如月マイクロ動物園
2013年ホワイトデー編。その年、彼は絶望を識った。

 龍ヶ崎(りゅうがさき)の町。3月の半ばに、長篠冬流(ながしのとうる)はソワソワと廊下を行ったり来たりしていた。
「遅い……遅い…… 遅い……!」
 イライラした様子の26歳が、ブツブツと呟いている。彼は小学生の姪――長篠夏茄(ながしのかな)の帰りを待っていた。
 現時刻は15時。小学生の帰宅時間としては別段遅くは無い。
「寄り道するような不良に育てた覚えはないぞっ、夏茄!」
 冬流が叫ぶ。大げさな男である。
 がちゃ。
 その時、玄関の扉が開いて、ランドセルを背負った女子が姿を見せた。冬流が待ちわびていた夏茄である。
「ただいまー」
「お邪魔しまーす」
 夏茄に続いて、同じ年頃の女子が三和土に小さなおみ足を乗せる。彼女の名は深咲桜莉(みさきおうり)。夏茄の友人である。
「おかえり、夏茄。桜莉ちゃんもいらっしゃい」
 先程までのイライラした様子から打って変わって、冬流がにこやかに応対した。客人が居るのであれば、なけなしの社交性を示すことも出来るらしい。一応とはいえ、20代半ばであるだけのことはある。
「うん。冬流ちゃん、ただい――」
 ニコニコと笑み、夏茄が言った。しかし、その途中で表情を険しくする。
 そして、ぷいっとそっぽを向いた。
「ふんっ」
 夏茄は叔父に目もくれず、スタスタと自室へ向かう。
 桜莉は冬流に向けて軽く会釈をして、友の後を追った。
「か、夏茄……」
 廊下には泣きそうな顔の冬流だけが残された。

 このところ、夏茄は先ほどのような振る舞いをよくする。物心ついてから、彼女はいつだって冬流に懐いてきた。にもかかわらず、最近は何かにつけて反抗的な態度を取るようになったのだ。
「反抗期みたいね。あの子も成長したわ」
 ズズっ。
 茶をすすり、義姉の長篠春風(ながしのはるか)が楽しそうに言った。
 彼女の隣では、義弟が床に倒れてすすり泣いている。
「うっうっ。ひっく。ぐすっ」
「まあまあ、冬流ちゃん。女の子ってそういうものよ。寧ろ、反抗期くるの、遅いくらいよ。小5にもなって身内の男性にべったりなんて、ドラマや漫画だけ――ううん。今日びドラマも漫画も、そんな甘くないかもね。もはや神話レベルよ」
 神話レベルの姪御が居たとは、長篠家は伝説に名を残せるだろう。
「……はあああぁああぁあ。とにかく、渡してくるわ」
 盛大なため息をついて、冬流がフラフラと立ち上がる。手には綺麗にラッピングされた箱が握られていた。それは、ひと月前に譲渡された菓子に対するお返しである。あの頃はまだ、夏茄は神話レベルだった。
「いってらっしゃい」
 にこやかに手をふる義姉に見送られ、冬流は居間をあとにした。
「……それにしても、先月は今まで通りだったのにねぇ。子供って、日々成長するのねぇ」
 独り茶をすすり、春風がしみじみと呟いた。

「はあぁあ」
 自室で、夏茄がため息をついた。
「どうしたのよ、夏茄」
「やっぱり、冬流ちゃ――叔父さんと仲良くしちゃダメなの? 桜莉ちゃん」
 夏茄はまなじりを下げて尋ねた。
 対して、桜莉は強気の表情を浮かべて自信満々に頷く。
「勿論よ。ましてや結婚なんて、絶対ダメ。叔父さんみたいな近しい人と結婚すると、地獄に落ちて閻魔さまに舌ひっこ抜かれちゃうよ。あと、三途の川のほとりで石をひたすら積まされたり、地獄の炎でずっとずーっと焼かれたりしちゃうんだから」
 ぶるるっ。
 ドスが利いた桜莉の声に、夏茄は身震いした。そして、神妙に頷く。
 そう。夏茄の反抗期もどきが訪れたのは、桜莉の教育の賜物だった。夏茄の叔父好きが常軌を逸していると感じた桜莉は、ここ1ヶ月を費やして徐々に友を矯正した。
 教育の内容は弱冠ずれているが、素直な夏茄は疑うことがない。将来が心配である。
「……くくく。お前の仕業だったとはな」
 その時、声が聞こえた。低く、感情を抑えつけた声が。
「? 今のは――」
 ばたんッッ!!
「ふざけんな手前えええええぇえええぇえぇえええええぇえええぇええっっ!!」
 乱暴に扉が開け放たれ、大音量の雑言が夏茄の部屋のみならず、長篠家全体を駆け抜けた。
「と、冬流ちゃん?!」
 夏茄の部屋に闖入して桜莉を睥睨しているのは、叔父の冬流であった。目つきは見たことが無い程に鋭い。
「うちの夏茄に妙なこと吹き込みやがって……!」
「あ、その……」
 詰め寄る冬流に、桜莉は怯えた様子で後退る。
「この落とし前、どうつけさせてやろうかっ!」
 どこからどう見ても悪人然とした叔父上殿。どちらが悪いのかは置いておくとして、少なくとも、彼が大人げないのは間違いない。
「……ひっく。うぅ、ごめ、ごめんなさい……」
「やかましかぁ! どげん落とし前つけっとと!」
 しかも、女子小学生が泣きながら素直に謝ったなら、その上でも成人男性が怒りを抑えないのなら、責めを負うべきなのがどちらであるのか、言わずもがなである。この段になると、実際にどちらに非があるかなど問題ではない。
 ゆえに、その場に居るもう1人もまた、きっと目つきを鋭くして、口を真一文字に結んだ。
「……出てって」
 小さな声だった。しかし、はっきりと響いた。
「夏茄?」
「冬流ちゃ――叔父さん、出てって! 馬鹿! うざい! 嫌いっっ!!」
 叫んだ夏茄は、冬流の背中をぐいぐいと押して自室の外へと押しやる。そして、バタンっと扉を閉めた。
「大っっっっっ嫌いっっ!!」
 廊下に放逐された男は、顔面蒼白でがっくりと肩を落とす。そして、むせび泣いた。

(よっしゃ! 大成功!)
 ぐっと拳を握り、桜莉が人知れず歓喜する。これで叔父と姪の近親婚は遠い泡沫の夢となり果てた、と。
「冬流ちゃんの大馬鹿ぁ!! フゥ! フゥ!」
 一方で、夏茄は怒りで興奮している。普段のおだやかな様子とはあまりに対象的である。
 肩で息をしている友人を尻目に、少女は苦笑する。流石に誘導が過ぎたか、と。
(ん?)
 そこで、桜莉は床に転がる箱を見つける。冬流が持参していたものだ。
 先ほどの騒ぎのどさくさで包装がはがれており、中身をのぞくことができた。あまり行儀はよくないが、桜莉は隙間から内を確認する。
 箱の中身を目にして、少女はほんの少しだけ後悔する。今日という日を鑑みれば、中身は当然、例の菓子へのお返しということになろう。
 動物好きの姪御へのプレゼントは、大量の動物ストラップだった。
(……ま、気の毒だし、あとでほんの少しフォローしとくかな)
 嫌そうな表情を浮かべながらも、少女は少しばかりの仏心を見せた。しかし、本当に嫌そうだった。本当に。

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