だだだだだだっ!
天笠柚紀(あまがさゆずき)は、降りしきる雨の中、もの凄い勢いで駆けていた。すれ違う人々が何事かと目で追うほどに、異様な姿であった。
――帰ったらお風呂入って掃除してテレビ観てラジオ聞いて……
彼女は走りながら、帰宅後に為すことを頭の中で羅列し続ける。余計なことを考えなくて済むように。
そうして10分ほど走り続けて、ようやく彼女はアパートの自室にたどり着いた。
「……つ、つかれた。ただい――」
柚紀(ゆずき)はついつい近頃の癖で、帰宅を告げる挨拶を口にしそうになった。しかし、それに応える相手はいない。
「ただいま15時12分!」
もちろん、誤魔化すためのおかしな発言に応えてくれる相手もいない。
ただただ、むなしかった。
柚紀(ゆずき)はまずお風呂に入った。何も考えずに――いや。何も考えないように努力しながら。たっぷりと2時間ほど。
そして、それから掃除を始めた。
まずは掃除機をかける。さほど深く考えず、ただひたすらに。
静けさかの中に、掃除機の生み出す轟音だけが響く。掃除機に負けまいと声を張り上げる者は……もう、いない。
「よし、終わり! 次は本棚の整理!」
静けさをぶち破るように、柚紀(ゆずき)が大きな声を出す。そして、作業を始めた。
本棚には実用書の類いが多い。柚紀(ゆずき)が小説などを好まないためである。
実用書以外で置いてあるのは――
「アルバム……」
ゴクリと喉をならしてから、柚紀(ゆずき)は赤表紙の冊子を開く。
「……そりゃあ、いるよね」
開いたページには、柚紀(ゆずき)の婚約者だった山田太郎(やまだたろう)がいた。
今さら女々しいのは十分承知の上だったが、実家から持ってこずにはいられなかったのだ。
彼が花子(はなこ)という女と逃げたあと、柚紀(ゆずき)を支配したのは怒りだった。
阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が柚紀(ゆずき)の怒気を契機として現れたことからも、それはわかる。
しかし、そこに有ったのは怒りだけではなかった。
勿論、腹は立った。あの夜から何度も、布団の中で多くの呪詛を、柚紀(ゆずき)は呟いた。自分が捨てられたという事実が、情けなくて。悔しくて。恨んで……
その一方で――
「私は、馬鹿だ……!」
柚紀(ゆずき)が勢いよく立ち上がり、玄関に向かった。瞳にたまっていた涙は、その際の勢いで四散した。
――捨てられる悔しさを、辛さを、なによりも、その悲しみを知ってるのは、誰よりも私自身じゃない!
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
ざーざー。
雨が降り落ちる中、傘もささずに、柚紀は息を切らせて川辺まで戻ってきた。辺りは暗くなってきており、たそがれ時と呼ぶにふさわしい時間帯だ。
暗さゆえに探し物を見落とすことなどなきよう、柚紀(ゆずき)は注意深く辺りを見回す。
と、その時――
「あっちいって!」
「近寄るなよ!」
聞き覚えのある声を耳にして、柚紀(ゆずき)は視線をそちらへ向ける。
そこには、目的の者たち以外にも、黒くて大きなやつがいた。
――ど、ドーベルマンを放し飼いって……どこの馬鹿よっ!
阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)の前には、彼らよりも大きな体躯の犬がいた。
……いや。正確にはそうではない。犬の前に阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が立ちはだかっているのだ。
「あの子たち、何やって――」
「これは大切なものなんだから! 絶対に渡さないもん!」
「そうだぞ! 柚紀(ゆずき)からの、最初で最後のプレゼントなんだからな!」
双子の陰には、あの巾着袋があった。
彼らはそれを、守っていたのだ。
「……っ!」
だっ!
気がつくと柚紀は駆け出していた。そして、ドーベルマンが大口を開けて双子たちを攻撃しようとした、まさにその時に、彼らの間に飛び出した。
がっ!
「っつ!」
ドーベルマンの体当たりを食らい、柚紀(ゆずき)は表情を歪めて倒れこむ。
「ゆ、柚紀(ゆずき)!?」
「柚紀(ゆずき)ぃ!」
阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)が突然のことに動揺している一方で、ドーベルマンは再び攻撃に移ろうとする。
「に……逃げなさい……」
弱々しいひと言が柚紀(ゆずき)の口から漏れた。
彼女の言葉には従わず、阿鬼都(あきと)と鬼沙羅(きさら)はゆらりと立ち上がる。
ドーベルマンは、そんな彼らに向けて飛びかかる。
そして――
ばあぁあん!
ドーベルマンが……弾き飛ばされた。
「……去ね。獣」
呟いたのは鬼沙羅(きさら)だった。
続けて、
「それとも奈落に堕つるか?」
阿鬼都(あきと)が言い放った。
しばし、犬は気丈に鬼たちと対峙していたが――
きゃいん! きゃいん!
やがて弱々しく泣き叫び、去っていった。
「無茶しないでよ! 柚紀(ゆずき)の……! 馬鹿ぁ……!」
「……………」
鬼沙羅(きさら)が泣きわめきながら抗議した。
阿鬼都(あきと)もまた、無言で抗議していた。
それぞれに怒っているようではあるが、もちろん、柚紀(ゆずき)が彼らを捨てようとしたからではない。柚紀(ゆずき)が無茶をしたから怒っているのだ。
しかし、柚紀(ゆずき)だとて彼らを助けるつもりだったのだ。馬鹿と言われる筋合いはない。
「ば、馬鹿とはなによ! あんたらこそ、そんな……」
鬼沙羅(きさら)が持つ巾着袋を瞳に映し、柚紀(ゆずき)はため息をつく。
そして――
「っていうのは、あとにしましょう」
色々と言いたいことがある。けれど、柚紀(ゆずき)は飲み込んだ。わざわざ暗くなってきた川原で語ることもあるまい。
彼らには、語り合う場所が――家があるのだから。
「帰るわよ。阿鬼都(あきと)。鬼沙羅(きさら)」
呼び掛けられると双子は目を瞠り、顔を見合わせた。それぞれの顔に、笑みが広がっていく。
2人は柚紀(ゆずき)の足元に駆け寄る。
『うん! ただいま! 山田柚紀(やまだゆずき)かっこ旧姓(きゅうせい)天笠柚紀(あまがさゆずき)かっこ閉じになる予定だった天笠柚紀(あまがさゆずき)!』
「……………おかえり」
柚紀(ゆずき)のこめかみには青筋が立っていた。しかし、瞳は嬉しそうだった。
月明かりが水面を照らす。
雨はいつの間にか、止んでいた。