その日、長篠冬流(ながしのとうる)は朝の6時前から玄関に座り込んでいた。手には、この日のために何ヶ月も前に購入していた遮光板が握られている。
そう。本日5/21は金環日食の日であった。
冬流は珍しく早起きをして、入りの時刻より何分も前から準備していたのだ。
そうして漸う時間になった。天高き偉大な太陽はかけ始め、龍ヶ崎町の方々から感嘆の声が響き渡る。
しばらく経つと、冬流の兄である長篠秋良(あきら)や、姉である春風(はるか)、そして、姪である夏茄(かな)が顔を見せた。彼らは数分間、冬流同様に遮光板を目に当てて天を見やり、満足すると早々に引き上げていった。
隣人たる春野(はるの)ハナもまた、少しだけ外に出て、つまらなそうに空を見上げたあと、あっさりと帰って行った。飼い犬のウィンなどは、ハナが構ってくれないと分かるとさっさと眠りにつく。
一方で、冬流はいつまで経っても引き上げない。食の最大時刻である7時半付近を越え、更には8時、8時半とどんどん時間は移ろいで行く。
その間にも、秋良は出勤のために出かけ、遅れて夏茄も登校のために出かけた。家には春風のみとなり、かちゃかちゃと食器を片付ける音が聞こえてくる。
そうして漸う9時となった。食は既に終えている。
「……なぜだ……」
頭を抱え、冬流が呟いた。
そこに春風が姿を見せる。
「冬流ちゃん。朝ご飯、食べないの?」
尋ねられても、冬流は地面に瞳を落とし、絶望したままだった。
春風は首を傾げ、しかし、深くは聞かないことにした。家へと引っ込み、冬流の分の朝食にはラップをかけて、掃除機をかけ始める。10数分ほどでその作業を終え、彼女は再び玄関へ向かった。
冬流は未だ項垂れていた。
「?」
大いに疑問を覚えた春風であったが、義弟が奇妙な行動に出るのは珍しくもないゆえ、気にせずに洗い物を抱えて洗面所へ向かった。日曜日にさぼってしまったおかげで、洗い物が多くて困る。
「ただいま、叔父さん。何やってるの?」
夏茄が夕方に帰宅すると、冬流はまだ玄関口に居た。やはり項垂れている。
「……おう。おかえり」
暗い声に、夏茄は眉を潜めた。
「どうかした?」
「こんなはずじゃ…… こんなはずじゃないんだ……」
何やら呟いている。
夏茄は似たような光景を学校でも見た。級友の黒輝雪歌(くろきせつか)がやはり同じように気分を落としていた。
(なるほどね……)
ふぅ。
小さく嘆息して、夏茄は構わず玄関を潜った。
「ただいまー」
「お、おかえり、夏茄!」
慌てた様子で、ぱたぱたと玄関までやって来て出迎える春風。普段はこのような出迎えはしない。
「どしたの、お母さん」
「冬流ちゃん、見たでしょ? どうしたのかしら? 具合でも悪いのかしら?」
まなじりを下げて心配顔を浮かべる母。その様子を瞳に映し、夏茄はカラカラと笑った。
「心配ないって。たぶん、雪歌と一緒だから」
「雪歌? 黒輝さんとこの子と一緒って??」
夏茄の言葉を受けても、春風は全く分からないという風にしきりに首を傾げる。
確かに、雪歌のことをあまり知らない春風からすれば、より一層謎が深まるばかりだろう。いい加減、解を提示してあげるべきだ。
くすくすと笑い、夏茄は母を見た。
「金環日食みたいな神秘的なイベントがあれば、それによって生まれる大きな力によって異界に飛ばされて、ワクワクするような大冒険ファンタジーに巻き込まれるはず、っていうのが、ファンタジー脳な叔父さんや雪歌の意見らしいよ。ただ単に月が太陽の前を横切っただけだってのにね」
あはは、と声を上げて笑う夏茄。
はああぁあ。
玄関の外から哀しそうなため息が聞こえてきた。
ぱちくりと瞳をまたたかせ、春風は頬を押さえて視線を落とし、苦笑する。
(冬流ちゃんも冬流ちゃんだけど……)
春風がちらりと前を見ると、彼女の目の前で、彼女の娘たる夏茄が常識的な意見を口にして肩をすくめている。
(夏茄は夏茄で夢がないというか……)
ふたたび苦笑し、春風は台所へ戻る。
大冒険ファンタジーが始まろうと始まらなかろうと、日々は続いていくのだ。日常を生きる者として、ご飯は食べねばならぬ。
(今日の夕飯はまん丸のハンバーグに、まん丸お月様に見立てた目玉焼きをのっけてあげましょう。名付けて金環バーグ。冬流ちゃん、元気になってくれるといいけど)
弱冠29歳の成人男性が果たしてそれで機嫌を直すのか。それは直ぐに分かるだろう。
龍ヶ崎町の夕暮れ時を、夕飯のおいしそうな匂いが満たした。