第1章 双生の鬼子
流れ往く

 雨の中を飛び出した天笠柚紀(あまがさゆずき)は、携帯電話で木之下幽華(きのしたゆうか)に連絡を取った。
 幽華(ゆうか)もまた大学に行かず、自宅にいたようだが、柚紀(ゆずき)のために快く雨のなか飛び出してきてくれた。ケーキをおごるという約束つきで。
 そして今、彼女たちは臥龍(がりゅう)大学近くの喫茶店『ムーの至宝』にて、向かい合って座っている。
「指輪を捨てればどう?」
 双子の鬼――阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が指輪に宿っていることを順を追って説明したところ、幽華(ゆうか)は開口一番、こともなげにそんなことを言った。
 彼女の意識は柚紀(ゆずき)の話よりも、もっぱら手元のケーキに向いているように見える。
「……いや、何て言うか、もっとキャラに合った発言を期待したんだけど。除霊する、とか」
 学友の間では、幽華(ゆうか)は除霊や退魔術ができるとの噂があった。もっとも、真偽の程は定かでない。
「そういうのは最終手段よ。もっと他に手があるなら、そちらで済ますにこしたことはないわ」
 アッサムティーをひと啜りし、幽華(ゆうか)が言った。
 そして、ムーの至宝のお薦めケーキであるティラミスにフォークを入れる。溶けるようにその形が崩れた。口に含むと、やはりとろけるような食感が口内を満たす。
「おいしいわ」
「そっちから相談しろって言ったくせに、完全に他人事ね……」
 さすがに腹がたってきたようで、柚紀(ゆずき)がこめかみをひくつかせる。
 そんな彼女の様子を瞳に入れ、幽華(ゆうか)は呆れたように息をつく。
「あのね、天笠(あまがさ)さん。相談してとまで言った覚えはないわよ。『言って』と言ったの」
「いやいやいや! それ、ほとんど同義でしょ?」
「解釈の相違ね」
 落ち着き払って、幽華(ゆうか)がティラミスを食す。
 柚紀(ゆずき)は声を荒げるのが馬鹿らしくなってきた。
 ざーざー。
 窓の外に瞳を向けると、雨の中を自動車が行き交っていた。冷たい光景だった。
 気持ちの沈み始めた柚紀(ゆずき)とは対照的に、幽華(ゆうか)が順調にティラミスを口に運んでゆく。
 かちゃかちゃ。ぱくぱく。
 ざーざー。
 しばらく、雨の音とティラミスを食す音だけが響く。
「まあ実際問題――」
 そこで、今までよりも幾分、真剣みを帯びた幽華(ゆうか)の声が響く。
 柚紀(ゆずき)は何かよい助言をもらえるかと期待した。
 しかし――
「指輪を手放すだけで事足りると思うわよ。それでどうにかならないような相手なら、貴女、もう既に死んでるだろうし」
「死――っ」
 発せられたのは冷たく響く単語のみ。柚紀(ゆずき)は絶句する。
 一方で幽華(ゆうか)は、『死』という厭わしい単語を口にしたにもかかわらず、ティラミスを口に入れて至福の表情を浮かべていた。

 結局、幽華(ゆうか)から得られた助言は、指輪を捨てる、だけだった。
 しかし、よくよく考えると悪くなく思えた。
 そもそも、今まで手放さずにいたのが不思議なのだ。さしていい思い出が詰まっているわけでもなし。あえて詰まっているものを挙げろといわれれば、未練しか挙げられない。
 加えて、幽華(ゆうか)から発せられた『死』という単語もまた気がかりだった。鬼という存在の忌まわしさを改めて認識させられた心地であった。例え幽華(ゆうか)の言葉が、死の危険はない、という意味合いのものであったとしても、だ。
 ――思い切ってみるべきかもしれない……
 そんな考えに取りつかれ、柚紀(ゆずき)は帰り道にある雑貨屋で小さな巾着袋とビニール製小物入れを買った。
 ざーざー。
 雨が降り続いている。

