しそうに笑う叔父を瞳に映し、歯ぎしりをする。
(な、何よー! そりゃあ私は叔父さんの小説、そんなに熱心に読んでないし、雪歌と比べれば語り合う資格なんて皆無かもしれないけどさ!)
ぷくぅ。
頬を膨らませ、姪御は叔父を睨む。
しかし、当の叔父は女学生との話に夢中で気付かない。楽しげに、創作話に華を咲かせた。
軽い空気と重い空気の協奏曲に、行き交う民草が首を傾げた午後だった。
ガタンゴトン。ガタンゴトン。
ローカル線の鈍行車に揺られ、長篠冬流以下4名は帰路についていた。
ふわあ。
小さく欠伸をし、桜莉がぐったりと座席にもたれかかった。
「あー泳いだ泳いだ。気持ちよかったー。これで、殺人的な日差しと気温がなければ言うことないのに。車中のクーラー最高」
「本当に。駅から家に着くまでの時間が憂鬱」
「だねー」
こてん。
桜莉と夏茄、雪歌が雑談している中、電車の揺れに伴って傾く影があった。
ぐーぐー。
冬流だった。夏茄の肩に頭を乗せ、気持ちよさそうに寝息を立てている。
「あーあ。年甲斐もなくはしゃぐから」
「29歳児」
呆れた声を出す2名。
その一方で――
「えへへ。可愛いなー」
頬を桜色に染め、呟く少女が1名。
………………………………………………………
長い沈黙。
そんな中、少女が1人、ニコニコと微笑む。その視線の先にはすやすやと眠る29歳児。
(お、叔父さんの実態を知れば幻滅すると思ったのに……)
ぽん。
「落ち着け、叔父コン」
「ワタシハオチツイテルヨ」
桜莉が手を置いた肩は震え、目は激しく泳いでいた。