「なあ…… ちょっと死んでみようかと思うんだが……」
ソファにだらしなく沈んで缶ビールをあおっていた高谷道夫は、友人の言葉を受けて姿勢を正した。数秒間沈黙してから、言葉を選んで話し出す。
「……編集の坂口氏の電話による攻勢が激しいのか? 作家先生」
「いや、そんなことはないぜ。締め切りも大分先だしな」
と、作家先生の答え。
高谷は困惑した。それならばなぜ、先の発言なのだろうか、と。
高谷の友人で専業作家の新渡戸仁は、ワイングラスを傾けてから語る。
「ただなぁ。ネタが出てこないんだわ、これが」
ため息をつくように吐き捨てる新渡戸。
高谷は、なるほど、と納得する一方で、そんなのいつものことじゃないか、と嘆息する。そして、実際にそう口に出してみた。
新渡戸は、それはそうなんだがなぁ、と煮え切らない様子で呟き、続ける。
「お前さぁ。吉行淳之介って知ってるか?」
「いや。知らない」
「吉行氏は小説家なんだが、多くの賞を受賞した立派な方なんだ。ただ、えらい病弱だったらしくてな。色んな病気を経験したらしい」
「そいつは大変だな」
ビールで喉を潤しつつ、高谷が適当に相槌を打つ。
「まあ、大変だな。ただなぁ」
新渡戸もまた適当に相槌を打ち、再び煮え切らない態度。
「何だよ?」
「いやな。そういう病気に罹ったっていう、死を垣間見たっていう経験が、いい小説を書くのに役立ったのではないか、とそう思ってなぁ。ほれ、あれだ。スピリチュアルな体験っていうやつだ」
新渡戸の発言を耳に入れた高谷は、眉を顰める。
そして、訊く。
「つまり、さっきの死ぬ云々の発言は、スピリチュアルな体験をしてみたい、と言い換えられるってわけか? クソ作家先生」
「そう攻撃的になるなよ。馬鹿な発言だってのは、俺も一応自覚してるんだ」
苦笑して応える新渡戸を一瞥し、高谷は憮然とした表情でビールをあおる。そのまま一気に飲み、缶を乱暴にテーブルに叩きつけ、再び口を開く。
「軽々しく死ぬとか言う奴は、俺は嫌いだ」
頑として告げられた嫌悪の言葉に、新渡戸はやはり苦笑し、しかし、直ぐに表情を引き締める。
「そう言うなよ。ネタがないって言うと少し軽いイメージだが…… 正直俺は今、小説家としての将来に不安を抱いているんだ。まだ三十代だってのに、早々にネタに詰まってるようじゃ、専業作家としてこれからやっていけるのか、不安なんだ」
新渡戸はそこまで告げてから、グラスを軽く傾ける。そうしてから、続ける。
「だからな。吉行氏みたいな、ある意味特異な経験をうらやましく思うんだ。死に直面する機会なんて、普通に生きている奴はそう得られない。その経験により、小説を書く上で有利な知見を得られるかどうかは分からないが、それでもうらやましく思っちまうのさ。だから――」
「自然にその機会が得られないなら、自発的に得にいこうってか?」
「ま、そういうことかな」
再び苦笑し、新渡戸が答える。
そんな彼を見やり、高谷は嘆息する。
「軽々しく言ってないのは分かったが、自殺の真似事なんてやめてくれ。運よく助かればいい経験ができるかもしれんが、そのまま……ってこともあるだろう? 死んだら、殺すぞ?」
「はは。意味わかんねぇ」
高谷のために冷蔵庫から缶ビールを取り出し、新渡戸が笑う。
「ほれ」
「サンキュ」
ぷしゅ。
キンキンに冷えた缶を受け取ると、高谷は直ぐにプルトップを押し上げる。
「死ぬくらいなら作家なぞ辞めちまえ。俺が養ってやるよ。どうだ? 三色昼寝つき」
「ばーか。気持ちわりぃこと言ってんな」
二人で笑いあってから、新渡戸が口を開く。
「ま、俺が実際に死のうとするかどうかは、この後の作家人生がどう転ぶかによるだろうが…… 自殺した作家っていうと誰を思い浮かべる?」
「自殺した作家、ねぇ…… あいにく俺は詳しくねぇが、芥川龍之介と三島由紀夫くらいか」
ま、そこら辺が有名どころか、と呟き、新渡戸が先を続ける。
「俺はな。彼らの自殺の理由も、少なからず俺と同じところがあったんじゃないか、と突拍子もないことを考えているんだ」
高谷がおかしそうに笑う。
「おいおい。かの大先生どもと同列に並ぼうとは、大きく出たな。てか、芥川は服毒自殺、三島は割腹自殺だろ? 芥川は睡眠薬飲んだって聞いたし、飲んだ量によってはお前が言う可能性がないとも言えんが…… 三島は腹かっさばいた訳だし、マジで死ぬ気だったと思うぜ。てか、死に様とか考えるに、自分の主張を印象付けるための演出とかじゃねぇの?」
その意見に、新渡戸は軽く同意し、しかし、同時に反論も試みる。
「死ぬ前の状況は、死同様に特異な経験をするためだったかもしれない。割腹自殺も、当時も医学の発展は目覚しかっただろうし、助かる見込みはあると考えて実行したかもしれない。まあ、どれをとっても想像の範疇から脱せないわけだが、それでも俺は――」
ワイングラスを勢いよくあおり、新渡戸は軽く息をはく。
そして、
「彼らは死に安寧を求めたわけじゃなく、創作のための知見を求めたんじゃないかと思うんだ」
言い切った。
勝手に言ってろよ、と高谷は笑い、缶を傾けた。