 がちゃ。
『おかえりー』
 バタバタ。
 元気よく足音を立てて、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が出迎えた。
「……ただいま」
 元気なく帰宅を告げたあと、柚紀(ゆずき)は靴を脱ぐ。ナイキのスニーカーだ。洒落た靴はあまり好まないようである。
 濡れた傘を狭い風呂場に広げたあと、柚紀(ゆずき)はベッドに向かい倒れ込む。
 雨のなか出掛けたせいか、少しばかりの疲労を覚えていた。
「ねぇねぇ」
 ぴょん。
 鬼沙羅(きさら)が柚紀(ゆずき)の隣に寝転びながら声をかけてきた。彼女の瞳は柚紀(ゆずき)の右手に向けられている。
 その態度に、少しばかりギクシャクしたものを感じるのは気のせいか。
「それなぁに?」
 彼女の示す先には、先ほど購入してきた巾着袋があった。
「……見ての通りよ。巾着袋。指輪を――あんたたちを入れる袋よ」
 ……………
 沈黙が痛かった。
 静かな時が幾秒か、ひょっとすれば幾分過ぎた。
 そして――
「柚紀(ゆぅき)大好きぃ!」
「へ?」
「この袋すっごい綺麗! 嬉しい!」
 鬼沙羅(きさら)が満面の笑みを携えて叫んだ。
 阿鬼都は小さな笑みを浮かべてたたずむのみであったが、その心は喜びで満たされているように見えた。
 双子どちらの姿も、柚紀(ゆずき)の気持ちをとてつもなく暗くさせた。
『ありがとう!』
「……やめてよ。お礼なんて」
「いいじゃない。嬉しいんだもん。ねー?」
「なー」
 すく。
「……出掛けましょう」
 居たたまれなくなり、柚紀(ゆずき)はさっと立ち上がる。
 そして、さっそく巾着袋に二対の元結婚指輪を入れ――
「お出掛けだ〜」
「柚紀(ゆずき)の実家に行って以来だなぁ」
「……………」
 がちゃ。
 出掛けた。

 ざーざー。
 柚紀(ゆずき)は、普段めったに来ない町外れの川原にやってきた。
 雨が降っているとはいっても小雨であるためか、水かさはそれほどでもない。
「わぁい。川かわ〜」
「突撃だー!」
 双子がはしゃいで駆け出した。
 柚紀(ゆずき)は、川辺に下るための土手の上で立ち止まる。
「気を付けなさいよー!」
『だいじょうぶ!』
 元気いっぱいの声が返ってきた。
 その声を確認してから、柚紀(ゆずき)は買ってあったビニール製の小物入れに巾着袋を入れ、しゃがむ。
 そして、右の手のひらをゆっくりと、静かに開く。
 ……指輪を、手離す。
「……じゃあね。阿鬼都(あきと)。鬼沙羅(きさら)」

 柚紀(ゆずき)が川辺を去って数分ののちのこと。
 ざーざー。
 水面を覗き込んでいた双子が呟く。
「……なぁ、鬼沙羅(きさら)。気づいてなかったわけじゃない、よな?」
「……当たり前でしょ」
「だよね」
 阿鬼都(あきと)が弱々しく笑う。
 鬼沙羅(きさら)もまた微笑みながら、しかし、瞳に涙を溜めて、口を開いた。
「……ねぇ、柚紀(ゆずき)。あなたがこうするつもりだって、わたしたち気づいてたんだよ? だから――」
 そこで堪えきれず、涙が頬を伝った。
 雫がポタリと水面に落ち、雨粒が生み出す波紋を乱した。
「さっきの『ありがとう』は巾着袋のことだけじゃなくて、もっとたくさん……ぐす。……い、いりょんな意味……で…… ふ……ふえぇえん!」
「鬼沙羅(きさら)……」
 阿鬼都(あきと)が妹を優しく抱き締めた。しかし彼の頬も、哀しみで濡れていた。
 ざーざー。
 雨音が、響いている。

PREV TOP NEXT