ここは日本のどこかにある龍ヶ崎町。秋の涼しい風が通りを駆け抜ける中、ひとりの男性が近所の喫茶店の袋を片手にぶらぶらと歩いていた。袋の中には、喫茶店のマスターが手作りしたパンが各種入っている。
男性の名は長篠冬流(ながしのとうる)。如月睦月(きさらぎむつき)という筆名で児童文学を執筆している作家界の末席である。行きつけの喫茶店で執筆活動にいそしんだのち、家族へのお土産を購入して帰路についているところであった。
お土産のうちわけは、カレーパン、バタークロワッサン、アップルパイ、チョコクロワッサンの4種である。
冬流の兄、秋良(あきら)にはカレーパンを、義姉、春風(はるか)にはバタークロワッサンを、姪、夏茄(かな)にはアップルパイを、そして自分にはチョコクロワッサンを、というのが冬流の構想である。
チョコクロワッサンを頬張る瞬間を心待ちにしつつ、冬流は家路を急いだ。
「私、チョコクロワッサンがいい」
お土産を目にした際の姪御の第1声であった。
ちっ。
冬流は舌打ちした。予想外……とは言わないが、望まない展開に眉をしかめた。
「叔父さん、感じ悪っ」
「気にすんな。つーか夏茄。チョコクロワッサンは俺のだ」
宣告すると、夏茄は不満げに声をあげる。
「えー。横暴じゃない?」
ぶーぶーと不平不満を口にする姪を瞳に映し、冬流は嘆息する。一方で、少し楽しそうに口の端を上げる。
最近の姪御はどうにも大人びた思考をしており、今回のように子供じみた反応をするのを珍しいことだった。
(ふむ。折角だ)
冬流は悪戯っぽい笑みを浮かべ、口を開く。
「今日は体育の日。というわけで――」
「まあいいや。なら私はアップルパイにしよ」
冬流の言葉に被さって、夏茄は聞き分けよくチョコクロワッサンを諦めた。さっとアップルパイに手を伸ばす。
その手が目標物に届こうかというその時――
「チョコクロワッサンを賭けて、100メートル走で勝負だあぁああ!」
寧ろ『構って欲しい』という理由で声を張り上げ、姪を指さす叔父。
姪御は呆れた視線を叔父に向け、深くため息をついた。
「めんどくさ」
近所にある大きめの公園には、中学高校の陸上競技大会で使用するトラックがある。冬流と夏茄はそこへ移動し、軽く準備体操をしていた。
「まったく。いいって言ってるのに、なんでわざわざ不利な勝負するかなー」
「言っとけ。俺の俊足に驚くなよ」
屈伸をしながら冬流が言う。
夏茄はそのような叔父に諦めたような瞳を向けつつ、腰ポケットから髪留めのゴムを取り出した。うなじの辺りで髪を1つにまとめる。
「よしっと。じゃあ叔父さんがスタートタイミング決めていいよ」
夏茄の言葉に、冬流は眉をしかめる。
「なめてるな。その余裕、後悔することになるぞ」
「めんどくさい台詞。いいからさっさと済ませてさっさと帰ろ」
ちっ。
舌打ちをして、トラックのスタートラインに立つ冬流。ようよう腰をかがめ、クラウチングスタートの体勢に入る。
夏茄もまた冬流にならい――
「よーいドン!!」
冬流の突然の言葉を契機に、2名は駆けだした。
風に乗る2名。そよそよと吹く秋風を切って、ゴール地点を懸命に目指す。
先行するのは――冬流だった。
(は、速い。叔父さんって運動できないイメージだったのに)
未だ前半とはいえ、冬流と夏茄の差は広がっているのが明かであった。夏茄の視線の先を、冬流が軽快に足を動かしている。
(このままじゃまずい……!)
別段勝ちたくはないとはいえ、このままあっさり負けるのは悔しかった。夏茄はスピードを上げる。
しかしそれでも、冬流との差は縮まらなかった。それどころか、先程よりもマシとはいえ、相変わらず差が広がっていく。
(だ、駄目。このままじゃ……)
たったったったったっ!
足音が響く中、夏茄は絶望的な未来を思い描いて、暗澹としていた。
1分後、100メートル走のゴール地点では叔父と姪が肩で息をしていた。特に冬流の疲労具合が顕著であった。
さて、先程の勝負の結果がどうであったのかというと――
「……ふぅ。叔父さん。体、鍛えなよ」
「ぜぇぜぇぜぇ…… はぁはぁ…… う、うる――げほげほげほっ!」
50メートル以降急激に失速し、最終的に大差をつけられて負けた叔父上殿は、何も言葉として発すること能わず、激しく咳き込んだ。
当然の如く、チョコクロワッサンは姪御のお腹に収まったという。