如月睦月(きさらぎむつき)という筆名の児童文学作家、長篠冬流(ながしのとうる)の自室には、常ならざる光景が繰り広げられていた。部屋の主たる冬流が机に向かい、一心不乱にノートPCのキーボードを打鍵しているのである。
仮にこれが原稿の締切直前だというならば、先ほどの記述は撤回せねばならない。そうであったなら、これは常なる光景である。
しかし、事実はそうではない。中編の締切が11月30日に迫ってはいるが、直前という程ではない。勿論、中編締切が1週間後というのは、人によっては焦る状況なのは確かだが、冬流に限って言えばその程度は日常茶飯事。まだまだノートPCと顔をつきあわせて瞳を酷使する時期には達していないのだ。
にもかかわらず、彼が仕事に精を出しているのにはわけがある。水たまりよりも浅いわけが。
その朝。勤労感謝の日――祝日ということで冬流の兄である秋良(あきら)も、姪である夏茄(かな)も、当然、主婦の春風(はるか)も家にいた。秋良と春風は居間でお茶を飲み、夏茄は自室で何かをしているようだった。そして冬流は、その時はまだ居間でテレビジョンを観覧していた。
がちゃ。
しばらく経った頃、居間の扉が開け放たれた。夏茄が姿を現す。腕には何やら包みが収まっている。
「お父さん。お母さん。ちょっといい?」
呼びかけられ、秋良と春風が扉の方へと振り返る。一方で冬流は、横目でちらりと見るだけで、直ぐさまテレビ番組に意識を戻した。
「どうした? 夏茄」
「お昼ご飯はまだよ」
夏茄はすたすたと父母が座るソファへ近づき、徐に腕を突き出す。握られている包みと共に。
「えっと、今日は勤労感謝の日とゆーことで――はい。いつもお疲れ様。ありがとうございます」
『え』
目を丸くする夫婦。娘の顔を瞳に入れ、うっすらと涙ぐむ。
と、その時――
「ちょおおおおぉおおおぉおぉおっっと待てええええええええぇえええええぇえええぇええええええっっ!!」
叔父が叫んだ。
優しさに満ちた空気は吹き飛び、秋良と春風の美しき雫はすっと引っ込んだ。
「……なぁに、叔父さん。空気読んでよ」
嘆息し、呆れ気味に夏茄が言う。
「俺はッ!? 大好きな叔父様への感謝はないのかッッ!!??」
勤労せずにダラダラとテレビジョンを観覧していた怠け者がのたまった。
夏茄はにっこりと微笑む。
「ない」
「ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉおおおおぉおおおぉおぉおおおおおおッッッッッ!!!!!」
涙ちょちょ切らせながら自室へ駆け込む長篠冬流であった。
そして現在に至る。
担当編集者四季弥生(しきやよい)を困らせるのみであれば締切なぞなんのその、というスタンスの冬流であったが、大事な姪御に勤労者と認められず感謝もされないという扱いを受けたらば、流石に堪えたらしい。
かちかちかちかちかちかちかちかち!
冬流のノートPCはいつになく激しく叩かれている。痛い痛いと悲鳴を上げそうである。
そのように常ならざる音が響く部屋の外では、扉に耳を押しつけている夏茄がいた。しばらくはキーボードの悲鳴に耳を傾けていた。
ふぅ。
そこで小さく息をつく。なぜいつもこうできないのだろうか、と。
そして――
(ただの冗談だったんだけどね)
徐に右手を持ち上げると、そこには父母に渡したものと似通った包みがあった。冬流へ渡そうとしていた感謝の印である。そろそろ種明かしをして渡そうかとやって来たのだった。
しかし、そこで夏茄は苦笑して踵を返す。
(今回の原稿書き上げてから渡そ。今渡しちゃったらまた直前まで書かないだろーし)
すたすたすた。
廊下を歩く足音と共に、打鍵の音がかちかちと響く。
その週の日曜日、吉報を受けたシーズン出版の編集者四季弥生は、担当している作家如月睦月の言葉を全く信じず、小1時間ほど電話口で疑い続けたという。