思想

「突然ですが、語ります」
「……どうぞ」
 本当に突然に声を上げた男をうんざりとした顔で見詰めながらも、女はしばしの沈黙の後にそう返した。
 その男がこのように急に話し出すのは珍しいことではない。具体的な数で示してみると、まあ二日に一度は自分の大事な(他者にとってはどうでもいい)考えをつらつらと話し出す。適当に聞き流すという技術を身につけていない人にとっては、何とも付き合いづらい人間の上位に食い込むことは間違いない。
「色々な作品――例えば、小説とか漫画とか、他にもゲームとか何でもいいのですけど、それらで扱われるように僕達の間には様々な思想があって、それでいてお互い相容れないということはよくありますよね? まあ、創作作品に限らず現実においても…… 宗教なんかはそんな面が強いですし、結構大変だと思うのです」
「ま〜、そ〜ね」
 女は雑誌に目を落とし、生返事をする。
 男はそんな彼女を気にする様子も見せずに先を続ける。
「そうでしょう? そう考えると思想というものは実に厄介で、いっそそのようなものが無ければ戦争ですらなくなるのではないか、と……」
「そ〜かもね〜」
 実に絶妙なタイミングで生返事をする女。全く聞いていないようで、それなりには聞いているのかもしれない。勿論、偶然のタイミングのよさとも考えられるが……
「ええ。ですがそういうわけにもいかないでしょう。現実問題としてそんなことは不可能ですし、可能だったとしてもそれを実行に移してしまえば人間の存在意義そのものが否定されかねません。考えるということを止めてしまえば、人間は猿と変わりません。あ、勿論、猿が何も考えていないと言っているわけではありませんよ、念のため。動物愛護の方に怒られてしまいそうですね、ハハ」
「そ〜ね」
 三度目の、それなりに絶妙な間の生返事。女の生返事スキルは相当高いようだ。
「まあ、それはともかくとして…… そうするとやはり、思想を捨てるなどできはしないということになります。しかしその場合、争いや諍いもまた人の存在意義のように思えてしまいそうなのが怖いのですが、それはやはり否定したいところですね。ともすると、僕達に必要なのは――」
「ん〜?」
「それです!」
「は?」
 男が女の生返事に強い反応を示したため、女は驚いて顔を上げ男に疑問の瞳を向ける。
「何が『それです』なのよ?」
 話の大半を聞き流していたためか、それとも男の発言が本当に突然だったからなのか、女は男が何に反応したのか全く分からないようだ。
 男は、そんな女の瞳を真っ直ぐに見詰め――
「生返事ですよ」
「はぁ?」
 男の答えを聞いた女は、ますます分からないというように眉根を寄せて、ため息をつくように聞き返した。
「だから、生返事ですよ! もしくは聞き流し! 人類が全て人の話を聞き流して生返事をしていれば、思想は対立せず、争いも消え、世界平和が実現するのです!」
 瞳をキラキラさせて男が言った。
 女は、そんな男を満面の笑みを浮かべて見詰め、
「近所の総合病院、脳神経外科もやってるから行ってきて♪」
 男はその言葉に一瞬固まるが、直ぐに調子を戻して話し出す。
「あ、ですが、それだけでは不十分で、思想単一で害が生まれる場合には――」
「いいから。行ってきて♪」
「そ、そのような場合には――」
「行ってきて♪」
「……場合に――」
「行ってきて♪」
 その後は、男が瞳に光るものを携えつつ、総合病院のある方向に歩き出すまでそのやり取りが繰り返されるのだった。

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