その日、天ヶ原女子中学2年1組の教室は騒がしかった。
「違うの! 今日は世界滅亡の日っていうわけじゃないの! マヤ文明の暦で1つの区切りがつく日ってだけなの! そりゃあ、世界が滅ぶなんて素敵な響きだけど……」
「……えーと、素敵かな?」
「んなアホな」
休み時間に熱っぽく語っている少女、黒輝雪歌(くろきせつか)を瞳に映して、長篠夏茄(ながしのかな)、深咲桜莉(みさきおうり)がため息をついた。
雪歌は本日、休み時間のたびに先のような調子なのだ。仲の良い夏茄や桜莉であっても、少々辟易気味である。
「とにかく、世界は滅びないの! 今日はもっと素敵なことが起きる日なんだからっっ!!」
夏茄と桜莉が揃って時計に瞳を向ける。昼休みはまだ30分ばかり残っていた。ここまで時間が長く感じるなど、久しく記憶にない。
「ほら、あれ。やばくない?」
「なみちゃんに知らせとく?」
その時、窓際でお喋りに興じているクラスメートの会話が耳に入った。桜莉が渡りに船とばかりに席を立つ。友人のご高説から逃れるために。
「どーしたの?」
「あ、桜莉。ほら、不審者」
「不審者?」
桜莉はクラスメートが指さす先に瞳を向ける。すると、そこには――
「……ぷっ。ほ、ホントね…… ぶふぅ」
「なに笑ってんの?」
なおも続いている雪歌の熱弁を右から左に聞き流しながら、夏茄は首を傾げる。桜莉は何故吹き出したのだろうか、と。友人の話の間隙をついて視線をそちらへ向けると、その先には1人の男が居た。
「……………叔父さん?」
校門の陰から女子中学校をのぞき込んでいた妖しい男、長篠冬流(とうる)は、校舎へ続く道を抜けて小走りで駆けてくる少女を瞳に入れた。そして、相好を崩す。
「おー、夏茄。どーした?」
「どーした、じゃないよ。何やってるの?」
尋ねられると、冬流は得意げに語り始めた。その内容はどこかで聞いたようなものである。朝から友人が休み時間ごとに話していたのと酷似した内容だ。実は、友人――黒輝雪歌嬢は、夏茄の叔父上であり、児童文学作家如月睦月(きさらぎむつき)先生でもある長篠冬流の熱心なファンなのである。
(ああ、雪歌って叔父さんに完璧毒されてるんだなぁ)
そのように改めて認識し、彼女は何度か逢ったことのある黒輝夫妻に心の中で詫びる。うちの叔父さんが娘さんを変な道に誘ってすみません、と。
「ま。とにもかくにも、あれだ。あのー、それだ」
「は? どれ?」
雄弁に不可思議な話を展開させていた冬流は、とつぜん歯切れが悪くなった。
そのような叔父を瞳に映して、夏茄が訝る。小首を傾げて問い返した。
「まず間違いなく、今日という良き日に起こるのは世界の再構築による科学の衰退と魔法の台頭なわけだが」
「間違いなくはないと思うよ」
的確な指摘を軽く無視して、叔父上殿が続ける。
「万が一、億が一にも世界が滅亡したら大変だろ?」
「兆が一にもないよ。あり得ないよ」
再度の現実的なつっこみに、しかし、冬流はやはり聞く耳を持たない。
「とゆーわけで来たのさ。分かったか?」
「ごめん。分かんない」
もっともな御言葉であった。分かるわけがない。
ぴーぽーぴーぽーぴーぽー。
その時、遠くから規則的な音が響いた。
「何だ? 事件か?」
「うん。あのね。事件っていうかね、取り敢えず、叔父さん逃げて」
女子中学校を見張る不審者に、少女が忠告した。流石に、家族から犯罪者が出るのは嫌だった。
ところ変わって2年1組の教室である。校門に居る2者を窓から眺めていた桜莉、雪歌は、遠くから聞こえてくるパトカーのサイレン音を耳にして、先ほど冬流を訝っていたクラスメートに視線を向けた。
「通報した?」
ふるふる。首を振る同級生。
「先生に知らせた?」
ふるふる。やはり首を振る。
それではどうして警察が動き出したのだろう。少女2人は揃って小首を傾げた。
がらり。
「職員室からもあの馬鹿作家が見えたんでな。私が通報した」
背後から聞こえた声。桜莉たちの担任教諭、岩瀬奈那海(いわせななみ)のものである。教室の扉を潜って生徒たちに歩み寄る。
「あ。なみちゃん」
「あ、あの、先生。先生は冬流さんとお知り合いですよね? なのに、なんで通報なんて……」
力なく苦情を口にする生徒へと視線を投げて、29歳の教諭は大きくため息をついた。
「安心しろ、黒輝。残念ながらあいつは逃げ足が速い上にこの町の路地裏事情に詳しい。当局の人間なぞ簡単に巻くよ」
苦々しげに言うあたり、彼女としては、是非とも警察官に頑張って欲しいのだろう。実刑判決までも望んではいないだろうが、1日くらい拘留されて痛い目を見ればいい、くらいのことは考えていそうだ。
「というか、何をしにきたんだ、あいつは」
「あー」
「それは……」
もっともな疑問を口にした岩瀬教諭。対して、彼女の生徒2名は顔を見合わせて苦笑する。
彼女たちには、岩瀬の疑問に対する回答の見当がついていた。
「なんだ?」
「たぶん、いつもの叔父馬鹿です」
世界が滅ぶ可能性がある日。そのような日に、彼は大切な存在と離れていたくなかった。
「どんなに可能性が低くても、世界が滅び得るのなら、冬流さんは夏茄ちゃんの近くに居たかったんです。……あたし、夏茄ちゃんが羨ましいな」
そう呟いた少女は先述した通り、冬流の――児童文学作家如月睦月先生の大ファンだ。その上、最近はお医者様でも草津の湯でも治せない病にかかってしまっている。早めに更生して貰いたいものだ。
彼女はほろ苦い感情と共に、校門で夏茄と分かれて駆け出す冬流を見つめる。どうやら警察当局がいよいよ近づいてきたらしい。
そんな雪歌を尻目に、奈那海は深くため息をつく。彼女の顔に広がるのは呆れの色のみ。
「本物の馬鹿だな、あいつ」
「そーですね!」
「そーですか?」
素直な感想に、正反対の反応を示した女生徒2名。
時計を見ると、昼休みも残り5分。夏茄も校門から校舎へ引き返してくる。マヤ暦が示す転換期の1日も、いよいよ後半へとさしかかった。
果たして世界は滅ぶのか、はたまた科学が身を隠して魔法の世となるのか。一部の者の期待を背負い、12月末の日が慎ましく過ぎていく。