いつもの下校風景。そこに今、異分子が這入り込む。
ぽんっ。
某かの手が長篠夏茄(ながしのかな)の右肩を叩いた。初め夏茄は、友人の手だとろうと考えた。しかし、彼女の友人は2人とも左隣を歩いている。その状態で右肩を叩くのは物理的に不可能だ。
つまりは、そこに居るだろう者は全くの赤の他人ということになる。このご時世、あまり好意的に受け取るのも危険だろう。なれば、力弱き婦女子の取る行動はひとつ。
「きゃ――むぐっ」
叫ぼうとした夏茄の口が素早くふさがれた。
直ぐ隣を歩く友人たちは当然気づく。夏茄に瞳を向け――
「まったく…… 何、叫ぼうとしてんだ。身内を警察につきだしてどうする」
「冬流(とうる)さん!」
夏茄の口を塞ぐ叔父上、長篠冬流を瞳に入れ、友人黒輝雪歌(くろきせつか)が嬉しそうに声を上げた。
一方で、もう1人の友人である深咲桜莉(みさきおうり)は嫌そうに顔を顰めている。
「げ。何しにきたんよ、馬鹿叔父」
「毎度お前はむかつくな。安心しろ、お前にゃ用なぞねぇ」
と、冬流。こちらもまた心底嫌そうに言い放った。
そこで数秒間のにらみ合い。
しかし直ぐに、夏茄が息苦しさを感じて暴れ出したため、そのにらみ合いは終わりを告げた。
「ん。おぉ、悪い」
ぱっ。
冬流が手を放すと、夏茄は目つき鋭く彼に詰め寄る。
「苦しいでしょ!」
「だから悪いっつっただろ?」
悪びれた様子もなく冬流が言う。
その顔を見つめて苦笑しつつ、横から雪歌が声をかける。
「ところで冬流さん。どこか行かれるんですか?」
これまで下校途中に冬流に会ったことなどそうそうない。
「いや。そういうわけじゃないよ。雪歌ちゃんに用があってね」
「え」
突然の言葉。まったく予期していないものだった。
どのような場合でも、雪歌は『夏茄の友人』という位置づけである。冬流が雪歌自身に用があることなどまずあり得ない。
それゆえ、雪歌は盛大に挙動不審になった。
だッ!
「……なあ、夏茄。雪歌ちゃんはなぜ全力疾走で電信柱の陰に入り込んだんだ?」
「叔父さんがサプライズするからだよ」
「そうは言うが、今日という日を思えばそこまで驚くことじゃないだろ」
丁度ひと月前に、冬流は雪歌からあるものを賜った。それは、ついでのようなものではあったが、彼は義理堅くも大事な姪御の友人を訪れたのだ。
「ま、とにかく渡すもんを渡すか」
すたすた。
雪歌の居る電信柱へと向けて、冬流は足を進める。
近づいてくる彼を目にし、雪歌はオロオロと辺りを見回す。しかし、他に隠れられそうなところはない。
そして漸う、冬流が雪歌の目の前に立った。
「あ、う、その……」
「雪歌ちゃん」
意味のない言葉を吐く雪歌に、冬流は柔らかな笑みを向ける。そして――
すっ。
紙袋が差し出された。
「バレンタインの時は有り難う。お返しだよ」
「…………え?」
ぱちくり。
大きな眼を瞬かせる雪歌。そして、携帯電話を取りだした。画面に映る日付を見た。
「ああ! 3月14日!」
今さらながら、今日が一般にホワイトデーと称される日だと気づいた。
「そういうことだ。受け取ってくれるかな?」
「は、はい! ありがとうございます! 嬉しいです!」
手渡された紙袋を胸に抱き、雪歌は本当に本当に嬉しそうに笑った。
「中を見てもいいですか?」
「ああ」
許可を得ると、雪歌はさっそく紙袋に手を入れた。中にあるのは本のようであった。冬流――児童文学作家如月睦月(きさらぎむつき)のサイン本だろうか、と胸を高鳴らせる。
そして、すっと中身を取り出した。
「……ルーンカクタスの魔法使い外伝 ムーラン紀? え、こんなの出てましたか?」
如月睦月の作品をエッセイから何から全て集めている雪歌でも、今自分の手に収まっているものについては見覚えがない。戸惑うばかりであった。
彼女の疑問を受け、冬流は首を振った。
「いや。それはこの世に1冊しかないよ。今回のお返し用に自宅のプリンターで作ったんだ。流石に表紙とかは凝れなかったから、文字だけで申し訳ないがね」
確かに彼の言うとおり、表紙にはタイトルが印字されているのみで、イラストや写真はない。本屋では見かけ得ないシンプルさだった。
しかし、軽く中身を読んでみるとわかる。間違いなく、如月睦月の作品である。
「△〃〓☆‰ョ梶∂×ーーーッッ!!」
嬌声が響く。
「……………おい、夏茄。雪歌ちゃんは何と言っているんだ?」
「さあ?」
肩をすくめ、夏茄は嘆息する。桜莉も隣で苦笑していた。
「そうか。まあ、喜んでくれているようだからいいか。ああ、そうそう。お前へのお返しは家に置いてるからな。嫉妬するなよ」
「しないし」
冬流の軽口に、にべもなく即答する夏茄。彼女もひと月前、慣習としてバレンタインチョコを叔父に渡している。そのお返しだろう。
そこで夏茄は、ふと思い出した。冬流にチョコレイトを渡していた残りの2人。1人は夏茄の母である長篠春風(はるか)。もう1人は冬流の担当編集者、四季弥生(しきやよい)。
春風はまあ良いとして、弥生は3月14日のお返しを心待ちにしているはずである。なぜなら――
「今日って短編の締切でもなかったっけ? そっちは出来てるの?」
姪御が尋ねた。
「出来てるわけないだろ」
叔父が答えた。
『ホワイトデーのお返しは原稿でお願いしますね』
長篠家を訪ねてそう言っていた弥生の目は本気だった。夏茄はそのように記憶している。しかし、このザマだ。
はぁ。
思わずため息を漏らす。
ただ――
ちらり。
未だ嬌声を上げつつ、嬉しそうに本を抱いてクルクル回っている友人を瞳に入れる。
(……まあ、弥生さんには悪いけど、珍しくいい仕事をしたかな、叔父さんも)
微笑む夏茄。
その隣では……
「ああ、ついでだ。お前にものど飴をやろう、桜莉よ」
「いるかぁ! つかこれ賞味期限切れてるじゃん!」
「ちっ。ばれたか」
「確信犯か!」
「おっと。この場合に確信犯と言うのは間違いだ。そうだな。正しくは故意犯――」
「どうでもいいわ!」
……………はぁ。
(蛇足がありまくるのはアレだけど、ね)
女子中学生の嬌声と怒声と嘆息が響く、そんな冬のある日だった。