第1章 双生の鬼子
この指はいずこまで

 ベッドに横になりながら、天笠柚紀(あまがさゆずき)は手の内に納まった指輪を眺めていた。
 誓いの証たる二対の指輪。愛の結晶ともいえたはずのそれらは、いまや怒りの象徴と化している――らしい。
 柚紀(ゆずき)にもよく分かっていないのだが、当の指輪には双子の邪鬼が宿っているのだという。
「ねえ、阿鬼都(あきと)。鬼沙羅(きさら)」
 ひゅっ。
「なにか用?」
 問いかけられると、愛らしい少年がどこからともなく現れる。寝転がっている柚紀(ゆずき)のお腹の上に。
 ひゅっ。
「どしたの? 柚紀(ゆずき)」
 続けて、愛らしい少女もまた、少年の背中に覆いかぶさる形で現れる。結果として、彼女の体重もまた柚紀(ゆずき)のお腹に集中する。
 当然ながら、柚紀(ゆずき)は苦しい。
「……どいて」
「いや」
「むり」
 少年少女、共にきっぱりと言う。少年の名が阿鬼都(あきと)、そして、少女の名が鬼沙羅(きさら)だ。
「いいからどかんかあぁあいっ!」
 柚紀(ゆずき)が腹筋運動の要領で起き上がると、ぽんっと、双子が宙に投げ出される。
 そして、ぴたっと止まった。宙に浮かんだのだ。
 彼らは、不可思議な力を行使する、不可思議な存在、つまり、鬼の子だった。
「危ないなぁ」
「ひどーい、柚紀(ゆずき)」
 頬を膨らませてぶーぶー言っている阿鬼都(あきと)、鬼沙羅(きさら)の鬼兄妹を一瞥し、柚紀はより一層不機嫌な顔になる。
「酷いのはどっちよ、まったく」
 再びベッドに寝転びながらごちる。
 そんな柚紀(ゆずき)を大きくつぶらな瞳で見つめつつ、鬼子たちはふんわりと床に降り立った。
「それで? 何か用なの?」
「わたしたち、お昼寝中だったんだけど」
 ふわぁ、と可愛らしいあくびをして、双子がベッドの端に腰掛けた。
 その一挙手一投足を瞳に入れながら、柚紀(ゆずき)は口を開く。
「別に大した用じゃないんだけどね。あんたら、この指輪に宿ってるんでしょ? なら、指輪からどのくらい離れられるのかなぁって思って」
 指輪を親指、人差し指、中指で器用に弄りながら、柚紀(ゆずき)が尋ねた。
 彼女の問いを受けて、鬼子たちは小首を傾げ、可愛らしく考え込んだ。
「指輪から離れられる距離、かぁ。試したこともないや」
「普段は意識しないしねー」
 そのように口にして、まず鬼沙羅(きさら)が行動を開始した。トテトテと可愛らしい足音を響かせ、玄関へと向かっていく。
 そして――
「たーっち。そっから玄関までは来られるみたい」
 鬼沙羅(きさら)が笑顔と共に振り向いた玄関先は、柚紀が指輪を手にして横になっているベッドから概算で八メートルほどだ。この部屋のベッドは、玄関から最も遠い壁につけて置かれている。つまり、柚紀(ゆずき)宅内にいる分には、双子は自由に過ごせると言ってよいだろう。
「へえ、意外と広範囲ね」
 呟くと、柚紀(ゆずき)は指輪をベッドに放り出して立ち上がった。
 ベッドにあぐらをかいて座っていた阿鬼都(あきと)が、彼女の行動を目で追いつつ、尋ねる。
「あれ? 柚紀(ゆずき)どこ行くの?」
「んー、ちょっと外に出てみて、どのくらい家から離れられるか試してみようかと。どうせ暇だしさ」
 薄手のカーディガンを羽織りながら、柚紀(ゆずき)が応えた。
 その言葉に対して鬼子は、呆れた様子で瞳を細め、呟く。
「暇なら新しい男捜せば?」
 がんっ!
 拳がうなった。

「わーい。いい天気ー」
「……わーい。頭いたーい」
 鬼沙羅(きさら)が機嫌よくアパートの階段を駆け足で下りていき、阿鬼都(あきと)が機嫌悪く重い足取りで妹に続く。
 一方で柚紀(ゆずき)は、眩い太陽に瞳を細め、しかめ面で辺りを見回す。
 交通量の少ない、人通りのまばらな、閑静な住宅街。その一画に、柚紀(ゆずき)の住まうアパートはあった。
 学生のみが入居を許されているとアパートの管理人は言っていたが、実は柚紀(ゆずき)宅のお隣さんは六歳の息子を抱えたシングルマザーである。当然学生ではない。どうやって老獪な管理人の目を欺いたのか定かではないが、まあ、その程度の身分詐称は見逃すべきだろう。真実ばかりが正しいわけでもなし。
 がちゃ。
 その時、ちょうどよくお隣の扉が開いた。
「……よお、柚紀(ゆずき)」
「こんにちは、武美(たけみ)さん」
 眠たげな瞳とぼさぼさの髪をした女性に、柚紀(ゆずき)は愛想良く挨拶した。
 金髪にカラーコンタクト、きつめの化粧を施したファンキーな女性の名は、長谷部武美(はせべたけみ)。前述のとおり、一児の母である。
 そして、その息子はというと――
「かあちゃん! はずかしいからかみ形くらいととのえてくれよ!」
 顔を紅くして、母親を部屋へ引き戻そうとしているのがその息子である。名を長谷部健太(はせべけんた)という。
「健太(けんた)くん。こんにちは」
「あ、ゆずきさん。こんにちは」
 柚紀(ゆずき)の挨拶に丁寧に応えたあと彼は、母がみぐるしいすがたをおみせしてすみません、などと年に似合わぬ気遣いを見せた。
 柚紀(ゆずき)は苦笑し、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)に見習わせたい、と本気で切望した。
 当の二人はというと、アパートの前を東西に通っている道路で、楽しそうに騒いでいる。西にある三叉路へと向かっているようだ。
「わーい。わーい」
「おい、鬼沙羅(きさら)ー。はしゃぎ過ぎると転ぶよー」
 ああいう言動は可愛らしいといえば可愛らしいのだが、柚紀(ゆずき)をからかう時もまたあの調子であるため、腹立たしいことこの上ない。
 もっとも、健太(けんた)のような慇懃な所作でからかわれても、それはそれで腹立たしいだろうが。
「ん」
 そこで、柚紀(ゆずき)はひとつのことに気づく。それは、健太(けんた)の視線の動きだ。
 彼の視線は阿鬼都(あきと)、鬼沙羅(きさら)を追うように動いている。どことなく落ち着かない様子だ。
 しかし――
「ほら、かあちゃん。うちに入ろう」
 直ぐに表情を引き締め、母親を部屋へ押し入れる。
「はいはい。わかったわかった。そんじゃまたな、柚紀(ゆずき)」
「あ。はい。また今度。健太(けんた)くんもまたね」
「はい」
 がちゃ。
 長谷部親子はあっけなく退散した。
「……健太(けんた)くん。一緒に遊びたかったのかな?」
 しっかりしているとはいえ六歳の子どもである。歳の近い子どもが駆け回っているのを見れば、仲間に入りたいことだろう。
 しかし、今更門戸を叩くのもタイミングが悪い。
「今度、さそってみよっかな」
 キキーッッ!!
 柚紀(ゆずき)の呟きに重なって、けたたましいブレーキ音が響いた。続けて、クラクションが連続して鳴る。
 嫌な予感を覚え、柚紀(ゆずき)が視線をゆっくりと巡らす。
 そして案の定、騒動の原因は見知った顔――阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)だった。
 彼らはなぜか、道路の真ん中で大の字に寝転んでおり、動く気配が全くなかった。
 かんかんかんかん。
 駆け足で階段を駆け下り、柚紀(ゆずき)が大急ぎで彼らの元へと急ぐ。
「ど、どうしたの! 二人とも!」
「あー、柚紀(ゆずき)。限界、ここみたいだ」
「ちからはいんないー」
 地面につっぷしたまま、どこか楽しそうに双子が言う。
 一瞬、何のことかと訝った柚紀(ゆずき)ではあったが、直ぐに、指輪からどのくらい離れられるか、という実験の限界だと気づく。
 結果としては、五十メートルほどだろうか。それにしても、何もこんなところで――などと考えていると……
「おいごらあぁあ! とっととガキぃどけんかいっ!」
 怖いおじさんが黒塗りの車の中から叫んだ。
 そのあとの柚紀(ゆずき)の動きは、近年まれに見る迅速さだったという。

 聞くに堪えない怒声が、閑静な住宅街に響き渡る。阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)を指輪の有効範囲内に戻すと、彼らはへらへらと笑いつつ、黒塗りの車の主を挑発しはじめた。
 当然ながら、怖いおじさんは怒髪天で車を降り、親か姉かという風体の柚紀(ゆずき)に詰め寄ったのである。
 双子がフリーダムな態度を続けている分だけ、柚紀(ゆずき)の下げる頭の数が尋常ならざるものとなっていたのは言うまでもない。
 ――ああ、もお!
 柚紀(ゆずき)が心のうちでのみ毒づく。
 無駄に疲れた、ある晴れた日の午後だった。

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